日本人3人のノーベル賞受賞をテレビで見て人間的に真面目な飾らない学者さんだなぁと感じました。メダルを貰ってどうでしたか?と問われて中村教授は「唯の金属ですから」って言われていました。さすが淡々たるものですね。
マララさん17歳とは思えないほどしっかりとした内容の言葉で話しているのを見て、驚きました。いろいろ問題はあるとしても勉強が出来る環境が整っている日本の子ども達の中どれだけの子どもがこのマララさんの言葉を聞いていたでしょうか?
ノーベル賞といえば数年前 仕事仲間から頂いたといって娘が持ち帰った湯川秀樹さんのDVDがあり、その時見たことを思い出しました。
1949年日本人初のノーベル賞を受賞された湯川秀樹さんは敗戦間もない日本人に勇気と希望を与えたと語っている。
アメリカ留学中に知り合ったアインシュタインが「自分が研究したことが原爆になって罪もない日本人を殺すことになって申し訳ない」と言って泣かはったと妻のスミさんが当時のことを語っておられた。
出来れば世の中と交渉を持たずに一生を送りたい(研究に)と思っていた湯川さんだが1954年のビキニ環礁で水爆の開発に多くの科学者がかかわったことを知り、アインシュタインが危惧したことに思いいたり、その時から考えがガラリと変わったという。
真理を探求するということは結局は人類の為のものであり、社会に対して責任がある。その責任から逃れることはできない。という考えで人類の破滅を防ぐ為、国や民族を超え人間としての良心にのみ従って核兵器廃絶に科学者は共に行動しなければならないという活動に入っていった。
しかしこの運動はアメリカを先頭とした科学者のなかでは、核兵器といかに共存するかという核抑止論が増えて行き、核保有国がそれを手放さない限り核兵器と人類は共存できないという主張は薄れ核兵器を持つことの正当性ばかりがめだつようにになった。
そんな中自らの訴えがなかなか通じない人間社会に絶望感を感じた湯川さんは画面の中で「当たり前のことを言うとるんやがなぁ・・不思議でしてね。皆の考え方の変わるのが遅いなぁと思いますね。核抑止論に捉われている限り核軍縮がとめどなく続くのは明らかです。」と語っている。
でも1日生きることは1歩進むことであれという精神で戦争のない世界を実現することに努力すべき責任と義務があるという思いで運動を進めて行かれた様子が丁寧に映し出され見るものに何が大切なのかを教えてくれている。
又、晩年に前立腺癌で入院された時には襲ってくる痛みのなか、付き添っていた婦人に「こんなことでは前途は必ずしもよくならないかもしれない、将来を考えたら生きていても甲斐がないからこの際いっそ二人とも死のうじゃないか」と言われたという。このような偉い人でも弱音のようなものを身近かな人には出されたのを知って人間そのものを感じると同時にとても身近に思えて私の心に残ったことでした。
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