社会統計学の伝統とその継承

社会統計学の論文の要約を掲載します。

「安藤次郎」(聞き手:大屋祐雪,坂元慶行,森博美)『日本における統計学の発展(第32巻)』(1981年12月13日。於:私学会館)

2016-10-01 22:19:51 | 13.対談・鼎談
「安藤次郎」(聞き手:大屋祐雪,坂元慶行,森博美)『日本における統計学の発展(第32巻)』(1981年12月13日。於:私学会館)

 安藤は,冒頭,自分は統計学者ではない,統計学の勉強もしっかりしたことがない,このインタビューも内心忸怩たる思いであることを,繰り返し述べている。その安藤がなぜ金沢大学で統計学の教鞭をとっていたかというと,それは全くの偶然で,東京大学で有澤広巳のゼミにいたという経歴があったというただそれだけの理由で,抜擢されたのだと言う。有澤ゼミに入れてもらえたのも偶然,と言うことである。大学にはいってからある日,自由が丘の古本屋で「クーゲルマンの手紙」という単行本を見つけ,手に取ると「向坂蔵書」の蔵書印が押してあった。店の人に尋ねると,向坂逸郎の蔵書で,その向坂を紹介してくれた。向坂は後に安藤が有澤ゼミに入れるように口をきいてくれて,それで安藤は有澤ゼミの所属になったという。しかし,有澤のゼミでは統計学の話はほとんど出なかった。有澤は博識な人だったが,統計学のことはあまり知らなかったようだと,安藤は述懐している。ゼミでは工業統計表の加工をし,山田盛太郎『日本資本主義分析』を輪読した。関連して,安藤は有澤が戦後,完全に体制に取り込まれてしまったことを残念がっている。門下生で統計学者になったのは,米沢治文,中村隆英だそうである。京都大学の蜷川ゼミほど,弟子は育たなかった。

 安藤が金沢大学に職を得て,統計学の講義を始めた頃,『統計学古典全集』を読み始めた。金沢の南陽堂という古本屋でカール・ピアソンの『科学の文法(上巻)』(第3版)を見つけた。それが切掛けで京大の大橋隆憲にこの本の第2版を借り出してもらい,訳をつくった。それから,中国語が読めたので,中国の統計文献の紹介を始めた。当時,日本の統計学者は中国の統計に関心が薄かったので,サービスのつもりだった。中国の統計学者が書いている内容は,非常に実践的である。その点が欧米の統計学者の本と違う。

 安藤はそう述べた後,自分の「アキレス腱(弱点)」に触れている。それは計算に弱いこと,ドイツ語が読めないこと,英米の統計学の書物には数理統計学が多く,それらを読む気にもならないこと,と列挙している。

 安藤は,金沢の北陸鉄道労働組合で労働者に対する話を続けてきた。労働講座である。引っ張りだこになるくらいになった。労働者向けの話し方は,大学での講義とは全く違う。労働者は労働運動を進めるという必要に迫られて,話を聞きにきている。わかりやすい話,実践的な話がもとめられ,労働講座はいい経験になった。しかし,だんだん大学の講義よりそちらの方が主になってしまい,ますます統計学の勉強をしなくなってしまった。

 それでも統計教育に関してはいろいろ考えてきたつもりである。一つは,大学の統計学の講義では,その前に社会科学入門的な話がどうしても必要であることである。また実践の場にいる統計家に対する関心を忘れないようにしてきた。古寺雅美は実務家であるが,『統計学以前の統計学』といういい本を書いている。安藤はそれを紹介している。また,もうひとつの問題点として,統計講義はひとりで行うのは無理で,集団で行うのがよいと語っている。実践に役立つ統計学講義と言う観点から反省すると,部門統計をそれぞれの専門家が担当して,集団で講義をするといいものになる。それが成されていないので,必然的に数理統計学になってしまう。

 科学は人間のあり方の問題とかかわる。唯物論とか観念論とかというのは二の次である。統計環境が悪くなっているというが,これを改めるには統計教育の改善が不可欠である。統計学の話に入る前に,統計に関心をもたせ,興味をもたせることが大事である。関心のないものに,いくら統計学の話をしてもだめである。

 この後,大屋が安藤に有澤ゼミのことを再度,問いかけている。安藤が国勢調査員になった話にも水を向けている。前者の話はあまり発展せず,安藤はかろうじてアッヘンワル,ケトレーの名前ぐらいは出てきたかなと言っている。国勢調査員は,70歳をこえたので最後のチャンスと思ってやった,と述べている。

 安藤は一時GHQの経済科学局にいた。都留重人に頼まれてのことであった。このあたりから安藤の話は大学を出てすぐに東亜経済調査局に入ったこと,戦争中,上海の共同租界工務部で生計費指数を作っていたこと,その上海で逮捕されブタ箱に入ったこと,日本に帰国して中国研究所をつくったこと,GHQにいたがパージされたこと,印刷労働組合の書記になったこと,などに話題が移っていく。

 一段落して,坂元の示唆で話が再び統計学に戻る。坂元が,ピアソンの翻訳の動機などを質問したからである。安藤は,レーニンが『唯物論と経験批判論』でピアソンをマッハ主義と罵倒しているが,それはレーニンの誤解であることがわかったという。ピアソンは唯物論者と論争などはしていず,科学の発展のためには,健全な観念論のほうが唯物論より役にたつと主張しているにすぎない。科学の発展のためには絶えず,批判と自己批判を忘れてはいけない,ということである。レーニンは独り相撲をとっている,国内の運動の対立のなかで引きつけて書いたという事情があるのではないだろうか。関連して,安藤は唯物弁証法と観念論とは問題にしていることが別の次元のことなのではないかと,印象を述べている。

 最後に,体系をつくるということはどういうことなのか,無理にそれをつくると割り切れないところが出てくるのではないか,上杉正一郎との出会い,上杉を介して大橋隆憲,内海庫一郎,有田正三を知ったこと,経統研の会員に実務家を迎え入れる努力をしなければいけないこと,統計指標体系を作りたいと思っていること,国会議員の統計の使い方を批判することが重要だと思っていること,議会,委員会の速記録を集めて分析すること,などに触れ,インタビューは終わる。

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