社会統計学の伝統とその継承

社会統計学の論文の要約を掲載します。

「伊藤陽一教授 退職記念座談会-研究遍歴と動機・結論を中心に-」2009年

2016-10-02 12:25:36 | 13.対談・鼎談
「伊藤陽一教授 退職記念座談会-研究遍歴と動機・結論を中心に-」『経済志林』(法政大学)第76巻第4号,2009年

退職を機に,伊藤陽一にその研究歴を聞くことを目的に,森博美(法政大学)が司会をし,山口秋義(九州国際大学),杉橋やよい(金沢大学),水野谷武志(北海学園大学)の教え子が同席した座談会。伊藤の精力的で広範な視野に改めて驚かされる(末尾に研究業績の一覧がある)。このインタビューから窺い知ることができるのは,伊藤統計学の特徴が,蜷川統計学の問題意識に発端をもつこと(ただし,集団論に拘束されていない),確率論の社会経済現象への適用限界をわきまえ,数理統計学的手法の適用で自己完結する統計学に対しては理論的にも実践的にも批判的であること,現実の統計の分析方法を実際の経済分析を進めるなかで磨くべきという哲学をもっていること,国際的視野にたった議論をしなければ統計学が閉塞するという信念があること(豊かな国際経験に基づく信念),である。

話題は,①学生時代の統計学との出会い,②土曜研究会と哲学との接触(院生時代),③大学院での中心的研究(サンプリング論・確率基礎論・階級構成表),④北海学園大学時代(経営統計への関心),⑤学会活動,⑥統計指標研究会への参加と『統計日本経済分析』,⑦自治体での統計作成への参画,⑧アメリカ留学,⑨ジェンダー統計での目覚めとその後,⑩統計品質論,⑪日本統計研究所での研究と運営,⑫学部・大学院での教育。

 伊藤は1938年,札幌生まれ。1957年北海道大学文類入学後,経済学部に移行し,経済学部で一番強烈な印象を受けた内海庫一郎のゼミナールに所属した。当初,特に統計学に関心があったわけではなく,社会問題に目が向いていた。指導教授内海のユニークな(今からみれば)授業,ゼミの様子,思い出話が語られる。大学院経済学研究科に入り,内海からサンプリング論のテーマを与えられる。研究の刺激になったのが土曜研究会(通称土研)。教員,院生が土曜の午後に研究会(定例)をもったので,そう呼ばれた。また俗称「大学村」で月に一度開かれていた「ヘーゲル研究会」に加わり(内海を中心に哲学,自然科学の教員の研究会),ヘーゲルの『論理学』などを読んだ。

 指導教授の内海は,数理統計学をしっかりやらなければならないということで一貫していた。確率論の歴史を丁寧に調べ,現実の調査での標本調査の適用が定着するなかで,この理論の技術論的解釈が受け入れられるとともに,戦後の標本調査論争が下火になった頃であった。その後,確率がどのような「場」で成立するかについて,検討した(確率基礎論)。法政大学に着任してから一時,階級構成論に取り組んだが,現在は棚上げ状態である。
ここで同席の山口が階級構成研究の方法の有効性を問い,伊藤が現在の問題意識でそれに応えている。階級構成表の計算方式と現実の階級・階層の動向との間にあるはずの媒介要因が何かを示さなくてはいけないこと,今の時代から過去の階級構成論を振り返るとき,その当時の社会全体の動きから切り離して批判する議論もあるが納得できない,という見解が印象的である。1980年代半ばにマジソン大学留学のおりには,階級論関係の書物を相当集め,ノートの形にしてあるが,未公表である。

 北海学園大学では経営統計学を担当した。蜷川虎三には会計学の業績があり,また2年先輩の田中章義の誘いもあって経営学に興味があった。1970年代には,北海道電力,新日本製鉄,北海道拓殖銀行などの経営分析を行った。1980年には『経営統計学』(北海道大学図書館刊行会)を共著で出版した。伊藤はこれらの一連の研究を経て,経営統計論における統計利用が現実の経営・企業分析に,また統計学・経済統計学での統計利用が日本の社会や経済の実際の分析に到着点を定め,そのなかで方法を磨き,実質分析の成果を見せるべきとの見解を表明している。

 伊藤は経済統計学会・第2世代の中心メンバーであった。博士課程1年目で,経済統計研究会第7回大会での「初陣」報告(「統計論争(標本調査法)について」),第8回大会での大屋報告に対する印象,学会全体の構成(バランス),『統計学』記念号(1976年)での「統計学の学問的性格」の執筆および『統計学』(法政大学通信課程のテキスト)発刊の頃のスタンス,社会科学方法論説に対する違和感,大屋理論を受容した契機(「プライバシーを守り,国民総背番号制に反対する国民会議」でのパネリストの経験)などが話題になり,思い出が語られる。伊藤はこの中で,制度説擁護の姿勢とその下地の形成に触れているが,指導教授の内海庫一郎からは一切異論やコメントがなかった。是永純弘は伊藤説を「内敵」(マイヤーが数理派のリューメリンをドイツ社会統計学の「内敵」と評したことになぞらえて)と指摘した経緯を強調している。他に伊藤は代表幹事になったおりに,国際学会参加の経験をふまえ学会としての組織改革を図った。馴れ合い,運営の不透明性,学会としての研究と活動のスケールの小ささからの脱却を意図したものであった。

 話題はこの後,統計指標研究会,アメリカ留学に移る。統計指標研究会の活動は,『統計日本経済分析(上)(下)』(1977・78年)に結実した。指標研スタートは,伊藤が法政大学に着任した年(1972年)の秋ごろから経済統計学会の関西のメンバーとの研究交流,雑誌『経済』の編集担当者との意見交換などがベースにあり,統計研究を経済分析に拡大していこうという問題意識の下に進められた。一大事業であった。この経験が『統計ガイドブック』につながった。
 伊藤はまた美濃部知事時代の後期に東京都の勤労者生計費指数作成作業に関わった。学会にはその前から自治体の統計活動に関心があり,自治体職員といろいろな形で交流していた経験があった。東京都の生計費指数作成の前には,埼玉県の畑県政の下での社会経済総合調査会のプロジェクトの研究につきあった。埼玉県の住民の社会指標作成がテーマで,そこで因子分析法の検討の機会が与えられた。

 伊藤の留学経験は,1985-86年度(マジソン大学,レーガン政権の2期目)と2003年度(メリーランド大学・カレッジパーク校)の2回のアメリカ留学である。アメリカの統計制度を下敷きに民主的な統計制度の設計に関心があった。問題意識形成の契機は,蜷川統計学(利用者のための統計学)である。情報収集は,国会図書館に収蔵されていた合衆国議会資料,アメリカン・センターの図書室,CISの索引による検索,多摩図書館に入った議会資料のマイクロフィッシュなどである。1976年にアイオワ州立大学に滞在していた内海庫一郎を訪問した折に国連ハマーショルド図書館を皮切りに,D.C.の公文図書館で検討をつけていた。85-86年度の滞在のときには,到着後すぐに公文図書館,BLSやセンサス局に出入りした。帰国後,1990年代前半の統計改革を執筆した。

 伊藤には,ジェンダー統計の分野で先駆的業績がある。ジェンダー統計に関心をもったのはマジソン滞在中,妻(伊藤セツ)からの電話(その内容はアメリカで世帯主という用語はセンサスでどうなっているかを調べて欲しいというもの)が発端である。世帯主という用語は既に合衆国その他の国の国勢調査で使われていないことが分かった。代わりに使用されているのがreference person である。日本ではその後,家計分析を行っていた家政学グループが,この問題を指摘し,総務省にこの問題を進言した。伊藤は,1987年に「統計における性差別」と題する論文を書き,問題提起を行った。
ジェンダー統計は伊藤が研究を手掛けた重要な分野なので,このインタヴューではかなり時間を割いて経緯の解説,見解の表明がなされている。1993年のフィレンツェISIでの「ジェンダー統計セッション」に参加し,海外の研究者とのコンタクトがとれた。この時に交流した研究者とは以後,北京女性会議で一緒になり,国連統計部,スウェーデン統計局,フィンランド統計局にでかけて長い付き合いをしている。

 この頃,並行して統計研究所の労働統計の国際比較に関するプロジェクトが進行していた。成果を書籍にして評価を得たが,ジェンダー視角が弱かったとの反省にたち,同じく研究所のプロジェクトとの成果物として『女性と統計』(1994年)を出版した。
格差や貧困問題にジェンダー統計がどのように貢献すべきか,という杉橋の質問に対して,伊藤は貧困問題の統計による分析では基礎的統計自体が不十分であり,とくに貧困のしわ寄せを最も受けているのが女性であることをデータで明らかにすることが必要である,貧困ラインの研究がその妥当性を含めて継続して重要である,ジニ係数のような単一の統計尺度での分析では限界がある,賃金の性別格差分析に数理的手法を多用する研究があるが,これにも不満がある,格差や差別の確認だけでなく,それらがどういう関係で生じているかの統計的分析が必要,と述べている。また杉橋によるもうひとつの質問,すなわちジェンダー統計研究者に対する課題と期待,また世界のジェンダー活動に日本の研究者がどの程度貢献し,協力すべきかという問いに,伊藤は第一に国連統計部を中心としたジェンダー統計の再活性化の動きに連携すること,とくにESCAP地域のジェンダー統計の発展に貢献していくこと,第二に研究分野での理論的蓄積があるので,それを基礎に日本国内の中央・地方政府での男女共同参画視角の導入,そしてそれらを支援する体制の強化を挙げている。

 伊藤のまた別の仕事として統計品質論がある。この分野に関心をもつにいたった土壌として,やはり蜷川統計学がある。結果として公表される統計,計算加工されて発表される統計が使いものになるかどうかを抜き統計学を論じることはできない。蜷川はこの問題を統計の真実性(信頼性,正確性)としてまとめたが,いまだにこの問題を蜷川段階で完結させている人がいる。学会の全国総会でこの問題をとりあげて報告したが,いまひとつ滲透していない。
伊藤は国際会議で統計品質論に接したのは,1998年のIAOSのセッション(アリスカリエンテス開催)であったと回顧している。EUROSTATでも資料をもらって,翻訳し,『統計研究参考資料集』No.61(1999年12月)で発表した。センサス局やIMFは,1990年代後半に,この問題をとりあげるようになった。2000年に入ると,ESSがピッチを速め,連続的に独自の品質会議を開催している。ここにカナダ,合衆国,オーストラリアからの参加があり,「統計品質に関する統計国際会議」といった様相を呈している。

 この後,話題は法政大学・日本統計研究所の現状と課題,学部・大学院での教育に移り,まとめに入る。研究所の由来,伊藤が関わっていたころのテーマ(ミクロ統計,労働統計の国際比較,ジェンダー統計,アジアの統計)が語られている。また伊藤はロシアの統計との関わりで統計制度のあり方(分散型か集中型か)について,私見を展開している。それによると,統計の品質論その他で国際的に目立つ国は集中型をとっている。しかし,これまで分散型で来て,統計活動が大規模化した合衆国や日本で,集中型への移行が現実的かというと,必ずしもそうは言えない。伊藤は,分散型を前提とし,ICTやデータベースなどの成果を利用し,統計活動の部分的統合と言った中間的形態をめざすのが現実的との中間的結論を述べている。
 最後に中堅・若手研究者への次のメッセージを司会の森にもとめられ,伊藤がこれに応えてインタビューは終わっている。「・・・国際レベルでの活動を射程に入れないのでは,国内的な研究・活動もスケールが小さくなること,とにかく社会の現実問題に迫ること,統計手法をこなすことは大切だが,手法が自己目的になって,その手法を適用した結果の実質的な意味や政策との連携が不明な研究が垂れ流されているように見える。・・・一方で,認識論,学説史,統計史などの基礎的研究を研究の分業関係の中で認め合うこと,蜷川やその周囲以降の日本の社会統計学には,今日の国際的・国内的研究課題に応える理論的枠組みその他が用意されている点を再認識・再確認する必要がある・・・。」(pp.547-48)

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