社会統計学の伝統とその継承

社会統計学の論文の要約を掲載します。

田昌計「統計学史(西欧)」『統計学』第30号,1976年3月

2016-10-16 21:32:12 | 4-1.統計学史(総説)
浦田昌計「統計学史(西欧)」『統計学(社会科学としての統計学-日本における成果と展望-)』(経済統計研究会)第30号,1976年3月

 統計学史研究の分野は,経済統計研究会会員の寄与が大きい。その対象範囲は,政治算術,国状学,ケトレーの統計学は言うまでもなく,英米数理統計学,あるいは確率論の分野にまで及ぶ。筆者は戦後の会員の業績を,「政治算術と国状学」「ケトレーの統計学」「ドイツ社会統計学派の成立と解体」「数理統計と確率論」の節を設定して,手際よく整理し,研究会会員による研究業績の豊富さと充実さが自ずとわかるようなサーヴェイを行っている。

中身に入る前に,蜷川虎三の史的把握を参照している。蜷川によれば,統計学の歴史はケトレーを境に「先駆的統計学」と「近代統計学」とに分けることができる。「ケトレー以前に在っては,専ら国状の記述を目的とする独逸大学統計学と,社会現象の数量的記載並びにその分析を目的とせる政治算術とが全く別個に存在し,発展して来たのである。然るに,ケトレーにおいて,よく此の二つの流れにおける本質的な問題が把握され,政治算術における社会現象の数量的研究を更に発掘し,これを一個の社会科学として主張するとともに,統計学こそその学問であるとした・・・」(『統計学概論』1934年)。蜷川のこの把握の仕方は,ドイツ社会統計学派の統計学史観を継承するものであり,通説になっている。筆者はケトレー以降の統計学を「近代統計学」と位置づけるとしても,ケトレーにおいて二つの流れ(政治算術と国状学)の本質的な問題が取り入れられたとするとき,その本質的問題が何であり,それがどのように発展させられたかが問題である,と前置きしている。

筆者はその問題に直接回答を与えることなく,本題のサーヴェイにはいっている。最初に松川七郎の問題提起を紹介している(松川七郎『統計学史研究における5つの時期』[1961年])。松川は従来のクニース,ワグナー以来定式化された統計学史の政治算術に対する見方が方法論史的に割り切った一面的理解であるとし,グラント=ペティの政治算術を「統計的実証方法」の創始とみるのは誤りで,それを生み出した社会的土壌,萌芽的にあった経済理論との関連で捉えなければ,グラント,ペティの理論の重要な諸点が全て見失われてしまうと指摘した。筆者は松川のこの見解の紹介にスペースをさいて,肯定的な指摘と評価している。関連して,ジュースミルヒ研究にも言及し,自身の研究成果とともに,会員(青盛和雄,内海健寿)の業績をあげている。

さてケトレーに関してであるが,筆者はケトレーが政治算術,国状学から受け継ぎ発展させたのは,これらのごく限られた側面であることをまず確認し,しかし統計学の歴史を再検討するうえでその統計理論と学問業績の性格,歴史的基盤の究明は,以前として重要であると述べている。数ある業績のなかから,山本正,高橋政明,岡崎文規,高岡周夫,足利末男,佐藤博,吉田忠のそれをあげている。とくに山本(「アドルフ・ケトレーの“平均人間”について」[1952]),高橋(「わが国におけるケトレー研究」[1975]),吉田(『統計学』[1975])の業績の紹介が,詳しい。   

 筆者によれば,「山本は,ケトレーの平均人の理論が,人間を支配する法則を『重心』としての平均人をつうじて把握するという力学的な発想から出発しており,しかも偶然誤差の法則と人間の肉体的道徳的性質についての自然決定論とがこれに結びつけられたものであることを明らかにした。さのさい山本は,人間のある種の肉体的性質についての正常誤差法則の妥当性の発見,また充分同質化された集団における計算単位としての平均人間の意義を評価しながらも,ケトレーの平均人間の理論の根本的欠陥は,自然決定論すなわち非歴史性にあることを認める」と述べている。

 高橋については,彼が従来のケトレー研究が専ら政治算術の系譜に位置づけられ,また力学的世界観から来るケトレーの限界が『人間について』の所説からなされていることを不満とし,ケトレーの思想形成,業績,歴史的役割の研究を多面的に考察することを実践している。また吉田は,ケトレー評価を社会現象への「統計的な方法」の意識的適用にもとめる見方に対して,統計調査の実践とのかかわりで評価されるべきとした。

 筆者は,次に自身の専門領域であるドイツ社会統計学の成立と解体に視点を移し,この分野での研究成果を整理している。ドイツ社会統計学は,G.マイヤーによって代表される。マイヤーの統計学は,ケトレー統計学の影響を受けながらも,自然現象と社会現象との相違についての認識のもとに,後者の数量的研究(統計方法の適用)の根拠を社会現象の集団的性格にもとめ,大数法則や確率論を副次的地位に限定した。この考え方は,長くドイツ社会統計学の共通認識となる。

 マイヤー統計学成立前史については足利末男『社会統計学史』(1966年)が,また後期社会統計学を念頭にドイツ社会統計学の成立過程と問題性を論じたものとしては有田正三『社会統計学研究』(1963年)が記念碑的労作である。前者は17・18世紀の国状学と関税同盟以後の官庁統計の歴史を先行させつつ,ケトレー派統計学,ケトレー以降の国状学,形式人口学と数理統計学を網羅的に紹介した。筆者は,「足利がケトレー以後の国状学の根強い存在を示しつつ,ドイツ社会統計学の対象規定における国状学の伝統を強調したことは重要である」と評している。後者はマイヤー統計学,ひいてはドイツ社会統計学の成立にリューメリンの果たした役割がきわめて重視されることを明らかにし,とくにマイヤーの「社会集団」概念がリューメリンの成果に立脚することを示した。

筆者は他に,マイヤーにおける「存在たる集団」と「意識的に構成された集団」の不分明を指摘した蜷川虎三,社会集団と社会構成体との関係についてのマイヤー的見解の問題点を洗い出した大橋隆憲,マイヤー統計学を丹念に研究した高岡周夫,ドイツ社会統計学と歴史学派の関係に着目した吉田忠,マイヤー統計学に論理的基礎を提供したのはリューメリンをはじめとする論理派であるという有田の主張を受け継ぎ,別途リューメリン,ジグワルト,キスティアコフスキー,ティシャーの統計対象論,統計法則論をテーマに掲げた長屋政勝の仕事に言及している。

マイヤー以降,ドイツ社会統計学は徐々に解体の過程をたどる。それは実体科学としての統計学から形式科学への統計学への移行,あるいは転換として特徴づけられる。有田はこの時期を20世紀,とりわけ第一世界大戦後とし,具体的にはチチェク,フラスケンパーの統計学を追跡した。後者は数理統計学の批判的導入によって社会統計学の豊富化を意図し,「認識目標の二元論」「事物論理と数論理」を唱えたことで知られる。有田はこの転換を必然としながらも,認識目的や主観の構成機能を強調し,方法を客体に優位させる形をとったため,大きな制約をともなうことになったと指摘した。有田も含め,後期社会統計学,そしてフランクフルト学派に至るドイツ社会統計学の変遷をめぐっては,内海庫一郎,関弥三郎,大橋隆憲,田中章義,大屋祐雪,佐藤博,岩井浩,足利末男など多くの会員が議論に参加した。
筆者は最後に,数理統計学,確率論の分野での統計学の歴史を扱った研究をフォローしている。ここでは,英米数理統計学(ゴールトン,K.ピアソン,エッジワース,ボーレー,ユール,ジェボンス,ムーア,フィッシャー,ネイマン,E.S.ピアソン),大陸数理統計学(レキシス,ボルトケビッチ,アンダーソン,チュプロフ),確率論・確率基礎論(ミーゼス,ヴェン)の3つの領域について行き届いた整理がなされている。

岩井浩には相関分析法の歴史的展開をあとづけた業績(「初期の相関係数法について」[1963])がある。大橋隆憲(「近代統計学の社会的性格」[1949]),是永純弘(「R.A.フィッシャーの帰納推理論について」[1956]など),伊藤陽一(「有意抽出法の検討」[1963年])は推測統計学の批判的研究である。近昭夫はA.A.チュプロフを系統的にとりあげた(「『ノモグラフィア的科学』と『イデオグラフィア的科学』」[1967]など)。

確率論基礎論に関わる史的検討の嚆矢となる論文を公にしたのは,是永純弘(「確率論の基礎概念について」[1960])である。確率論の認識論的基礎に対する批判的研究には,伊藤陽一(「確率に関する諸見解について」[1964]),岩崎允胤(「帰納論の歴史とわれわれの若干の見解」[1964])が,決定論との関わりでは,岩崎(「『決定理論』とその基本性格」[1965]),吉田忠(「確率の形式化と主観化」[1967-8]),田中章義(「長期経営計画とその『科学的』手法[1966]」),宍戸邦彦(「『ベイズの確率論』について」[1972]),木村和範(「投資決定問題への統計的決定論の利用について」[1975])が,また計量経済学における確率論的手法に対する批判的研究には,是永(「計量経済学における方法論争について」[1958]など),伊藤(「計量経済学におけるパラメータの確率的推定法」[1965]),近(「いわゆる『逐次モデル』について」[1971]など),吉田(「マルコフ連鎖の社会統計への擬制と公理主義確率論」[1965])の諸研究がある。他にも確率論に関する代表的論者の所説を検討した杉森滉一の研究(「ヴェンの確率基礎論」[1968]),伊藤(「ケインズの確率論について」[1966])も重要な論稿として,あげている。数理統計学,確率論の史的展開と関わる会員による研究は,以上のようにきわめて層が厚い。

なお松川七郎は,筆者の以上のサーヴェイに対して,「教えられるところがきわめて多」いとしながらも,「筆者が統計学史の研究方法の問題を意識的に不問に付している」とコメントしている。

世利幹雄「統計学史研究の課題」『統計学』第25号,1972年3月

2016-10-16 21:30:07 | 4-1.統計学史(総説)
世利幹雄「統計学史研究の課題」『統計学』第25号,1972年3月

 本稿は統計学=反映模写論の立場から,統計学史研究の方法論的諸問題を考察することを目的としている。最初に,学史研究がなされる場合,当然,個々の研究者が統計学の理論を前提とするはずであることから,社会統計学の観点から統計学の理解には3つのグループがあるとして,①社会科学方法論説,②実質社会科学説(この中にソ連統計学界の実質科学説的見解と統計学=反映・模写論)の存在を紹介している。これらのうち,社会科学方法論説について,筆者は調査論に関しては調査過程についての技術的知識とその適用にさいして必要な社会科学上の知識であり,利用論に関しては社会経済現象の大きさを示す統計値の結合・組み合わせといった数理技術上の手続き論であり,学的体系を整えたものになりえないと指摘している。

筆者が立脚する立場は,②のうちの統計学=反映模写論であり,それは資本主義経済爛熟期の段階に特有の政府の統計および統計活動の諸特徴を,その技術的組織的側面と歴史的社会的側面との統一現象とみて,社会科学的見地から解明する地点である。この立場から統計学史を反省すると,これを単なる理論史として構成するのではなく,次の諸点を考慮にいれたものでなければならない。①統計学体系における理論と学史との関係および学史研究の構造と課題,②一般通史と特殊問題史との関係,③学史研究方法におけるその歴史的過程の問題,③統計学史の対象範囲ないし学史研究における端緒の問題,④学史研究方法におけるその歴史的基礎過程の問題,⑤学史研究の批判検討の対象とする学説および論者の選択の基準と方法。筆者は本稿で,これらのうちの①にウェイトをおき,それとの関連で他の諸点をも一般的抽象的に論ずるとしている。  

 統計学=反映・模写論の立場では,統計学の諸理論の生成過程は,次のようになると言う。
(1)社会的事象
(2)統計活動(政府機関によって遂行される一連の組織的技術的作業工程)
(3)指導的統計家((2)を計画・実施する指導的統計家) 
(4)統計史(当該主幹官庁の手になる調査規則・手引・要綱による(2)の変年史的記録)
(5)統計諸理論
(6)統計学史   

 広義の統計学史は,(2)についての理論的技術的知識や思想の歴史的展開である。(6)の統計学史と(4)の統計史とは緊密な表裏一体の関係にある。統計学史上の諸学説の歴史的展開の構造は,上記の生成過程における諸要素が絡み合った具体的な関係である。

 統計学上の諸学説の史的展開がおよそ上述のような構造をもつとすれば,その研究課題は以下の3つである。
(1)研究対象となる個々の学説自体を明確にし,その歴史的課題を明らかにすること。
(2)個々の学説の歴史的展開を,そのときどきの経済社会体制に政府の統計活動の技術・組織・制度がどのような適合性を示しながら歴史的に変遷してきたかを,その歴史的基礎過程との連関において把握すること。
(3)学説研究を担う論者自体の社会的歴史的立場および論者が保存する統計理論について十分に吟味,自己反省をすること。

 以上の課題意識のもとに編まれる統計学史は,歴史上の問題意識の変化に応じて,それぞれの特定の時代および社会関係のなかにある個人によって書かれるものであるので,個別的相対的である。それらは時間的にも空間的にも相互に関連し対立して存在する性格のものであり,それぞれの歴史的特性としての意義と限界,あるいは運命をもつ。

 統計学史研究はいかなる時期のどの学説(思想)から始めるべきであろうか。統計学を最広義にとらえるならば統計学史研究の端緒は,国家発生の時期まで遡及できるかもしれないが,そこでの国家の統計活動は存在するとしても不規則的断片的であり,一般的特性を見出し難い。通説では統計学の端緒は,17世紀のドイツの国状論,イギリス政治算術にもとめられることが多い。しかし,統計学=反映・模写論の観点からみるとそれは十分と言えない。社会科学方法論説の観点からは,イギリス政治算術の流れが重視され,ドイツ国状論は副次的補足的にとらえられがちである(統計学=反映・模写論では,ドイツ国状論は統計学=上部構造論としての視点から別様に評価される)。また通説ではケトレーによって国状論と政治算術の2つの流れが統一され,近代統計学が確立されたことになっているが,統計学=反映・模写論ではそのようにはとらえられない。

 統計学=反映・模写論に立脚する筆者は,統計学成立のための歴史的基礎過程を①政府の統計活動が全国的規模で定期的組織的に実施され,行政の不可欠の要素となり,②法律によって被調査者の虚偽の申告・調査拒否に対する罰則規定,調査個票の目的外使用の禁止,定期的な結果の公表など近代統計活動の特徴が確認され,③統計活動の重点が人口統計から経済統計に移ったことなどの歴史的事実にもとめるので,資本主義の爛熟期に特有の体系的な統計学説が本来的意味の学史研究の対象である。具体的には,G.v.マイヤーの統計学説以降のものが学史研究の対象となる。

以上をふまえ統計学説史の研究方法は,いかなるものとなるのであろうか。筆者は関連する経済学史の方法に3つの型があることをそのまま受け入れ,統計学史の方法を考察する。第一は「資料史的方法」で学史研究の史料集成および史料批判を中心としたものである。第二は「理論史的方法」で,統計学史をその論者の唯一完全な理論の自己展開の歴史であるとみなし,過去の諸学説をその基準で裁断し整理するものである。第三は「思想史的方法」で,統計史,思想史,統計理論の三者を有機的に関連させて統計学史研究を行うという方法である。それぞれに長所と短所がある。①は予備的作業としての意義を求めるべきもので,本来の学史研究の検討対象となるのは②と③である。②と③の型は,相互に排除しあうものでなく,総合的に相互に補完しあっているものと,とらえられるべきである(「総合的方法」)。

 社会科学方法論説による統計学史は,多くの場合「理論的方法」によっている。「思想史的方法」「総合的方法」はほとんど登場していない。例外的に松川七郎『ウィリアム・ペティ』は,「総合的方法」によっていると考えてよい。松川の研究は,「経済学と統計学の相互関連に関する歴史的研究」または「資本主義経済における全体的認識と諸現象の数量化の相互関係に関する歴史的研究」の一環として政治算術の生成過程の歴史的分析にあてられたものである。

 筆者は最後に統計学史研究を展開する際のいくつかの留意点を指摘している。それらは,①統計学の研究対象である資本主義爛熟期の政府の統計活動の基本的メルクマールを調査個票の目的外使用の禁止,定期的な結果の公表にもとめたことについての反省,②上部構造である政治現象としての統計活動の反映・模写論ではせいぜいタイプ論的な成果しか得られないのではないかというその学の内容と反映・模写する方法上の客観的基礎についての反省,③下部構造の理論の史的展開を取り扱う経済学史の研究方法と上部構造のそれを対象とする統計学史の研究方法との,対象から規定される方法上の相違点についての自覚,④17世紀以降をその研究範囲とする統計思想史(社会思想史,科学思想史との関連が重要)とその実践的有効性と社会体制への適合性の観点から編まれる統計技術論史(数学史,科学技術史との関連が重要)との関係についての反省,である。   

世利幹雄「(資料)方法論における経済学史と統計学史」『富山大 教養部紀要<人文・社会科学篇>』第4号,1971年3月

2016-10-16 21:28:33 | 4-1.統計学史(総説)
世利幹雄「(資料)方法論における経済学史と統計学史」『富山大 教養部紀要<人文・社会科学篇>』第4号,1971年3月

 統計学史研究の意義や方法法については,経済統計研究会のなかで,かつて議論があったようである。それらは,広田純「統計学史についての若干の疑問」(「経済統計研究会」第3回総会,1959年),松川七郎「統計学史の研究方法について」(同関東支部例会,1960年),三潴信邦「統計学史は成立しうるか」(「経済統計研究会」第12回総会,1968年),佐藤博「統計学史の方法」(同関東支部例会,1969年)の,タイトルだけで示された記事があるので明らかであるが,どのような内容の議論だったのかは記録として残されていない。

この論稿はこれらとは独立に,統計学史の意義と方法を考察しようとしたものであるが,残念ながら未完成品である。全体は32ページの論稿であるが,社会統計学に触れた部分はそのうち最初の8ページで,後は参考として考察した経済学史の方法論をめぐる論争の紹介と検討である。末尾に「未完」とある。この論稿の中身は主として,統計学の定義が多様であるが社会統計学に関する学説が3類型あることの要約的記述と経済学史の方法をめぐる論争のまとめである。統計学史の方法論的展開部分の解説は,ほとんどない。読者が統計学史の方法論に関する議論を期待すると,その期待は満たされない。恐らく,筆者はこの論稿に続いて書かれた世利幹雄「統計学史研究の課題」(『統計学』第25号,1972年3月)に,統計学史に関する方法論の自説の展開を委ねたのであろう。

 筆者は冒頭で統計学の定義が多数あることを述べたE.エンゲルのハーグ国際統計会議(1869年)での報告を紹介した後に,現在,統計学の学問的性格についての見解は,実質科学としての統計学(実質社会科学説),一般統計学としての統計学(普遍科学方法論説),方法の学としての社会統計学(社会科学方法論説)の3つがあるとし,それぞれの沿革を解説している。実質社会科学説の代表はG.マイヤーの「統計学=精密科学」の考え方,ソ連統計学界の主流の見解である。普遍科学方法論説は17世紀中葉フランスのパスカル,フェルマによって築かれ,ラプラスによって集大成されたもので,その後ケトレーに受け継がれ,イギリスのF.ゴールトン,K.ピアソンの記述統計学によって継承された。さらにこの系譜は推測統計学の登場(ゴセット,フィッシャーの標本理論)をうながし,その基本的思考方法は非決定論,近代確率論に基礎をおくものであった。社会科学方法論説は蜷川統計学以降の京都学派の見解である。この統計学は蜷川統計学として知られ,筆者の説明によれば,統計利用者の立場にたった統計学で,統計の信頼性,正確性の吟味を重視した統計学である。この統計学の主要な主張点は,(1)統計学は社会科学の方法論の一分科である,(2)統計学は社会・経済統計資料の処理方法を固有の研究対象とし,(3)社会・経済統計資料が社会的・歴史的資料の一形態であり,それは社会現象の運動形態の数量的側面,とりわけ社会的経済的集団現象の運動過程の数量的側面を反映する,というものである。

 筆者は以上の3つの学説と並べて,社会統計学の学問的性格に実質科学説の立場から接近し,しかし従来のそれとは異なる大屋理論をとくにとりあげている。大屋理論とは,端的に言えば,現代社会の統計,統計調査,統計利用の諸特徴および諸形態をひとつの歴史的な社会現象として,社会科学の見地からこれらを反映・模写することを任務とする統計学である。したがって,統計学史の方法は,それぞれの時期の国家の統計作成・利用などの統計活動の歴史的社会的事情を反映した統計理論を学説とみなして編成すべきものである。

 この後24ページは,経済学説史の意義と方法をめぐる論争の紹介と検討である。ここでは,その部分の内容を筆者の叙述にしたがって,概略的に記すにとどめる。経済学史が経済学のなかでどのような意味をもつのかを検討することがここでの課題である。関係する学説史家,経済理論家がこの論争に介入している。経済学史方法論争の業績が一覧されている。論争は二期に分かれ,第一期は1952-61年まで,第二期は1962年からこの論稿が書かれた1971年までである。
 第一期の論争の発端は,経済評論社主催の「経済学の論理と人間の問題」(『経済評論』昭和29年4月号)で,平瀬巳之吉が経済学史研究について,それは「刺身のつま(・・)で,刺身は理論である」と述べたことであった。この見解は極論であるにしても,内容的には学史研究の独自の意義と,その現実的有効性をいかに論証するかの試金石を問うものであった。第二期の論争は,宇野学派からの問題提起で,経済学史を経済学の理論史ないし原理論体系成立史の研究という位置づけをめぐってなされた。時永淑,大内秀明が代表的論者である。

 経済学史の意義と方法をめぐる論争を以上のように整理し,筆者は節をあらためて「経済学史の意義」「経済学史の方法」の内容に踏み込んでいる。「経済学史の意義」ではまず,学史研究を独立の科学とみるか,経済学の補助科学とみるかで,類別している。独立の科学とみるのは出口勇蔵,水田洋など思想史研究者グループによって主張された理論と歴史との相互関係を重視する立場であり,補助科学とみるのは平瀬巳之吉,中村賢一郎などの経済史研究を理論経済学にたいする補助科学とする立場である。筆者はそれぞれの立場から出口と中村の主張をとくに取り出し,懇切丁寧な引用を行っている。積極的な主張があるわけではないが,筆者は前者の立場に親近性をもっている。  

 「経済学史の方法」では,杉本栄一の『近代経済学史』における学史研究方法の三類型に言及し,その紹介を行っている。杉本の三類型は以下のとおりである。第一類型は「過去の時代に属する経済学者たちを,学派別にまたは国別に,ほぼ年代順に並べて,かれらの生涯を語り,その主要な著書および論文の標題をかかげ,それらの著書および論文が執筆された時期や出版された年,諸種の版本の異同などを考証し,進んでは,その内容を概説するといった型」である。第二類型は「著者が正しい経済理論と考える理論の立場にたち,過去の経済学史は,この唯一の真理に向かって自己展開してきたものであるとみる型」である。第三類型は「経済の理論と歴史とはたがいに有機的に関連している,という根本的な考え方から,それぞれの経済学説を,それが生いたった社会の,全体としての歴史状況に照応させて理解する,という型」である。杉本は,以上の三類型のそれぞれに代表書,長所,短所を指摘し整理を行っているが,究極的には第一類型の研究は学史研究の準備段階に位置し,第二類型,第三類型を総合することが必要である,としている。筆者は杉本見解に同意しながら,第一類型が第二類型,第三類型の前提であり,それらに吸収されるものと解釈している。その上で,第二類型に方法論上最も近い見解を時永淑の「理論史的方法」を,第三類型に属する見解として出口勇藏の「思想史的方法」をあげ,それぞれの方法論的特徴を,これらの相互の批判を含めて,かなり詳しく考察している。

 筆者の中間的結論は,①「理論史的方法」と「思想史的方法」の立場からなされた相互の批判点はそれらの方法が脱却しえない特性であり,本来の学史研究という楯の両面を表しているので,相互補完的研究方法とみるべきこと,②これらの研究方法が経済学研究の進展度合をどのように考えるかに応じてとられるべきで,またその研究の目的に応じて採用されるべき研究の順序・手続方法を示すものと考えるべきであるという2点に落着している。

松川七郎「統計学史研究における5つの時期-政治算術・国状学を中心として-」『ウィリアム・ペティ-その政治算術=解剖の生成に関する一研究』岩波書店, 1967年

2016-10-16 21:26:38 | 4-1.統計学史(総説)
松川七郎「統計学史研究における5つの時期-政治算術・国状学を中心として-」『ウィリアム・ペティ-その政治算術=解剖の生成に関する一研究』岩波書店, 1967年

本稿は, 17世紀のイギリス政治算術=解剖の再評価を, 17-18世紀のドイツ国状学との対比で歴史的に検討することを課題としている。この検討が18世紀末葉から第二次世界大戦後の現代までに刊行された海外の諸文献をとおして, なされている。大変おおがかりな仕事である。文献を渉猟し(その文献リストが末尾に掲げられている), 通読するなかで, 2つの事実に気付いたという。一つは, この2世紀足らずの時間を, 5つの時期に大別できるとの感触があったこと。もう一つは, これらの評価, すなわち統計学史研究がドイツ社会統計学派によって担われてきたことである。そしてこれらふたつの関係について, 統計学史の5期区分は, ドイツ社会統計学派の前史を含めた形成, 確立, 解体のおのおのの時期と無理なく照応している。

 5期とは, 以下のとおりである(年次は, リストに挙げられた文献の刊行年次による便宜的なもの)。(1)国状学の対立, 混乱, 衰退期(1785­1829),(2)「社会物理学」=近代統計学の形成期(1835­65),(3)社会統計学の発展・確立期(1867­1911), (4)社会統計学の解体期(1921­-44),(5)第二次世界大戦後(1945­)

 筆者はこれら5つの時期を展望する前に, 17世紀イギリス政治算術=解剖と17­­18世紀ドイツ国状学のそれぞれの特徴を次のように要約している。

 両者は17世紀の60年代に生まれた。政治算術はこの世紀の70年代に学問的形を整えたが, 国状学は18世紀の40年代に確立した。政治算術が統計学史上, 高く評価されたのは近代統計学の基軸となる数量的研究方法の先駆けとなったからである。重要なのは, この数量的規則性が「自然的」であると同時に, 「政治的(社会的)」であるとされたこと, その意味をいっそう明瞭にするために, 人口現象を土地ないし人民(労働)の問題として研究しなければならないと考えられたことである。政治算術は, 17世紀の自然科学(とりわけ数学)の発達によるところが大であったが, 経済理論を背後にもっていた。

 ドイツ社会統計学はどうだったのだろうか。筆者によれば, ドイツ社会統計学はイギリス政治算術とくらべて, 一般に著しく低くしか評価されなかった。数量的方法の位置づけ方に問題があったからである。コンリングが創始した国状学は, 各国の国家記述を体系づけたものであり, 絶対主義的領邦国家の統治者の実務に役立つ学問であった。アッヘンワルは, コンリングのそれを生かしながら, 土地と人民をもって重要な総括的基礎概念とする「国家顕著事項」の総体としての国状に関する学問を構想した。アッヘンワルの統計学は数量的方法を否定していなかったが, 実際にはその方法を使っておらず, 数量的観察を行わなかった。アッヘンワルの統計学を全体として評価するならば, それは国家の現状について, 客観的な諸事実にもとづく正確な知識の獲得というメリットをもっていたが, 社会経済現象のその記述は平板であり, 表面的な事実の羅列に終始し, 記述を統一する経済学上の理論を欠いていた。アッヘンワルの統計学との関連で, 筆者はジュースミルヒのそれについても, 一言している。ジュースミルヒはイギリス政治算術をドイツに移植した人物として, また数量的方法や確率論的思想に着眼した人物として, さらに人口現象に生起する規則性を発見した人物として評価され, それは確かにそうなのだが, 彼が行ったことは政治算術の数理的形骸を宗教的信念に支えられて取り入れただけであり, その本質はアッヘンワルと同様, 国状学者であった。

 17世紀イギリス政治算術と17­18世紀ドイツ国状学について, 筆者は以上のように概略的な整理をおこない, これらが18世紀末葉以降, 5つの時期にまたがってどのように評価されたかを展望している。

(1)国状学の対立, 混乱, 衰退期(1785­1829)
ナポレオン戦争による絶対主義ドイツの崩壊からドイツ関税同盟成立直前まで。この時期は, ドイツ国状学の内部対立(新学派と旧学派), 混乱, 衰退によって特徴づけられる。新学派(クローメの表式統計学)と旧学派(モイゼルなど)の対立は, 統計学の学問的性格, 研究対象, 方法などを基軸とした。論争は究極的には, 統計的方法と経済学理論との関連であり, 新学派は社会経済現象の数量化のみを問題とし, 旧学派はとうてい数量化できない社会関係を重視した。リューダはこの両学派の論争を批判したが, その中身を統一的にとらえることができず, 統計学そのものを全面的に否定した(リューダの悲劇)。

(2)「社会物理学」=近代統計学の形成期(1835­65)
この時期の統計学は, ケトレーのそれによって特徴づけられる。時代は「統計の熱狂時代」(各国の官庁統計の整備, 家計調査, 労働統計, 経済統計に対する要請)であった。ケトレーは統計学をさまざまに定義している。一方では, 統計学は一定の時期のある国の存立に関するあらゆる要素を数えあげ分析し, その結果を他国あるいは他の時期のそれらと比較することと定義している。この定義は国状学のそれである。他方では, 統計学は人間それ自体, あるいは人間の社会生活における数量的合法則性(大数法則)の究明を課題とする, としている。これはケトレーのいわゆる社会物理学の考え方である。後者は政治算術に通じるものであるが, 社会科学の理論をそなえていない点で, 政治算術と異なる。この時期, ドイツの統計学はいまだその前史の論争をひきずり混乱していた。この状態から統計学上の見解で, 統一の道を開いたのがクニースである。その結論は, 旧学派を歴史学の一部とすること, 新学派を独立の科学とみなすこと, であった。クニースのこの結論はケトレー的であり, 従がってケトレーに固有であったイギリス政治算術の理論的側面の無理解をも共有していた。

(3)社会統計学の発展・確立期(1867­1911)
 この時期には, 統計解析の数理技術が発達し, 英米を中心に方法学派の台頭が目立った(ジェヴォンス, ラスパイレス, パーシェなどの物価指数算式の作成, ゴールトン, ピアソンなどの数理技術的な統計解析法の展開を見よ)。この流れのなかでドイツではケトレー=クニース的方向が決定的となったが, その最大の担い手は歴史学派の巨匠ワグナーであった。「ワグナーによって規定された統計学は, ・・・人間社会および自然界の構造を数量的に解析し, そこに存在する普遍的合法則性-大数法則-を導出するために, 系統的に大量観察を行う帰納法である」(p.430)。筆者はこの点に関してケトレーの「社会物理学」のドイツ版と評価した大内兵衛の文言を引いた後, 意思自由論争を境に, マイヤーの社会統計学が登場してくる過程に言及している。ここからマイヤーの統計学の紹介が始まるが, この中ではドイツ社会統計学が, 実はケトレーの衣をまとって再生された国状学, という筆者の指摘に注意したい(p.431)。
先のワグナーは, 筆者の紹介によれば, 統計学の歴史を次のように構想していた。(1)古代・中世および近世における官庁統計調査および国家記述の歴史, (2)コンリング・アッヘンワル, シュローツァー的方向における記述の学としての国状学の歴史, (3)ジュースミルヒ(その先行者としてグラント,ペティ,ハリー)・ケトレー的方向(その先行者としてのラプラス)の「本来の統計学」, (4)19世紀初頭以降における大量観察の体系としての官庁統計調査の発達史。もっとも, その統計学史理解は, ケトレー=クニース的方向で自らがうちたてた統計学の見地にたって, 方法論史的に過去を割り切って構想したもので, とりわけコンリング=アッヘンワル以来のドイツ国状学の道程を方法論史的に確認したものである(p.432)。(この後, ドイツ, フランス,イタリア, イギリス,ロシアの統計学が紹介されているが, 省略)

(4)社会統計学の解体期(1921­44)
この時期は第一次世界大戦の末期から第二次世界大戦の終結までの時期で, ドイツでは第一次世界大戦による敗北, ワイマール憲法の制定, 第二次世界大戦によるその崩壊によって特徴づけられる。この時期, ドイツ社会統計学は, チチェク, ティツカ, ツァーン, フラスケムパーによって担われた。この時期の社会統計学は, 基本的には数理統計学が無限軌道としてもちこまれ, 「事実上, 社会経済現象の数量化による社会的制約性を見失いがちになり, 方法学派に接近し, 解体してゆく」(p.436)。このあたりの叙述では, フラスケムパーが近代統計学の源流を官庁統計の発達, 国状学, 政治算術の三者に認めつつも, 従来, ドイツ国状学の評価が不当に高すぎ, それは現代の統計学と緊密な関係をもっていないと指摘したという記述に, 興味が惹かれた。しかし, だからといって国状学が否定されているわけではなく, その国状学が数量的に表現しえない社会的事実や諸関係を記述すべしとしていたことの正当性は, フラスケムパーにあっても認められる。フラスケムパーは「統計学一般における確率論の広汎な適用を主張しながら, その反面, 社会統計における『対象についての全体認識』や『質的すなわち意味的関連』の重要性を強調し, 『社会的事実の核心は質的な性質をもち, したがってそれは根本的には数量化しえない』と考えて」いた(p.438)。フラスケムパー独特の理解である。筆者はさらにドイツ以外の国々の方法学派にも射程を伸ばし, デンマークのウェスターゴード, 英米のフラックス, ウォーカー, ウィルコックス, イタリアのガリヴァーニの統計学史の簡明な紹介を行い, この時期の特徴として, それ以前の第三期にみられた統計学史の画一性が失われたことを強調している。

(5)第二次世界大戦後(1945­)
この時期には統計学史の研究として注目すべきものは, ほとんどないと述べられている(少なくともこの論稿が書かれた時点まで)。ドイツは東西に分裂し, その研究業績を統一的に俯瞰できなくなった。ソ連に関して, 筆者は統計学論争を紹介し(関連して東独の論争にも言及), ここでは統計学と経済学とが密接に関連して捉えられている点に注目している。また, 統計学の歴史的発展を社会発展との関連で, また政治算術を経済学との関連で考察しようとしていることにも関心を寄せている。西ドイツの統計史研究ではロレンツ(近代統計の由来を「国家政策および行政」「官房学的国家科学」「政治算術」とみなす), オーストリアのそれではクレーツル‐ノルベルク(近代統計学が対象としてきたのは, 「実務的な官庁統計」と「統計理論」とする見解)を取り上げている。

大橋隆憲「社会科学的統計思想の系譜(第1部)」『社会科学的統計思想の系譜』啓文社, 1961年

2016-10-16 21:25:29 | 4-1.統計学史(総説)
大橋隆憲「社会科学的統計思想の系譜(第1部)」『社会科学的統計思想の系譜』啓文社, 1961年

 本書のタイトル『社会科学的統計思想の系譜』は, その第1部のそれと同じである(付言すると第2部は「日本における統計と統計思想の発達」, 第3部は「統計の定義と概念にかんする資料」である)。本書刊行が1961年であるから, この頃に社会統計学研究の第一線にいた筆者が, 社会統計学の歴史をどのように把握していたのかがよくわかる。くわえて, 今に生きる研究者もおさえておくべき学説史ではなかろうか。内容は, 社会統計学の思想史的流れの極めて簡明な見取り図である。

 この「社会科学的統計思想の系譜(第1部)」は, 5つの章からなる。第1章では, 統計学の諸流派の歴史的概観が, 第2章では「国状学派」, 第3章では「政治算術学派」, 第4章では「社会統計学派」, 第5章では「社会主義における統計学」が解説されている。

 筆者が注目しているのは, 統計学を方法論とみる思想的流れと実質的社会科学とみるそれとの対立であり, また自然科学にも社会科学にも適用できる数理統計学を統計学とみなす見解と統計学を社会科学の一つの分野とみなす見解との対立である。また, 上記の章立てでいうと, 第1章「統計学の諸流派の歴史的外観」, 第2章「国状学派」, 第3章「政治算術学派」までは, それらのもともとの原稿が『経済学辞典』(平凡社)であり, その転載であることもあって, 通説的理解が示されている。しかし, この論文の執筆が1960年前後ということで, 直近の1950年代に旧ソ連で展開された統計学論争についての記述の比重が重いことに気づく。

 社会統計学思想の系譜について書きながらも, 筆者の関心はドイツの社会統計学派とソ連の統計学論争にある。そして数カ所で, 今後の課題として, ドイツの社会統計学派とソ連の統計学論争の関係を究明する必要があると述べている。
第4章「社会統計学派」ではドイツ社会統計学派の成立(クニース), 発展(エンゲル, ワグナー, ドロービッシュ, マイヤー), 解体にいたるプロセス(クナップ, レキシス, ボルトケッチ, リューメリン, チチェク, フラスケムパー)が概観されている。マイヤーはとくに大きくとりあげられ, その科学論, 集団論の詳しい紹介がある。ドイツ社会統計学の解体では, チチェク, フラスケムパーの統計学の詳しい解説がある。筆者によって本書で紹介されたドイツ社会統計学の趨勢は, その後, 足利末男, 有田正三, 長屋政勝らによってさらに一層究められたが, 大橋の研究はその礎石だったと推察できる。

 第5章「社会主義における統計学」も筆者が力を入れて執筆した形跡がうかがえる。叙述を旧ロシアから説き起こしている。ソ連の統計学の研究はそれなりの蓄積があるが, ロシアのそれについてはごく稀であり, 日本ではあまり知られていない。旧ロシアの統計学の最初の著作は1727年に発刊されたキリーロフ『全ロシア国家の繁栄の状況』だそうである。コンリングによるドイツの国状記述学と同じようなパターンで書かれているという。他に, ロモノーソフ, タツシチェフ, クラフト, ヘルマン, アルセーニエフ, ゲルツェン, チェルヌイシェフスキーなどの統計家の名前が並んでいる。ロモノーソフ, ゲルツェン, チェルヌイシェフスキーは, 名前だけ知っているが, ほかの統計学者は知らない。この延長上で, ソ連の社会主義統計学の発展について論じられている。社会主義経済のほころびがまだ表立ってあらわれていず, 逆に期待が寄せられていた時代でもあったので, ソ連統計学への関心も高かった。旧ソ連の統計学論争が, 普遍科学方法論説の立場に立つ論者, 社会科学方法論説の立場に立つ論者, 実質科学説の立場に立つ論者にわけて, かなりくわしく紹介されている。この頃のソ連統計学界の支配的見解は, 実質科学説の立場に立つ見解だった。普遍科学方法論説(=数理派のよってたつ見解)は, 批判の矢面にたっていた。

ごく大雑把なこの論文の紹介は以上であるが, いくつか教えられた。「統計」の定義は難しく, むかしからそれをめぐっては百家争鳴であるが, ウィルカスによるそれらをまとめた文献があるということである。筆者はそれを使って, 1900年以降, 統計がそのように定義されてきたかを紹介している。アッヘンワル「ヨーロッパ諸国家学綱要」, シュレーツァー「統計学の理論ならびに政治学一般の研究についての理念」, マイヤー「社会生活における合法則性」, 「統計学と社会学」の要約があり, 便利である。またこの1部にではないが, 本書の12章には独ソ統計学論争の資料の翻訳が掲載されている(オットフリード・クーン, カシミール・ロマニューク, ハインツ・ヘルツ, ゲルハルト・リヒター, ヴェ・ソーボリ, ハインツ・ランゲ, エス・ストルミリン)。