社会統計学の伝統とその継承

社会統計学の論文の要約を掲載します。

芝村良「R.A.Fisher の有意性検定論とK.Personのχ^2適合度検定論について」『九州経済学会年報』(九州経済学会)第38集, 2000年12月

2016-10-17 20:23:55 | 4-3.統計学史(英米派)
芝村良「R.A.Fisher の有意性検定論とK.Personのχ^2適合度検定論について」『九州経済学会年報』(九州経済学会)第38集, 2000年12月, 『R.A.フィッシャーの統計理論-推測統計学の形成とその社会的背景:フィッシャーの統計理論とK.ピアソンの統計理論(第3章)』九州大学出版会, 2004年

 標題のとおり, フィッシャーの統計理論とK.ピアソンのそれとを対比し, 類似点, 相違点, 継承関係を学説史的にフォローした論文。K.ピアソンはピアソン系分布関数, モメント法, 確率誤差論, χ^2適合度検定論などで「記述の方法」としての統計学を完成させたといわれている。対してフィッシャーは, 今では自然科学から社会科学にまたがる広範な領域で使われている有意性検定論を仕上げた数理統計学者として知られている。

本稿は, フィッシャーの有意性検定論と, その嚆矢であるピアソンのχ^2適合度検定論との関連を考察すること, 両者の検定論の差異を生んだ背景を明らかにすることを課題としている。このことを課題としたのは, 筆者によれば, フィッシャーの有意性検定論に大きな影響を与え, そのフィッシャーによって「統計的方法への偉大な貢献」といわしめたピアソンのχ^2検定の中身と意義とを考察することが重要だからであり, フィッシャーの有意性検定論を具体的な実践上の問題との関連で検討することに大きな意味があるからである。

 構成は以下のとおりである。まずピアソンのχ^2適合度検定の概説, 応用例からのその特質の考察, χ^2適合度検定に関連する範囲でのフィッシャーの統計理論の検討, それらをふまえてのフィッシャーの有意性検定とピアソンのχ^2適合度検定の比較, 両者の差異を生んだ背景の解明, 以上である。

 筆者の結論を示すと, フィッシャーの有意性検定とピアソンのχ^2適合度検定の類似点は, ①確率標本-無限母集団の図式, ②精密標本分布に依拠した統計的観測, ③一度の検定結果の持つ意味の限定, である。両者の相違点は, ①検定の目的の違い, ②自由度の概念の有無, ③有意水準の設定の有無=明確な判定基準の有無, ④帰無仮説の明示化の有無, である(P.108)。

ピアソンの統計的検定論は, 彼に続くゴセット, フィッシャーの統計的推計理論の先鞭をつけるものだった。しかし, ピアソンの統計的検定論とフィッシャーのそれとでは, 適用対象が異なっていた。ピアソンにあっては, 母集団の特性は大標本からの要約の記述でことたりた。そこでは, 標本を生み出した確率的メカニズムはほとんど問題とならなかった。標本としての統計は, 母集団そのものと想定されていたから, 後者の要約や記述は不確実性をともなわないからである。ピアソンのχ^2適合度検定についていえば, その目的は獲得された観測値が特定の確率的分布族から生起したという仮説を検定することであり, 換言すれば, 経験分布と理論分布とが整合することを想定したうえで, これらの間に乖離が偶然誤差によるものといえるほど小さいことを確認することにあった。フィッシャーの有意性検定のように, ある一定の確率的条件を定めて, それを基準に仮説を棄却するか, 採択するかという発想はそこにはない。

 したがって, ある, 見方をとれば, ピアソンの統計理論は記述統計学の範疇にとどまらず, むしろ記述統計学から推測統計学に橋渡しをした統計理論ということになろう。また別の見方をとれば, ピアソンのχ^2適合度検定は, 統計的推測の理論としては未熟な形でしか展開されていないため, それを推測統計学への契機としてみとめることはできない, ことになる。
 フィッシャーの統計的推論は, 実験の計画・解析を実験計画法として数理統計学的に精緻化させることで, ピアソンのχ^2適合度検定の推測統計の方法としての上記の不十分性を乗り越えたものと評価される。実験計画法によって, 標本誤差は極小におさえる対象から, 正確に推定されるべき対象と, 評価が変わることになった。フィッシャーはその目的のもとに, 誤差を正確にする自由度概念を取り入れ, 有意水準や帰無仮説の概念を導入し, 検定手続きの数理的精緻化を図った。フィッシャーによってこのように確立された(実験の結果と解析との数理的一元化をとおして)有意性検定は, 旧来の経験と直観による農事試験結果の判定にとってかわるものとして評価され, 以後, 誰しもが納得しうる判定を示す方法として位置づけられていくことになる。

 筆者は書いている, 「K.ピアソンの統計理論は記述統計学と称され, 推測統計学と呼ばれるフッシャーの統計論とは一般に区別されているが, ・・・応用の場の論理の違いに起因して生じた両者間における標本誤差に対する認識の差異が, 両理論を分ける決定的な要因になったとの結論を得た」と。(p.157)

上藤一郎「優生学とイギリス数理統計学-近代数理統計学成立史-」長屋政勝・金子治平・上藤一郎編『統計と統計理論の社会的形成』北海道大学図書刊行会, 1999年

2016-10-17 20:22:13 | 4-3.統計学史(英米派)
上藤一郎「優生学とイギリス数理統計学-近代数理統計学成立史-」長屋政勝・金子治平・上藤一郎編『統計と統計理論の社会的形成』北海道大学図書刊行会, 1999年

筆者の言によれば, イギリス数理統計学とは, F.ゴールトンが播種し, K.ピアソンやR.A.フィッシャーによって継承された生物統計学の系譜である。すなわち, イギリス数理統計学は, 生物学統計(「生物学」の統計)であり, 生物学と数学とが混然と融和した統計学であり, 今日でいう数理統計学(筆者はこれを「「数学」の統計学」と書いているが, 以下, 筆者の意味をふまえて「数理統計学」と略)ではなかったが, 「数学」への統計学へと変容していく理論的基礎を結果として与えた統計学であった。この論文では, こうしたイギリス数理統計学の学説史的評価の試みである。

叙述の順序はまず, イギリス数理統計学を生み出す母胎となった優生学・遺伝学が19世紀後半から20世紀初頭にかけての社会文化的文脈のなかで考察されている。次に, イギリス数理統計学が優生学・遺伝学との連携のもとで形成された過程が分析され, その統計思想と, よってたつ統計理論の特徴が解明されている。最後に, 数理統計学が生物統計学から現代的な数理統計学へと変貌していった要因が明らかにされる。

 イギリス数理統計学の先駆者は, ゴールトンである。遺伝研究から出発し, 優生学思想の正当化を契機としたその統計学は, 記述統計学(百分位, 四分位, 平均論, 相関・回帰など)の淵源としてしばしば評価される。筆者はその評価の妥当性に疑問を呈し, ゴールトン統計学, とくに誤差法則の遺伝問題への適用で, 知的能力が正規分布に従うという仮定したように, 確率論的思考が伏在していた, と主張している(ケトレー統計学の影響)。もっともゴールトンが遺伝問題に応用した誤差論は, ガウス的な観測値の誤差法則として扱われる限りでのそれではなく, 自然現象や社会現象に客観的に存在する事実としての誤差法則に関する理論であった。

 ダーウィン進化論の影響を自ら表明していたゴールトンは, この観念にしたがって, 種にみられる変異を彷徨変異と突然変異に区別し, そのうちとくに彷徨変異(遺伝的に生じる軽微な変動)が正規分布に従うとみなした(ただし, 筆者はゴールトンの遺伝子決定論的信念がダーウィン進化論を契機に形成されたとする説には懐疑的)。さらに, 正規分布が単に知的能力の変異を示すだけでなく, 社会階層の分布とも解釈した。ゴールトンの統計学は, それだけでなく, 続いていく世代にわたる変異の効果をも対象とし, その帰結として先祖返りの法則, すなわち回帰の分析にも及んだ。ゴールトンにとって回帰分析は, 遺伝分析と密接不可分の関係にあった。他方, 回帰分析とはまた別個に, 各器官の形質の分析から相関の概念を確立した。したがって, 当初, 回帰は遺伝の法則であり, 数学的に相関の特殊な問題として存在することには関心が払われなかった。すなわち, ゴールトンにとって統計的方法とは変異の分析方法であり, 変異の問題を扱う限り, そこにはある実体がなければならなかった。「こうしてみると, 誤差から変異へ対象を変換することによって成立したゴールトンの統計学は, 転換をへることにより, 統計理論の科学における方法としての役割をも変容させていったと考えられる。科学において扱うデータは常に実体がともなっているものであり, またそうである限り, ・・・データの誤差ではなく変異を問題にしなければならない。留意すべきことは, データの精度を分析する問題とデータから現象を分析する問題は, 区別しなければならないということである。ゴールトンは, 後者の意味で変異の問題を理解しようとした。しかもそこには, 極めて強固な優生学的イデオロギーが内在しているのであって, ガウス理論のように数学理論から導き出されたものとは, およそ性格が異なっていた。ゴールトンの統計学は, 良くも悪しくも優生学の賜物であったというわけである」(p.222)。

 非スペンサー的ダーウィニスト(集団外的社会進化論)であったピアソンの統計学は, 優生思想という大枠のなかで, ゴールトンのそれを継ぎながら, しかし異なる側面をもっていた。ピアソンはまず強い国家社会主義思想の持ち主であり, 彼の優生学や統計学への関心もこの思想によって支えられていた。ピアソンの資質としてはまた, 数学に秀でていた。ために, ピアソンは, ゴールトンの優生学的統計学を正当化する最良の後継者としての役割を担った。したがって今日, ピアソン統計学を振り返るさいに, 重要なのはピアソンが数学者として統計学を研究したのではなく, あくまでも優生学的遺伝学を目的として統計学研究に着手したことである。言い換えれば, 「ピアソン統計学は, 国家社会主義という政治的なイデオロギーに支えられた優生学なしには成立しえなかったという意味で, まさしくイデオロギーの産物であった」(p.226)。
 この点を理解すると, ピアソン統計学の二重の性格が浮き彫りになる。一つは, ピアソンの統計学, とりわけ初期の多元回帰や積率相関の理論がゴールトンの統計学の特質(変異の統計分析)を受け継いだ点である。もう一つは, ピアソン統計学が, 生物統計学から「数学」のそれへと変容していく要因を準備した点である。

 筆者はさらにピアソン統計学の特徴として見過ごすことのできない特徴として, それが経験批判論という独自の科学哲学を土台としていたことを指摘している。ピアソンにあっては, 科学あるいは科学的法則とは方法によって生み出されるものであり, 同時に方法が現象を要約, 記述する。彼のいう事実はデータであり, 統計学はデータの要約, 分類によって事実となる。科学の名に値するものは, データにもとづいて, そこに認められる変動を要約し, 数式によって記述されたものだけである。

 以上の議論をふまえて, この論稿の後半では, 数理統計学における記述と推測の問題が考察されている。この問題を考える題材として, χ^2適合度検定をめぐるピアソンとフィッシャーの論争がとりあげられている。現象の要約, 記述こそが科学の目的であると考えたピアソンは, 獲得されたデータを要約, 分類(等級化)し, その経験的分布をいかに類型化するかを重要な課題とした。経験的分布が理論的分布に適合しているかどうか, 両者の乖離がランダムな誤差によるものか, すなわち等級化が達成されたか否かの判定がなされなければならない。ピアソンはそれをχ^2適合度検定にもとめた。フィッシャーは, このピアソンのχ^2適合度検定を3点にわたって問題とした。第一は自由度概念の明確化とその計算方法。第二は期待値の推定法。第三は統計的検定論の方法論的意味。紙幅の関係で, 3つの論点に関わる詳細は, 本稿に直接あたってもらうほかはない。

ポイントだけをあげれば, 次の3点である。第一にフィッシャーが批判したのは, ピアソンの母集団と標本の関係に対する不明瞭さであった。このことが, 数理統計学が「数学」の統計学に変質していく過程での決定的契機となった。第二にピアソンの検定は適合度検定の延長上での等級化の検定(現象の要約, 記述が成功したか否かの検定)であったのに対し, フィッシャーの検定論は帰無仮説の有意性の検定(有意な差を積極的の確認)であり, 変異の統計的方法という点でより徹底した論理が貫かれた方法をとった。第三に, ピアソンが関心をもっていたのは母集団の記述, 要約であり, 統計的検定の目的がそこにあり, ストカスティークな方法も広い意味での現象記述の方法の一つとしたが, フィッシャーは, 母集団と標本との関係, すなわち統計的推測の定式化に関心をよせ, 理論統計学の確立にこだわった(統計的方法の目的が母集団の記述であることまでは共通認識としてあったものの)。

 最後に, 筆者はゴールトン, ピアソン, フィッシャーの統計学を検討した結果としての論点整理をおこなっている。すなわちイギリス数理統計学の本質は, 優生学的イデオロギーを内包した生物統計学だったこと, 当初からストカスティークな方法論を問題としたこと, フィッシャーの統計的推測は数理統計学の目的が母集団の記述よりも母集団と標本との確率的関係に傾斜させていく要因をもっていたこと(ピアソンも科学の統一に方法をもとめる自己の科学哲学に, 生物統計学を「数学」のそれに変容させていく要因をもっていた), 以上である。筆者は書いている, 「かくしてピアソンからフィッシャーへとイギリス数理統計学が生成・展開してゆく過程で, 徐々にではあるが『数学』の統計学, すなわち現代の統計学へと変容してゆく準備がなされてゆく。そこに数理統計学における『近代』を見出すことができるというのが」(p.243)この稿の主たる論点であった, と。

木村和範「イギリスにおける任意抽出標本理論の形成-A.L.ボーレーの1912年レディング調査を中心に-」長屋政勝・金子治平・上藤一郎編『統計と統計理論の社会形成』北海道大学図書刊行会, 1999年。

2016-10-17 20:20:44 | 4-3.統計学史(英米派)
木村和範「イギリスにおける任意抽出標本理論の形成-A.L.ボーレーの1912年レディング調査を中心に-」長屋政勝・金子治平・上藤一郎編『統計と統計理論の社会形成』北海道大学図書刊行会, 1999年。(後に『標本調査法の生成と展開』[北海道大学図書刊行会,2001年]の4章「ボーレーの市労働者調査」)

任意抽出標本理論の理論と実践で先駆的業績をあげたA.L.ボーレーを紹介した論文。ボーレー(1869-1957)は, 統計学の広い分野で研究業績を残した統計学者として知られる。そのボーレーは, 1912年に, イギリスのレディング市で労働者の貧困調査を実施した。この調査は, 今日, 一般的に実施されている任意抽出調査の嚆矢となる調査であった。

 19-20世紀の変わり目の時期, 資本主義の発展はイギリスで, 深刻な労働者の貧困問題を生み出していたが, その事実に危機感をもった研究者は貧困の実態調査に取り組みはじめた。筆者は, ボーレー調査の意義を浮き彫りにするために, それらのなかからブース, ローントリーの調査を紹介している。それによると, ブースは1887年にロンドン・バラのタワー・ハムレッツ地域で最初の貧困調査を行った。この調査によって, ブースはこの地域に30%に及ぶ貧民が存在していること, この貧困が社会組織の欠陥によることを確信した(ブースは, 社会民主連盟総裁であったハインドマンがロンドンの労働者居住地区を調査し, 25%の労働者が貧困状態にあると述べたことに疑いをもって, 独自調査を実施したようである)。ブースは自身の貧困調査の結果がロンドンに限定されるとの認識をもっていたようであるが, それが地方にも広がっていることを明らかにしたのはローントリーである。ローントリーは1899年に, ヨーク市で貧困調査を実施し(全数調査), その事実を明らかにした。ローントリーは貧困の内容を2区分し(肉体的効率を維持するのに必要な経費の基準を満たす収入がない「第一次貧困」と, 収入の一部が肉体的効率の維持とは別の用途に費消されてこの基準を満たせない「第二次貧困」), 労働者人口の43.4%がこれらの二種類の貧困の状態にあると結論づけた。

 ボーレーの1912年のレディング調査は, 労働者の貧困が全国的に広がっている事態を調査する一環として行われたものであったが, その方法は今日でいうところの任意抽出調査であった。任意抽出調査が採用されたのは, 調査の費用軽減と集計時間の短縮が, その目的にあったからであった。筆者はこの調査がどのようなものであったかを, 調査対象の抽出(名簿からの系統抽出), 調査票, 調査項目, 調査結果を示し, 詳しく説明している。ボーレー自身はこの調査の意義として, 第一に一地方地域(レディング)の調査研究とローントリーのそれとを比較対照することができるようになったこと, 第二に全国的規模で調査対象都市を拡大していく可能性を切り開いたことをあげている。実際にボーレーはその後, バーネットーハーストと協力して, レディング調査の方法をそのまま, ノーザンプトン, ウォリントン, スタンレーなどに拡大し, 調査領域を広げていった。また, ボーレーの調査方法は, 他の研究者によっても意義をみとめられ, 注目されるようになり, その後の社会調査の「パイロット・サーベイ」として位置づけられた。

 ボーレーによる任意抽出調査の実践には, 理論的背景がある。筆者はそれを1906年の「イギリス科学振興協会経済科学・統計部会」の部会長就任記念講演から読み取っている。ボーレーの主張は, 次のようにまとめられている。経済学と結びついた統計科学は厳密科学である。この統計学には, 「算術的統計学(データを蓄積する科学)」と「数理統計学(データを解析する科学)」がある。両者は相互補完的である。しかし, 統計をめぐる現状は改善されず, 不十分である。そうなっているのは, 統計が必然的に近似的であること, 統計学では可能な誤差の限界を推定しなければならないこと, いわゆる数学的な正確さという誤った見せかけが棄てられるべきであることについて, 認識の不足があるからである。この状況を打破するには数理統計学の知識をもった統計担当官が必要である。さらに, この延長で, 任意抽出標本理論の可能性と有効性を主張した。

 任意抽出標本理論には, ボーレーによれば, 2つの方法があり, 一つは観測値からその度数分布曲線を確定するK.ピアソンの方法であり, もう一つは一般化された大数法則を援用するエッジワースの方法である。ボーレー自身が採用したのは後者であった。

芝村良「R.A.フィッシャーの実験計画法と農事試験について」『統計学』(経済統計学会)第76号, 1999年3月, (『R.A.

2016-10-17 20:19:36 | 4-3.統計学史(英米派)
芝村良「R.A.フィッシャーの実験計画法と農事試験について」『統計学』(経済統計学会)第76号, 1999年3月, (『R.A.

フィッシャーの統計理論-推測統計学の形成とその社会的背景:フィッシャーの実験計画法(第1章)』九州大学出版会, 2004年)

 R.A.フィッシャーは20世紀最大の数理統計学者といわれながら, 彼の学説史的側面からの研究は十分でなかったとの認識にたって, 本稿で筆者は フィッシャーの統計理論の生成と展開を,当時の社会的背景を念頭に,その実践的利用の動機と結び付けて考察している。ここでは, フィッシャーが農事試験のデータ解析にとりくむなかで確立した実験計画法の成立過程について述べられ, 彼の統計理論研究と実験計画法およびその対象である農事試験との関連が丁寧に記されている。
叙述の順序は, 「農事試験と統計的方法」「実験計画法の成立過程とフィッシャーの統計理論(分散分析法と農事試験)

(フィッシャーの問題意識と実験計画法)(実験計画法とフィッシャーの統計理論)」である。
全体を要約すると,次のとおりである。最初に農事試験という統計的方法の適用対象がどのようなものかを明らかにするために, フィッシャー以前の農事試験の歴史的経緯が解説されている。ここでは, 農事試験に関わる諸問題に対する対処が, 2つの時期(農法の比較, 検討のために農事試験が行われた1730-1830年代と化学肥料および品種の比較, 検討のために農事試験が行われた1840-1910年代)に区分して紹介されている。その結果, 農事試験が比較を目的に行われたこと, 種々の要因が試験結果に影響したこと, そのために実験の繰り返しによって結果が判定されなければならないこと, が確認されている。農事試験の目的が農法の比較から化学肥料と品種の比較に重点が移るにしたがい, 測定値に高い精度が要求されるようになり, 統計的方法のこの領域への導入, 適用が決定的になる。

 筆者は次いで, フィッシャーが農事試験のデータに分散分析法をした経過を追跡している。農事試験では, 一般に, 測定値の変動に種々の要因が不確実性をもって, 収穫量の大きさにからんでくることは避けられない。この要因ごとの変動を分離するには, 分散分析法を適用するのが適当である。分散分析法を使えば, 収穫量の差が統計的に有意か否かを判定できる。また, 自由度概念を導入した分散分析法では, 精密標本分布を援用することで, 標本の大小にかかわらず, 正確な誤差推定が可能である。これによって, 有意性検定による判定結果の妥当性が保証される。フィッシャー統計理論の意義は, この点にある。

 フィッシャーが上記の統計理論を確立するにいたったのは, 従来型の農事試験(実験計画法)に対する次のような問題意識があったからである。一つは誤差を正確に推定することが重要であること(従来型の農事試験の方法ではそれを減らすべきと考えられていた), もう一つは実験結果の判定を有意性検定という統計的方法で行うべきとしたこと(従来は実験家の経験的感覚にたよっていた)である。誤差を正確に推定するには, 従来の試験の方法が改められなければならない。フィッシャーはそこで, 3原則(局地管理, 確率化, 繰り返し)を組み込んだ実験計画法を考案した。

 フィッシャーの統計理論の意義は, 精力的に精密標本分布の導出および整理に取り組み, 同時にそれまでの統計的推測に関する理論的問題点を整理し, 再構成し, 標本の大きさにかかわらない正確な統計的推測を可能にする方法を確立したことにある。

 フィッシャーの実験計画法, 分散分析法および有意性検定法が農事試験の特性と深くかかわっていること, 実証的な推論にともなう不確実性の度合いの定量化によって帰納的推論の厳密性を保証するフィッシャー的な統計的推測と誤差の正確な測定を可能にするデータ獲得の方法論である実験計画法とが密接不可分な関係にあること, したがってフィッシャー理論の基本性格を語る場合には, 実験計画法との関係の検討がさけられないこと, これらがこの論文での筆者の結論である。

多尾清子「ナイチンゲールと統計学-ファーとケトレーとの交流から-」『統計学』(経済統計学会)第64号, 1993年3月

2016-10-17 20:17:57 | 4-3.統計学史(英米派)
多尾清子「ナイチンゲールと統計学-ファーとケトレーとの交流から-」『統計学』(経済統計学会)第64号, 1993年3月

ナイチンゲールは, クリミア戦争に従軍し, 看護活動にあたったことでしられている。そのナイチンゲールは, 統計学にも深い理解をもち, 当時の医療統計の杜撰さを指摘したばかりでなく, 積極的に医療統計の改善に寄与した。これに関連した膨大な資料がロンドンの大英図書館にあり, 筆者は実際にそれらにあたって, ナイチンゲールの統計活動に対する認識を深めた。本稿は, ナイチンゲールの統計学を, 同時代を生きたふたりの偉大な統計学者ファーとケトレーとの交流に焦点をしぼって, 紹介した論文である。

 裕福な教育環境のよい家庭に育ったナイチンゲールは, 若いころから数学などに関心をもっていたようである。向学心の強い女性だった。

 彼女の統計学の分野での業績は(統計利用としてのそれだが), クリミア戦争に従軍したおり, 陸軍病院の実情を統計で明らかにし, 英国陸軍の衛生改革, ひいては民間の病院管理および疾病や死亡統計の改善に結実させたことである。また, 植民地の原住民や植民地学校と病院に関する統計資料の収集とその分析で貢献した。他にも, インド駐留英国陸軍のためにも, インド国民全体の衛生改革が必要と考え, 多大な尽力を行なった。
筆者はそのナイチンゲールが統計分野で協力関係にあったファーとケトレーとの交流を浮き彫りにしている。

 ファーはイギリスの公衆衛生の業務にたずさわり, ロンドン統計学会や科学振興会の会員であり, 当時の利用できる数少ない統計資料を収集し, それも一般利用に先立って提供できる立場にあった。そのファーはナイチンゲールの統計関係の仕事に協力し, 支援した。ナイチンゲールにとってファーはかけがえのない統計学の信頼できる先達であった。

 ナイチンゲールがケトレーに出会ったのは, 1860年の第4回国際統計会議であった。ここでの出会いを契機に交流が始まり, 著作を相互に献本したようである。ナイチンゲールは, ケトレーの『社会物理学』を読み, 書き込みをして勉強した。その本は, 上記の大英図書館に収められているとのことである。

 筆者はナイチンゲールの業績の一部として, 大英図書館でスライドにしてもちかえったナイチンゲール作成の図を紹介している。「東方の陸軍病院における英国兵士の死亡率」「スクタリにおける病院患者の死亡率」「東方駐留陸軍の死亡率グラフ」である。

 ナイチンゲールの統計観, 科学観は, 「当時統計学を基礎にすえて社会学の新しい領域を研究開発したケトレーのそれに触発されたものであり, その基本とする考え方は, 個人の集合体である社会が恣意的思念や行動による偶然性の混淆の渦をなしているにもかかわらず, 全体として一定の期間を通じてみるとき, はからずも偶然性が消失して一定の規則性を示すことが, 大数に基づく統計的事実によって実証され得ることから, それらの原因の把握を通じて社会の改革が可能とした」というものであった(p.7)。彼女はその規則性を神の意思(法則)とみた。

筆者には, この論文とは別に『統計学者としてのナイチンゲール』医学書院(1991年)がある。そこには, 従軍看護婦として著名なナイチンゲールが統計学の分野でいかに大きな業績を残したかが詳しく解説されている。