社会統計学の伝統とその継承

社会統計学の論文の要約を掲載します。

「伊藤陽一教授 退職記念座談会-研究遍歴と動機・結論を中心に-」2009年

2016-10-02 12:25:36 | 13.対談・鼎談
「伊藤陽一教授 退職記念座談会-研究遍歴と動機・結論を中心に-」『経済志林』(法政大学)第76巻第4号,2009年

退職を機に,伊藤陽一にその研究歴を聞くことを目的に,森博美(法政大学)が司会をし,山口秋義(九州国際大学),杉橋やよい(金沢大学),水野谷武志(北海学園大学)の教え子が同席した座談会。伊藤の精力的で広範な視野に改めて驚かされる(末尾に研究業績の一覧がある)。このインタビューから窺い知ることができるのは,伊藤統計学の特徴が,蜷川統計学の問題意識に発端をもつこと(ただし,集団論に拘束されていない),確率論の社会経済現象への適用限界をわきまえ,数理統計学的手法の適用で自己完結する統計学に対しては理論的にも実践的にも批判的であること,現実の統計の分析方法を実際の経済分析を進めるなかで磨くべきという哲学をもっていること,国際的視野にたった議論をしなければ統計学が閉塞するという信念があること(豊かな国際経験に基づく信念),である。

話題は,①学生時代の統計学との出会い,②土曜研究会と哲学との接触(院生時代),③大学院での中心的研究(サンプリング論・確率基礎論・階級構成表),④北海学園大学時代(経営統計への関心),⑤学会活動,⑥統計指標研究会への参加と『統計日本経済分析』,⑦自治体での統計作成への参画,⑧アメリカ留学,⑨ジェンダー統計での目覚めとその後,⑩統計品質論,⑪日本統計研究所での研究と運営,⑫学部・大学院での教育。

 伊藤は1938年,札幌生まれ。1957年北海道大学文類入学後,経済学部に移行し,経済学部で一番強烈な印象を受けた内海庫一郎のゼミナールに所属した。当初,特に統計学に関心があったわけではなく,社会問題に目が向いていた。指導教授内海のユニークな(今からみれば)授業,ゼミの様子,思い出話が語られる。大学院経済学研究科に入り,内海からサンプリング論のテーマを与えられる。研究の刺激になったのが土曜研究会(通称土研)。教員,院生が土曜の午後に研究会(定例)をもったので,そう呼ばれた。また俗称「大学村」で月に一度開かれていた「ヘーゲル研究会」に加わり(内海を中心に哲学,自然科学の教員の研究会),ヘーゲルの『論理学』などを読んだ。

 指導教授の内海は,数理統計学をしっかりやらなければならないということで一貫していた。確率論の歴史を丁寧に調べ,現実の調査での標本調査の適用が定着するなかで,この理論の技術論的解釈が受け入れられるとともに,戦後の標本調査論争が下火になった頃であった。その後,確率がどのような「場」で成立するかについて,検討した(確率基礎論)。法政大学に着任してから一時,階級構成論に取り組んだが,現在は棚上げ状態である。
ここで同席の山口が階級構成研究の方法の有効性を問い,伊藤が現在の問題意識でそれに応えている。階級構成表の計算方式と現実の階級・階層の動向との間にあるはずの媒介要因が何かを示さなくてはいけないこと,今の時代から過去の階級構成論を振り返るとき,その当時の社会全体の動きから切り離して批判する議論もあるが納得できない,という見解が印象的である。1980年代半ばにマジソン大学留学のおりには,階級論関係の書物を相当集め,ノートの形にしてあるが,未公表である。

 北海学園大学では経営統計学を担当した。蜷川虎三には会計学の業績があり,また2年先輩の田中章義の誘いもあって経営学に興味があった。1970年代には,北海道電力,新日本製鉄,北海道拓殖銀行などの経営分析を行った。1980年には『経営統計学』(北海道大学図書館刊行会)を共著で出版した。伊藤はこれらの一連の研究を経て,経営統計論における統計利用が現実の経営・企業分析に,また統計学・経済統計学での統計利用が日本の社会や経済の実際の分析に到着点を定め,そのなかで方法を磨き,実質分析の成果を見せるべきとの見解を表明している。

 伊藤は経済統計学会・第2世代の中心メンバーであった。博士課程1年目で,経済統計研究会第7回大会での「初陣」報告(「統計論争(標本調査法)について」),第8回大会での大屋報告に対する印象,学会全体の構成(バランス),『統計学』記念号(1976年)での「統計学の学問的性格」の執筆および『統計学』(法政大学通信課程のテキスト)発刊の頃のスタンス,社会科学方法論説に対する違和感,大屋理論を受容した契機(「プライバシーを守り,国民総背番号制に反対する国民会議」でのパネリストの経験)などが話題になり,思い出が語られる。伊藤はこの中で,制度説擁護の姿勢とその下地の形成に触れているが,指導教授の内海庫一郎からは一切異論やコメントがなかった。是永純弘は伊藤説を「内敵」(マイヤーが数理派のリューメリンをドイツ社会統計学の「内敵」と評したことになぞらえて)と指摘した経緯を強調している。他に伊藤は代表幹事になったおりに,国際学会参加の経験をふまえ学会としての組織改革を図った。馴れ合い,運営の不透明性,学会としての研究と活動のスケールの小ささからの脱却を意図したものであった。

 話題はこの後,統計指標研究会,アメリカ留学に移る。統計指標研究会の活動は,『統計日本経済分析(上)(下)』(1977・78年)に結実した。指標研スタートは,伊藤が法政大学に着任した年(1972年)の秋ごろから経済統計学会の関西のメンバーとの研究交流,雑誌『経済』の編集担当者との意見交換などがベースにあり,統計研究を経済分析に拡大していこうという問題意識の下に進められた。一大事業であった。この経験が『統計ガイドブック』につながった。
 伊藤はまた美濃部知事時代の後期に東京都の勤労者生計費指数作成作業に関わった。学会にはその前から自治体の統計活動に関心があり,自治体職員といろいろな形で交流していた経験があった。東京都の生計費指数作成の前には,埼玉県の畑県政の下での社会経済総合調査会のプロジェクトの研究につきあった。埼玉県の住民の社会指標作成がテーマで,そこで因子分析法の検討の機会が与えられた。

 伊藤の留学経験は,1985-86年度(マジソン大学,レーガン政権の2期目)と2003年度(メリーランド大学・カレッジパーク校)の2回のアメリカ留学である。アメリカの統計制度を下敷きに民主的な統計制度の設計に関心があった。問題意識形成の契機は,蜷川統計学(利用者のための統計学)である。情報収集は,国会図書館に収蔵されていた合衆国議会資料,アメリカン・センターの図書室,CISの索引による検索,多摩図書館に入った議会資料のマイクロフィッシュなどである。1976年にアイオワ州立大学に滞在していた内海庫一郎を訪問した折に国連ハマーショルド図書館を皮切りに,D.C.の公文図書館で検討をつけていた。85-86年度の滞在のときには,到着後すぐに公文図書館,BLSやセンサス局に出入りした。帰国後,1990年代前半の統計改革を執筆した。

 伊藤には,ジェンダー統計の分野で先駆的業績がある。ジェンダー統計に関心をもったのはマジソン滞在中,妻(伊藤セツ)からの電話(その内容はアメリカで世帯主という用語はセンサスでどうなっているかを調べて欲しいというもの)が発端である。世帯主という用語は既に合衆国その他の国の国勢調査で使われていないことが分かった。代わりに使用されているのがreference person である。日本ではその後,家計分析を行っていた家政学グループが,この問題を指摘し,総務省にこの問題を進言した。伊藤は,1987年に「統計における性差別」と題する論文を書き,問題提起を行った。
ジェンダー統計は伊藤が研究を手掛けた重要な分野なので,このインタヴューではかなり時間を割いて経緯の解説,見解の表明がなされている。1993年のフィレンツェISIでの「ジェンダー統計セッション」に参加し,海外の研究者とのコンタクトがとれた。この時に交流した研究者とは以後,北京女性会議で一緒になり,国連統計部,スウェーデン統計局,フィンランド統計局にでかけて長い付き合いをしている。

 この頃,並行して統計研究所の労働統計の国際比較に関するプロジェクトが進行していた。成果を書籍にして評価を得たが,ジェンダー視角が弱かったとの反省にたち,同じく研究所のプロジェクトとの成果物として『女性と統計』(1994年)を出版した。
格差や貧困問題にジェンダー統計がどのように貢献すべきか,という杉橋の質問に対して,伊藤は貧困問題の統計による分析では基礎的統計自体が不十分であり,とくに貧困のしわ寄せを最も受けているのが女性であることをデータで明らかにすることが必要である,貧困ラインの研究がその妥当性を含めて継続して重要である,ジニ係数のような単一の統計尺度での分析では限界がある,賃金の性別格差分析に数理的手法を多用する研究があるが,これにも不満がある,格差や差別の確認だけでなく,それらがどういう関係で生じているかの統計的分析が必要,と述べている。また杉橋によるもうひとつの質問,すなわちジェンダー統計研究者に対する課題と期待,また世界のジェンダー活動に日本の研究者がどの程度貢献し,協力すべきかという問いに,伊藤は第一に国連統計部を中心としたジェンダー統計の再活性化の動きに連携すること,とくにESCAP地域のジェンダー統計の発展に貢献していくこと,第二に研究分野での理論的蓄積があるので,それを基礎に日本国内の中央・地方政府での男女共同参画視角の導入,そしてそれらを支援する体制の強化を挙げている。

 伊藤のまた別の仕事として統計品質論がある。この分野に関心をもつにいたった土壌として,やはり蜷川統計学がある。結果として公表される統計,計算加工されて発表される統計が使いものになるかどうかを抜き統計学を論じることはできない。蜷川はこの問題を統計の真実性(信頼性,正確性)としてまとめたが,いまだにこの問題を蜷川段階で完結させている人がいる。学会の全国総会でこの問題をとりあげて報告したが,いまひとつ滲透していない。
伊藤は国際会議で統計品質論に接したのは,1998年のIAOSのセッション(アリスカリエンテス開催)であったと回顧している。EUROSTATでも資料をもらって,翻訳し,『統計研究参考資料集』No.61(1999年12月)で発表した。センサス局やIMFは,1990年代後半に,この問題をとりあげるようになった。2000年に入ると,ESSがピッチを速め,連続的に独自の品質会議を開催している。ここにカナダ,合衆国,オーストラリアからの参加があり,「統計品質に関する統計国際会議」といった様相を呈している。

 この後,話題は法政大学・日本統計研究所の現状と課題,学部・大学院での教育に移り,まとめに入る。研究所の由来,伊藤が関わっていたころのテーマ(ミクロ統計,労働統計の国際比較,ジェンダー統計,アジアの統計)が語られている。また伊藤はロシアの統計との関わりで統計制度のあり方(分散型か集中型か)について,私見を展開している。それによると,統計の品質論その他で国際的に目立つ国は集中型をとっている。しかし,これまで分散型で来て,統計活動が大規模化した合衆国や日本で,集中型への移行が現実的かというと,必ずしもそうは言えない。伊藤は,分散型を前提とし,ICTやデータベースなどの成果を利用し,統計活動の部分的統合と言った中間的形態をめざすのが現実的との中間的結論を述べている。
 最後に中堅・若手研究者への次のメッセージを司会の森にもとめられ,伊藤がこれに応えてインタビューは終わっている。「・・・国際レベルでの活動を射程に入れないのでは,国内的な研究・活動もスケールが小さくなること,とにかく社会の現実問題に迫ること,統計手法をこなすことは大切だが,手法が自己目的になって,その手法を適用した結果の実質的な意味や政策との連携が不明な研究が垂れ流されているように見える。・・・一方で,認識論,学説史,統計史などの基礎的研究を研究の分業関係の中で認め合うこと,蜷川やその周囲以降の日本の社会統計学には,今日の国際的・国内的研究課題に応える理論的枠組みその他が用意されている点を再認識・再確認する必要がある・・・。」(pp.547-48)

「対談:有澤廣巳+森田優三(聞き手 中村隆英・三潴信邦)」日本統計学会編『日本の統計学50年』東京大学出版会,1983年4月

2016-10-01 22:23:55 | 13.対談・鼎談
「対談:有澤廣巳+森田優三(聞き手 中村隆英・三潴信邦)」日本統計学会編『日本の統計学50年』東京大学出版会,1983年4月

 日本統計学会創立50周年記念事業の一環として企画された対談集(創立は1931年)。その狙いは,歴史の証言を残しておくこであった。本書には,有澤廣巳,森田優三の対談の他に,寺尾琢磨と宗藤圭三,佐藤良一郎と林知己夫の対談が収録されている。有澤廣巳と森田優三の対談をここでとりあげたのは,二人が社会経済統計学者だからであり,聞き手のひとりが三潴信邦だからである。そして,4人とも,この「社会統計学・論文ARCHIVES」にその論稿の要約が載っている。この点も念頭にあった。

 この種の対談が面白いのは,一定のテーマが枠としてあっても自由闊達な話が展開されるからである。論文では出にくい人間的な個性が伺えることもある。表だたない隠れたエピソードも語られる。そうは言っても,生の話で,当人がしゃべっているからといって鵜呑みにしてはならない。記憶違いや話に尾ひれには,注意しなければならない。対談は,「統計学を学びはじめたころ」「留学の思い出」「統計学の先学と同僚」「日本統計学会の創立」「統計委員会と統計法」「国勢調査と戦後の統計行政」「現代の統計の問題点」の順で進む。

 「統計学を学びはじめたころ」。有澤は糸井靖之助教授の統計の演習に出て統計に興味をもった,と言っている。田中信吾『米価の研究を』読んで勇躍し,報告書を書いて自信をつけたと,回顧している。糸井はその後,フランスそしてドイツに留学したが,東京駅に見送りに行ったおり,糸井がチチェクの平均論の英語の本を記念にくれたという。その糸井は若くして亡くなったので,そのとき糸井の後継者として白羽の矢がたったのが有澤だった。有澤はそれを契機に数学を勉強し始めたらしい。偉い数学者である高木貞治に教えを乞うた,と語っている。

 森田の経歴はだいぶ異なる。中学を出て,神戸の高等商業に入り,一橋に転入。学生のときに藤本幸太郎の統計の講義を聞き,試験勉強のときに図書館で統計の原書を2,3冊引きずり出して読み始め,平均の概念に興味を覚えた。卒業の時に,どこかの学校で先生の口がないかと藤本に相談に行くと,横浜高等商業を紹介してくれ,就職した。ここでは,統計学と銀行論を教えた。学生時代は抽象論的な方法論的なことに関心があり,ボーレーやユールを読み,卒論は論理的なドイツの統計学に関するものだった,と語っている。この辺の話で森田はチュプロフ,カウフマン,フォルヒャー,リューメリンなどの統計学者の名をあげている。

 「留学の思い出」。ここでは有澤と森田がベルリンでの留学経験が語られている。有澤は1926年から28年の半ばまでドイツに留学した。ベルリンのブランデンブルク大学で聴講生となったが,授業は半分もわからないので,学生の一団と知り合いになり勉強会に参加した。週一度程度の勉強会は,ドイツの経済情勢に関して議論する会であった。高野岩三郎があとから来て,一緒に約半年,ミュンヘン生活をしたが,すぐにベルリンの景気研究所(ワーゲマン)に戻った。高野岩三郎にはジュースミルヒの『神の秩序』の初版本探しを依頼された。古本屋「ストライザンド」の親父がこれを見つけだしてくれた。研究所では東亜の事情の資料をまとめる仕事をさせられた。統計の本では,カウフマン,チチェク,マイヤーを読んだ。マイヤーには一度会った。

 森田は有沢の渡欧10年後にベルリンへ。ナチスの全盛期だった。ナチスが制圧していたベルリン大学で聴講した。その後,ウィーン(ウィーン大学付属少数民族研究所)に行ってウィンクラーに会い,教えを乞うた。ウィンクラーはかなりの統計の文献を収集していた。そこの一室を借りて半年ほど,講義には出ず,勉強した。高野岩三郎のお供をして。第24回ISI(国際統計会議)に出席した。ヒトラーがズデーデンを荒らしまわっていた頃で,アメリカ,イギリスから来ていた研究者は引き上げてしまい,学会も中途で終わってしまったとか。森田はこの研究所で『関数論的物価指数』『人口増加の分析』などをまとめた。

 「統計学の先学と同僚」。ここではまず財部静治のことが語られている。森田は学生の時分には財部静治『ケトレーの研究』,高野岩三郎『社会統計論綱』に感激したと言っている。財部,高野,藤本が,有澤,森田の若いころ,統計学の先達とみなされていたようだ。森田は,他に杉亨二の高弟で,統計学社という団体の社長になった横山雅男のもとで手伝いをしていた。森田はさらに,高田保馬の『大数法則論』の名前をあげている。

中村隆英が蜷川虎三のことを有澤に投げかけると,有澤は話し始める。有澤がベルリンにいた頃,後から来たという。そこから蜷川の集団論や,蜷川が財部の弟子だったので,財部と対立していた汐見三郎に排撃されたこと,水谷長三郎に引っ張られて中小企業長官になったこと,などがひとしきり語られている。さらにこの場で名前が出たのは,郡菊之助,柴田銀次郎,岡崎文規,佐藤良一郎,中山伊知郎,中川友長である。いずれも統計学畑の重鎮である。

「日本統計学会の創立」。森田は,日本統計学会を作ろうと言いだしたのは水谷一雄だ,と言う。水谷は第19回ISIに出席した蜷川,岡崎,中川,郡,有澤に反発して若い力を結集して,圧力団体(?)を作ろうとした。水谷は中川伊知郎,森田に働きかけて学会創立のために動いたようだ。ここから話は,脱線しつつ,中川のことになる。結局,中川と森田が,有澤をかつぎだして,日本統計学会を創立し,京都で第一回の総会を行った。有澤は,高野の弟子である大内兵衛に会長をゆずり,第二回の総会を東京大学で開催した。
「統計委員会と統計法」。戦後,「復興は統計から」という空気があり,森田が統計局におさまり,各省に統計局ができた。そして統計委員会がつくられた。統計委員会は,最初,美濃部亮吉が事務局長,正木千冬が次長,彼は統計局次長でもあり森田を援けた。厚生省は,統計関係の大きな動きの渦中にあったようだ。

 統計委員会は,統計制度を改善する委員会である。委員長は大内兵衛だった。山中四郎あたりが舞台裏になり,「改善に関する委員会」で答申を作成し,それを時の首相吉田茂にもっていったというのが委員会設立にいたる事情であった。日本側で独自に作成した案がGHQにすんなり承認された稀有なケースである。GHQに都留重人,高橋正雄がいたことが大きかったようである。この話との関係でライスの人柄などが語れている。そして話は統計法に移り,この法律の矛盾した内容などの指摘がある。指定統計で国勢調査だけがこの法律の条文にあることなど(大内兵衛のツルの一声で決まったという逸話もある)。

 「国勢調査と戦後の統計行政」。国勢調査は,戦後森田が統計局長のときに実施された。この名称は,当初からのもので,ある意味で奇妙だが(内容は人口調査),完全なセンサスを行いたいという統計マンの悲願が込められているようでもある。上述の統計委員会は,設立当初はかなり実質的な議論をしたが,次第に各省の統計活動を調整する役割をになった。当時の問題のなかで最大のものは,農林省の作報(作物報告統計)であった。有澤はここで農林省の抵抗が非常に強かったことを述懐している。この話の延長で,統計委員会(行政機関)が統計審議会に変わる経緯に関する議論になるが,話はあまり盛り上がらない。いわゆる中央集権的分散型の日本の統計制度が問題にされ,現場での調整の困難が議論されている。川島孝彦は中央統計局構想をとなえたことがあったが,ボツになった。こうした構想は,国が小さい場合にはうまくいくことがあるが(オランダなど),日本の統計は行政と強く結びついているので採用しにくい。

 「現代の統計の問題点」。最後に三潴が両人に,現在の統計の問題点のひとつとして,経済統計をSNAに収斂させていく傾向をどう思うかを質問している。この議論に関しては,二人はおおむね否定的に回答している。聞き手の中村,三潴が元気に発言している。国連主導で,諸統計の整合性にウェイトをおくというやり方が強引であるというわけである。SNAに重きをおおく統計体系の整備は,基本的には間違っていないが,それで何かを判断しようとしたらダメだというところに結論がおちついている。もうひとつここでは統計に対する役人の理解がおそまつであると,有澤が嘆いている。また,人事異動が多く,統計のエキスパートが育たないという問題提起もされている。

 他に,統計学者が官庁の統計に使い方に問題提起すべき,統計専門家と研究者が共同の研究会をもつべき,などの忠言が示され,対談は終わっている。森田の「昔の統計委員会時代では,・・・統計委員会が音頭を取って,統一的な考え方で案を立てて,それを実際直接関係のある各省におろしてやるという考え方があったんですけれも,なtかなかできない・・・。まして統計委員会なしに,いまの統計主幹というああいう小さな機関になったら,どうもいうことを聞いてくれない」という発言が耳に残った。

「大橋隆憲」(聞き手:野村良樹,浦田昌計,𠮷田忠,奈倉道隆,五十嵐光男,川口清史,野澤正徳,泉弘志,木下滋)『日本における統計学の発展(第51巻)』(1982年9月23日,於:大橋宅)

2016-10-01 22:21:19 | 13.対談・鼎談
「大橋隆憲」(聞き手:野村良樹,浦田昌計,𠮷田忠,奈倉道隆,五十嵐光男,川口清史,野澤正徳,泉弘志,木下滋)『日本における統計学の発展(第51巻)』(1982年9月23日,於:大橋宅)

 浦田昌計が質問の口火を切り,大橋が戦前,戦後をどのように過ごしてきたのかを尋ねている。この時期は大橋が東京大学文学部で宗教社会学を学び,その後京大に移って社会科学の,とりわけ統計学の研究の道に入った頃である。
大橋は浦田の質問に対して,次のような回答をしている。自分のこれまでの一生は,反戦運動のそれであった。秋田雨雀(青年劇場)の影響,関東大震災の経験(朝鮮人に対する迫害に対する父親の弁護),急性浦和高校時代の後半に全国農民組合の埼玉県連,戦闘的無神論者同盟の仕事を手伝ったこと,智山専門学校で一年間,それから東大文学部宗教学科で宗教学を学んだこと,矢吹慶輝にチベット語を教わったこと,京都に勉強するつもりで来たのだが特高につけまわされたこと,京大を卒業し経済学部の助手になったが,文部次官に辞表を書かされたので知恩院の華頂高等女学校に勤めたこと,再び東京に戻って協調会にいったん入り,それから日本鋼管に入社し会計科で銭勘定をしているうちに戦後になった,ことなど。戦後は日本鋼管本社の労働組合委員長,東京工大(大岡山)の統計学担当で3年,それから京大に帰ってきた,と大橋は淡々と述懐している。反戦運動の歴史を纏めたいと結んでいる。

 浦田が宗教社会学との関わりを再度,質問すると,大橋は宗教学といっても宗教哲学,宗教社会史が具体的内容で,ヘーゲル,フォイエルバッハ,マルクスにつながる宗教批判に関心があったこと,そして大学院生時代に曹洞宗の寺院経済調査にも関わった経験を補足している。京大に来たのは河上肇の流れにある環境のなかでマルクス主義の基本をしっかり学びたいということがあった。蜷川統計学を勉強したいということもあった。マイヤーの研究に入ったのは蜷川の示唆による。終戦後は上記のような過ごし方をしていたが,国民経済研究会との接触がありサンプリングの研究会にも参加していた。サンプリング理論が大流行だった。「飢餓線上の生活実態」(『国民経済』昭和23年11月号)を書いたりした。大橋の統計学の最初のゼミでは,教員調査(抽出調査による労働時間調査で,労働経済研究所のプロジェクト)に関わった。科研費で豊崎稔をキャップに広畑,八幡の鉄鋼調査(職場別,職種別)も実施した。

 第二部。続いて話題は,大橋の統計学研究の体系化の方向に向かう。聞き手の中心は,吉田忠に代わる。吉田は,『8000万人』に大橋が書いたサンプリング批判の論文,『日本の統計学』(1965年)での数理統計学批判,数理的形式主義批判を例にあげ,さらにマイヤー研究の延長線上にある『現代統計思想論』(1961年),『経済学部40周年記念経済学論集』に書いた「社会階級構成表の意義と限界」の論文(1959年)を紹介し,大橋の回想を引き出している。このあたりのインタビューは,吉田の整理が細かく行き届き,大橋が相槌をうつというようになっている。

『8000万人』の「近代統計学の社会的性格」は,当事者の大橋によると,民科でサンプリングが唯物弁証法だというものがいたので(北川敏男など),それを批判するために書いたということである。戦後の数理統計学の果たした役割に対する強い憤慨が契機である。

 𠮷田の軽快な舞台回しで,話は大橋著『現代統計思想論』へとつながっていく。この本は,1940年代後半のソ連統計学論争を契機に,従来のドイツ社会統計学の研究を発展させた内容になっている。大橋はここで,方法論的な検討を経済学,経済分析のなかできちんと位置づけて展開することを意図していたようである。マイヤー研究もその観点から,すなわちマイヤーは具体的な実質科学説にたった議論から始めたが,中身は方法論のような気がすると大橋は述べている。こうした点は,内海シューレが統計方法論を科学方法論として純化して議論していく方向とは異なる(野澤)。大橋自身の言葉によれば,大橋と内海の違いの根本は,大橋が「具体的普遍」を考えている点にある。集団論で,集団,集団現象と個体,個別のどちらを第一義と見るかに関しても,大橋と内海では見解が異なったが,大橋は前者とした。大橋はここではその確認を行いつつ,集団の形態に有機体のような全体量が存在し,まとまって初めてそれ自体として意味をもってくる場合があり,そうしたものを考えているようである。関連して,『日本の統計学』での有澤広巳に関する「手の込んだ」記述の仕方,すなわち「ご進講」で王様の首を切った市民軍のメンバーであるグラントの講義をしたことの紹介,アンドレ・マルシャルの来日の話,イギリスの社会調査への関心,ユールとボーレーについて,『日本の統計学』の続編の可能性,その種の統計学者の経歴の書き方など,に話が及んでいる。

 第三部は野澤に質問者のバトンが渡され,大橋の階級構成論(日本の階級構成の実証研究)のテーマに移る。大橋がこの問題を最初に公にしたのは,先に掲げた「社会階級構成表の意義と限界」(『京大経済学部創立40周年記念経済学論集』,1959年)である。これが出発となって,国勢調査を組み替え・加工し階級構成の実態を統計で示す大橋方式が生まれ,岩波新書の『日本の階級構成』(1971年)へと議論が進んでいった。

大橋はその研究の背景に,当時,毛沢東が書いた「中国社会の階級分析」を一方で意識し,他方で自身が1948年に書いた「飢餓線上の生活実態」の具体化があったと証している。国勢調査の組み替えは,ILOの考え方がヒントになった。階級の統計分析の分野での似たような研究には,大内兵衛『日本経済統計集』がある。大橋の研究はそこからさらに進んで,戦後日本の社会諸階層,軍隊(自衛隊)の分析に至る。自衛隊の応募者の前職,退職者の就職先の資料の提供依頼に関わって,ときの防衛庁人事局とやりとりがあったこと,また有価証券報告者(事業所の個票?)を利用して独占資本家層の分析をしたことを紹介している。その後,話は拡大し,国際的階級分析(とくに発展途上国の)の可能性,S.アミンの階級分析の評価,階級分析の理論的基礎の構築(再生産論の必要性),階級分析の経済学的アプローチと社会学的アプローチの違い,中産階級論,階級否定論,統数研が全面的に協力した日本の階層構造プロジェクト(SSM)の評価にまで及んでいる。

第四の話題は,大橋の社会福祉の実証的研究についてである。奈倉(大阪府立大学)が質問者に代わる。大橋は京大退職後,日本福祉大学に移る。見田石介の勧めによる。大橋は時代の変遷を15年ごとに見ているが,ここでも戦後の最初の15年で敗戦,農地改革があり,貧困,戦争と平和の問題が社会的課題となった。社会福祉,障害者福祉の問題も大事な問題と意識され,これをきちっとしておかないといけないと考えた。障害児の問題では統計によるその把握は非常に弱い。厚生省然りである。経済学的なアプローチ(価値論,再生産論)も,位置づけも弱い。生活構造論できちんとしておかないといけない。福祉切り捨てには,その場限りの闘争ではなく,長期の闘いの態勢を組むべきである。理論的にも,実践的にもそうである。

 大橋論文「障害者統計と『社会的不利益』」(『東京経済大学学会雑誌』第125号)が障害問題をhandicap の面からとりあげ(impairment, disabilityの面からではなく),その評価法についての見解を示してくれたことの意義が大きかったという奈倉の指摘に対し,大橋は福祉大の院生と関連調査をしているが,handicap の指標(環境と障害をもった人との関係の指標)の設定が難しいと述べている。大橋の方法は具体的な調査をとおして,方法論的批判をするというやり方である。大橋がさらに,戦前の社会調査は,社会福祉のためのそれであったが,だんだんそうした考え方が抜けおちてきていることを懸念している。社会福祉のための社会調査という目的意識をきちっとしなければいけない。

関連して,キリスト教と仏教を比べて,前者は精神障害者の施設をよりたくさんつくっているが,後者はぐっと少ない。京都はお寺がいっぱいあり僧侶もたくさんいるのに,営利にはしっている。浄土宗,浄土真宗はまだいいが,他の宗派は金儲けばかりである。大橋はこうした話を,「国際障害者年仏教教団の障害者施設数一覧」を示して解説している。また,福祉労働者の格差を問題視している。
 最後に,半世紀にわたる大橋の社会的活動,民主運動のなかで,印象に残っていること,個人的に感銘の深い人の思い出などが話題となる。社会的活動,民主運動では,民主主義協会経済部会のことが語られているが,京都ではわりと早くに消沈し,大橋は裏方で動いていたという。蜷川知事と選挙を中心とした活動もあった。世論調査にとりくんだ。この世論調査では経済統計研究会に,サンプリングの新しい評価を持ち込んだ点で画期的だったらしい。この問題を巡って一同が研究会風に意見を表明している(𠮷田,川口,奈倉,泉)。大橋は世論調査の実践的意義を認めながら,理論問題には慎重な発言に終始している。

個人の思い出のなかでは,経済学者では矢内原忠雄(キリスト教の無協会派)の評価が抜群に高い。戦争に対して一番きちっとしていたと述べている。社会科学とキリスト教の関係を正確に捉えていた。秋田雨雀,蜷川,山田盛太郎,高野岩三郎などの名前もあがっている。方法論研究会では,見田石介の思い出が強いようである。ヘーゲルをめぐって議論がかみ合ったのだろうか。海外旅行(福祉施設関係),夫人との出会いと若いころの苦労話に花がさいて,5時間におよぶインタビューは終わっている。

「安藤次郎」(聞き手:大屋祐雪,坂元慶行,森博美)『日本における統計学の発展(第32巻)』(1981年12月13日。於:私学会館)

2016-10-01 22:19:51 | 13.対談・鼎談
「安藤次郎」(聞き手:大屋祐雪,坂元慶行,森博美)『日本における統計学の発展(第32巻)』(1981年12月13日。於:私学会館)

 安藤は,冒頭,自分は統計学者ではない,統計学の勉強もしっかりしたことがない,このインタビューも内心忸怩たる思いであることを,繰り返し述べている。その安藤がなぜ金沢大学で統計学の教鞭をとっていたかというと,それは全くの偶然で,東京大学で有澤広巳のゼミにいたという経歴があったというただそれだけの理由で,抜擢されたのだと言う。有澤ゼミに入れてもらえたのも偶然,と言うことである。大学にはいってからある日,自由が丘の古本屋で「クーゲルマンの手紙」という単行本を見つけ,手に取ると「向坂蔵書」の蔵書印が押してあった。店の人に尋ねると,向坂逸郎の蔵書で,その向坂を紹介してくれた。向坂は後に安藤が有澤ゼミに入れるように口をきいてくれて,それで安藤は有澤ゼミの所属になったという。しかし,有澤のゼミでは統計学の話はほとんど出なかった。有澤は博識な人だったが,統計学のことはあまり知らなかったようだと,安藤は述懐している。ゼミでは工業統計表の加工をし,山田盛太郎『日本資本主義分析』を輪読した。関連して,安藤は有澤が戦後,完全に体制に取り込まれてしまったことを残念がっている。門下生で統計学者になったのは,米沢治文,中村隆英だそうである。京都大学の蜷川ゼミほど,弟子は育たなかった。

 安藤が金沢大学に職を得て,統計学の講義を始めた頃,『統計学古典全集』を読み始めた。金沢の南陽堂という古本屋でカール・ピアソンの『科学の文法(上巻)』(第3版)を見つけた。それが切掛けで京大の大橋隆憲にこの本の第2版を借り出してもらい,訳をつくった。それから,中国語が読めたので,中国の統計文献の紹介を始めた。当時,日本の統計学者は中国の統計に関心が薄かったので,サービスのつもりだった。中国の統計学者が書いている内容は,非常に実践的である。その点が欧米の統計学者の本と違う。

 安藤はそう述べた後,自分の「アキレス腱(弱点)」に触れている。それは計算に弱いこと,ドイツ語が読めないこと,英米の統計学の書物には数理統計学が多く,それらを読む気にもならないこと,と列挙している。

 安藤は,金沢の北陸鉄道労働組合で労働者に対する話を続けてきた。労働講座である。引っ張りだこになるくらいになった。労働者向けの話し方は,大学での講義とは全く違う。労働者は労働運動を進めるという必要に迫られて,話を聞きにきている。わかりやすい話,実践的な話がもとめられ,労働講座はいい経験になった。しかし,だんだん大学の講義よりそちらの方が主になってしまい,ますます統計学の勉強をしなくなってしまった。

 それでも統計教育に関してはいろいろ考えてきたつもりである。一つは,大学の統計学の講義では,その前に社会科学入門的な話がどうしても必要であることである。また実践の場にいる統計家に対する関心を忘れないようにしてきた。古寺雅美は実務家であるが,『統計学以前の統計学』といういい本を書いている。安藤はそれを紹介している。また,もうひとつの問題点として,統計講義はひとりで行うのは無理で,集団で行うのがよいと語っている。実践に役立つ統計学講義と言う観点から反省すると,部門統計をそれぞれの専門家が担当して,集団で講義をするといいものになる。それが成されていないので,必然的に数理統計学になってしまう。

 科学は人間のあり方の問題とかかわる。唯物論とか観念論とかというのは二の次である。統計環境が悪くなっているというが,これを改めるには統計教育の改善が不可欠である。統計学の話に入る前に,統計に関心をもたせ,興味をもたせることが大事である。関心のないものに,いくら統計学の話をしてもだめである。

 この後,大屋が安藤に有澤ゼミのことを再度,問いかけている。安藤が国勢調査員になった話にも水を向けている。前者の話はあまり発展せず,安藤はかろうじてアッヘンワル,ケトレーの名前ぐらいは出てきたかなと言っている。国勢調査員は,70歳をこえたので最後のチャンスと思ってやった,と述べている。

 安藤は一時GHQの経済科学局にいた。都留重人に頼まれてのことであった。このあたりから安藤の話は大学を出てすぐに東亜経済調査局に入ったこと,戦争中,上海の共同租界工務部で生計費指数を作っていたこと,その上海で逮捕されブタ箱に入ったこと,日本に帰国して中国研究所をつくったこと,GHQにいたがパージされたこと,印刷労働組合の書記になったこと,などに話題が移っていく。

 一段落して,坂元の示唆で話が再び統計学に戻る。坂元が,ピアソンの翻訳の動機などを質問したからである。安藤は,レーニンが『唯物論と経験批判論』でピアソンをマッハ主義と罵倒しているが,それはレーニンの誤解であることがわかったという。ピアソンは唯物論者と論争などはしていず,科学の発展のためには,健全な観念論のほうが唯物論より役にたつと主張しているにすぎない。科学の発展のためには絶えず,批判と自己批判を忘れてはいけない,ということである。レーニンは独り相撲をとっている,国内の運動の対立のなかで引きつけて書いたという事情があるのではないだろうか。関連して,安藤は唯物弁証法と観念論とは問題にしていることが別の次元のことなのではないかと,印象を述べている。

 最後に,体系をつくるということはどういうことなのか,無理にそれをつくると割り切れないところが出てくるのではないか,上杉正一郎との出会い,上杉を介して大橋隆憲,内海庫一郎,有田正三を知ったこと,経統研の会員に実務家を迎え入れる努力をしなければいけないこと,統計指標体系を作りたいと思っていること,国会議員の統計の使い方を批判することが重要だと思っていること,議会,委員会の速記録を集めて分析すること,などに触れ,インタビューは終わる。

「内海庫一郎・木村太郎(2)」『日本における統計学の発展(第54巻)』(於:武蔵大学:法政大学)]

2016-10-01 22:18:27 | 13.対談・鼎談
「内海庫一郎・木村太郎(2)」『日本における統計学の発展(第54巻)』(於:武蔵大学:法政大学)]

 本巻は『日本における統計学の発展(第53巻)』の続きである。第53巻では,内海庫一郎と木村太郎の二人が列席でのインタビューであったが,この巻ではそれぞれ別の箇所で行われたインタビューが合体されている。前半は武蔵大学で実施された内海庫一郎のインタビュー,後半は法政大学で行われた木村太郎のインタビューである。

【内海庫一郎】
まず,内海庫一郎とのインタビューの内容。談論風発,内海の話は満州での経験に始まり,復員後の状況,蜷川ゼミナールのこと,札幌唯物論研究会のこと,そして内海ゼミナールで育った研究者に及ぶ。
 内海は,蜷川虎三の紹介で1938年,満州建国大学に赴任した。赴任後,国務院総務理庁統計処統計科事務官を兼務。統計処の処長だけは満系ポストであった。ここでは,基本的に東三省の仕事を引き継いでいた。独自の統計があったが,主に表式調査で,その内容は怪しいものばかりであった。「発見人口」と言う概念さえあったようである。統計処の下に資源課と統計課があり,後者は統計年鑑の作成にあたっていた。内海はこれを含めて,統計編纂の仕事に従事した。調査は資源課の担当である。
満州国の統治は法律だけで行っていたというのが実態で,統計への寄与はほとんどなかった。実態現地調査はあったが,その結果は統計といえるものではなかった。統計官僚として有名な松田泰二郎が満州にきて昭和15年国勢調査をやろうともちかけた。満州に統計局ができたのは,それが契機でなかったろうか。しかし,識字率がきわめて低かったので,実際の調査は難しかったと思われる。集計結果は,統計年鑑の第2巻に出ているはずである。当然,信頼性は低い。その頃の統計で信頼できるものは,満鉄の大豆の出回り統計ぐらいである。当時の満州を研究するには,満鉄の資料で行うしかない。関連して,満鉄の調査の紹介,ジュンアンによる調査報告の英訳(Research Activity of South Manchurian Road Company),山田盛太郎が満州に来て調査に入ったこと,などが語られている。
 内海は自身の社会科学研究がフォイエルバッハ論から始まったと述懐している。蜷川の統計学にかんしては,「存在たる集団」はわかったが,「意識的に構成された集団」がよく理解できなかった。札幌にいき北海道大学着任後の研究のなかで,少しずつ蜷川統計学が理解できるようになった。内海の考えるところでは,統計学者は科学の方法と言うと統計方法以外のことを語らない。抽象的分析的方法のことをもっと深めなければいけない。その点では,蜷川も例外でなく,統計学史にすっぽりはまり込んでしまって,広い視野に欠けるところがなきしにもあらずである。
内海が北海道大学に着任したのは,1949年6月。札幌では,「大学村」というところに住んでいた。一軒隣に岩崎允胤、また近くに宮原将平,宇佐美正一郎がいた。この利点を生かして自然科学者,哲学者と一緒にヘーゲル研究会を定期的に開催していた(15年ほど続く)。このヘーゲル研究会が唯物論編集委員会を兼ねていた。この研究会(漫談会)は自然科学者が参加していたので,勉強になった。この会はその後,『唯物論』を出すことなって内海は「お金」のことばかり口出しした。原稿料は払わないとか,同人がお金を拠出するとか。そのうち,メンバーが東京に出てきたり札幌を離れたりで,自然解消したが,その存在意義は大きかった。
北大では,さらに唯物弁証法と統計方法との関連を個人的な研究テーマとした。そのなかで蜷川統計学,とくに静態的社会集団や「単なる解析的集団」の規定に対する疑問が固まってきた。数理統計学の内容にも疑問を感じた。毛沢東の「実践論」,ガロディーの「認識論」を統計方法のなかに組み込めないかを考えた。
最初のゼミに入ってきたのは,佐藤博,是永純弘である。佐藤の博士論文は「ツガンバラノフスキーの経済理論」で統計学ではない。以下,山田喜志夫,田中章義,山田貢,伊藤陽一,近昭夫,岩井浩,横本宏などが紹介されている。エピソードが面白い。山田喜志夫は,学生時代,履修した先生の批判を答案に猛勉強して書き,成績表に「良」が並んだとか,田中は学生運動にのめりこみ,総評の「書記」になりたがっていたとか,横本宏が柔道3-4段の実力者だったとか,ゼミ生への愛情が感じられる。このグループは内海シューレとも呼ばれ,『社会科学のための統計学』(評論社),『講座現代経済学批判』(日本評論社),『経済学と数理統計学』(産業統計研究社)を上梓し,成果を出した。この内海シューレの結束力がきわめて固いことは,つとに知られている。    
 内海とのインタビューでは,この他,学生時代の活動,蜷川ゼミナールの様子,蜷川虎三の人柄,北大時代の同僚(酒井一夫)のこと,木村太郎に世話になった国民経済研究会での出来事,大橋隆憲の推計学(北川・増山)批判(『8000万人』)の経緯など,記憶をほりおこし,エピソードを細かく紹介し,論評している。

【木村太郎】
この巻の後半は,木村太郎とのインタビューである。聞き手の中心的存在は,伊藤陽一。話題は4つに分かれ,「蜷川ゼミナールと蜷川統計学」「戦後統計制度再建期-国民経済研究協会から農林統計協会まで-」「地方自治体の統計活動-埼玉県経済調査会にふれつつ-」「今日の統計学に対する注文と当面の関心」となっている。以下,話題ごとに要約する。

「蜷川ゼミナールと蜷川統計学」。蜷川ゼミに集まる学生は進歩的なものが多かった。高等学校で学生運動にかかわったものは,大学に入ることがむずかしかった時代だったが,京都大学はわりと寛容に受け入れた。そうはいってもゼミナールに彼らを受け入れてくれた教官は少なかった。蜷川ゼミは,そういう学生たちにも門戸を開いてくれた。当然,猛者(もさ)だが、開明的な学生が多く,彼らは天下国家を論じていた。ただゼミで統計学や会計学を学ぼうというものはいず,ゼミのテーマが統計学であったことはないと木村は語っている。ゼミは一学年10人ぐらい,2・3年合同ゼミで20人ほどいた。他に副手や講師,留学生などが列席していた。蜷川はゼミではほとんど喋らず,陪席の先輩が討論のきっかけをつくり,討論を時々交通整理する程度だった。
木村は再生産論と国民所得論を自分のテーマとし,卒論では「生産指数論」をまとめた。ゼミで蜷川統計学について議論したことなど皆無で,ゼミとは別個の喫茶店や飲み屋での議論の話題であった。しかし,外でこの種の議論をすると官憲ににらまれるので,蜷川は議論の場として自宅を解放していた。そういう場で蜷川に集団論について突っ込んだ質問をした。また,統計対象論と統計調査論とのギャップ,「はかるべき大量」などが話題となった。
蜷川統計学は当時としては新しい学問体系で,他にそれに匹敵するものはなかった。戦後,内海庫一郎,足利末男の批判があったが,木村に言わせればそれらは批判にはなっておらず,「批評」である。蜷川の講義は,『統計学に於ける利用の基本問題』『統計学概論』を教科書にしていたが,経済学の話,主観価値説批判や時事問題の取り上げが多かった。ハーバード景気予測研究所の景気予測法に対する批判は,学生にも大変,受けていた。社会集団と解析的集団との関係,統計調査法と統計解析法との関係などは力を入れて講義していた。「代表値」論の重要性も強調していた。
聞き手の伊藤は木村に,日本資本主義論を自らの理論のなかにどのように取り込もうとしていたかについて質問している。木村によれば,蜷川は「講座派」「労農派」の対立に深入りしなかった。ただ論争の成果を踏まえながら「水産経済学」を執筆し,資本主義段階の残滓としての封建性を問題にしていた,ようである。いずれしても,蜷川が資本主義論争から統計利用を学び取ることなど時期的にもあり得ないと,述べている。蜷川が始終言っていたことは,「われわれが取り組むべき学問の現代的課題というのは何か,それは学史的な発展段階とその上にたっての現代における実践的な課題とから規定される。だから統計学の現代的課題も,統計学の発展史と,現在,統計を見たり使ったりする一般大衆の立場から,何が必要かを考えて,規定しなければならない」というのが蜷川の一貫した考え方だった。
蜷川統計学は統計作成者(生産者)の立場ではなく,その利用者の立場からの統計学とよく言われるが,木村によれば,「見るもの」の立場からのそれと言う方が適当なようだ,と述べる。もう少し言うと,庶民の立場にたった統計学であろうか。純解析的集団を除去したほうがいいと言うものもいるが,むしろその設定によって数理解析そのものの形式主義を明らかにすることに成功している,と言う。木村は,蜷川ゼミ出身の学者の間で,蜷川統計学そのものについての認識の仕方にあまり差があったとは思えないと語る。戦後,重点の置き方(色分け)が個々人で変わってきたようだ。
 戦後,蜷川が学問の世界を離れた理由は,実践的な経済学者でありたいという願望をもっていたこと,京都府知事の世界が蜷川の性格を一番発揮できる場所と考えたからではなかろうか。戦前,西陣で中小企業家と勉強会をしていたころに既にその片鱗がみられた。統計学の研究に関しては,その体系化で基本的に済んだとも思っていたのかもしれない。
蜷川統計学は「統計とは何か」から出発している。統計を首座においたことが蜷川統計学の最大のメリットである。この点をおさえていれば,蜷川統計学を二元論だと批判することはできない。木村の以前からの主張点が再度強調されている。
「戦後統計制度再建期」。敗戦により復員した木村は昭和20年10月頃,国民経済研究協会に入る。ここでまず行ったのは「日本経済再建計画」の作成で,食料,肥料,水産品,畜産品の生産と流通の復興計画であった。次いで,生産指数,物価指数の作成にあたった。物価指数作成によって重工業品の価格が相対的に下落しているのに,生活物資が相対的に高騰していることがわかり,前者の不足と重工業の生産力の過大化に戦後恐慌の様相が露呈していることを解明した。協会での本務は農林省その他から委託調査をとって実施すること,統計部を作って戦争中に散逸した統計資料を蒐集し,経済統計資料という印刷物にまとめて月2回程度発行することであった。
 木村はこの協会時代に「生産指数の理論」という論文をあらわした。生産指数を単なる平均指数としてだけでなく,総和指数に基礎を置くべきとして,それを労働価値説から裏づけるものであった。これによってであろうか,当時通産省の統計調査局長だった正木千冬から伊大知良太郎とともに生産指数委員に命じられた。
 木村が復員後,稲葉秀三の世話で入った国民経済研究協会は,戦時中海外の調査機関に所属していた大量の知識人の受け皿のようになっていた。失業したインテリの最大の受け入れ先が官庁,とくに統計の分野,経済安定本部であった。しかし,ここにすぐに入れるわけではないので,当面,国民経済研究協会の仕事でしのぐ格好になっていた。木村は次第にその受け入れや仕事の獲得に走りまわり,その結果,協会の経営担当を任される位置にあった。しかし,そのうち協会の存立があぶなくなり,別に新しい団体をつくって急場を凌いでいかざるをえなくなる。そのような時に,農林省から農林統計協会設立の打診があり,稲葉秀三の資金援助があって,一息つくことになった。
木村はそのような経緯の後,農林統計協会に職を移す。農林統計協会は戦後の農業統計の大改革のなかで設置されたもので,農林統計調査局に対抗して,独自に農林統計の普及,宣伝活動を行う目的をもっていた。背後に戦後の統計制度改革の混乱,非常時的行政課題に対応した統計生産の必要,食料供出の確保という課題,農地改革に備えての農業センサスの実施,漁業権センサスや林業センサスの立案と実施など,喫緊の課題が山積していた。このなかでサンプル調査がまず作物統計,農家経済調査に,次いで農業センサスにも適用してはどうかという議論までされるようになった。統計学界の主流が戦後,急速に数理主義の方向をたどり始め,農林関係の外部で社会現象への標本調査の適用が進んでいくと,農林統計関係もこれに巻き込まれるようになっていった。もっとも農業経済学者や農業センサス,農家経済調査に直接従事していた人の間では,標本調査に対して慎重論や反対論が少なくなかった。
協会には集計のための人員を含め100人ほどいた。業務は集計が大部分で,その他に編纂,出版,総務などの仕事があった。研究や調査はやりたかったが,思うようにできなかった。そのうち経営が危うくなり,木村がその責任をとる形になった。
『ソビエトの統計理論』の翻訳は,国民経済研究協会で昭和23年ごろ委託調査をとり,サンプリング調査法研究会を作り,国際的問題に関する報告書をまとめる過程で(第一輯:『国際連合サンプル調査委員会報告』,第二輯:ピサレフ『農業統計とその一般理論的基礎について』),ソ連から統計学論争に関する情報が入ってきて,この研究会に後から入った井上晴丸,内海庫一郎のコンビが上梓した。研究会に対するこの研究に対する委託は昭和25年に打ち切られたが,井上が独力で継続し,内海が協力して『ソビエトの統計理論Ⅱ』の出版にこぎつけた。
 「地方自治体の統計活動」。木村は昭和33年に,國學院大學政経学部に赴任する。担当科目は農業政策である。統計学の講義をするようになるのは,昭和40年からである。おりしも,昭和47年に埼玉県で革新政権(畑和知事)が誕生した。その実現に協力した知識人が調査機関の設立を要望し,知事がこれを受け入れ「埼玉県社会経済総合調査会」が設立された。設立の初期には経済統計研究会の会員,山田貢,広田純,伊藤陽一,横本宏がメンバーに加わった。当初は,調査会がテーマを考え,県に提案し,両者で調整したものを委託してもらう形をとっていたが,だんだん自主性がなくなり,県の行政に必要な調査を行うようになってしまった。県側はこの種の調査にカネは出すが,県民の需要に応える調査に非協力的になった。他に経済動向調査,県民所得の推計なども実施した。財政見通しにも関わったが,若い役人はすぐに計量モデルからの発想で考えるので,結局あまり役にたたないモデルがスクラップ・アンド・ビルドされるという経過を繰り返すことになる。
 この調査会は1982年7月で解散となった。県議会の野党である自民党系議員の圧力に知事が屈した。県庁内の役人はあまり協力的でなかった。調査会は規模が小さかったが,全国の地方自治体のなかで地域的調査機関の先駆として注目され,業績も内外から高く評価されていたので残念なことであった。
最後に,「今日の統計学に対する注文と当面の関心」に話が移る。このなかで木村は,統計学者が統計学の枠内で議論をしていては,統計学そのものの発展がないと述べている。統計学は補助科学なので,社会科学的問題意識をもたないと閉塞する。社会科学や経済学の幅広い視野のもとで研究をすすめることが重要である。統計調査にしても,統計解析にしても,実践的な課題にぶつかって問題を引き出してくることが大切である。率直に言って,そういう志向が先細りになっているのが懸念である。もっとも,統計利用や統計生産の実践に取り組むには,そのための方法的知識がなければダメなので,そのためのトレーニングは欠かせない。統計史,統計学史を研究することも重要である。しかし。問題はそこにだけ潜り込んでしまって,そこから出てこないことである。『統計日本経済分析』はひとつの段階である。それを土台に,実践を積み上げていくのがよい。
 他に自身が取り組みたいテーマとして,代表値論,推計論,物価指数論があると語っている。また,自分なりの統計学体系の完成をしなければならない,と述べている。推計に関しては,統計生産的な推計と予測的な推計を区別しなければいけないと考えている。その上で,社会科学的認識目的を類型化し,その類型によって推計技術を整理したい。統計学とは別に,資本主義分析を試みたい。既存のものは,飽き足らない。その飽き足らなさは,基本的には経済理論的なものに由来するが,統計資料の使い方がうまくない。もしそれができれば,結果的に統計学にも貢献できることになる。統計学のなかだけでやっていくことに限界を感じている。
 社会科学の方法はなかなかそれを手放せず,いつまでも同じ方法に固執し,無意味な作業を繰り返していることがある。社会科学の領域で生じるこのような危険は,他人から批判して回避するしかない。その意味で,この領域での相互の批判的活動は不可欠である。