社会統計学の伝統とその継承

社会統計学の論文の要約を掲載します。

「内海庫一郎・木村太郎(2)」『日本における統計学の発展(第54巻)』(於:武蔵大学:法政大学)]

2016-10-01 22:18:27 | 13.対談・鼎談
「内海庫一郎・木村太郎(2)」『日本における統計学の発展(第54巻)』(於:武蔵大学:法政大学)]

 本巻は『日本における統計学の発展(第53巻)』の続きである。第53巻では,内海庫一郎と木村太郎の二人が列席でのインタビューであったが,この巻ではそれぞれ別の箇所で行われたインタビューが合体されている。前半は武蔵大学で実施された内海庫一郎のインタビュー,後半は法政大学で行われた木村太郎のインタビューである。

【内海庫一郎】
まず,内海庫一郎とのインタビューの内容。談論風発,内海の話は満州での経験に始まり,復員後の状況,蜷川ゼミナールのこと,札幌唯物論研究会のこと,そして内海ゼミナールで育った研究者に及ぶ。
 内海は,蜷川虎三の紹介で1938年,満州建国大学に赴任した。赴任後,国務院総務理庁統計処統計科事務官を兼務。統計処の処長だけは満系ポストであった。ここでは,基本的に東三省の仕事を引き継いでいた。独自の統計があったが,主に表式調査で,その内容は怪しいものばかりであった。「発見人口」と言う概念さえあったようである。統計処の下に資源課と統計課があり,後者は統計年鑑の作成にあたっていた。内海はこれを含めて,統計編纂の仕事に従事した。調査は資源課の担当である。
満州国の統治は法律だけで行っていたというのが実態で,統計への寄与はほとんどなかった。実態現地調査はあったが,その結果は統計といえるものではなかった。統計官僚として有名な松田泰二郎が満州にきて昭和15年国勢調査をやろうともちかけた。満州に統計局ができたのは,それが契機でなかったろうか。しかし,識字率がきわめて低かったので,実際の調査は難しかったと思われる。集計結果は,統計年鑑の第2巻に出ているはずである。当然,信頼性は低い。その頃の統計で信頼できるものは,満鉄の大豆の出回り統計ぐらいである。当時の満州を研究するには,満鉄の資料で行うしかない。関連して,満鉄の調査の紹介,ジュンアンによる調査報告の英訳(Research Activity of South Manchurian Road Company),山田盛太郎が満州に来て調査に入ったこと,などが語られている。
 内海は自身の社会科学研究がフォイエルバッハ論から始まったと述懐している。蜷川の統計学にかんしては,「存在たる集団」はわかったが,「意識的に構成された集団」がよく理解できなかった。札幌にいき北海道大学着任後の研究のなかで,少しずつ蜷川統計学が理解できるようになった。内海の考えるところでは,統計学者は科学の方法と言うと統計方法以外のことを語らない。抽象的分析的方法のことをもっと深めなければいけない。その点では,蜷川も例外でなく,統計学史にすっぽりはまり込んでしまって,広い視野に欠けるところがなきしにもあらずである。
内海が北海道大学に着任したのは,1949年6月。札幌では,「大学村」というところに住んでいた。一軒隣に岩崎允胤、また近くに宮原将平,宇佐美正一郎がいた。この利点を生かして自然科学者,哲学者と一緒にヘーゲル研究会を定期的に開催していた(15年ほど続く)。このヘーゲル研究会が唯物論編集委員会を兼ねていた。この研究会(漫談会)は自然科学者が参加していたので,勉強になった。この会はその後,『唯物論』を出すことなって内海は「お金」のことばかり口出しした。原稿料は払わないとか,同人がお金を拠出するとか。そのうち,メンバーが東京に出てきたり札幌を離れたりで,自然解消したが,その存在意義は大きかった。
北大では,さらに唯物弁証法と統計方法との関連を個人的な研究テーマとした。そのなかで蜷川統計学,とくに静態的社会集団や「単なる解析的集団」の規定に対する疑問が固まってきた。数理統計学の内容にも疑問を感じた。毛沢東の「実践論」,ガロディーの「認識論」を統計方法のなかに組み込めないかを考えた。
最初のゼミに入ってきたのは,佐藤博,是永純弘である。佐藤の博士論文は「ツガンバラノフスキーの経済理論」で統計学ではない。以下,山田喜志夫,田中章義,山田貢,伊藤陽一,近昭夫,岩井浩,横本宏などが紹介されている。エピソードが面白い。山田喜志夫は,学生時代,履修した先生の批判を答案に猛勉強して書き,成績表に「良」が並んだとか,田中は学生運動にのめりこみ,総評の「書記」になりたがっていたとか,横本宏が柔道3-4段の実力者だったとか,ゼミ生への愛情が感じられる。このグループは内海シューレとも呼ばれ,『社会科学のための統計学』(評論社),『講座現代経済学批判』(日本評論社),『経済学と数理統計学』(産業統計研究社)を上梓し,成果を出した。この内海シューレの結束力がきわめて固いことは,つとに知られている。    
 内海とのインタビューでは,この他,学生時代の活動,蜷川ゼミナールの様子,蜷川虎三の人柄,北大時代の同僚(酒井一夫)のこと,木村太郎に世話になった国民経済研究会での出来事,大橋隆憲の推計学(北川・増山)批判(『8000万人』)の経緯など,記憶をほりおこし,エピソードを細かく紹介し,論評している。

【木村太郎】
この巻の後半は,木村太郎とのインタビューである。聞き手の中心的存在は,伊藤陽一。話題は4つに分かれ,「蜷川ゼミナールと蜷川統計学」「戦後統計制度再建期-国民経済研究協会から農林統計協会まで-」「地方自治体の統計活動-埼玉県経済調査会にふれつつ-」「今日の統計学に対する注文と当面の関心」となっている。以下,話題ごとに要約する。

「蜷川ゼミナールと蜷川統計学」。蜷川ゼミに集まる学生は進歩的なものが多かった。高等学校で学生運動にかかわったものは,大学に入ることがむずかしかった時代だったが,京都大学はわりと寛容に受け入れた。そうはいってもゼミナールに彼らを受け入れてくれた教官は少なかった。蜷川ゼミは,そういう学生たちにも門戸を開いてくれた。当然,猛者(もさ)だが、開明的な学生が多く,彼らは天下国家を論じていた。ただゼミで統計学や会計学を学ぼうというものはいず,ゼミのテーマが統計学であったことはないと木村は語っている。ゼミは一学年10人ぐらい,2・3年合同ゼミで20人ほどいた。他に副手や講師,留学生などが列席していた。蜷川はゼミではほとんど喋らず,陪席の先輩が討論のきっかけをつくり,討論を時々交通整理する程度だった。
木村は再生産論と国民所得論を自分のテーマとし,卒論では「生産指数論」をまとめた。ゼミで蜷川統計学について議論したことなど皆無で,ゼミとは別個の喫茶店や飲み屋での議論の話題であった。しかし,外でこの種の議論をすると官憲ににらまれるので,蜷川は議論の場として自宅を解放していた。そういう場で蜷川に集団論について突っ込んだ質問をした。また,統計対象論と統計調査論とのギャップ,「はかるべき大量」などが話題となった。
蜷川統計学は当時としては新しい学問体系で,他にそれに匹敵するものはなかった。戦後,内海庫一郎,足利末男の批判があったが,木村に言わせればそれらは批判にはなっておらず,「批評」である。蜷川の講義は,『統計学に於ける利用の基本問題』『統計学概論』を教科書にしていたが,経済学の話,主観価値説批判や時事問題の取り上げが多かった。ハーバード景気予測研究所の景気予測法に対する批判は,学生にも大変,受けていた。社会集団と解析的集団との関係,統計調査法と統計解析法との関係などは力を入れて講義していた。「代表値」論の重要性も強調していた。
聞き手の伊藤は木村に,日本資本主義論を自らの理論のなかにどのように取り込もうとしていたかについて質問している。木村によれば,蜷川は「講座派」「労農派」の対立に深入りしなかった。ただ論争の成果を踏まえながら「水産経済学」を執筆し,資本主義段階の残滓としての封建性を問題にしていた,ようである。いずれしても,蜷川が資本主義論争から統計利用を学び取ることなど時期的にもあり得ないと,述べている。蜷川が始終言っていたことは,「われわれが取り組むべき学問の現代的課題というのは何か,それは学史的な発展段階とその上にたっての現代における実践的な課題とから規定される。だから統計学の現代的課題も,統計学の発展史と,現在,統計を見たり使ったりする一般大衆の立場から,何が必要かを考えて,規定しなければならない」というのが蜷川の一貫した考え方だった。
蜷川統計学は統計作成者(生産者)の立場ではなく,その利用者の立場からの統計学とよく言われるが,木村によれば,「見るもの」の立場からのそれと言う方が適当なようだ,と述べる。もう少し言うと,庶民の立場にたった統計学であろうか。純解析的集団を除去したほうがいいと言うものもいるが,むしろその設定によって数理解析そのものの形式主義を明らかにすることに成功している,と言う。木村は,蜷川ゼミ出身の学者の間で,蜷川統計学そのものについての認識の仕方にあまり差があったとは思えないと語る。戦後,重点の置き方(色分け)が個々人で変わってきたようだ。
 戦後,蜷川が学問の世界を離れた理由は,実践的な経済学者でありたいという願望をもっていたこと,京都府知事の世界が蜷川の性格を一番発揮できる場所と考えたからではなかろうか。戦前,西陣で中小企業家と勉強会をしていたころに既にその片鱗がみられた。統計学の研究に関しては,その体系化で基本的に済んだとも思っていたのかもしれない。
蜷川統計学は「統計とは何か」から出発している。統計を首座においたことが蜷川統計学の最大のメリットである。この点をおさえていれば,蜷川統計学を二元論だと批判することはできない。木村の以前からの主張点が再度強調されている。
「戦後統計制度再建期」。敗戦により復員した木村は昭和20年10月頃,国民経済研究協会に入る。ここでまず行ったのは「日本経済再建計画」の作成で,食料,肥料,水産品,畜産品の生産と流通の復興計画であった。次いで,生産指数,物価指数の作成にあたった。物価指数作成によって重工業品の価格が相対的に下落しているのに,生活物資が相対的に高騰していることがわかり,前者の不足と重工業の生産力の過大化に戦後恐慌の様相が露呈していることを解明した。協会での本務は農林省その他から委託調査をとって実施すること,統計部を作って戦争中に散逸した統計資料を蒐集し,経済統計資料という印刷物にまとめて月2回程度発行することであった。
 木村はこの協会時代に「生産指数の理論」という論文をあらわした。生産指数を単なる平均指数としてだけでなく,総和指数に基礎を置くべきとして,それを労働価値説から裏づけるものであった。これによってであろうか,当時通産省の統計調査局長だった正木千冬から伊大知良太郎とともに生産指数委員に命じられた。
 木村が復員後,稲葉秀三の世話で入った国民経済研究協会は,戦時中海外の調査機関に所属していた大量の知識人の受け皿のようになっていた。失業したインテリの最大の受け入れ先が官庁,とくに統計の分野,経済安定本部であった。しかし,ここにすぐに入れるわけではないので,当面,国民経済研究協会の仕事でしのぐ格好になっていた。木村は次第にその受け入れや仕事の獲得に走りまわり,その結果,協会の経営担当を任される位置にあった。しかし,そのうち協会の存立があぶなくなり,別に新しい団体をつくって急場を凌いでいかざるをえなくなる。そのような時に,農林省から農林統計協会設立の打診があり,稲葉秀三の資金援助があって,一息つくことになった。
木村はそのような経緯の後,農林統計協会に職を移す。農林統計協会は戦後の農業統計の大改革のなかで設置されたもので,農林統計調査局に対抗して,独自に農林統計の普及,宣伝活動を行う目的をもっていた。背後に戦後の統計制度改革の混乱,非常時的行政課題に対応した統計生産の必要,食料供出の確保という課題,農地改革に備えての農業センサスの実施,漁業権センサスや林業センサスの立案と実施など,喫緊の課題が山積していた。このなかでサンプル調査がまず作物統計,農家経済調査に,次いで農業センサスにも適用してはどうかという議論までされるようになった。統計学界の主流が戦後,急速に数理主義の方向をたどり始め,農林関係の外部で社会現象への標本調査の適用が進んでいくと,農林統計関係もこれに巻き込まれるようになっていった。もっとも農業経済学者や農業センサス,農家経済調査に直接従事していた人の間では,標本調査に対して慎重論や反対論が少なくなかった。
協会には集計のための人員を含め100人ほどいた。業務は集計が大部分で,その他に編纂,出版,総務などの仕事があった。研究や調査はやりたかったが,思うようにできなかった。そのうち経営が危うくなり,木村がその責任をとる形になった。
『ソビエトの統計理論』の翻訳は,国民経済研究協会で昭和23年ごろ委託調査をとり,サンプリング調査法研究会を作り,国際的問題に関する報告書をまとめる過程で(第一輯:『国際連合サンプル調査委員会報告』,第二輯:ピサレフ『農業統計とその一般理論的基礎について』),ソ連から統計学論争に関する情報が入ってきて,この研究会に後から入った井上晴丸,内海庫一郎のコンビが上梓した。研究会に対するこの研究に対する委託は昭和25年に打ち切られたが,井上が独力で継続し,内海が協力して『ソビエトの統計理論Ⅱ』の出版にこぎつけた。
 「地方自治体の統計活動」。木村は昭和33年に,國學院大學政経学部に赴任する。担当科目は農業政策である。統計学の講義をするようになるのは,昭和40年からである。おりしも,昭和47年に埼玉県で革新政権(畑和知事)が誕生した。その実現に協力した知識人が調査機関の設立を要望し,知事がこれを受け入れ「埼玉県社会経済総合調査会」が設立された。設立の初期には経済統計研究会の会員,山田貢,広田純,伊藤陽一,横本宏がメンバーに加わった。当初は,調査会がテーマを考え,県に提案し,両者で調整したものを委託してもらう形をとっていたが,だんだん自主性がなくなり,県の行政に必要な調査を行うようになってしまった。県側はこの種の調査にカネは出すが,県民の需要に応える調査に非協力的になった。他に経済動向調査,県民所得の推計なども実施した。財政見通しにも関わったが,若い役人はすぐに計量モデルからの発想で考えるので,結局あまり役にたたないモデルがスクラップ・アンド・ビルドされるという経過を繰り返すことになる。
 この調査会は1982年7月で解散となった。県議会の野党である自民党系議員の圧力に知事が屈した。県庁内の役人はあまり協力的でなかった。調査会は規模が小さかったが,全国の地方自治体のなかで地域的調査機関の先駆として注目され,業績も内外から高く評価されていたので残念なことであった。
最後に,「今日の統計学に対する注文と当面の関心」に話が移る。このなかで木村は,統計学者が統計学の枠内で議論をしていては,統計学そのものの発展がないと述べている。統計学は補助科学なので,社会科学的問題意識をもたないと閉塞する。社会科学や経済学の幅広い視野のもとで研究をすすめることが重要である。統計調査にしても,統計解析にしても,実践的な課題にぶつかって問題を引き出してくることが大切である。率直に言って,そういう志向が先細りになっているのが懸念である。もっとも,統計利用や統計生産の実践に取り組むには,そのための方法的知識がなければダメなので,そのためのトレーニングは欠かせない。統計史,統計学史を研究することも重要である。しかし。問題はそこにだけ潜り込んでしまって,そこから出てこないことである。『統計日本経済分析』はひとつの段階である。それを土台に,実践を積み上げていくのがよい。
 他に自身が取り組みたいテーマとして,代表値論,推計論,物価指数論があると語っている。また,自分なりの統計学体系の完成をしなければならない,と述べている。推計に関しては,統計生産的な推計と予測的な推計を区別しなければいけないと考えている。その上で,社会科学的認識目的を類型化し,その類型によって推計技術を整理したい。統計学とは別に,資本主義分析を試みたい。既存のものは,飽き足らない。その飽き足らなさは,基本的には経済理論的なものに由来するが,統計資料の使い方がうまくない。もしそれができれば,結果的に統計学にも貢献できることになる。統計学のなかだけでやっていくことに限界を感じている。
 社会科学の方法はなかなかそれを手放せず,いつまでも同じ方法に固執し,無意味な作業を繰り返していることがある。社会科学の領域で生じるこのような危険は,他人から批判して回避するしかない。その意味で,この領域での相互の批判的活動は不可欠である。

コメントを投稿