社会統計学の伝統とその継承

社会統計学の論文の要約を掲載します。

泉俊衛「国勢調査」相原茂・鮫島龍行『統計 日本経済(経済学全集28)』筑摩書房,1971年

2017-01-25 17:01:42 | 11.日本の統計・統計学
本稿の目的は,日本の国勢調査の揺籃期から1970年頃までの経緯の要約である。全体の構成は次のとおり。「Ⅰ 国勢調査以前の人口調査」「Ⅱ わが国における国勢調査の展開:1.大正9年第1回国勢調査の実施,2.第2回国勢調査以降の経緯,3.国勢調査結果の概観」。

 日本での国勢調査は,大正9年(1920年)に第1回目が実施され,以来,戦中期に行われた臨時調査を別にすると,5年ごとの施行となっている。第1回調査にいたるまでには紆余曲折があったが,明治5年に全国一斉に行われた「戸口調査」,また明治12年に杉亨二が指導した甲斐国現在人別調,明治後期に東京市,神戸市などで行われた人口センサスが知られる。杉の甲斐国現在人別調は,国勢調査前史を語るならば触れないわけにはいかないが,これについては本書『統計 日本経済』の第1章Ⅲ節3項「明治12年『甲斐国現在人別調』の検討」で詳しく論じられているとして(鮫島執筆),紹介をそちらに譲っている。「Ⅰ 国勢調査以前の人口調査」は,これらのうち,明治後期の人口センサスに重きをおいた記述である。しかし,この計画は議会の解散による予算案のたなあげ,日露戦争の勃発で頓挫した。明治40年代になると東京市,神戸市など全国各地で市勢調査が試みられ,再度国勢調査実施の気運が高まった。筆者はこの頃に実施された,これらの市勢調査の時期,調査事項,調査方法を一覧している。臨時台湾戸口調査(明治38年10月),熊本市職業調査(明治40年4月),東京市勢調査(明治41年10月),神戸市臨時市勢調査(明治41年11月),札幌区区勢調査(明治42年3月),新潟県佐渡郡群勢調査(明治42年12月),京都市臨時人口調査(明治44年11月),第二次臨時台湾与口調査(大正4年10月)がそれである。それにもかかわらず,全国レベルの国勢調査は,戸籍簿による人口統計が作成されていたこと,予算の逼迫,国民への宣伝不足などの事情で,またしても実現されなかった。

生みの苦しみはあったが,第1回の国勢調査は大正9年(1920年)に漸くスタートした。民間(東京統計協会など)の要請,請願があり,社会経済の発展とともに諸般の施策や計画の基本として正確な信頼できる人口調査がもとめらるようになったことが背景にあるが,筆者はとくに軍事上の要請が大きかったと指摘している。ともあれ,国勢調査は明治35年「国勢調査ニ関スル法律」ならびに大正7年「国勢調査施行令」のもとに実施の運びとなった。調査事項は,(1)氏名,(2)世帯における地位,(3)男女の別,(4)出生年月日,(5)配偶関係,(6)職業および職業上の地位,(7)出生地,(8)民籍別または国別,の8項目であった。調査方法は世帯主を申告義務者とする自計式で,全国に202,770地区が設けられ,調査当日の調査員数は246,384人であったという記録がある。

 調査の結果,それまでの人口統計の不正確さが認識された他,性別・年齢階級別人口の統計,就業状態に関する職業別人口の統計,地域別人口の統計など,貴重な統計が得られた。

 国勢調査は10年ごとに実施されることになっていたが,社会の変化に対応するには機間が長すぎるとの認識のもと,大正11年「国勢調査ニ関スル法律」の改正案が提出され,中間年に簡易調査が行われることになった。以来,国勢調査は昭和5年,同10年,同15年と実質的に5年に一度の実施となった。昭和15年の調査は戦時体制下での実施となったため,戦争目的にこたえる調査が要請された。統計調査が全面的に戦争のために動員される不幸な時期に入る。このような事態のなかで,一般には国勢調査とみなされない「昭和19年人口調査」という臨時的調査も実施された(集計結果は大部分公表されず,詳細は不明)。

戦後の国勢調査は昭和25年に再開されたが,それに先だって(1)昭和20年人口調査[昭和20年11月1日実施],(2) 昭和21年人口調査[同21年4月26日実施],(3) 昭和22年臨時国勢調査[同22年10月1日実施] (4) 昭和23年常住人口調査[同23年8月1日実施]が次々と行われた。それぞれ目的があり,(1)は議員制改正に伴う議員定数を決めるためであり,(2)は失業対策の基礎資料を得るためである。(2)(3)は資源調査法にもとづいて施行された「人口調査」である。(4)は当時の連合国軍総司令部の指令にもとづく「配給人口調査」である。昭和22年3月に「統計法」が制定され,以降の国勢調査はこれにもとづいて施行された。

 戦後は25年調査以降,30年,35年,40年,45年と調査が継続された。各回の調査に付加された調査項目は漸次増加し,調査内容が拡充された。筆者はその内容を逐一紹介しているが,ここではその記述を省略する。

 「3.国勢調査結果の概観」では,人口増加と年齢構成の変化,人口の地域分布とその変化,就業者の産業・職業別構成の変化が適当な表の配置をともに示されている。掲げられている表は,次のとおり。「わが国人口の増加と増加率の推移」「人口の年齢(3区分)構成の推移」「労働力率の推移」「人口階級別都道府県の人口」「人口増加県の自然増加率と社会増加率」「人口減少県の事前増加率と社会増加率」「市町村数の推移」「市部,郡部別人口の推移」「就業者の産業(3区分)別割合の推移」「産業(3区分)別就業者の増加」「第2次産業就業者数の推移」「第3次産業就業者数の推移」「職業(大分類)別就業者数」。   
筆者は最後に国勢調査に使われた職業分類,産業分類に言及している。国勢調査施行の過程が同時に職業や産業についての分類体系の整備の過程でもあったという筆者の認識があるからである。

薮内武司「国勢調査前史-明治人口統計史の一齣-」『日本統計発達史研究』法律文化社,1995年

2017-01-18 00:27:22 | 11.日本の統計・統計学
 本稿のオリジナル論文は,同名で『岐阜経済大学論集』(第11巻第1・2号[1977年6月],第18巻第1号,2号[1984年3月,7月])に掲載されたものである。
日本の国勢調査は,1920年(大正9年)に,第一回目が実施されたが,その前史には紆余曲折があった。難産の末,西欧諸国での実施からかなり遅れてのスタートであった。本稿ではそのプロセスが詳細に,紹介,検討されている。

 上杉正一郎「日本における第一回国勢調査(1920年)の歴史的背景-統計史にあらわれた日本資本主義の特質について-」(1960年),松田泰二郎「国勢調査発達史」(1948年),泉俊衛「国勢調査」(1971年)などの先行研究の成果をおさえ,また当時の一次資料を豊富に活用し,当該テーマを体系的に論じている。全体の構成は,次のようである。

 「はじめに」「1.発端期の人口統計:(1)人口統計史序,(2)人口統計の端緒『駿河国沼津・原政表』」「2.人口統計の期限:(1)戸籍編成と人口調査,(2)『戸籍法』制定と戸口調査」「3.人口統計の胎動:(1)太政官政表課の設置,(2)「甲斐国現在人別調」の実施,(3) 「甲斐国人員運動調」の中絶」「4.国勢調査の濫觴:(1)国勢調査序史,(2)『全国人口調査』暗礁に,(3)民間統計団体の促進運動,(4)人口動態統計の整備」「5.国勢調査促進運動の本格的展開,(1)国際統計協会からの勧誘,(2)『国勢調査ニ関スル法律』の制定,(3)『国勢調査』の由来,(4)1905年『国勢調査』の暗転」「6.地域と人口調査:(1)地域人口センサスの勃興,(2)植民地と人口調査」「7.第一回『国勢調査』の実現へ:(1)1910年『国勢調査』の見送り,(2)民間統計団体からの建議,(3)日本資本主義の展開と国勢調査,(4)軍事的要請と国勢調査,(5)再々度,民間統計団体からの支援,(6)1920年・第一回『国勢調査』の決定」「むすび」[補論 第一回『国勢調査』の概要]  

 以下,筆者の案内にしたがって,日本の人口統計の発展過程をたどり,第一回「国勢調査」実施にいたる足跡をたどることにしたい。

 日本の人口統計の発展は,明治維新後に始まる。その過程で大きな役割を果たしたのは,杉亭二である。杉は1869年(明治2年)に駿河国を対象に人口静態調査(駿河国人別調)を行った。日本での最初の人口静態調査である。この調査では標識別の分類・整理および統計製表化の基本構造が取り入れられ,初歩的ながら統計解析もなされている。

 明治期の人口動態統計は,維新政府の戸籍編成作業と軌を一に進行した。戸籍法(いわゆる検戸の法)が公布されたのは1871年(明治4年),この戸籍法にもとづいて1872年(明治5年)1月29日現在の戸口調査が行われた。その内容には多くの難点(前近代性)を内包していたが,採用された一戸ごとの点計主義の調査方法,さらに戸籍票・職分表の作成など,日本の人口静態統計,動態統計の起点に位置するものである。

 しかし,戸籍にもとづく戸口調査を基礎にした人口統計作成に批判的であり,「人別調」と「戸口調」とが本質的に異なるとの認識にたっていた杉は,全国人別調の必要性を建議した。しかし,おりから中央統計機関としての機能をはたすものと考えられていた太政官製表課が縮小される憂き目にあい,くわえて西南戦争という事態が生じ,杉の建議はなかなか受け入れられなかった。宿願は「甲斐国現在人別調」(1879年[明治12年]12月31日現在)として実現した。筆者はこの「甲斐国現在人別調」について次の評価を与えている,すなわちこの調査は「杉が多年にわたり吸収,蓄積につとめた統計思想を具体化させたものであった。しかもその後,欧州先進国諸国の統計理論,とくにドイツ社会統計学を体系的に学ぶ機会を得ることによって,科学的な認識のもとに実践化された日本の統計調査史上初の試みであった」と(176頁)。

 「甲斐国現在人別調」の意義をこのようにまとめた筆者は,この調査の集計方法,調査時点の設定の仕方,調査を「現在」人口(常住的家族人口)とした根拠,職業属性の調査方法,満年齢による観察など,具体的に詳しくその内容を点検している。(その後,人口動態調査「甲斐国人員運動調」(1883年[明治16年])が統計院によって企画されるが,同年12月の内閣制度の大改革に遭遇し,頓挫)。
杉にとって「甲斐国現在人別調」は,国勢調査の予備的試験調査の役割をもつものと,意識されていた。すなわち,この調査は「全国現在人別調」につながるはずのものであった。しかし,事態は思うとおりに進まなかった。財政問題,専門スタッフ(統計職員)の不足,中央統計機構の機構改革(機能縮小)がその前途をはばみ,杉は「甲斐国現在人別調」に続き,「全国現在人別調」の前段に行われる予定であった東京府の人口調査も断念している。もっとも,この間,人口統計の整備が全く進まなかったわけではない。戸籍業務にもとづく人口動態統計の整備は,地道に取り組まれていた。人口静態統計調査は1898年に第一回調査が実施され,以来5年ごとに取り組まれ(精度の低さは否めなかったが),その中間年次には人口動態統計での補完があった。また,政府レベルでの国勢調査に向けた足取りの遅滞とは裏腹に,民間レベルでの統計団体の不断の取り組み,統計関係者の熱心な啓蒙活動には見逃せないものがあった。1876年(明治9年)に結成されたスタチスチック社,1878年(明治11年)に創立した東京統計協会の活動がそれである。杉亭二,呉文聰,高橋二郎,横山雅男,臼井喜之作,相原重政などの統計関係者は断続的であったが,国勢調査促進の運動に関わった。

 停滞していた国勢調査実施の動きは,国際統計協会から日本政府にあてられた1900年「世界人口センサス」への参加勧誘を契機に再燃する。すなわち,国際統計協会は1985年8月にスイス・ベルンで開催された会議で,世界人口センサスの実施が提案,決議された。この決議は,同協会・報告委員ギュイヨーム(スイス連邦統計局長)より,日本の内閣統計局長に伝達依頼された。この勧誘は沈滞気味であった国勢調査促進運動を活発化させた。具体的には,国勢調査促進運動に長年にわたり展開してきた東京統計協会による建議の提出,衆貴両院議長への請願の提出などである。しかし,この機に及んでも政府の対応は鈍かった。政府の方針は,人口センサスへの参加より,統計専門機関の整備が先決であった。確かに,ぬきさしならない事情はあった。朝鮮出兵,日清戦争開戦,台湾占領などにともなう軍備拡張,戦後経営の負担である。結果として,種々の要望はむなしく,1900年人口センサスの施行は実現とならなかった。

 その後,1898年(明治31年)6月,伊藤博文内閣総辞職,初代統計院長を務めた大隈重信内閣の成立で事情は,変わる。同年10月22日,内閣統計課は内閣統計局に格上げがそれである。職員は拡充され,統計業務に国勢調査の研究が位置付けられ,欧米への実地調査が組まれるにいたる。民間レベルでは,東京統計協会,統計学社,統計懇話会の3団体において,「人口調査審査委員会」が選出され,国勢調査に関する予算,方法などの検討に手がつけられるようになる。こうした動きに支えられ,1902年(明治35年)2月18日,「国勢調査ニ関スル法律案」が衆議院へ提出され,3月6日,両院を通過し,12月1日,公布の運びとなった。

 ここまで来れば国勢調査の実施は可能なようにみえるが,政府は国際環境の変化,財政難などを理由に,この種の全国的規模の調査が未経験であったことも手伝って,その実現に踏み切れなかったようである(調査項目の検討などでは一定の前進はあった)。1905年,1910年,1915年と調査は見送られ,実現されたのは漸く1920年のことである。筆者はこの間の事情,例えば地域人口センサスが相次いで実施されたこと(熊本市,東京市,神戸市,札幌区,新潟県佐渡郡,京都市),植民地台湾で戸口調査が行われたこと(1905年),朝鮮では土地所有権の再確認という名目で土地調査が行われたこと(1910-18年)を紹介している。筆者はこれらの調査の内容を詳らかにしている。

 1920年国勢調査実施は,寺内正毅内閣(軍閥内閣)によって断行された。それは第一世界大戦の最中の1917年(大正6年)の第39回特別議会においてでった。翌1918年の第40回議会で第一回国勢調査費を含む予算が成立し,調査実施の段取りが一挙に進んだ。背景に軍事大国への傾斜を強めた当時の情勢があったこと,国勢調査の実現が軍事上の必要に基づいて推進されたことは否定できない。第一回国勢調査の実施を前にして,1920年5月15日,内閣統計局と軍需局とが併合され国勢院が設置され,併行して軍需工業動員法(1918年),軍需調査令(1919年)が公布された。(高野岩三郎は,軍事上の必要性が突出することに対し学問的立場から反論した)。そのことを明確に示した資料として,筆者は当時の牛塚統計局長から上原勇作参謀総長にあてた意見書「国勢調査ノ軍事上必要ナル所以」(1917年[大正6年]7月)の全文掲げている(237-9頁)。

 なお本文中で,筆者は国勢調査という名称の由来を明らかにしている(207-8頁)。それは「国の情勢」という意味である。センサスの訳語として「国勢調査」あてられたのは,国民が理解しやすいようにという宣伝効果が考慮されてのことであった。

三潴信邦「K.ラートゲンの統計学」『統計学』第33号,1977年9月

2017-01-07 01:20:35 | 11.日本の統計・統計学
K.ラートゲン(Karl Rathgen;1856-1921)[筆者はラートゲンの生年を1855年としているが1856年の誤記]は,ドイツの政治学者で,1882年4月東京大学文学部に政治学担当の外国人講師として着任し政治学の教鞭をとり,「統計学」の講義も担当するようになった。本稿は,そのラートゲンの統計学がどのようなものであったかを紹介したもの。    
全体は3つの部分にわかれ,第一の部分はラートゲンが東大で行った講義科目について,第二の部分はラートゲンの講説(寺田勇吉訳)「スタチスチックは何を為得るか又何を為得さるか」の全文,そして第三の部分はこの講説から筆者が読み取ったラートゲンの統計学理解の内容である。以下は,本稿の要約である。     

 1882年4月から,ラートゲンは文学部「政治学及び理財学科」で政治学(国法学,行政学)とともに「統計学」を講じた。後者はこの年度に改正された学科課程のもとで彼の提案で新たに設置された科目である。「統計学」のカリキュラム上の位置づけは政治学専修の予備(補助科目)であった。その内容は,『明治十五年度の大学年報』によると,欧州各国の状態,勢状,通信の発達増加,産出物又は機械使用の多寡などの統計比較となっている。また,『東京帝国大学学術大観』によれば,ラートゲンの「統計学」では,欧州諸国の統計的事実をStatesmans’Year-Bookなどを使って講義されていたようである。筆者はこのことを指して,あたかもゲッチンゲン大学教授G.Achenwallが『欧州諸国国家綱要』を参考に講義していた姿を彷彿させる,と述べている。ラートゲンは東京大学以外でも共立統計学校(1883年9月創設)で「貿易調査論」を,独逸学協会学校(1883年10月創設)で「行政学」を講じて。ラートゲンはその後,1890年まで東京大学の教壇にたち,帰国後Marburg大学で教授職に就いた。

 筆者はラートゲンの「統計学」の内容を知るために,『スタチスチック雑誌』の明治21年(1888年)4月号に掲載された彼の講説「スタチスチックは何を為得るか又何を為得さるか」の邦訳の全文を掲げ,彼の統計学観を伺い知ることができる部分にアンダーラインを付している。

 筆者がまとめたラートゲンの統計学観は,以下のとおりである。(記述の仕方は筆者のそれを尊重しているが,まったく同じではない)
(1)【方法学としての統計学】ラートゲンは「統計学」を他の諸科学に利用される方法の科学として理解していたようである。少なくとも「論理学の一部分」と位置づけられている。歴史的存在である対象によって方法が規定されるという自覚はなかったようである。
(2)【大量観察法と帰納法】スタチスチックはその方法として「単独の事物を採用すべからず」とし,「常に集合調査を要す」と断言している。論理学における帰納法と,集合調査から規則性を見いだす方法とが形式上類似しているという指摘にとどまる。
(3)【統計資料からの推測】ある調査結果から,たとえば「人民の貧富鑑定」を推測することはできるが,「比推測法の如きはきわめて危険」である,すなわち統計資料のみから社会的事実,社会的法則を定立することの危険性を指摘している。統計資料の過信,数理主義=科学的との妄信は,ラートゲンの時代にもあったようである。
(4)【統計数字の濫用と官庁統計利用上の注意】例をあげて,統計の濫用,誤用を戒めている。統計利用者として肝要なのは,統計資料の獲得,生産過程を吟味すること,数字の正確性と信頼性を検討することである。
(5)【被調査者の利害と統計調査】統計調査における調査者と被調査者との関係は対等でない,被調査者の利害にかかわることの多い経済統計の信頼性と正確性の吟味がとくに重要であるとの指摘がある。
(6)【第二義統計利用上の注意】貿易統計を例にあげて,貿易の実際と統計記録(業務記録)との相違を知ったうえで利用しないと,事実の認識を誤ることになる。
(7)【平均の虚構性】「住民一人について」という表章の方法で各国間の比較(紙の使用量)を行うことは意味がないことの指摘。
(8)【統計分析≠因果分析】スタチスチックは集団のもつ規則性について説明するだけであり,そこからただちに因果分析に結びつけることはできないとの指摘。「蓋然性」を知るのみ。
(9)【数量分析の必要性】数量分析で不景気の程度を示すことはできるとの指摘。
(10)【統計比較上の注意】スタチスチックは比較が大切との指摘。統計資料を用いた経済分析では何らかの意味での比較という過程が不可欠。
(11)【平均,比例数について】実数がどんなに正しくとも,平均値,比例数という加工値の利用を誤れば,大きな誤認につながることの指摘。
(12)【統計利用のすすめ】「スタチスチックの濫用は…最恐るべきものなるに疑ひなけれ共…落胆すべきものにあらず。…百般の学術皆然らざるはなし」と結んでいる。
 筆者は次のようなまとめを行って本稿を閉じている。「ラートゲンが担当した政治学,財政学,そして統計学という,今日では一見異質の学問分野のようにみえるものは,実はドイツ統計学においては決して無縁のものではなく,むしろ『社会科学としての統計学』という統計学本来の性格をふまえた統計学観がK.ラートゲンの演説にもあらわれている,と考えられる」と(91頁)。


木村和範「1925年イェンセン・レポートとボーレー-2つの代表法の対立-」『学園論集』(北海学園大学)第99号,1999年3月

2017-01-04 00:52:05 | 3.統計調査論
 構成は次のとおり。「はじめに」「1.イェンセン・レポート(1925年)-2つの代表法-」「2.ボーレーの見解-精度の測定-:(1)パラメータ推定のための2つの方法,(2)層別化による精度の向上,(3)有意選出法の批判」「3.イェンセンの反論-有意選出法の擁護-」「むすび」

 ISIの「統計学における代表法の応用を研究するための委員会」(1924年5月設置)は,1925年のISIローマ大会に「統計学における代表法に関するレポート」を提出した。委員会はボーレー,ジーニ,イェンセン,マルシェ,スチュアート,チチェックで構成され,上記レポートの報告責任者はイェンセンであった(イェンセン委員会)。このレポートによって「一般化」を目的とする一部調査の方法(代表法)が統計調査の一形態として位置づけられたが,有意選出法(キエール)と任意抽出法とはそれぞれ長所と短所をもつものとして併記された。筆者は本稿で,このイェンセン・レポートを検討し,ローマ大会以後のボーレー=イェンセン論争を考察している。

 イェンセン・レポートは3つの部分で構成されている(資料「1925年ISIローマ大会におけるイェンセン委員会の提案」としてその全文が掲載されている[193-4頁])。第一の部分では「一部調査」「代表法」「任意抽出」「有意選出」「標本」の基本タームの定義が示されている。第二の部分ではこれらの用語が比較的詳細に論じられている。第三の部分では,イェンセン委員会が起草した「提案」である。
このレポートの概要は,筆者の要約するところ,次のとおりである。(1)全数調査とは対照的に区別される一部調査を,統計調査の一形態と認めた。(2)一部調査のうち,調査結果の「一般化」を目的とする統計調査を代表法と命名した。(3)この代表法には,任意抽出法と有意選出法とがあるとして,これら2つの一部調査の間にある理論的対立をそのままに,いずれについても「一般化」のための一部調査の方法としてその意義を認め,両者を並列的に取り扱った(以上,165-6頁)。

 任意抽出法と有意選出法の併記は,レポート起草の背景にこれらのそれぞれを推す論者の間に対立があったからである。ボーレーがレポート起草の翌年(1926年)に任意抽出法を擁護する論文を書き,続いてイェンセンがそれを批判する論文を1928年に執筆していることから,そのことが分かる。
 筆者はボーレーとイェンセンの2つの論文の内容を検討している。「むすび」にそれぞれの要約があるので,引用する(187頁)。

「任意抽出学派」を代表する論者は,ボーレーである。ボーレーは層別化が推定の精度を向上させること,有意選出では対照標識の増加はさほど推定の精度をさせないことの2つの主張から,有意選出法には批判的な意見をもって,層別任意抽出法を推奨した。その際,ボーレーは,推定の数学理論としては,大標本理論にもとづく推定方式とベイズの定理による推定方式の2つを定式化・併記して,いずれの推定方式にも等距離の姿勢を保ち,甲乙をつけることはなかった。

他方,イェンセンは単一パラメータの推定の精度を基準に,2つの代表法の優劣を論じたボーレーにたいして,調査の実際はその想定よりもはるかに複雑であると述べた。そして,デンマークでの有意選出の経験(1923年のデンマーク農業センサス)にもとづいて,適切な対照標識を選択すれば,それによって代表標本の獲得が可能であると述べ,有意選出の有効性を主張した。また,ボーレーの精度公式を援用して,対照標識と単位グループを増加させれば,有意選出でも,必要な精度が確保されるとボーレーを批判した。

筆者はこの後,補足を付している。重要な指摘があるので,要約する。有意選出では対照標識を媒介にすることで,センサスと標本とが対照される。この対照によって,標本の代表性が判定される。有意選出はこの意味で,センサスを前提とした標本調査である。標本調査がセンサスを前提としなければならないとすると,その実施範囲は限定される。センサスを前提としない標本調査が構想される根拠は,この点にある。

 任意抽出法はセンサスの実施を前提としないので,その実施可能性は広がる。しかし,一般に任意抽出がセンサスを前提としないということは,対照標識を用いてその代表性を判断できないことになる。標本特性値の確率分布(いわゆる標本分布)が与える推定の精度によって推定の良好性を判断するのは,このためである。

 ボーレーは推定の精度を測定するために,大標本による推定方式(直接的方法)とベイズの定理による推定方式(遡及的方法)を定式化した。ボーレーが実査で使った方式(1912年レディング調査)は,直接的方法である。それは,今日頻繁に使われている抽出率より高く,そのために標本は大きい。パラメータに擬制しうる代用値を得るには「大標本」が必要だからである。そうであれば,調査のための時間,労力,経費の節約とは,整合性があるのだろうか。大標本理論に代わる方法は,遡及的方法だけであろうか。

 遡及的方法はベイズの定理にもとづくものなので,この場合にはいくつもの母集団の存在を想定することで,その母集団の確率的発現が前提とされるような工夫が必要である。しかし,いくつもの母集団の存在を仮定することは,非現実的なことである。しかも,ベイズの定理を利用する多くの場合には,母集団の発現確率(事前確率)が均等であると想定される。筆者は,母集団が多数あって,これが確率的に発現することを認めたとしても,その事前確率均等仮説の根拠は何か,と問うている。

有意選出の理論から任意抽出を考察すると,後者における標本の大きさが向上させる精度は誤差を確率的に評価することによって測定されるが,確率的評価には不確実性がともなう。筆者はこの点にかかわって,不確実性をともなうことなしに,代表性を判断することはできないのであろうか,と問題を投げかけている。

内海庫一郎「標本調査をめぐる諸見解(上)」『国民生活研究』第18巻第4号,1979年3月

2017-01-02 01:06:04 | 3.統計調査論
 筆者が本稿で意図したのは,標本調査をめぐって従来展開されてきた議論の概要を示すことである。この課題には,標本調査法に関する主要文献の所在を示すこと,それらの文献で取り扱われた諸問題とその意義を明らかにすること,そしてそれらの問題に対する解答とその論拠を述べること,諸問題の相互の関連を提示することが含まれる。

 このテーマを取り上げたのは,統計生産の過程で標本調査が多用され,この手法によって生まれてきた統計資料に日常的に接していながら,この手法に無関心でありがちなので,この過程で何が行われているのか,またそうした統計資料を処理する場合の諸原則を確立し,できればこの調査法の改善の道をさぐりたいからである。世間では標本調査法が科学的調査法とみなす考え方がまかりとおっているが果たしてそうなのか,ということである。筆者はむしろ有意抽出調査の方が優れている,という見解をもっていることを,予め表明している。

 構成は次のとおり。「はしがき」「第1章:国際的レベルでの標本調査理論,第1節:キエールの標本調査論-先駆的発言,第2節:ジェンセン及びボウレーにおける標本調査法の確率,第3節:ネイマンの有意抽出批判と層別任意抽出法の推奨,第4節:ブリントによる『配列原理』(有為抽出)の擁護」。

 標本調査法の提唱を公の場で提唱したのは,ノルウェー統計局長のA.N.キエールである。キエールは1905年のISIベルン大会で「代表調査に関する観察と経験」という報告を行い,代表法の利点を表明した。報告は全数調査に代わるものとしての代表法(標本調査法)ということではなく,それを補充する方法としての部分調査の意義を唱えたものである。部分調査における全集団の「縮図」の研究である。キエールは代表法の単位の選出方法については有意抽出法と系統抽出法に依り,任意抽出法に関しては特に論じていない。

 このキエールの報告に対しては,マイヤー,ボルトキエウィッチが反対した。いうまでもなくマイヤーの見解は悉皆調査(全数調査)擁護の観点からであり,ボルトキエウィッチの見解は全体群と部分群との数理的関係の保障(確率論)の観点からであった。キエールはこれらの反対論に関わらず,自らの見解を主張し続け,その努力は1903年ISIベルリン会議の決議に結実した。キエールの歴史的功績は,国際統計協会という舞台で,標本調査法の思想的独立のために闘ったことである(p.3)。     
標本調査法に対する反対の表明はキエール以降も続いた。ジェンセンは代表法=標本調査法に対する批判をはねのけ,代表法の有用性を擁護する議論を展開している。1924年のISI第13回大会では再び標本調査法の問題がとりあげられた。背景には,第一次世界大戦が勃発して以降,統計調査への需要が高まり,代表法によるそれが頻繁に行われるようになったという事実があった。その結果,1925年のISI第14回ローマ大会で,ジェンセンは「統計学における代表法に関する報告」をその附録「実施された代表法」とともに提出した。また,このジェンセン報告に付随してボウレーも「標本抽出によって達成された精度の測定」と題する報告を提出した。両者の報告をベースに,この会議が決議を採択したが,その原文はジェンセンが起草したものである。この決議では,標本調査が全数調査の不可能な場合においてその代用物として利用できること,全数調査に対する補助的な指標獲得のために,さらに労働,時間および費用の節約のために推奨されるべきこと,標本は十分に全体を代表しなければならないこと,有意抽出が無作為(任意)抽出とならんで標本抽出の二形態として認められるべきことが示されている。この時点ではジェンセンもボウレーも任意抽出も有意抽出も並列的に考えていたようである。ただし,ジェンセンにあっては有意抽出に関心が高く,ボウレーにあっては有意抽出を議論する場合にもこれを任意抽出にひきつけて研究しているという違いはある。  

 ジェンセンとボウレーの後に登場するのが,ポーランド出身の数理統計学者J.ネイマンである。ネイマンの所説は階層別ランダム・サンプリングと有意抽出の方法とを比較し,有意抽出を否定し,無作為抽出を評価するというものである。このネイマンの有意抽出否認論以降,サンプリングの方法として有意抽出が不可で,標本調査といえば無作為抽出であるべきという観念が一般化するようになった。筆者は,それはそれとして,しかし,ネイマンが有意抽出法に対置しているのは層別比例抽出法型の無作為抽出法であることを指摘している。すなわち,ネイマンは層別任意抽出法とくに比例抽出法を推奨し,さらに各層の等質性の程度を考慮して単位の割り当てを変えるということを提案している(ネイマンの割当法)。筆者によれば,これは任意抽出法の修正ではなく,任意抽出法への有意抽出原理の導入である。また,ネイマンによる有意抽出に対する批判の要点は,彼が有意抽出法の第一次的前提とする研究標識のコントロール標識の上での回帰の一次性という仮定が現実には一般に充たされず,両者の回帰の型について何ら定まった仮説を設定しえないとき,推定値が不偏推定値であることをやめる,というものである。この批判は任意抽出にひきつけた議論であり,有意抽出にはそもそも仮想的な標本特性値の分布などは存在しないのであるから,批判のポイントがずれている。

筆者は第一章の最後に,ドイツ社会統計学の系譜にいるブリントの所説に言及している。ブリントは「実在的母集団から代表的標本を獲得するための原理と方法」で,英米数理派統計学者の標本調査法問題への確率論的接近と真っ向から対立する見解を表明している。問題は実在的母集団からの代表的標本の抽出であるが,その方法は,ブリントによれば2つあり,一つは配列原理による代表法で,もう一つは確率原理による抽出法である。配列原理による代表法はあらゆる範疇の単位が母集団に対する割合に応じて抽出されることがかなり確実に保証される。これに対し,確率原理による抽出法では,多少とも一面的な極端に例外的な標本の構造をとることがある。ブリントはここから進んで,配列群,集落の抽出,多段抽出のような種々の方法の積極的配列効果とマイナス効果とを考察し,体系的抽出原理を検討するが,要は有意抽出の任意抽出に対する優位の主張になっている。層別,集落化というものの方法的意義を自覚し,任意抽出ないし確率原理とは正反対の原理として取り扱っている。当然,判断原理の終着点に確率原理が想定されることはない。