社会統計学の伝統とその継承

社会統計学の論文の要約を掲載します。

「上杉正一郎」『日本における統計学の発展(第37巻)』(聞き手:広田純,三潴信邦,田沼肇,山田耕之介,伊藤陽一[1981年11月22日,12月12日,12月26日],於:世田谷下馬の上杉宅)

2016-10-01 22:13:46 | 13.対談・鼎談
「上杉正一郎」『日本における統計学の発展(第37巻)』(聞き手:広田純,三潴信邦,田沼肇,山田耕之介,伊藤陽一[1981年11月22日,12月12日,12月26日],於:世田谷下馬の上杉宅)

 このインタビューは3日間かけて行われた。前半は生い立ちから終戦まで,後半は復員以後となっている。

 主として上杉の研究業績に関わる後半から要約する。上杉は大連から1946年3月に引きあげで戻ってから国民経済研究会で委託を受けて仕事をした。「日本の工業における添加価値並に剰余価値率の研究」がその時の仕事である。それから商工省の調査統計局に入り,基本統計課で工業統計表作成にたずさわった。統計委員会からもちかけられた仕事がほとんどであった。他に毎週一回,教養講座を担当しゼムストボ統計家の話など,啓蒙活動を行った。行政の不合理がずいぶんあり,「統計を守れ」とか「専門の統計家に統計行政を任せよう」などの声がくすぶっていた。統計委員会がGHQの意向に従順すぎ,そのことに対して不満を述べる職員はいた。

 1949年の定員法による首切り(レッドパージ)では,局長にそのリストを焼かせたということが巷間に伝えられている。しかし,8月15日に解雇通告が出た。上杉らはハンストで闘った。ストライキの主張もしたが,それは内部でも批判的に見られていた。
上杉の研究上のテーマは,近代経済学批判,統計の階級性,人口問題研究などである。学生時代に蜷川ゼミに所属し直接指導を受けたので当然,蜷川統計学との関連が問われる。インタビューはそのあたりのテーマに入り,佳境となる。上杉には「近代理論経済学批判-中山教授の俗流性-」伊豆公夫編『近代主義批判』(1949年3月)がある。戦後にあらわれた最初の近経批判の論文ではないか,と山田が補足している。

広田が上杉に,近代経済学批判の仕事はその後の統計学研究とどうかかわっているのかを聞いている。この質問に対し上杉は,近代経済学批判が主で,そのことのなかに統計批判の問題が入ってくると考えていた,と応えている。
社会科学あるいは経済学を研究するということは,批判を行うことだという意識があったのではという山田の質問には,「それは強いです」と同意している。関連して近代経済学の内在的批判,超越的批判の話題に傾くなかで,上杉の「近代経済学誕生の歴史的背景」『経済評論』(1949年8月号)が紹介される。

『マルクス主義と統計』(1951年11月)は,各方面に反響をよんだ本である。上杉が農林統計協会にいた頃の仕事である。津村善郎が『統計学へのいざない』で引用し,井上昭丸に誉められた。田沼は,当時としては,この本が国際的な視野で書かれているので,印象が強かったと回顧している。

 経済統計研究会の創立の頃の話題に話が及ぶ。上杉は研究会の形をとったのは,1953年ではないかと,記憶を呼びもどしている。実際に勉強していたのは,1950,51年頃からである。『統計学』の創刊は1955年,第一回全国総会は1957年(関西大学)。広田によれば,東京では原宿にあった政経研究所の会議室で会合をもった。上杉が関西からかけつけて,東京での発会を呼びかけた(1954年9月2日)。10月1日,丸山博が結核統計の報告をした。最初の研究会であった。東京ではこの研究会を統計懇談会と呼ぶようになる。経統研の関東支部になることに相原茂,内藤勝が反対したからである。統計懇談会の座長格に正木千冬がおさまった。しばらく,経統研と統計懇談会が2本立てになっていた。前者には東京在住会員として個人として加わることになった。しかし,そのうち懇談会参加者がジリ貧となり,経統研メンバーだけになってしまったので,いつの間にかこれが経統研の関東支部になったというのが経緯のようである。北海道支部の発足は1956年である。この辺りは,広田が問題整理を行っている。

 上杉には人口論関係の業績がかなりある。「戦後における新マルサス主義」(1955年),「戦後日本における人口動態の特質-多産多死から少産少死への転換の社会的意義について」(1962年),「ソ連邦における出生率の低下傾向について」(1971年),「日本の人口問題(1)[年表]」(1975年)などである。上杉によれば,この分野に関わるようになったのは全くの偶然である。しかし,もともと関心があり,ロシア語の本とか,人口問題関係の本を比較的多数集めていた。人口統計の研究をしなければいけないということではなく,人口問題を論じるために統計にも関心をよせたというのが実情である。人口は自然現象でありながら,社会現象とも重なりあう部分があり,社会科学的な考察をしなければいけない。上杉の論文はそういう問題意識を強く訴えかける内容になっていた,と山田は述懐している。上杉は,この山田の見解を切っ掛けに,同じ問題がスモールサンプリングの場合にもあったと指摘する。上杉には,これらの問題を含めて,非科学的なものとの闘い,批判的に立ち向かう姿勢が一貫して流れている(田辺,山田)。不正に対しては,敏感な感覚をもっている(三潴)。

 上杉の統計学には,マルクス,レーニンの古典の解読と蜷川統計学が基礎にあると言われる。話はこれらに及んでいる。あまり知られていないが,長谷部文雄・鬼塚安雄『資本論全3巻索引』に収録された「年代順事項索引」は上杉の労作である。京都大学に入ってから『資本論』を読む研究会に参加しながら,カードを作っていた。他方,上杉は蜷川の集団論にあまり関心がなかった,純解析的集団を社会科学としての統計学のなかで何らかの位置をしめるというふうに考えなかった,という。蜷川の書いたものからの引用は,論文「統計の解説,批判,解析」あるいは『統計学概論』の第三章が多く,読むべき重点としてそれらを挙げている。集団か集団でないかということは,それほど重要な問題ではないと思っていた。上杉は,どちらかというと統計学を抜きに(統計的法則ということなど気にせず),直接マルクスの経済学をベースに議論していた,と述べている。

 上杉によれば,蜷川は統計学を厳密に統計学としてとりあげ,唯物論とか客観的法則とかをきちんとして展開していた。蜷川のゼミでは内海庫一郎がゼミ生だったころは封建論争についても議論されたかもしれないが,上杉が入った頃にはそういうことはなくなっていた。ゼミでは工業統計をしたかったので,これをテーマにしたが,あまり理論的な成果はなかった。
 山田はここで,上杉が蜷川統計学のなかから育ったが,その統計学にとらわれていないと私見を述べる。上杉はこの見解に同意している。確かに,上杉の人口統計,工業統計を論じたものにはマルクス,レーニンの理論を総論とし,それをおさえた上での各論となっている。広田の言葉を借りれば,上杉統計学の特徴は,統計を基礎概念にすえて,統計を社会の精神的な生産物としてとらえ,その歴史性,階級性を徹底的に追求した点にある。

 広田は,上杉がある箇所で,統計は社会の上部構造と規定している,と指摘する(「<外国統計調査年表>について」)。これに応えて上杉は,統計が上部構造だと言った時の気持ちは,社会の土台が生み出したものだという意味を込めたと述べている。他の上部構造(宗教,芸術)と異なる点は,統計が認識結果であると同時に,認識の手段でもある。認識手段であるために,方法という考え方が出てくる。統計は,社会が生み出した認識手段であるというのが上杉の見解であり,『経済学と統計』の最初のところで書いたことである,と言う。
 本論稿はインタビューの内容を前半と後半とで逆転させたが,後半はおおむね以上のとおりである。前半は,「生い立ち・ご両親のこと」「一高時代・戸谷事件」「東大入学・滝川事件・『赤門戦士』」「京大時代・蜷川先生・奥様のこと」「大連生活・応召・敗戦・市政府のもとで」となっている。

 生年は1912年(大正元年)8月4日。母の実家があった長崎で生まれる。父親は上杉愼吉,母親は信子。父親は結核性脳膜炎で死去(享年52)。東京高等師範付属中学卒。一高の文科乙に入学。高校に入って「戸谷事件」が起こる。戸谷敏之という学生が東大の入学試験に合格しながら,一高卒業後,思想事件にかかわったとして,退学処分にされたというもの。上杉らは校長室に押しかけ抗議したという(戸谷はその後,法政大学に入るも,フィリピンで戦死)。
上杉は1933年(昭和8年)東大経済学部に入学。入学後滝川事件が起こる。上杉は出身校別の代表者会議で一高代表となる。学生大会に参加。共産青年同盟に入る。今井正(後に映画監督),牧瀬恒二,菊池兼一などがいた。1934年2月に一斉検挙にあう。一度出所するが1935年2月に再逮捕。治安維持法起訴猶予で7月に出てきたが,試験をぼうにふり,大学に嫌気がさし,親戚のつてで京都大学に再入学する。

蜷川ゼミに入り,大橋隆憲,木村太郎,朝野勉らと『資本論』の学習会をもつ。1938年に一度,警察に捕まる。1939年4月,京都大学卒業。大連市調査事務局に嘱託として入り,関東州工業の調査を行う。一度内地に戻る。後に妻となる昌子とは1937年に東京外語大学の20日間のロシア語講座で知り合いになった。昌子は当時,京都医専の学生だった。

 1941年6月,再び大連へ。大連市の調査室に就職。大連市の生活物資,交通問題調査に従事。また大連市の経済年表を作成。1945年5月に,鈴木重蔵らとともに召集を受け,入隊。輜重兵として朝鮮と満州の境にある石頭鎮で駐屯。その後,安東に移り,そのまま終戦。各自ばらばらに大連に戻る。日本への引き上げは1947年3月末。

コメントを投稿