社会統計学の伝統とその継承

社会統計学の論文の要約を掲載します。

「大橋隆憲」(聞き手:野村良樹,浦田昌計,𠮷田忠,奈倉道隆,五十嵐光男,川口清史,野澤正徳,泉弘志,木下滋)『日本における統計学の発展(第51巻)』(1982年9月23日,於:大橋宅)

2016-10-01 22:21:19 | 13.対談・鼎談
「大橋隆憲」(聞き手:野村良樹,浦田昌計,𠮷田忠,奈倉道隆,五十嵐光男,川口清史,野澤正徳,泉弘志,木下滋)『日本における統計学の発展(第51巻)』(1982年9月23日,於:大橋宅)

 浦田昌計が質問の口火を切り,大橋が戦前,戦後をどのように過ごしてきたのかを尋ねている。この時期は大橋が東京大学文学部で宗教社会学を学び,その後京大に移って社会科学の,とりわけ統計学の研究の道に入った頃である。
大橋は浦田の質問に対して,次のような回答をしている。自分のこれまでの一生は,反戦運動のそれであった。秋田雨雀(青年劇場)の影響,関東大震災の経験(朝鮮人に対する迫害に対する父親の弁護),急性浦和高校時代の後半に全国農民組合の埼玉県連,戦闘的無神論者同盟の仕事を手伝ったこと,智山専門学校で一年間,それから東大文学部宗教学科で宗教学を学んだこと,矢吹慶輝にチベット語を教わったこと,京都に勉強するつもりで来たのだが特高につけまわされたこと,京大を卒業し経済学部の助手になったが,文部次官に辞表を書かされたので知恩院の華頂高等女学校に勤めたこと,再び東京に戻って協調会にいったん入り,それから日本鋼管に入社し会計科で銭勘定をしているうちに戦後になった,ことなど。戦後は日本鋼管本社の労働組合委員長,東京工大(大岡山)の統計学担当で3年,それから京大に帰ってきた,と大橋は淡々と述懐している。反戦運動の歴史を纏めたいと結んでいる。

 浦田が宗教社会学との関わりを再度,質問すると,大橋は宗教学といっても宗教哲学,宗教社会史が具体的内容で,ヘーゲル,フォイエルバッハ,マルクスにつながる宗教批判に関心があったこと,そして大学院生時代に曹洞宗の寺院経済調査にも関わった経験を補足している。京大に来たのは河上肇の流れにある環境のなかでマルクス主義の基本をしっかり学びたいということがあった。蜷川統計学を勉強したいということもあった。マイヤーの研究に入ったのは蜷川の示唆による。終戦後は上記のような過ごし方をしていたが,国民経済研究会との接触がありサンプリングの研究会にも参加していた。サンプリング理論が大流行だった。「飢餓線上の生活実態」(『国民経済』昭和23年11月号)を書いたりした。大橋の統計学の最初のゼミでは,教員調査(抽出調査による労働時間調査で,労働経済研究所のプロジェクト)に関わった。科研費で豊崎稔をキャップに広畑,八幡の鉄鋼調査(職場別,職種別)も実施した。

 第二部。続いて話題は,大橋の統計学研究の体系化の方向に向かう。聞き手の中心は,吉田忠に代わる。吉田は,『8000万人』に大橋が書いたサンプリング批判の論文,『日本の統計学』(1965年)での数理統計学批判,数理的形式主義批判を例にあげ,さらにマイヤー研究の延長線上にある『現代統計思想論』(1961年),『経済学部40周年記念経済学論集』に書いた「社会階級構成表の意義と限界」の論文(1959年)を紹介し,大橋の回想を引き出している。このあたりのインタビューは,吉田の整理が細かく行き届き,大橋が相槌をうつというようになっている。

『8000万人』の「近代統計学の社会的性格」は,当事者の大橋によると,民科でサンプリングが唯物弁証法だというものがいたので(北川敏男など),それを批判するために書いたということである。戦後の数理統計学の果たした役割に対する強い憤慨が契機である。

 𠮷田の軽快な舞台回しで,話は大橋著『現代統計思想論』へとつながっていく。この本は,1940年代後半のソ連統計学論争を契機に,従来のドイツ社会統計学の研究を発展させた内容になっている。大橋はここで,方法論的な検討を経済学,経済分析のなかできちんと位置づけて展開することを意図していたようである。マイヤー研究もその観点から,すなわちマイヤーは具体的な実質科学説にたった議論から始めたが,中身は方法論のような気がすると大橋は述べている。こうした点は,内海シューレが統計方法論を科学方法論として純化して議論していく方向とは異なる(野澤)。大橋自身の言葉によれば,大橋と内海の違いの根本は,大橋が「具体的普遍」を考えている点にある。集団論で,集団,集団現象と個体,個別のどちらを第一義と見るかに関しても,大橋と内海では見解が異なったが,大橋は前者とした。大橋はここではその確認を行いつつ,集団の形態に有機体のような全体量が存在し,まとまって初めてそれ自体として意味をもってくる場合があり,そうしたものを考えているようである。関連して,『日本の統計学』での有澤広巳に関する「手の込んだ」記述の仕方,すなわち「ご進講」で王様の首を切った市民軍のメンバーであるグラントの講義をしたことの紹介,アンドレ・マルシャルの来日の話,イギリスの社会調査への関心,ユールとボーレーについて,『日本の統計学』の続編の可能性,その種の統計学者の経歴の書き方など,に話が及んでいる。

 第三部は野澤に質問者のバトンが渡され,大橋の階級構成論(日本の階級構成の実証研究)のテーマに移る。大橋がこの問題を最初に公にしたのは,先に掲げた「社会階級構成表の意義と限界」(『京大経済学部創立40周年記念経済学論集』,1959年)である。これが出発となって,国勢調査を組み替え・加工し階級構成の実態を統計で示す大橋方式が生まれ,岩波新書の『日本の階級構成』(1971年)へと議論が進んでいった。

大橋はその研究の背景に,当時,毛沢東が書いた「中国社会の階級分析」を一方で意識し,他方で自身が1948年に書いた「飢餓線上の生活実態」の具体化があったと証している。国勢調査の組み替えは,ILOの考え方がヒントになった。階級の統計分析の分野での似たような研究には,大内兵衛『日本経済統計集』がある。大橋の研究はそこからさらに進んで,戦後日本の社会諸階層,軍隊(自衛隊)の分析に至る。自衛隊の応募者の前職,退職者の就職先の資料の提供依頼に関わって,ときの防衛庁人事局とやりとりがあったこと,また有価証券報告者(事業所の個票?)を利用して独占資本家層の分析をしたことを紹介している。その後,話は拡大し,国際的階級分析(とくに発展途上国の)の可能性,S.アミンの階級分析の評価,階級分析の理論的基礎の構築(再生産論の必要性),階級分析の経済学的アプローチと社会学的アプローチの違い,中産階級論,階級否定論,統数研が全面的に協力した日本の階層構造プロジェクト(SSM)の評価にまで及んでいる。

第四の話題は,大橋の社会福祉の実証的研究についてである。奈倉(大阪府立大学)が質問者に代わる。大橋は京大退職後,日本福祉大学に移る。見田石介の勧めによる。大橋は時代の変遷を15年ごとに見ているが,ここでも戦後の最初の15年で敗戦,農地改革があり,貧困,戦争と平和の問題が社会的課題となった。社会福祉,障害者福祉の問題も大事な問題と意識され,これをきちっとしておかないといけないと考えた。障害児の問題では統計によるその把握は非常に弱い。厚生省然りである。経済学的なアプローチ(価値論,再生産論)も,位置づけも弱い。生活構造論できちんとしておかないといけない。福祉切り捨てには,その場限りの闘争ではなく,長期の闘いの態勢を組むべきである。理論的にも,実践的にもそうである。

 大橋論文「障害者統計と『社会的不利益』」(『東京経済大学学会雑誌』第125号)が障害問題をhandicap の面からとりあげ(impairment, disabilityの面からではなく),その評価法についての見解を示してくれたことの意義が大きかったという奈倉の指摘に対し,大橋は福祉大の院生と関連調査をしているが,handicap の指標(環境と障害をもった人との関係の指標)の設定が難しいと述べている。大橋の方法は具体的な調査をとおして,方法論的批判をするというやり方である。大橋がさらに,戦前の社会調査は,社会福祉のためのそれであったが,だんだんそうした考え方が抜けおちてきていることを懸念している。社会福祉のための社会調査という目的意識をきちっとしなければいけない。

関連して,キリスト教と仏教を比べて,前者は精神障害者の施設をよりたくさんつくっているが,後者はぐっと少ない。京都はお寺がいっぱいあり僧侶もたくさんいるのに,営利にはしっている。浄土宗,浄土真宗はまだいいが,他の宗派は金儲けばかりである。大橋はこうした話を,「国際障害者年仏教教団の障害者施設数一覧」を示して解説している。また,福祉労働者の格差を問題視している。
 最後に,半世紀にわたる大橋の社会的活動,民主運動のなかで,印象に残っていること,個人的に感銘の深い人の思い出などが話題となる。社会的活動,民主運動では,民主主義協会経済部会のことが語られているが,京都ではわりと早くに消沈し,大橋は裏方で動いていたという。蜷川知事と選挙を中心とした活動もあった。世論調査にとりくんだ。この世論調査では経済統計研究会に,サンプリングの新しい評価を持ち込んだ点で画期的だったらしい。この問題を巡って一同が研究会風に意見を表明している(𠮷田,川口,奈倉,泉)。大橋は世論調査の実践的意義を認めながら,理論問題には慎重な発言に終始している。

個人の思い出のなかでは,経済学者では矢内原忠雄(キリスト教の無協会派)の評価が抜群に高い。戦争に対して一番きちっとしていたと述べている。社会科学とキリスト教の関係を正確に捉えていた。秋田雨雀,蜷川,山田盛太郎,高野岩三郎などの名前もあがっている。方法論研究会では,見田石介の思い出が強いようである。ヘーゲルをめぐって議論がかみ合ったのだろうか。海外旅行(福祉施設関係),夫人との出会いと若いころの苦労話に花がさいて,5時間におよぶインタビューは終わっている。

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