社会統計学の伝統とその継承

社会統計学の論文の要約を掲載します。

「木村太郎・内海庫一郎(1)」『日本における統計学の発展(第53巻)』(聞き手:大屋祐雪,森博美,佐藤博,坂元慶行[1981年12月12日],於:法政大学)

2016-10-01 22:16:13 | 13.対談・鼎談
「木村太郎・内海庫一郎(1)」『日本における統計学の発展(第53巻)』(聞き手:大屋祐雪,森博美,佐藤博,坂元慶行[1981年12月12日],於:法政大学)

 木村太郎と内海庫一郎に対するインタビュー,聞き手は大屋祐雪が主である。最初に質問に対する木村の半生についての回答があり,途中から内海が参加し自身の豊富な経験が語られ,最後に経済統計研究会のスタート,農林統計協会,標本調査論などをめぐっての二人の思い出が話題になる。

 木村は大正2年4月生まれ,郷里は北区の王子。王子小学校,東京五中(現在の小石川高校)に進む。その後,第三高等学校に入学,この時代の思い出は多いという。宇高基輔が上にいて,一緒だったのは河野健二,野間宏,織田作之助などである。マルクス主義には中学の4年生の頃から関心を持ち始めたが,「反デューリィング論」「ヘーゲル哲学批判」など哲学関係のものを読んでいた。経済学関係は後に『資本論』をローゼンベルクの注解を頼りに読むので精いっぱいであった。

そのまま真っすぐ京都大学に入学,蜷川ゼミに入ることを目標にしていた。しかし,統計学を勉強する気持ちはなく,河上肇の伝統があり蜷川が優れた理論家だと聞いていたのでそう考えていた。ゼミに入る前からいろいろな研究会に関心をもつなかで上杉正一郎,大橋隆憲と接触があった。蜷川ゼミには昭和13年に入ることができた。ゼミでのテキストはなく,先輩による各自の研究内容の報告が中心であった。そのなかの一人にアルマン・ジュランを訳して読めと言われた。級があがると自分でテーマを選ぶようになり国富統計をとりあげた。卒業論文は,生産指数論だった。蜷川の物価指数論を手本に,労働価値説の立場から生産指数論の展開を試み,その理論構築を行った。

昭和15年3月に京大を卒業し,すぐに満鉄(東京の東亜経済調査局)に入った。入社後,5月から9月まで大連に行き,本社調査部の業務組織(理論班)に入った。日満ブロック経済の再生産構造の研究がテーマであった。満鉄ではマルクス経済学を勉強していないと出世できない雰囲気があった。満鉄では蜷川に対する信頼が厚く,弟子を積極的に採用する風潮があった(高岡周夫,小島豊,手島正毅)。大連市も調査室を設置し,蜷川に指導を依頼したということもあったようである。

10月に内地に戻り,東亜経済調査局に戻った。昭和16年2月に入営(赤羽工兵隊)し,満州に終戦までいた。満州では北方の輸送部隊の主計将校を務めた。以後,部隊は朝鮮の羅南に移動し,そのうち内地防衛という任務で新潟,川越に移った。
復員後,国民経済協会に入ることになり,そこで農畜漁業調査を担当した。また,農林省に机を置いて企画院が担当していた物動計画に準じた昭和21年から経済復興5カ年計画作成の仕事に携わり,昭和10-12年基準の生産指数を作成した。当初は統計資料が少なく苦労したが,そのうちにだんだん資料が増え,それらを通産省や農林省を通して入手できるようになった。

 大屋はここで交通整理をして,インタビューに途中から参加した内海庫一郎を含め,国民経済協会の話をしましょう,と促す。それというのも内海は昭和22年に一時国民経済協会に在籍したからである。国民経済協会を作ったのは企画院にいた稲葉秀三などである(昭和20年10月)。「經濟統計資料」第1号が昭和22年に出ている。木村は第2号に「インフレーションの測定に関する一試論」をペンネームで,「生産指数の理論」を第42号(1950年)に書いている。「インフレーションの測定に関する一試論」は昭和10-12年平均基準の物価指数を作成したときの副産物で,インフレの実態を示すヤミ物価指数を公定価格指数と合体させた実効的物価指数について論じたものである。また,木村はこの時期,農業分野で日本農業の商品化率の推定,農地改革後の農業経済構造の展望といった作業を委託調査として実施した。当時の農林省では,農業統計協会をつくって農業統計を独立させたいという意向があり,依頼されて兼務したのはこの頃である(昭和25年)。直前には,稲葉が部下を連れて経済安定本部のほうに出てしまい,国民経済協会が空っぽになったことがあった(昭和22年頃)。古株の木村が協会の経営を支える格好になり,「景気観測」という月刊誌を発行した。   

 聞き手の大屋はここでいったん木村の話を区切り,内海庫一郎に話をうながす。内海は自身の歩みを回顧する。明治45年,本郷区駒込明神町生まれ。富士前小学校で6年の半ばまで過ごし,中学校,高校は成城。中学在学中,社会科学研究会中学連合会を組織した(昭和2年ごろ)。福本イズム全盛の頃である。明大にいって道瀬幸雄の「フォイエルバッハ論」の講義を聞き,福本和夫の「社会の構成並びに変革の過程」「経済学批判の方法論」などを読んだ。

そのようなことがあったため3度検挙され,お情けで卒業させてもらい,当時試験がなくて入学できた京都大学へ,そして蜷川ゼミに入る(昭和9年)。昭和8年に滝川事件があったが,その翌年である。学生大会があり,そこに顔を出していた。統計を学ぶつもりはなく,農業綱領を書くための勉強を一人でした(下宿で)。草稿があり,第2部を執筆した(第1部は作家として有名になった埴谷雄高)。ゼミでは蜷川に米の生産費問題を研究するように言われた。ゼミ生はみな天下国家を論じていた(澄川英雄,手島正毅らと)。内海は山田盛太郎の人と学問を京大の学生に持ち込んだのは自分である,と述懐している。蜷川は『統計利用に於ける基本問題』(昭和7年),『統計学概論』(昭和9年)を出版したものの,教授会で汐見三郎,高田保馬に敵視され教授昇格がままならなかったが,そのことが新聞沙汰にもなり,漸く昇格した。蜷川はこの頃,学部では会計学を講義し,ゼミも会計学で経営分析論をテーマにしていた。

 内海にとって統計学がテーマになったのはその後,蜷川が経済学第3講座を免ぜられ,統計学講座に移ってからである(昭和16年)。内海は副手になっていて,ハーバラーの指数論をドイツ語で読まされた。周囲には有田正三,上杉正一郎,大橋隆憲,木村太郎らがいた。この頃に書いた論文はフラスケンパーの指数論に関するものなどである。3年半ほど「京都日出新聞」が出していた日刊の業界紙に景気予測の記事を書いて収入を得ていた。蜷川には,生活態度が悪いと閉門蟄居を言い渡されたが,ある日突然呼び出され,満州の建国大学に職があるので,そこへ行くように命じられた。満鉄に行く話もあったが立ち消えになり,高岡周夫が満鉄に代わりに行く格好になった。建国大学での身分は,研究助手であった。暫くは講義もなく事実上の教務科教材係長,図書科資料室主任を担当した(昭和13年)。そのうち研究所ができ,研究所総務課付助教授となった(昭和14年)。内海の建国大学時代の記憶は豊富で,大学の様子(人間関係),講義の内容,教え子のこと,桜化県農事合作社のこと,関東軍特別大演習(昭和16年),満鉄事件などの話が次から次へと出てくる。記憶力の健在さに驚かされる。兼務した満州国政府統計処では,「満州帝国統計年鑑」を編集する仕事に関わった他,「満州帝国図表」を作成したとのことである。

 内海が復員したのは昭和21年の11月14日,名古屋に着いた。行く当てもなかったときに木村が国民経済協会の嘱託のポストを用意してくれた(昭和22年)。直後,井上照丸の紹介で統計委員会事務局事務官,審査第二課課長補佐となった(昭和23年)。当時の統計委員会は,委員長が大内兵衛,事務局長が美濃部亮吉,委員に有澤広巳,正木千冬,近藤康男,中山伊知郎であった。しかし,ほとんどのメンバーがマイヤー研究で終わっており,統計学を知らない,サンプリングのやり方も知らないという状況だった。内海が統計委員会事務局で最後にやった仕事は昭和25年の国勢調査の職業分類だったと述べている。他に統計委員会の議事録の整理を担った。統計委員会で一年ほど勤めてから,北海道大学法文学部に赴任した(昭和24年6月)。
その経緯の話題がひとしきりあった後,森博美が経済統計研究会設立の話を切り出す。この研究会は最初,関西だけで始まった。『統計学』創刊号が関西で発刊された(昭和30年)。その後に,東京側が加わった。木村によれば,標本調査論の批判以来,統計調査論をきちんと整理しておかなかればダメだという動きがあったのは確かで,研究会発足の背景にはそのことがある。『統計学』の存続には資金的やりくりがかなり大変だったようで,内海がその辺の事情の記憶を呼び戻している。

 話に一区切りがついて,今度は農林省と統計基準部とで標本調査の評価が違っていたこと(前者が先進をきっていた),占領軍の統計指導で天然資源局と経済局とで異なっていたこと(資源局は作況調査技術として標本調査理論を積極的に推進),日本統計協会は雑誌『統計』を出していたが,農林統計協会がこれに対抗する形で『農林統計調査』を発刊するようになったこと,などに話題が及ぶ。要するに標本調査に対する姿勢,評価の相違がいろいろなところで目立った。農林統計の側には社会統計学的発想が強く,少なくとも統計調査に重きをおくところでは標本調査に長く関心が薄かった。それがそうでなくなってきたのは昭和26年頃からである。背景には行政の合理化が前面に出てきて,国民経済計算体系の統一という要請が強くなった事情がある。
最後に農林統計協会ができた経緯,そこでの木村の仕事の内容,構成メンバー,農業統計研究部会のこと(副会長に宇野弘蔵),作物統計関係の人がソ連の動向にも関心をもっていたこと,『ソビエトの統計理論』(ⅠとⅡ)という訳書を発刊したこと,木村が國學院大學に移った経緯,日高に競走馬の生産費調査に出かけたこと,そして再び蜷川虎三とそのゼミ,ゼミナリステン(大橋隆憲,高木秀玄,有田正三,上杉正一郎)のことに話題が戻ってこの巻が終わっている。

 これは推測であるが,木村はインタビュー後,記述を正確にするために原稿にかなり手を入れた形跡がある。内海はそのようなことはしていないが,話術の巧みさと記憶力の確かさが滲みでている。

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