本能寺の変 「明智憲三郎的世界 天下布文!」

『本能寺の変 431年目の真実』著者の公式ブログです。
通説・俗説・虚説に惑わされない「真実」の世界を探究します。

歴史捜査「山崎の合戦」その3:秀吉の証言

2010年10月09日 | 歴史捜査レポート
 山崎の合戦について現代で通説になっているものは全て軍記物(江戸時代に書かれた物語)がそれらしく書いたことに過ぎません。それを歴史研究家が史実の如くに本に書いて広めているのです。元の情報の信憑性も確かめずに書いてしまう研究家の姿勢には驚きます。工学部で学び、エンジニアとして企業で仕事をしてきた人間の常識から見ると余りに異常としか言えません。我々が知っている山崎の合戦についての常識とはそういったものに過ぎないのです。

 それでは蓋然性(確からしさの度合)の高い山崎の合戦の実像を信憑性の高い証拠から復元してみましょう。残された証拠が少ないだけに全貌を解明できるわけではありません。しかし、蓋然性の高い実像がどのようなものかを示すことはできるはずです。

 調べてみますと、山崎の合戦の具体的な記述を残した史料は極めて少ないです。
 秀吉自身が書き残したものとイエズス会のフロイスがキリシタン大名の高山右近から入手したと思われる情報を書いたものと、その2つしかありません。(京都の公家などの日記に断片的な情報がありますが)
 光秀側の軍勢の陣立てを書き残した信憑性ある史料は一切ありません。現代の研究家が軍記物の記述を史実の如くに使って書いてしまうので、嘘が真のように広まってしまっているだけです。

 それでは、本能寺の変が起きた当時に書かれた史料には何が書かれているのか、逆に何が書かれていないのかをみてみましょう。
 山崎の合戦の経緯を整理して最初に書いたのは本能寺の変から四ヵ月後に書かれた『惟任退治記』です。これは羽柴秀吉が家臣に書かせたものですので、秀吉による公式発表といえます。現代でいえば北朝鮮のニュース発表と同じでしょう。そのような観点でみれば正確でもあり、歪んでもいるといえます。その記述は次の通りです(意訳)。

『惟任退治記』の記述
 「光秀は人数を段々に立て置いたが、秀吉は軍勢を三筋に分けて中筋・川の手・山の手から一度に押し込み即座に追い崩したので光秀軍は悉く敗北した。光秀近侍三千ばかり一手に固まって勝龍寺城へ立て籠もった。方々に逃げた輩を追い詰めて殺す。丹波路筋に切って入り、落武者を一人も逃さず討ち、勝龍寺を四方八面取り囲んだ。光秀は夜半に五、六人に案内させて城を脱出。寄せ手が昼の合戦に疲れて寝込んだ隙をついて逃げ出した。城内は光秀脱出を知って我先にと崩れ出し、過半が討たれた。
 山科、醍醐、逢坂、吉田、白川、山中、その辺りで討ち取られた首が無数本能寺に集められた。諸国より討ち取った首を悉く点検したところ、その中に光秀の首があった」

 秀吉が残した記述として浅野家に宛てた文書も残っています。その記述は次の通りです。
『浅野家文書』の記述
 「十三日の晩に山崎に陣取った高山右近、中川、久太郎勢に光秀は段々に人数を揃えて切りかかる所を、道筋は高山右近、中川、久太郎、南は池田、秀吉等の者、加藤光泰、木村隼人、中村一氏、切り崩し、山の手は羽柴秀長、黒田孝高、神子田半左衛門他が切り崩し、勝龍寺城を取り巻いた。光秀は勝龍寺城を夜に脱出したが、山科の籔の中で百姓に首を拾われた」

 これをみると、秀吉は軍勢を三つに分けて、西国街道を高山右近ら、その東寄りの淀川沿いを池田ら、西寄りの山側を秀長らに割り付けたということまでが蓋然性の高い史実といえます。
 そして、はっきり言えるのは「天王山の取り合いはなかった!」ということです。
 勝ち戦を指揮した秀吉自身が一言も触れていないのですから、「無かった」のです。既にご説明した通り、天王山の取り合いは小瀬甫庵が主君の堀尾吉晴の活躍する場面をお話として作ったに過ぎないのです。
 ですから「天王山」という史実は完全否定して、歴史書から消し去っていただきたいのです。
 
 そもそも地形を見ていただければわかります。わざわざ急峻な天王山に登り、細い山道を下って光秀勢を攻めるメリットは何もありません。
 数に勝る秀吉軍は西国街道を抜ける中央軍とその両脇の山の手軍、川筋軍の三手から攻めたのは当然でしょう。中央軍は大山崎の狭い通路を抜ける必要があったので、山の手、川筋への展開が重要だったと思われます。その山の手をわざわざ不便な天王山に登って降ろす必要は全くなく、大山崎の集落の山側を迂回して軍勢を展開したと考えられます。

 この考察に基づいて蓋然性の高い合戦図を書き直してみました。それが冒頭の図です。
 秀吉軍の布陣は上記の史料で裏付けがとれますが、光秀軍の布陣の情報は信憑性のある史料にはありません。敗軍の情報が残らないのは当然でしょう。これをとにかく答が必要だと、歴史研究家が軍記物の面白おかしく書いたお話を使ってしまっているのです。情報がなくてわからないことは「わからない!と」いう答でよいのです。それが工学的態度ですし、犯罪捜査にたずさわる捜査官の態度でもあるでしょう。(どうも最近のニュースをみると特捜事件のように捜査官もでっち上げに熱心なようで、空恐ろしいです。)

 以上見たように蓋然性の高い史実は上記の範囲となります。
 ところが、これも秀吉による都合のよい発表、いわゆる「大本営発表」にすぎません。
 次回はこれとは別の蓋然性の高い証言を残したフロイスの証言を追ってみます。
 今回はとにかく「天王山の取り合いはなかった!」ということを結論とします。

 >>> 歴史捜査「山崎の合戦」その4:フロイスの証言

 >>> 歴史捜査「山崎の合戦」その1:捜査開始宣言
 >>> 歴史捜査「山崎の合戦」その2:天王山争奪戦
 >>> 歴史捜査「山崎の合戦」その3:秀吉の証言

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戦場の選択 (不知火亮)
2010-10-11 00:25:35
今回も大変勉強になりました。
私も明智先生が以前お書きになられていた「歴史群像シリーズ・俊英明智光秀」を購入し、現在読んでいる最中です。
この本でも同様に、大山崎町歴史資料館学芸員の方が「天王山は太閤記がその争奪戦を強調したため、勝負の分かれ目を表現する比喩として定着した」と書かれていますね。色々光秀の本を見てるのですが、近年ではこの考えを述べられる研究家の方も多くなっているように思います。
今回の回で感じたのですが、明智先生が図で書かれている通り、天王山麓ルートからも淀川河川敷ルートからも秀吉軍が兵を進めていますね。この三方ルートからの進軍は、私もその通りと思います。
つまり秀吉軍発表からすると、山崎で合戦せず、円明寺川辺り(勝龍寺寄り)で戦ったことが勝負の分かれ目だったということになるのではないでしょうか。
この地図でもわかります通り、山崎の地域は山と川と西国街道が密集した地域です。
この山崎町界隈が戦になった場合、兵の行動がかなり制限されるとともに、奇襲、放火など、様々な戦略を練ることも可能です。
しかし(双方の禁制があったにせよ)山崎の隘路で決戦せず、平場での戦になったことで、秀吉軍の兵の多さがダイレクトに優位性に繋がります。
天王山争奪戦はあくまで創造物というのは理解出来ましたが、西国街道、淀川、天王山山麓全て秀吉軍が抑えたことが、つまりは「山崎=天王山を獲ったから勝てた」という論法になるように思います。
現代のように、戦争を中立の立場で客観的に分析するような時代でもありませんので、どうしても「勝者の論法が正解」という風に伝えられてしますのではないでしょうか。
兵の数が少ない光秀が、さしたる戦術も奇襲もなく、正面から秀吉軍とぶつかった場合、兵数がそのまま結果に繋がるのは容易に想像出来ます。ならば秀吉が勝った理由は、「山崎の町ではなく、勝龍寺寄りで戦ったこと」となってしまいます。
ですので、光秀が本気で天王山を獲りに行ってなかったにせよ、秀吉が獲ったことで、山崎の地は全て秀吉が支配したことになります。
これが「秀吉側にとっての、天王山の重要性」ではないでしょうか。
しかしながら、私は「何故みすみす結果が見える戦いを光秀が行ったのか」が非常に気になります。
どうしても思うのが、援軍見込みの可能性です。それが無いまま光秀が円明寺川で3倍とも言われる秀吉軍と戦うことは無謀と言わざるを得ません。
城を枕に戦うなら、勝龍寺城より坂本城、安土城で戦った方が可能性は上がります。
何故光秀はここで、わざわざ不利を知りつつ戦わなければいけなかったのか・・・ここで絶対に秀吉を京に入れさせないという意志からでしょうか。
私は本能寺の変に興味を持ってから、明智先生の書籍に出会い、先生の姿勢と内容にとても感銘を受けました。そして「その後の光秀はどうなったんだろう」という、自然と湧いてくる素朴な興味から、山崎合戦に関心を持ち、様々な疑問点を感じるに至りました。
つまり、何故疑問点が湧いてくるのかというのは、そもそも信長死後からの中国大返しも含めての秀吉が残した史料が「信憑性に欠ける」もしくは「過度な誇張がある」あやふやな物であるためなんですね。
次回フロイス証言も楽しみにしています。


山崎の地形 (フロイス・2)
2010-10-11 02:19:46
今回も大変興味深く拝見しました。 「惟任退治記」、「浅野家文書」からの合戦の記述、僕を含めた多くの者にとってこういうものに触れる機会は稀です。 貴重な情報をこのブログで読めることはありがたい限りです。

「惟任退治記」の恣意性については論を待たないでしょう。 しかし、こと山崎の合戦に関する記述に関しては、後半の光秀の敗走と死に関する部分を除いて事実に近いだろうという印象を持ちました。 「浅野家文書」の記述と平仄が合っていることも理由のひとつですが、そうなるとフロイスの記述を読むのがいっそう待ち遠しくなります。 

今回も地図を見ながらいろいろ考えていたのですが、「地形を利して大軍を封じる」という作戦をもっとも有効に実行できるのは、東黒門よりも若干南に下ったあたりと思われます。 西国街道は東黒門から西黒門までが約2km、山と川に挟まれて平地がもっとも狭まっているところはちょうどその中間くらいの地点です。 ここが秀吉軍にとってのボトルネックになります。 山崎の禁制などを全く無視して、光秀が自由に戦場を選べたとすれば、どうしても上述したエリアに布陣することがベストだろうと思えるのです。 そして、その際封じておかなければならないのが、天王山の東側のふもと、実際に秀吉の山の手筋が進軍したルートです。 実際の天王山を見ていないのですが、それほど急峻な山とは思われません。 天王山の南側、全くの推測ですがたぶん3合目くらいに布陣しておくことに戦略上のメリットはあった、というより必要だったと考えます。 そうでなければ、山の手筋から迂回してくる秀吉軍に側面を突かれる事は明白だからです。 しかしこの作戦は結局実行されませんでした。 それは大山崎村が戦場にならなかったことで明らかです。 その時点で天王山の戦略的意味は消滅し、従って天王山の戦いもなかった、この結論には同意します。 光秀は何故、地形を最大限活用する作戦を採らなかったのか? やはり禁制をリスペクトしたのでしょうか? その蓋然性は高いと思います。 世論を気にした、と言ってはいいすぎでしょうが、自らの「天下」を正当化するためにも政治的効果は常に考えていたでしょうし、またそれ故に坂本や安土に立てこもらず、秀吉が京都に侵攻することを阻止する選択となったのではないでしょうか。 いずれにしても東黒門の北側はかなり開けた地形のようです。 3筋に分かれた秀吉軍がここに展開できた時点で勝負はついたのでしょう。 ただ、ご紹介いただいた資料からも光秀軍もそれなりの戦いはしたように見受けられます。 「段々に人数をそろえて」という記述から想像できるのは、進行方向に対して横長の長方形に隊列を組んだ歩兵による波状攻撃です。 これが秀吉軍の先陣に対して仕掛けられたことは、攻撃的防御を連想させられます。 やはり援軍を待っていたのか、「わからない事はわからないと認める」ことには100%賛同しつつ、援軍説がちらついているのです。
追伸 (フロイス・2)
2010-10-13 00:17:28
前回のコメントを投稿した後に思いついたのですが、「光秀が山崎の狭隘な地形を利用して秀吉の大群を迎え撃とうとした」、という作戦に関する記述はどこで見出せるのでしょうか? この、一見もっともらしく、説得力もあると思われるストーリーが、実は後世の史家に因る後付的な推論だったり軍記物の作者による創作だとしたら…。 光秀は初めからそんな作戦は採らなかった。 「採れなかった」、ではなく「採らなかった」、こう仮定することで見えてくる事実があるのかもしれません。

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