本能寺の変 「明智憲三郎的世界 天下布文!」

『本能寺の変 431年目の真実』著者の公式ブログです。
通説・俗説・虚説に惑わされない「真実」の世界を探究します。

明智左馬助光春の名前の捜査

2012年08月07日 | 歴史捜査レポート
 歴史好きの人なら良くご存じの明智左馬助光春。山崎合戦の敗戦を知ると、占拠していた安土城を撤収し、光秀の居城・坂本城へ戻り、城に火を放って自刃したと明智軍記に書かれています。また、『絵本太閤記』では坂本城へ戻る際に、馬で琵琶湖を渡ったという有名な「湖水渡り」の逸話を創っています。
 しかし、明智左馬助光春という人物の名前は軍記物が作ったものであって、この人物の本当の名前は三宅弥平次秀満であり、光秀の娘を娶って明智姓を名乗ったことが判明しています。
 ところが、これに対しても異論が唱えられています。本能寺の変の活躍によって光秀から「左馬助光春」という名前をもらったが、その直後に滅亡したため史料に残らなかったとも考えられるというのです。
 そこで、どのような史料に左馬助光春が書かれているのか調べてみました。
 史料の成立した時期の早いものから並べてみると明智弥平次秀満のことを次のように書いています。
 惟任退治記  明智弥平次光遠
 信長公記   明智左馬助
 『甫庵信長記』  明智左馬助
 『川角太閤記』  明智左馬助
 『明智軍記』   明智左馬助光春

 こうしてみると、「光春」という名前は本能寺の変から百年以上たって書かれた軍記物の『明智軍記』から登場しているので、全く根拠がないことが確認できました。
 「左馬助」は『信長公記』に初めて登場し、それを『甫庵信長記』が踏襲し、さらに『川角太閤記』が踏襲したものです。なぜそういえるかというと、『甫庵信長記』は『信長公記』を盗作・改竄したものですし、『川角太閤記』には『甫庵信長記』を引用していることが書かれているからです。

 私の推理の結論を先に言うと、弥平次秀満は本能寺の変直後に光秀から「左馬助光遠」という名前を与えられた可能性が高いということになります。

 その根拠を次の通りです。
1.『惟任退治記』は秀吉の本能寺の変顛末記として家臣の大村由己が本能寺の変の直後に書いたものであり、秀吉の集めた光秀周辺の情報を容易に入手できた。つまり、由己は本能寺の変事件を調べた警察署詰め記者のようなものだった。「弥平次」という名前も正しく把握していることもその裏付けとなる。
2.『信長公記』を書いた太田牛一は本能寺の変後に秀吉に召し抱えられているので、時期はずれるものの由己と同様に「警察署詰め記者」たりえた。
3.謀反という大事を成した後、明智一族の中核となる人物として光秀は弥平次秀満を名実ともに「明智氏」にしたかったのではないか。というのも、光秀は高齢(67歳の可能性あり)で嫡男は弱年(十代半ば)であり、働き盛りの中核となる人物が謀反後の政権確立・維持の重責を担う必要があった。斎藤利三も重臣ではあるが明智一族ではない。どうしても、明智一族が必要だった。
4.そう考えたときに「左馬助光遠」というネーミングが極めて重要な意味を持つ。「左馬助」は土岐明智一族が名乗っていた名前であり、足利幕府の役人名簿にも書かれている。「光遠」の「光」は土岐明智一族の通字であり、「遠」は土岐氏には特別な字である。足利尊氏を支えた武名高き勇将が土岐頼遠。非業の死を遂げたが一族繁栄の礎を築いた、この人物にあやかったのではなかろうか。
 
 さて、以上の推理はいかがでしょうか?

(注)明智光秀と土岐氏との関係がわからない方は下記のページをご覧ください。
  ★ 土岐氏を知らずして本能寺の変は語れない

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 『本能寺の変 四二七年目の真実』のあらすじはこちらをご覧ください。
 また、読者の書評はこちらです
>>>トップページ
>>>『本能寺の変 四二七年目の真実』出版の思い
本能寺の変 四二七年目の真実
明智 憲三郎
プレジデント社

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12 コメント

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三宅様と会いました! (近江商人門坂子孫)
2012-08-03 19:39:09
この人の琵琶湖にある石碑の所へ、先月行きました!

三宅様の御子孫の女性と3月にお会いしました!
その後は連絡1回有りましたけど、その人に、京都山科区の本経寺の明智光秀公の石碑の事教えていただきました!
 その方は、明智光秀公の娘様の凛子様の子孫だとおっしゃってました!凄い独特の雰囲気の魅力的な方でした!
憲三郎さんその方と話してみたいとおっしゃてたように記憶してますが、僕がかってに、その人の了承が無くてお教えできないので、その人から、連絡来ると良いですね!
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頼遠ですか (teeyamada)
2012-08-04 09:08:23
私個人的には頼遠も好きな人物なので興味ありますが、親朝廷の光秀と反朝廷の頼遠と整合がとれません。ましてや頼遠事件の結果、土岐氏は大ピンチとなり、頼遠も斬首されているので縁起が悪く、本能寺変直後のタイミングと合いそうにありません。先祖から土岐惣領家は明智であると聞いていた私は土岐氏が一枚岩でなく明智と土岐宗家に分かれていたと思いますが、原点が頼遠にあったとなればおもしろい話だと思います。
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解きほぐしはこれから (明智憲三郎)
2012-08-05 11:25:45
 果たして親朝廷・反朝廷という通説が本当だったのか?斬首されながらも土岐一族を繁栄につなげた頼遠を土岐一族はどのように見ていたのか?(縁起が悪いのか、それとも菅原道真のような存在)など、など。
 むしろ、「光遠と名乗らせた」ということを前提にすると、通説とは異なる、どのような姿が見えてくるのか。今、私の関心はそのようなところにあります。
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左馬助 (ミケ氏)
2012-08-08 22:25:49
明智左馬助が三宅一族だということは間違いないのですが、いまだに光秀公と同様色々と誤解されていますよね。
名前もその一つですが、明智家臣団には左馬助の他にも三宅一族が何人も所属していたので、それらの人たちと混同されて誤った名前が伝わっているような気がします。

左馬助の年齢もウィキペディアやネットの世界では享年46歳説が広まっているようですが、左馬助が光秀公の小姓出身だということは確実なので46歳説ははありえないと思います。
わたしの家系に伝わる話では、享年26歳です。

氏家幹人氏の『武士道とエロス』に、江戸後期の儒者大田錦城の著書が紹介されています。
その著『梧窓漫筆』の中で、明智左馬介(助)と直江山城守(兼続)の二人が、寵童上がりの剛勇な武将の代表例として挙げられているそうです。
少なくとも江戸後期には、左馬助は光秀公の小姓として有名だったものと思われます。
もう少し資料を見直して、左馬助の名前について検討してみたいと思います。
年齢や名前さえ誤解されているのはちょっと哀しい気持ちになるので、真実がわかれば良いな…と思います。


三月に、こちらで紹介されていた明智慧さんという女性画家の個展に行ってきました。
画廊の場所がしょっちゅうウロウロしているエリアでしたので、買い物帰りに寄らせていただきました。
慧さんが声をかけてくださって、奥へどうぞ…と通され、画廊の方とお話しました。その方が近江商人さんだったんですね。その節は有難うございました。




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お会いできて良かったです! (近江商人門坂しそん)
2012-08-25 20:40:17
あの時は、有り難うございました!
本経寺の、明智光秀公石碑にも、今年2回行きましたし、
ガラシャTVも発見できました!
有り難うございました!
また、店の方にもどうぞ!
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光春と秀満 (鉄帽子)
2012-08-30 17:56:17
実は別人であるという話を聞いた事があります。ブリタニカ百科事典にもそのような記述がありました。
いったいどなたが唱えている話なのかが気になりますが、非常に興味深い話だと思います。
光春といえば、光秀の従兄弟として「明智軍記」などに出てくる人物ですから、三宅氏出身という秀満と出生が食い違うのは明らかです。
また光春の父は弘治年間に美濃で戦死(明智軍記による話ではありますが)、秀満の父は本能寺の後に刑死という食い違いも傍証でしょうか。
先の方が仰られている事と合わせると、光春は光秀と同年代、秀満は小姓出身。なんて話が出来上がったり……

すみません。ちょっと想像も入ってしまいました。
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明智軍記?絶句!! (明智憲三郎)
2012-08-30 20:34:51
 明智軍記ですか?!私のブログに殴り込みですね。悲しいです。http://praha.at.webry.info/200905/article_21.html
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補足説明 (明智憲三郎)
2012-08-31 10:35:38
 明智軍記は本能寺の変から100年以上たって書かれた作者不詳の「物語」です。そのような本に初めて登場する話が史実であるわけがありません。
 100年以上もたっていたら当時の情報を直接的に知り得ることは不可能であり、かつ何といっても「物語」です。史実を伝えようとして書かれたものではありません。
 NHK大河ドラマが歴史小説を原作に使い、間を埋める話を新たに創作して付け加えているのとまったく同じ構図です。大河ドラマに出てきたから史実だ、などと言ったら笑い者になりますよね。
 そんなものが史実と混同されて論じられている戦国史論を打破するのが私の目指すところであり、本ブログもその普及のために書いています。それをご理解の上でコメントをお願いいたします。
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光春と秀満 (鉄帽子)
2012-09-23 15:51:12
私は『明智軍記』を肯定するつもりでコメントしたわけではないのですが、誤解されたようでしたら失礼しました。
『明智軍記』は史料性が低いというのはとうに承知しています。ただ私は皆無とも思っていない、ということです。

私が言いたかったのは、明智光春という人物は実在の明智秀満とどの程度同一人物なのか、という事に尽きます。
「軍記」の評判からして、「三宅氏出身の明智秀満の前半生をそっくりフィクション化してできたのが明智光春」というのを通説と見るのが妥当でしょう。
ただ、あるいは秀満・光春(あるいは相当の人物)という別人をごちゃ混ぜにされてできた人物かも、と推測しただけです。
「弥平次」(同時代史料に多い)と「左馬助」(後代編集史料に多い)の通称の使い分けについても、気になっています。

もちろん先生のように膨大な論拠はありません。(先述の推論と、三次・四次編纂物である百科事典のみ)
理解できていない笑い者の殴り込みとご理解される発言でしょう。
もし「悲しい」などとご不快でしたら、どうぞ削除などで対応して頂ければと思います。
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疑問の余地がありません (明智憲三郎)
2012-09-26 14:24:19
 『明智軍記』には左馬助光春が安土城占拠の大将であり、坂本城へ戻って自害したと書かれています。これは『惟任退治記』に書かれている弥平次と全く同じであり、弥平次のことを左馬助光春と書いたことは全く疑問の余地がありません。
 誤謬充満の悪書と言われる『明智軍記』から史実を探そうとしても、嘘か史実かを切り分けることは困難です。泥沼に入っていくような無駄なことをなさらずに、信憑性の高い史料をお読みになることをお勧めいたします。
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