京都で、着物暮らし 

京の街には着物姿が増えています。実に奥が深く、教えられることがいっぱい。着物とその周辺について綴ります。

KIMURAの読書ノート『三毛猫ホームズの遠眼鏡』

2016年08月19日 | KIMURAの読書ノート
『三毛猫ホームズの遠眼鏡』
赤川次郎 著 岩波書店 2015年

教養人というのは、このような人のことを言うのではないかと彼のエッセイを読んで気が付いた。著者である赤川次郎さんは言わずと知れたミステリー作家である。私自身小学生の時に彼の作品に出会い、どっぷりハマった時期がある。しかし、いつしか別の作者のミステリーへと移行し、彼の作品を読むことは少なくなった。そして、何年か前のことである。書店のカウンターに置いてある「ご自由にお取りください」というフリー冊子(厳密に言えば無料ではないのだが、書店ではたいてい無料で扱われている)『図書』。それを手にした時、彼の文章が目に入った。私が知っている彼の書く物はミステリーのはずであるが、そこにあったのは、エッセイであった。それは私にとってはミステリー以外の初めての文章の出会いであった。それをまとめたものが本書である。

ここには、彼が足しげく通うお芝居や音楽界のことが余すことなく書かれてある。その幅はかなり広い。ベートーヴェンについて語っていたかとおもうと、ギリシャの映画監督の話もある。かと思えば、文楽について綴られ、フランス文学についても言及している。ベストセラー作家に君臨し何十年も経つのに、どうやって時間をこしらえ、DVDを鑑賞したり、劇場に足を運ぶのか謎である。しかし、これらのことを嗜むということで私は教養人と記したのではない。多くのエッセイの冒頭はどれも彼が親しんだこれらの芸術文化についてのはずなのに、気が付いたら今の時事問題について鋭く指摘しているのである。

例えば、「非情の町、非情の国」と題した文章。話のスタートは深夜の息抜きにつけたテレビで流れていた音楽。それが1962年に公開された『非情の町』という映画の主題歌だったことを思い出したということが綴られている。そこからこの映画の内容をかいつまんで説明しているのだが、気が付くと安倍首相が通そうとしている「特定秘密保護法案」のことになっているのだ(この随筆は2013年に書かれたものなので、まだ法案が通る前。結局その後通ってしまったのだが)。そして、その矛先はこのことだけでなく、今の日本のジャーナリストにまで向けている。また逆に今の日本の出来事から一つの作品を例に出しているエッセイもある。その書き方は様々であるが、文化と芸術、そして政治や経済は決して切り離せないことを彼は教えてくれている。一つの流れの中にこれらが混在してこそ人の営みが生まれているのである。

彼がこのようなエッセイを書き始めたのには理由がある。もともとは自分の趣味のこれらの文化芸術だけのエッセイを連載していた。理由を書いているのは、本書の前に刊行された『三毛猫ホームズのあの日まで・その日から』(光文社 2013年12月20日)。「あの日・その日」とは東日本大震災のことである。あの日を経験したことにより、赤川次郎さんは「今連載コラムを持っている意味」を考えたそうだ。「あの日」の衝撃と恐怖を忘れないために。そして、続けてこのようにも書いている「いつやって来るかもしれない次の大地震への備えを忘れて、オリンピックのための大競技場を作ろうとする今の日本を、世界はどんな目で見ているのか」。

奇しくも今、リオオリンピックで日本は盛り上がっている。赤川次郎さんが危惧していることは何なのか。文化と芸術はその時の世情を示している。本当の教養人とはそこから何を学ぶのかということである。今の日本の政治家に彼以上の教養人がいるのか、私にははなはだ疑問である。
           (文責 木村綾子)

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KIMURAの読書ノート『臆病者と呼ばれても』

2016年08月05日 | KIMURAの読書ノート
『臆病者と呼ばれても』
マーカス・セジウィック 作 金原瑞人・天川佳代子 訳
あかね書房 2004年

前回の読書ノートでは、日本国内における第1次世界大戦の一端が記された作品を紹介した。今回は時を同じくしたイギリスでの第1次世界大戦の状況の片鱗を知る作品を取り上げる。

この作品のサブタイトルは「良心的兵役拒否者たちの戦い」となっている。「良心的兵役拒否者」というのは、良心や宗教の教えなどから軍隊に入ることを拒否する人のことである。第一次大戦中のその数は1万6500人を上ったそうである。ちなみに、第二次世界大戦時には、この良心的兵役拒否者として登録した人数は6万人以上にのぼったという。これには、この物語の中心となるハワード・マーテンとアルフレッド・エヴァンズ、及び徴兵反対同盟の尽力によるものである。実際に良心的兵役拒否者として登録したからと言って、おいそれと戦場に行かなくていいというものではない。そこに待ち受けるのは、どの国でもあるように、周りから白眼視され、自由を奪われ、拷問にかけられ、その先にあるのは「死」のみである。それでも、確固たる意志をもって兵役を拒否した彼らの思いと戦争に対する問いをこの物語は読み手に投げかける。

第1章は衝撃的なタイトルで始まる。「すばらしき戦争」。「大戦」を英訳すると、いや、本来ならというべきであろうか、「great war」になる。第一次世界大戦の主戦場は、ヨーロッパである。その地域で「すばらしき戦争」と言われていたのである。何が素晴らしかったのか。作者は物語の中でこのように綴っている。

「戦争を引き起こすことになったそもそもの原因は、ヨーロッパの中でも力を持った国々が、長い間争いをくりかえしていたことにあった。しかし、こうした世界情勢を理解している人は当時ほとんどいなかった。人々は輝かしい勝利を思いえがき、興奮しきっていたのだ。そして、待ってましたとばかりに戦争が始まった」(p17)

このため、イギリスでは、国民のほとんどが参戦を祝ったという。これが「great war」と言われる所以である。今でこそ、テレビがあり、情報網が発達して戦争がどのようなものであるかということが、肌で実感できるが、当時は兵隊に行く人にも、戦場がどのようなものかということを知らされずに戦場に送られたという。その中でただひたすら、「人を殺すのは嫌だ」という一点の理由で兵役を拒否したこの人たちの信念と言うのは、計り知れないものがある。この物語は、その揺るぎのない信念をたどる旅でもある。

それと同時に、イギリスがこの時期、国民を徴兵に借り出す過程も明確に記されている。ぞっとするのが、その過程が今の日本に通されていく法案によく似ているということである。本書は2004年に日本で刊行されてた。巻末の訳者のあとがきには、ニューヨークのテロ事件に触れ、自衛隊の海外派遣について言及している。そして、続けて、「もしかしたら、日本でもふたたび徴兵制がしかれるかもしれない」という不安を綴っている。が、しかしである。それから12年後の今の日本。訳者が想像するよりも展開が早くなっているような気がする。作者の父と母方祖父は良心的兵役拒否者だったという。作者がなぜこの作品を書いたのか、手にした人なら素直にうなずけるであろう。   (文責 木村綾子)

 


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KIMURAの読書ノート『二つの山河』

2016年07月21日 | KIMURAの読書ノート
『二つの山河』
中村彰彦 作 文藝春秋 1997年

徳島県鳴門市の観光スポットに「ドイツ館」がある。ここは旧板野郡坂東町であり、第一次大戦時に日本軍の俘虜となったドイツ人の収容所(坂東俘虜収容所)があったところである。そして、そのドイツ人達により、今や日本の年末の風物詩となっているベートーベンの交響曲第九番、通称「第九」が初演された地でもある。

なぜ、ここで第九の初演が行われたのか。それは、ハーグ条約に基づき、収容所に集められた俘虜たちの人権が守られ、ドイツ人の伝統や習慣がここ坂東収容所では営まれたためである。また、ここでは、俘虜たちは収容所の外に出ることも許され、坂東町の人々との交流が盛んに行われ、西洋の技術や文化、スポーツなどの指導も受けている。今でいうところのグローバル交流の先駆けともいえるであろう。

しかし、このような収容所は日本各地であったものではなく、この坂東収容所はかなり稀有な存在であった。他の収容所は、多くの人が想像するような劣悪な状況下であったようである。それでは、なぜという疑問が改めて浮かんでくるだろう。そこでの存在が当時の収容所の所長、松江豊寿所長であった。本書はその松江豊寿所長の生涯を描いた作品である。

松江所長は会津藩士を祖に持ち、幼少時代から不遇な境遇であったようである。収容所の所長になった時、彼はこのような言葉を残している。「かれらも祖国のために戦ったのだから」。本書によると、この言葉の背景がまさに、会津藩士の境遇とドイツ兵の状況が重なったと綴っている。作品の中で知るドイツ兵の生活は本当に楽しそうである。例えば、四国のお遍路さんの第一番札所「霊三寺」の門前を中心として開かれた第1回「俘虜作品展示会」でドイツ兵が発した言葉の一つが、「日本人にとってもっとも興味深い展示物はわれわれドイツ人だった」というものだったとか。山を越えて、海水浴に連れ出したことについて、上層部から指導が入った松江所長は「足を洗いに行っているだけである」と返答。それを知ったドイツ兵たちは、海に行くときは、大きな声で「足を洗いに行くのだ」と言いながら、嬉しそうに海水パンツを持って出たというエピソード。間違いなく、そこにはユーモアを生み出すほどのゆとりと信頼関係が生まれていることが分かる。

松江所長への信頼関係はドイツ人に限ったことではなく、その後会津の若松市長になったときも同じような人情あふれる対応をとり、周囲の人々から信頼を得ている。しかし、このような彼の行いはここでも上層部には受け入れられず、失脚させられる。いつの時代も志ある人が不遇な運命に翻弄させられるということに、つい考えさせられる。それでも、彼からの恩恵を受けた人々が後に様々な場面で人と人、国と国との懸け橋となっている。昭和49年、鳴門市はドイツ人俘虜の多くの出身地であるリューネブルク市と姉妹都市盟約を結んでいる。

鳴門市は渦潮で有名であるが、本書を読んだ後、是非「ドイツ館」にも足を伸ばしてほしい。ここに保存されている調度品を見ると、一目で松江所長が俘虜たちを尽力で守り抜いたことがよく分かるであろう。そして人権とは何かということを改めて教えてくれる。本作品は、1994年直木賞受賞作品でもある。

                  (文責 木村綾子)
 

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KIMURAの読書ノート『2020年の大学入試問題』

2016年07月02日 | KIMURAの読書ノート
『2020年の大学入試問題』
石川一郎 著 講談社 2016年2月

2020年大学入試におけるセンター試験が廃止され、高校2年時に「高等学校基礎学力テスト(仮)」、高校3年時に「大学入学希望者学力評価テスト(仮)」が行われることとなった。とりわけ、高校3年時のテストにおいては、これまでと異なり知識を問われるものではなく、どのような問題が出題されるのか、2020年に高校3年生を迎える家庭はすでに不安になっている様子が私の周囲ではうかがえる。本書は、現在東京の私立中高一貫校の校長である著者が、2020年以降大学入試に出題されるであろう問題を紹介しつつ、なぜこのような入試改革になったのか、今後子ども達に必要な学びは何であるのかということが丁寧に記されている。

本書で分かることの一つに、実は2020年の高校3年生に行われる「大学入学希望者学力評価テスト(仮)」(以下「評価テスト」)は2020年に新たに始まるものではないということである。現在の医学部受験や国公立大学における一般推薦入学で行われている小論文などがそれに該当し、知識と知識を結びつける思考力を要求している。その例として、2015年の順天堂大学医学部で出題された小論文の問題がここでは提示されている。

≪キングス・クロス駅の写真です。あなたの感じるところを800字以内で述べなさい。≫

この問題は各方面の教育関係者ではかなり話題になったようである。キングス・クロス駅とは『ハリー・ポッター』シリーズの9と3/4番線でいちやく有名になったイギリスの駅である。写真の中央には、日本では見かけない地下鉄と思われる駅の長い階段が中央にあり、上の方には、下を向いた感じで長いコートを来た男性の後ろ姿がある。そして右下には手すりに結びつけられた赤い風船が二つ写っている。この写真を見て、感じたことを800字、つまり原稿用紙にして2枚にまとめるのである。しかも、ただまとめるだけではなく、ここには大切なファクターがある。これを出題したのは「医学部」であるということをまず考えなくてはならない。将来的には人との関わりや生き死にを肌で感じる職業に就くこととなる。この800字の中に写真で感じたことを踏まえつつも自分の人生観や死生観を盛り込まなくてはならないということなのである。そこまで、考えて受験者はこの問題に取り組むのである。

著者の学校から実際にこの問題を受験し、合格した生徒の解答が本書で披露されているが、それは想像以上に高度な内容となっている。そしてそこから分かることは、これまでのセンター試験や二次試験を否定するものではなく、そこで得た知識を総動員して自分の思考と関係づけるという、更にレベルの高い入試となっているということである。実際にこの入試改革が行わるようになると、「その知識から背景にある理論に勧める思考力そしてその理論を批判し新しい理論を想像するまでの思考力が問われるようになる」(p162)と著者は指摘している。

しかし、この入試には問題があるようにも思える。その一つが経済格差の問題。すでに学力格差と経済格差には相関関係があると指摘されている。このようなハイレベルな入試に太刀打ちできる生徒というのは、知識もさることながら、その文化的背景など多様な面で経験をしていくことになる。多くの文化や経験を幼いころから身に付けることが可能なのはある程度、家庭にゆとりがあるところであろう。知識だけであれば、現在様々な団体が、学力に差が出来ないように、生徒をサポートしているが、それ以上のことをどこまでサポートできるかというのは、難しいところではないだろうか。そして、もう一つ。「評価テスト」が目的通りの解釈となれば問題ないが、「ゆとり教育」の時のように、途中で解釈が間違ってあらぬ方向に進んでしまうことにはならないだろうか。仮にそうなってしまった場合の生徒や中等教育以下の教育機関をただ振り回すことになってしまうであろう。これらのことが正直危惧されるが、2020年文科省が入試改革を行うその理由と言うのが、明確に分かる1冊であり、是非この年以降に受験生を持つ家庭には目を通して欲しいと思う。   (文責 木村綾子)

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KIMURAの読書ノート『Petey』

2016年06月20日 | KIMURAの読書ノート
『Petey』
ベン・マイケルセン 作 千葉茂樹 訳 すずき出版 2010年

1922年春アメリカ、モンタナ州ボーズマンから物語は始まる。その2年前この物語の主人公ピーティはこの世に生まれた。ただし、彼は奇妙にねじれた小さな体の上に、表情のない頭、茶色の小さな芽は、うつろに見ひらかれ、くちびるは、見えない力にひっぱられているかのようであった。その後の2年間、両親はピーティに対して希望を捨てずに専門医を訪ね歩き、献身的に養護してきたが、そのため経済的にも困窮しピーティの兄弟たちも精神的に負担が増し、ついにピーティを精神病患者収容施設に入れることにしたのが、この1922年であったのである。

この物語の巻末には解説がついている。その言葉を借りながら、作品を説明していくと、ピーティを通して障害者の歴史を垣間見ることのできる作品であり、フィクションではありながら、実在する人たちをモデルにしているということである。ピーティはいわゆる「脳性まひ」という障害だったが、当時はまだその障害そのものが認知されておらず、「知的障害」に対する言葉も、今とは異なって解釈されていた時代である。

第一部は、ピーティが精神病患者収容施設に入所してから1978年に退所するまでの約55年間の施設内での生活が描かれている。そこでは、自ら体を動かすことのできないピーティと彼を取り巻く入所者や職員との交わり、その中で彼自身が何らかの意思表示を体得していく様子、しかしそれが相手には伝わらないもどかしさなどが繊細に描かれている。また、障害や病気の種類が異なる人々が一括りにそこに収容され、煩雑な扱いを受けている状況も記され、当時の弱者に対する状況を否応なく目の当たりにさせられる内容ともなっている。

第二部では、介護ホームに移ったピーティの13年後の1990年からの生活が描かれている。1990年と言えば、つい最近といってもおかしくない時代になっているが、介護ホームにはどんな人が生活しているのか、その外側で住んでいる人にとってはまだまだ未知の世界である。その外側の住人としてトレバーが登場する。彼は同級生がピーティに対して雪玉を投げていることをかばったことからピーティとの交流が生まれる。とは言え、最初はピーティからの誘いに嫌悪を抱き、出来るだけ避けていた。しかし、ピーティのことを知るにつれ、彼と友達であることを誇りに感じ、またピーティから多くのことを学んでいくのである。そして、友情を超えたピーティとトレバーの関係が物語の結実となる。

物語は内容的にはとても重いものである。とりわけ一部は偏見と差別がこれでもかというくらい凝縮されており、表現的にも奥歯をつい嚙みしめてしまうような場面が多い。しかし、読後は不思議と爽快さが残る。この爽快さこそピーティとトレバーとの関係性へ向けて物語が進んでいくからなのであるが、これは読んでからのお楽しみ。あっと驚く素敵な関係である。歴史的背景を見つめながらも文学の醍醐味も本作品から味わってほしい。

                   (文責  木村綾子)

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KIMURAの読書ノート『俺たち妊活部 「パパになりたい !」男たちの本音』

2016年06月02日 | KIMURAの読書ノート
『俺たち妊活部「パパになりたい!」男たち101人の本音』
村橋ゴロー 著 主婦の友社 2016年3月

現在、厚労省のデータによると不妊治療を行っているカップルの数は50万人近くいると言われている。不妊治療には時間だけでなく、経済的な負担も多く治療費の助成制度もある。……等は女性の中ではかなり認知されてきたように実感する。実際に不妊治療に関する書籍も多く、それはガイドブックだけでなく、体験記も書店を覗けば所狭しと並んでいる。しかし、それらのほとんどが女性が書いたものである。不妊治療は現実的には夫婦二人で行われる。女性自身不妊治療には不安や苦痛が伴うものであることは事実であるが、男性側も様々な葛藤があるように思える。本書は数少ない男性側からの不妊治療の体験、その思いを綴った1冊となっている。

第1章では、「妊活」いわゆる不妊治療を行った、もしくは進行形の男性101人を取材してまとめたものである。第2章では著者夫婦が不妊治療を経て子どもを授かるまでの体験を綴っている。

第1章の男性101人の赤裸々に語られた「妊活」に対する思いは、目から鱗のようである。夫婦で歩み寄りながら、治療を受けている最中に周囲から不用意な言葉を投げかけられイラッとする男性。結果的に子どもを授かることが出来なかったが、夫婦がより固い絆で結ばれたと語る人。妻以上に我が子を抱きたいという思いが強く、女性が「終わりにしたい」という言葉に対して湾曲にストップをかける男性。逆に費用の面から考えても、限界に近い家庭の状況に対して妻の思いからストップをかけられずに悩む姿。そこには、女性と何ら変わらない十人十色の思いがあった。

第2章の著者の体験記は男性ならではの治療の姿を知ることができ、これから治療を始めるカップル、とりわけ男性にとっては参考になるものであろう。また、自宅でホルモン注射を打つ妻の姿を夫側からの視点で綴った言葉、妊娠反応があったかどうかの連絡を待つ時の気持ち。不妊治療は夫婦で行うとは言え、その多くが女性側に偏ることを考えると「待ち」の状態が多い男性側は、想像以上に気持ちが揺さぶられるようである。あとがきにはこのように著者は記している。

「不妊治療を開始した当初、僕はとても不真面目でした。子どもなんてできっこないと思っていました。しかし厳しい治療や度重なる流産という結果に耐え、泣きごとをひとつも言うことがなかったりえ。そんな姿を横で見ていたら、彼女をより深く愛するようになったのです。そしてそれは、本気で子どもを望む気持ちに変わっていきました」

なかなか男性の声を聞くことのできない不妊治療の現実。「妊活」の語られることの少ない一面を引き出してくれている。

文責 木村綾子

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KIMURAの読書ノート『11をさがして』

2016年05月20日 | KIMURAの読書ノート
『11をさがして』
パトリシア・ライリー・ギフ 作 岡本さゆり 訳 佐竹美保 絵 文研出版 2010年

両親の死後、祖父マックに育てられたサム。11歳の誕生日の前日、サムは自分への誕生日プレゼントが家のどこかに隠されているのを探し始める。屋根裏に忍び込んだサムは窓際に置かれたカギ付きの箱が目に留まる。それに近づくと、ふたの間に新聞の切り抜きがはさまっていた。その新聞記事には自分自身が3歳の時に行方不明になっていることが書かれていた。マックは本当の祖父ではないのか。自分は誰の子なのか。なぜ行方不明になったのか。サムは転校生のキャロラインをパートナーに選び、自分の生い立ちについて調べ始める。

この物語には、大きな伏線が張られている。それは主人公サムがディスレクシアであるという設定になっていること。ディスレクシアとは学習障害の中の「識字障害」であり、「知的に問題はないものの読み書きの能力に著しい困難を持つ症状を言う。充分な教育の機会があり、視覚・聴覚の器官の異常が無いにも関わらず症状が現れた場合に称する(NPO法人EDGEより)」。本作品ではサムは自分が見えている文字の世界を「足をのばしたりちぢめたりしている黒いクモ」と表現している。また、キャロラインは画家を父に持ち、その父の作品制作のため、1年に何度も転校を繰り返すという境遇。そのため、転校した先々で友達を作らないことを自分の中に持っていた。

その二人がタッグを組むことにより、サムの文字が読み書きできないもどかしさをキャロラインが補い、友達を作ることを拒否していたキャロラインは「本当の友達」というものをサムの中から見出していく。その過程というのは、児童文学ならではの爽やかさがある。そして、二人を見守る周囲の大人たちの空気がとても温かい。真相を話すマックはこれまでのサムの行いを否定することもなく、来るべき時が来たと穏やかにその時の様子を丁寧に話していく。また、真実を全て知ることなく、次の転校先に行ってしまったキャロラインであったが、母親が車で2時間かかるサムの学校へ連れていき、サムとの再会を果たさせる。それは劇的でも何でもなく(子ども達にとっては劇的な出来事となるが)、そうして当然という大人としての当たり前の好意として描かれており、これこそ大人の対応ということをまざまざと見せつけられる。また、サムの文字指導をするウェアリング先生は、サムが本気で文字を勉強したいと伝えた時の台詞「わたしにやらせてみてよ、サム。あなたがお城を作るのが好きなのと同じで、わたしはあなたに教えるのが好きなの」。この作品に出てくる大人たちの愛が、本来の無償の愛という形で描かれているところも、作品の見どころである。

そして、もちろんタイトルにもなっている「11」という数字。これが何を表すのか。「11」が示す様々な意味が本中で明らかになっていく過程は、サムの持っている特質にも関わって来ており、ミステリーとして新鮮に感じる。終着点としての「11」が何だったのかは読んでからのお楽しみ!
     (文責 木村綾子)

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KIMURAの読書ノート『吹部ノート』

2016年05月02日 | KIMURAの読書ノート
『吹部ノート』
オザワ部長 著 菊池直恵 画 KKベストセラーズ 2015年12月

かれこれ30年前。私はトランペットに青春をかけていた。1000人規模の中学校のその1割以上がブラスバンド部(通称ブラス)に所属。その中で全日本吹奏楽部コンクールのメンバーに入れるのは55名。当時から文化系部活の花形であった。そして誰もが普門館(現在は名古屋国際会議場センチュリーホール)目指して365日運動部と変わらない体力を使っていた。時は流れて今。全く変わらない青春がそこにある。それどころか、今では一般的に「吹部」と呼ばれ、メディアでも大きく取り上げられるようになった。本書は、その「吹部」でセンチュリーホールを目指す6校(高校)を追いかけたルポタージュである。

読後はまず「懐かしさ」で胸がいっぱいになるだろう。ここに取り上げられている6校はいずれ吹奏楽部の強豪校と言われる学校である。しかし、生徒の一人一人に焦点を当てたこの取材は、彼女・彼らが強豪校にいるからの悩みや葛藤というものではなく、少なからず誰もが持ち合わせているそれらと何ら変わりがない。1年生の時からトップでトランペットを吹いていたユイが3年の時、入部してきたばかりの1年生にそのトップを奪われ、はじめて先輩たちの思いを知る。校内オーディションで明暗を分けたヤマオとシホ。地方進学校故に引退が2年生の秋。コンクールメンバーが1年と2年生だけで構成される学校。全国で吹いて当然と思われていた中での予選敗退校。その中での、生徒たちの感情は、いずれも自分自身の何かに置き換え共感できることばかりである。

本書は、取材する中で、生徒たちが毎日書いている部活ノートにも注目している。表面上には見えない葛藤をノートに綴ることで、一つ一つの想いをどのように消化しているかを手掛かりとしている。ユイを抜いてトップに上がった1年生のいずみんはノートに「ずっと左の席にすわりつづけます。トッププレイヤーになります」。文字は可愛らしい、いかにも女子高生の書く字体であるが、そこには底知れぬ気迫と緊張感が漂っている。予選敗退校はその屈辱を晴らすべく、必死に楽譜にも細かな指示を埋め込んでいる。ノートや楽譜だけではない。部内で作ったポスターや鉢巻、そして、カレンダーにまで生徒の文字が熱く刻まれている。振り返れば、この時期自分も含め、周囲の同級生たちも部活に限らず、ノートに、紙の切れ端に自分の思いを綴っていたような気がする。確か、交換日記もこの世代、特有のものではないだろうか。

10代の真ん中を吹奏楽部で過ごしている彼・彼女たち。他の部活と同じように頂点を目指すためにまっすぐに突き進む姿がとてもまぶしくもあり、うらやましくもある。しかし、おそらく生徒たちはそのように思われているとは、全く思っていないだろう。そして、大人になった時、自分たちが取材をうけたこの本を改めて手にして、今の読者と同じ感想を持ち、共感し、懐かしさに浸るのだろう。それを一足先に感じさせてもらえる1冊である。  (文責 木村綾子)

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KIMURAの読書ノート『きょうはおおかみ』

2016年04月21日 | KIMURAの読書ノート
『きょうはおおかみ』
キョウ・マクレア 文 イザベル・アーセノー 絵 小島明子 訳
きじとら出版 2015年

本の読み手というだけでなく、仕事として関わるようになり知ったことの一つとして、日本国内には(もちろん、世界を通してもだが)小さな出版社というのがあちこちにあるということである。今回紹介する作品も広島市にある小さな出版社から刊行されたものであり、この出版社のHPを見る限り、ここから生まれた作品はまだ5作品である。しかし、驚くことなかれ。本作品も含め全ての作品が「いたばし国際絵本翻訳大賞」を受賞している。ちなみにこの作品は出版社を立ち上げたオーナーによる翻訳である。

朝、目を覚ました妹のバージニアは、おおかみみたいにむしゃくしゃしていた。まさにおおかみ気分。姉のバネッサが絵を描いているだけで、「がおーう」、友達が遊びに来ても「うおーん」と吠えるだけ。バネッサはバージニアがどうしたら元気になってくれるのか尋ねたところ、バネッサは「ぜったいにかなしいきもちにならないところ」。バージニアが考えた末出したその場所は。

この作品は妹の気持ちに寄り添おうとする姉の想いと、妹の憂鬱さがユーモラスな語りで展開している。そして何よりも画が妹の心情を的確に表現しているのだが、それがどの心情を表現していても美しい。完璧に自分の殻に引きこもっている時のバージニアの場面にはモノトーンで表され、次のページでバネッサがバージニアの隣にじっと寄り添う場面では黒の中にほんのりと水色が浮かんでいる。更にその先のページにはどんな色が重ね合わせられているのだろうかと鬱積するバージニアに感情を持っていかれることもなく、心はウキウキ・わくわく。ページをめくるごとにだんだん明るくなるわけでもない意外性が更に期待感を高めてくれるのがこの作品の魅力でもある。

邦訳に関しては多くの擬音語が使われている。オオカミの吠え方一つとってもそうであり、原作がどのように記述されていたのか気になるところ。オノマトペは日本語の真骨頂でもあるため、この辺りが翻訳大賞を受賞した理由の一つにもなっているのではないだろうか。外国語にうとい私には「おはな、ふにゃふにゃだね」とか「もこもこしている木」を英語に直せと言われても「flower」と「tree」が唯一分かる単語。もしかすると、擬音語以外にも日本語に適した表現に大きく変わっているのかもしれないが、少なからず一歩間違えれば暗澹とする内容がとにかく愉快に読めてしまう。

この作品、国内だけでなく、海外でも評価が高い。カナダでの「カナダ総督文学賞」において児童書部門で受賞している。また、原題は「Virginia WOLF」。イギリスの作家、ヴァージニア・ウルフ(Virginia Woolf) がモデルになっていることもここに加えておく。 (文責 木村綾子)

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KIMURAの読書ノート『セーラー服と機関銃3 疾走』 赤川次郎 作 

2016年04月06日 | KIMURAの読書ノート
『セーラー服と機関銃3 疾走』
赤川次郎 作 角川書店 2016年1月25日

前回の読書ノートで映画『セーラー服と機関銃 ―卒業―』を紹介した。この時に、その続きとなるシリーズ第3作目が刊行されていることも加えてお伝えした。今回はその3作目を無事読了したので、それを取り上げる。

本作品は、星泉45歳。その娘、叶17歳の物語である。主役は娘である。

叶は高校2年生。演劇部に所属し、その合宿からの帰りに道に迷う。山の中を部員と共にさ迷っていると、一軒の古びた家にたどり着き、そこに泊めてもらうことになる。この家の女主人が深夜、叶に打ち明けたことは、自分が叶の母親泉であること。その後無事に自宅に戻った叶が待ち受けていたことは、友人以上恋人未満の丸山の死。そしてここから叶の身辺が大きく変わってくる。泉の高校卒業以降の動向、叶の出生の秘密、そして父親のことが、明らかになっていく。そして、叶が放つ機関銃の先は……。

シリーズの第1作となる『セーラー服と機関銃』が刊行されたのが1979年。それから35年。泉の年齢もさることながら、彼女たちが対峙する相手が大きく変わっていることに時代の流れを感じさせられる。当時の敵はやくざ同士の抗争であったが、そのような身内同士の争いが子ども同士のケンカのようにさえ思えてくる。作者の赤川次郎さんは近年、自身の仕事としてのコラムだけでなく、プライベートでも新聞などに自分の意見を投稿、話題になっている。その多くが、今の日本社会における政治への不信感や提言である。この作品はそれをまさに凝縮したものとなっている。少しだけ内容に触れることになるが、本作品の舞台は日本にとどまらない。いわゆるグローバル化と言えばいいのだろうか。泉と叶の父親との出会いは、日本ではない。しかし、世界を舞台にして大風呂敷を広げた話なのかと言えば、案外そうではない。今の日本政府のきな臭さを星親子を通して、訴えているのである。しかもそれは、今メディアで報道されていることではない。まさに、作者が「きな臭さ」を嗅ぎ取って作品に著したと言っても過言ではないだろう。そのため、実際にそうであるかは分からない。しかし、作中の日本政府がそうであるように、今の日本政府がそうであっても、決しておかしくないとさえ思えてくる。

かつての『セーラー服と機関銃』は明らかに「青春ミステリー」という言葉がぴったりの作品であった。「セーラー服」を来た女子高生が殺人事件に巻き込まれ、問題を解決しながら義理と人情のために「機関銃」を放つ、爽快感たっぷりの物語であった。しかし、同じシリーズでありながら、この作品は「青春」とはほど遠い、どちらかというと「社会派ミステリー」に変化している。これまで同様、「セーラー服」を来た女子高生が「機関銃」の引き金を引く物語であるのにも関わらず。義理と人情だけでは語れなくなったこの物語。第2作から30年を経てこの作品を書かざるを得なくなった作者の想い。そして、その全てを背負った星親子。明るいエンディングでありながら、切なさが残る読後であった。  (文責 木村綾子)

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KIMURAの読書ノート『セーラー服と機関銃 ―卒業―』

2016年03月17日 | KIMURAの読書ノート
『セーラー服と機関銃 ―卒業―』
赤川次郎 原作 前田弘二 監督 橋本環奈 出演 2016年3月5日 公開

薬師丸ひろ子、原田知世、長澤まさみの星泉を観ている私としては、橋本環奈の星泉も観なくてはいけないでしょう…ということで、劇場に行ってきた。今回の作品は前3作とは異なり、その後を描いたものである。それでも、シリーズとなる最初『セーラー服と機関銃』はあまりにもインパクトが強く、30年経って第2作が映像化されたと言っても、ほぼリメイクに近い状態で公開されているのであろうと期待を全くしていなかった。もちろん、原作の『セーラー服と機関銃・その後 ―卒業―』を読了してても…である。

結論から言おう。「観に行ってよかった」の一言である。間違いなく橋本環奈の星泉であり、その後の『セーラー服と機関銃』であった。何よりも橋本環奈を取り巻く俳優陣が際物ぞろいで(とりわけ、安井役の安藤政信には注目である)、かつての薬師丸ひろ子がそうであったように、橋本環奈を橋本環奈の星泉として成長させていることが手に取るように分かる。アイドルとしての顔が拭えないシーンから一転、星泉の顔に変わる瞬間は思わず同性でしかも、彼女の母親の年齢の私ですらドキッとさせられる。そして、構成にも迫力がある。銃撃シーンには正直ど肝を抜かれた。気が付くと奥歯をかみしめ、息を殺してスクリーンを見つめている自分がいる。PG-12指定になっているはずである。あくまでも小説という枠の設定であるのに、現実のように容赦ないエンディングを迎え、それでもわずか一分だけの救い。最後まで目が離せなくなる。

そして、現代社会への警告。若者のドラックの問題。地方の過疎化。なぜ、今この作品を映画化したのか。なぜ、星泉に再び機関銃を持たせたのか。ただ、角川映画40周年記念作品だからではないであろう。そこに監督やスタッフの、大人としての責任を感じ取ることができる。なぜなら、星泉と敵対する相手の台詞が実は的を射ているからである。それでも機関銃を星泉に放たせるこの作品は、今の日本の本質をついているようにも思える。

実際劇場に足を運んで分かったが、観客は「天使すぎるアイドル」橋本環奈目当てのファンは案外少なかった。それよりも丁度私と同じ世代の親子や私と同世代同士というのが多かったように思われる。それを狙ってか、誰もが知っている『セーラー服と機関銃』及び、1980年代栄光を飾った角川映画へのオマージュがそこには盛り込まれており、それを探すのも、この作品の楽しみ方の一つでもある。それに幾つ気が付くかは観てのお楽しみである。

尚、今年1月、シリーズ3弾目となる『セーラー服と機関銃 ―疾走―』が出版された。こちらは、星泉と娘、叶の物語である。機関銃を放った泉が娘に何を語るのか。そして叶は何を母から受け継ぐのか。現在未読の状態でこの作品が手元にある。これからページを開くのが、楽しみである。そして、30年後。この作品が映像化され、3世代が揃って劇場へ足を運んでいることを期待している。 
           文責 木村綾子

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2016年03月04日 | オフ会、お知らせなど
「京都で、着物暮らし」は

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KIMURAの読書ノート『いしをつんだおとこ』

2016年03月04日 | KIMURAの読書ノート
『いしをつんだおとこ』
あきやまただし 作 ハッピーオウル社 2014年

少なからず、子育て世代の家庭では作者の名前を知らない人はいないであろう。仮に作者の名前を知らなくても、NHK教育テレビで日曜日以外の毎日放映されている『はなかっぱ』、と言えば誰もがうなずくはずである。やまびこ村に住んでいるかっぱであり、頭には花が咲いている。だから、「はなかっぱ」。彼と彼を取り巻く人々(?)とのてんやわんやの毎日を描いたのがこの作品である。もともとは1冊の絵

本の主人公だったが、今や絵本を飛び出し、アニメ化になり早8年。グッズやDVD、そして映画化もされ、未だに人気が衰えない子ども達に愛され続けているキャラクターとなっている。

しかし、今回紹介する作品は「はなかっぱ」からは想像できない画風で描かれた作品である。そして、冒頭はこのような文章から始まる。

「あるひ、その おとこは、まちの まんなかの あきちに、いしを つみはじめました。ふゆの さむさを しのぐ ばしょが ほしかったのです。 おとこは、えかきでした。 しかし、おとこの かいた えは まったく うれず、 かみや えほぐを かう おかねも なくなりました。 すんでいた いえからも おいだされ、おとこは、みちばたで くらすようになっていたのです。」

『はなかっぱ』に限らず、彼の作品は子ども目線で描かれ、子ども達が無条件に笑え、共感でき、愛されるキャラクターに仕上げられている。しかしながら、この作品からは少なからず、愛されキャラは登場しない。そればかりか、冒頭でも示されているように悲観的である。

この後、男は何年も石を積み上げていく。それは未だに完成しないサクラダファミリアを彷彿させる。そして、彼が最後に目にしたものは……。

出版社に作者は次のメッセージを寄せている。

「これまでの私の作風とは180°くらいちがう作品ですが、長年あたためてきた大切なお話です。いままでつみ上げてきた私の『仕事』の、ひとつの答えのようなものになりました。」

彼が子ども目線で常に作品を描いてきたのには、自分自身我が子の子育てをしながら、子ども達から得たものをそのまま作品に還元していると随分前のインタビュー記事だったかで目にした記憶がある。ともすれば、このメッセージから察するに、子育ての帰結がこの作品であるとも言える。今や子育てのみに没頭できる家庭は皆無である。仕事、家事、はたや介護との並行で育児が行われる時代である。育児だけで悩むのではなく、これらのことが交錯し複雑化した悩みが増えていることであろう。その救いになるのが、この作品になるかもしれない。是非『はなかっぱ』を現在我が子と一緒に観ている世代に読ん欲しい1冊である。

第62回産経児童文化賞「美術賞」受賞作品。 (文責 木村綾子)

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KIMURAの読書ノート『トンネルの森1945』

2016年02月19日 | KIMURAの読書ノート
『トンネルの森1945』
角野栄子 作 角川書店 2015年7月

イコはお父さんと新しいお母さん、そして弟と生活をしている小学1年生の女の子。小学4年生の時に、戦禍が厳しくなりお母さんと弟とで松田村に疎開をする。疎開先の住まいは脱走兵がかつて住んでいたと噂されるところで、国民学校までの道のりには深い森がある。イコは疎開先になかなかなじめず、かつて住んでいた東京深川のことを思いだしては、そこへ帰ることを常に願っていた。そこへ、三鷹に疎開した祖母が空襲に巻き込まれて亡くなったという知らせ。その後、深川に残ったお父さんも空襲に巻き込まれて行方不明となる。多感な時期、戦争という時代を過ごした作者自身の体験をモチーフにした物語である。

この物語は完全にイコの目線で書かれたものである。子どもの目線というのは、思ったほど純粋ではなく、かなり擦れている。そこには、「戦争だから何なのよ」という素朴な疑問や、矛盾する大人の行動を的確にイコの口から語られている。

「『チョコレートなんて、敵国の食べ物だ』口ではそんな悪口を言ってるくせに、たまにお店に並ぶと、みんなのわれ先にとならんで、ちゃっかり買っている。」(p6)
「森に囲まれた家ではラジオだってよく聞こえない。耳をくっつけて、必死で聞くと、日本はますます元気に勝ち進んでいる。空襲が少しはあっても、国民はますます勇気をもって、毎日を過ごしている、らしい。なら、私はここに来なくてってもよかったんじゃないの。」(p80)

毒づいているだけでない。疎開先での孤独感や不安感。「戦争」という子どもにとっては訳の分からない事件に翻弄されながら、毎日を過ごすイコ。そこには、当時の大人が決して想像できなかった世界が広がっている。深い森で感じた脱走兵の気配に希望を持ったり、寝たきりの友達の母親に憧れを抱いたりするのは、まさに子どもならではの感覚だろう。

作者はインタビューでこのようにこたえている。
「体験したのだから、戦争のことを書いてみようと思ったの。10歳の女の子が見た、感じた戦争、それだけを書きたかったんです。~略~子供は戦況や戦争自体の善悪なんか考えない。私自身には戦争について思うところはありますが、大人の目線で戦争を意味づけるようなことはしたくなかった」

1970年に作家とデビューして以来45年。数々のヒット作品を描き続けながらも、戦争を題材にしたのは、本作品がではじめてという。それだけ、作者にとって「戦争」という体験を消化するには時間がかかったということなのかもしれない。しかし、実際に作品を読んでみると、重たい内容ながらもイコの息づかいやそこで跳ねているイコを間近に感じることができる。戦争であろうと、グローバル化した現在であろうと、古今東西子どもというのは変わらない存在なのかもしれないということを改めて認識させてくれる作品である。それをあえて変えてしまうとしたら、やはり「大人の問題」。その一言に尽きると思うのである。

また、この作品の挿絵が美しい。富安陽子作品ではよく目にする大庭賢哉さんが担当。富安作品の軽いアニメ的タッチとは異なり、ジブリ作品を彷彿させるような緻密で空間に広がりを見せた水彩画の淡いタッチがより作品に味わいを見せてくれている。おそらく作者が角野栄子さんと気が付かずに、表紙の画を見て手にした人も多いのではなかろうか。それだけ印象深い挿絵となっている。
        文責  木村綾子

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KIMURAの読書ノート『うちの子になりなよ~ある漫画家の里親入門~』

2016年02月02日 | KIMURAの読書ノート
『うちの子になりなよ~ある漫画家の里親入門~』
古泉智浩 著 イースト・プレス 2015年12月

ごくごく普通のパパ目線の育児日記である。著者は漫画家という職業柄、一日を自宅で過ごすため、我が子のことを十分に観察することが出来る。またそれが故に引き起こされる意外なエピソード。このエピソードはなかなかユニークである。例えば、生後7か月。著者はこのように記述している。

「寝返りもハイハイもズリハイもしないため、寝返りの練習をさせようと、長座布団の上を体重移動させるように手を引っ張ってごろごろさせていると泣き出した。いつもの甘える泣き方と違って深刻な痛みを訴えるような泣き方で、肩かひじをひねってしまったのかと心配になった。雑だったのかもしれない。ごめん」(p34)

他にもこのようなエピソード。
「赤ちゃんスイミングは、赤ちゃんがあまりに見ず嫌いでこのままではカナヅチになってしまうことへの危惧があったためだ。僕はかつて見てきた。普段野球やバスケが上手でクラスの中心人物だったHくんがカナヅチであったばかりに、夏場プールを仮病で見学して大層小さくなっていたことを。僕は球技が苦手だった割に水泳だけは得意で、大変いい気味だった」(p55)

視点がかなり異なる父親であるが、大なり小なりこのようなエピソードはどの家庭にでは育児中持ち合わせているものである。ただ一つを除いては。

この育児日記、本書のサブタイトルにもなっているように、著者夫婦が里親制度を利用して病院から引き取った赤ちゃんの出来事である。この制度とは、
「家庭での養育が困難又は受けられなくなった子ども等に、温かい愛情と正しい理解を持った家庭環境の下での養育を提供する制度です。家庭での生活を通じて、子どもが成長する上で極めて重要な特定の大人との愛着関係の中で養育を行うことにより、子どもの健全な育成を図る有意義な制度です」(厚労省HPより)

本書の後半はなぜ里親制度を利用するようになったのか、それまでの不妊治療の経緯なども綴られているばかりでなく、里親制度を利用するための研修内容や里親として子どもを育てていく場合の現実的な課題なども書かれている。

現在社会的養護の必要な子ども達は4万6千人と言われている(厚労省HPデータより)。そのうち平成25年度で里親の下で暮らしている子ども達は4636人。小規模グループホームで生活をしている子ども達を含めても5629人。それ以外の子ども達は集団生活を送っているということになる。この世に生を受けて、まず子ども達に必要なのは決まった人との愛着関係。集団生活になればなるほど、それは薄まってくる。そのようなことを知ると本書はまた違った様相を醸し出してくる。

著者は本書の袖にこのように読者にメッセージを残している。
「里親には守秘義務があります。ですが、この素晴らしい制度をひとりでも多くの人に知ってもらいたいので、里子のプライバシーに配慮しつつ、できるだけ正直に書いてみました」

著者の気持ちを汲み取りながら、それでも笑って読んで欲しい1冊である。。 文責 木村綾子 


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