京都で、着物暮らし 

京の街には着物姿が増えています。実に奥が深く、教えられることがいっぱい。着物とその周辺について綴ります。

KIIMURAの読書ノート 工学部ヒラノ教授の介護日誌

2018年02月21日 | KIMURAの読書ノート

『工学部ヒラノ教授の介護日誌』
今野浩 著 青土社 2016年

 元東京工業大学教授の著者は、自身のことを「ヒラノ教授」と呼び、様々な角度から自身の周辺で起こった出来事をシリーズとして出版しています。その中の1冊が本書です。

タイトル通り本書はヒラノ教授が約19年間、妻である道子さんを介護した記録です。道子さんはヒラノ教授が51歳の時、悪性の不整脈と言われる「心室頻拍」を発症。その後、小脳が委縮して、運動機能が徐々に失われていく、「脊髄小脳変性症」という一万人に1人の難病を抱えます。ヒラノ教授の説明によると、この病気は発症後10年ほどで、嚥下機能に障害が出て、誤嚥性肺炎で亡くなることが多いそうで、実際、道子さんの最期のきっかけは誤嚥性肺炎によるものでした。

道子さんが発症してから、9年後にヒラノ教授は東工大を退官、その後の10年間は中央大学の教授として勤めておりますが、その生活は決して緩やかなものではありませんでした。しかしながら、ヒラノ教授の言葉を借りるならば、「大学という、時間に縛られることが少ない職場に勤めていたことである。大学教授は(少なくともこれまでは)、ある程度の研究成果を上げ、何科目かの講義を担当し、会議に出席し、ある程度の雑用をこなし、“悪事に手を染めなければ”、それ以外の時間は自由に過ごすことができたP215)」からとのこと。実際に、仕事を継続するために、ヒラノ教授は自宅での介護が困難になってくると、二人で介護つき有料老人ホームに入ります。それでも、道子さんの状態が悪いため、そのホ
ームでヒラノ教授は介護をしていきます。

道子さんの「脊髄小脳変性症」は遺伝性の病気で、道子さんのお母様もそれが原因で亡くなっていますが、ヒラノ教授と道子さんの娘さんも、道子さんが患ってまもなく発症します。実は娘さんが3人の中では、いちばん発症年齢としては早く、それが元で離婚となっているばかりか、離婚前には当時の夫から暴力を受けることになります。介護をする過程で起こってしまうDVにもヒラノ教授は本書で言及しています。そしてそれは娘さんの夫のことだけでなく、自分自身も道子さんに暴力を振るってしまったことも正直に書いています。

ヒラノ教授は19年に及ぶ介護をしていますが、実際には道子さんだけでなく、娘さんに関してもほぼ同時に介護をせざる得ない状況に追い込まれています。しかし、娘さんに関しては、ケアワーカーのはからいにより、かなり快適に過ごせる障害を持つ人の入所施設に入居でき、月に何回かの訪問でそのハードな介護生活を乗り切っています。

本書以前のシリーズには、大学を去った後は、「工学部の語り部」として本を出しながら余生を過ごすという趣旨のことを書かれていたのですが、実際には、娘さんの介護費用のためというのも、理由の一つであったことを本書で知ることになりました(道子さんは、ヒラノ教授が中央大学退職3日後に逝去)。ヒラノ教授には他に2人の息子さんがいらっしゃいますが、それぞれの生活があり、遠方にも住んでいるため、協力を求めるのは現実的ではないということも書かれてありました。

ヒラノ教授は介護生活を振り返りながら、まだ自分は幸運だったと綴っていますが、金銭的なこと、介護施設に入居しても自分自身がそこで介護しなければならない現実、遺伝性の病気で家族が同時に発症するケースなど、ヒラノ教授が経験したことは読んでいるだけで身につまされます。そして、これが日本の介護の現状なのだとひしひしと伝わってきます。それでも、本書は、ヒラノ教授自身が関わったデータ(具体的な金額など)も踏まえていますので、今後介護にかかわる場合の参考の一つにもなるかと感じました。

文責 木村綾子



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KIMURAの読書ノート『僕には世界がふたつある』

2018年02月02日 | 大原の里だより

『僕には世界がふたつある』
ニール・シャスタマン 作 金原瑞人 西田佳子 訳 集英社 2017年
 
この物語は二つ舞台から始まる。主人公は15歳のケイダン。誰かがケイダンを殺そうとする家や学校と、ケイダン自身が乗って深海に向かう海賊船の中。これら舞台が半ページ、長くても3、4ページで入れ代わり、読者は何が物語の中で起こっているのか混乱してくる。舞台はそれぞれ独立して読んでいてもそれだけで十分の物語として成立している。それなのに、更に中盤に進むと、1つ目の舞台「家」が「病院」に移ってくる。ここまで踏ん張って読み進めるとケイダンの中で何が起こっているのか理解できるようになるが、それに至るまでに読み手がお手上げになるかもしれない。それを阻止するためにも、あえて予備知識をここに記しておく。本書の袖にもそれが書かれているので、隠す必要もないと勝手に
私が解釈することを許して欲しい。ケイダンは精神疾患を持った少年である。「家」は現実であり、「海賊船」は彼の脳の中の世界である。しかし、ケイダンにとっては共に現実の世界である。
 
この作品はフィクションであるが、作者の息子の実体験がもとになっている。彼に協力を得て、彼の持った病院の印象、恐怖、被害妄想、強迫観念、抑鬱の感覚、更には治療過程を丁寧に描写している。
 
例えば、ケイダンが家のベッドで横になっている場面、「『ふたりは、本当におまえの親なのか?』『やつらは偽物だ。本当の良心はサイに食われちまった』そんな声がきこえる。けどそれは、『おばけ桃が行く』(ロアルド・ダール作の童話)の科白だ。小さいころ、あの本がすごく好きだった。けど、もう頭のなかがぐちゃぐちゃだし、きこえる声にはすごく説得力があるから、なにが現実でなにが妄想なのか、わからなくなってしまう。その声をきいているのは耳じゃないし、頭でもない。その声は、たまたまのぞいてしまった別世界からの呼びかけなのだ。携帯電話が混線して、知らない外国語がきこえてくるみたいなもの。なのに、なぜかその意味が理解できてしまう」(p147)。病院でのケイダンはこのよ
うなことをつぶやいている。「部屋の奥に電気のスイッチがある。電気を消そう。それならできる。だけどできない。なぜなら、フルーツゼリーのなかのパイナップルのかけらになってしまったから。ゼリーから出ていこうという気にもなれない」(p187)。海賊船でのとある場面では、「僕の脳みそが左の鼻の穴から抜け出して、野生化した」(p225)
 
これらのケイダンの言葉を読者は彼が精神疾患を持っているからの言葉であることを知っているからこそ受け入れて読むことができるが、当事者はただただそれが現実であると思っているため、その恐怖というのは、想像を絶するものであろう。それと同時に彼の脳の中の世界、すなわち「海賊船」での世界、決してこれも彼にとっては愉快な世界ではない。常に追い詰められ、逃げまどい、混乱していく。それでも、その世界だけを抜き取ると一人の人間の別世界が豊かに展開されているということに気が付く。人はここまで世界を広げていくことができるかということに圧倒される。だからこそ、現実と脳の中の世界が交錯して精神疾患を持つ人は行き場を失うのであろうということが少しだけ想像できる。そし
て、逆に何を手掛かりに彼らはその世界から一筋の光を見つけるのか。作者はあとがきにこのように言葉を添えている。「精神疾患の暗くて予測不能な海を航海する人の気持ちがどういうものなのか、この本を読んで理解してほしいのです」(p353)
 
2015年度全米図書賞児童文学部門受賞作品。また現在、映画化も作者の脚本で進行中である。

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文責. 木村綾子






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KIMURAの読書ノート なくなりそうな世界のことば

2018年01月19日 | KIMURAの読書ノート


『なくなりそうな世界のことば』
吉岡乾 著 西淑 イラスト 創元社 2017年8月
 
ページをめくると左側にとても鮮やかなイラストと詩のようなフレーズが綴られ、詩集のような錯覚を覚える。しかし、本書は刊行されて以来、あちこちのメディアでも取り上げられているため、ご存じの方もいらっしゃるかもしれないが、この地球上で話されている少数言語を集めた単語帳である。見開き1ページが一言語。詩のようなフレーズは言語学者がその言語らしい単語をピックアップして説明したもの。もちろん、イラストもその単語に見合った特色で描かれている。ページをめくるたびに、日本語とは、更には、しばし耳にする英語やドイツ語、中国語や朝鮮語とは異なる単語が目に飛び込み未知なる世界に誘ってくれるものの、本書が音声を持っていないことを少し残念に感じる。
 
【イヨマンデ】日本の先住民族であるアイヌの言葉であり、本書ではアイヌ語をこの単語で取り上げている。「熊祭り」もしくは「熊送り儀礼」というのが意で、「捕えた小熊(の姿をした神様)を、一定期間、大事に村で育て、お祈りをしつつその肉を村人全員で、心からの感謝とともに食べて、その魂を神の国へと送り返す祭。神様は、ヒトの世に降りて来るときには動物などの姿に化け、その身の肉や毛皮をヒトへのお土産として持参するのだという(p106)」がその説明である。天にのぼっている熊が星に囲まれ、ギリシャ神話を彷彿するイラストが印象的である。
 
本書ではある仕掛けが用意されている。見開きの右端に横向きで印字されている数字がそれである。一見ページ数かと思われるが、ページをめくるごとにその数字は小さくなる。実はこの数字、そのページの言語の現存する話者の人数である。いちばん最初に紹介されているのは、ペール南部山岳地帯で話されるアヤクチョ・ケチュア語。その話者は90万人。日本の政令指定都市、北九州市の人口が95万人(2017年10月現在)。規模的には北九州市の人たちが話している言葉(方言)の人数とイメージしてもらえればいいのかもしれない。しかし、本書ではこの人数が最大なのである。後は減っていくのみ。もちろん、最後は「0」という言語が紹介されている。本書によるとこの言語の最後の話者が2009年、2010年に続け
て亡くなったためということである。そして、先の「アイヌ語」。自由にこの言語を操れる話者は5名しかいない。
 
 筆者は冒頭でこのように綴っている。
「ことばと文化。それらの間には互いに密接な関連があり、切り離して考えることはできません。なぜなら、ことばを用いるとき、そこには話し手の暮らしている生活や環境、それに、そこで恵まれてきた文化というものが、背景として隠れているからです。ことばとは、ある社会集団の歴史的な遺産であって、長きにわたって持続した社会文化的習慣の産みだした約束事、しくみなのです。ですから、広い地域にまたがって色々な人、様々は文化の中で話されている「大きな」ことばよりも、数少ない人が特定の地域・環境で生活している中で用いている「小さな」ことばのほうが、もっともっと、背景となる文化から生じた知恵や、その生活ならではの認識・理解といったものを色濃く、純度高く反映しているこ
とだってあります。そういう意味で、ことばと文化は、表裏一体なのです」(p2)
 
 この1ページ1ページに表された言葉だけでなく、その民族の生活まで是非本書を手にして想像して欲しい。きっと次は地図帳を片手にその民族に思いを馳せ、更には近い将来そこを旅しているかもしれない。そして「母語」とは、「日本語」とはと言う事を改めて考える機会を与えてくれる1冊でもある。

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文責 木村綾子



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KIMURAの読書ノート[将棋ボーイズ]

2018年01月07日 | KIMURAの読書ノート


『将棋ボーイズ』
小山田桐子 作 幻冬舎 2014年
 
明けましておめでとうございます。今年も気の向くままにランダムに読んでいきたいと思います。あくまでもkimuraの趣味で読んだものばかりですので、この「読書ノート」を読んでくださる皆さんのツボを押さえたものには至らないかと思いますが、本年もお付き合いくだされば幸いです。どうぞよろしくお願い申し上げます。
 
それにしても、昨年も1年を通してたくさんの業界で様々なトピックスがありました。将棋界もその一つ。年頭、中学生の藤井四段が前人未到の29連勝を達成したかと思うと、年末には羽生九段が史上初の永世七冠となりました。また、その藤井四段に敗れ引退となったレジェンド加藤一二三九段ですが、その愛されキャラでテレビに引っ張りだこ。このように1年を通して将棋界は注目されることになりました。そこで今回紹介する本はその将棋界が舞台の『将棋ボーイズ』。
 
物語の主人公は歩と倉持。歩は将棋好きの祖父が名付け親。駒の「歩」のように着実に前に進んでいけばいつか「金」になるという願いが込められています。しかし、名前負けしたかのように、何に対しても消極的でいわゆる「出来が悪い」歩。もちろん、将棋とも無縁でしたが、高校に入学して将棋部に入ることになります。その反面、倉持はすでに高校に入学する前から全国に名を馳せ、誰もが一目を置く存在です。しかし、彼は自分の立ち位置に自信を持てないでいます。この2人を中心に男子校の将棋部で巻き起こる青春小説です。
 
歩と倉持の対比もさることながら、二人を通して将棋の初歩と一歩踏み込んだ将棋の世界を知ることの出来る作品になっています。そのため、将棋について全く知らない人は歩の視点で読み進めることで、将棋についてのルールから徐々に知識を得ることができます。倉持の視点ではアマチュアトップの世界、つまり一般の人がいちばん情報を手にすることができない世界をかじることが出来るのです。この二つの世界を一度に味わうことで、テレビの画面に映し出される藤井四段や羽生九段の世界を身近に感じるとてもタイムリーな作品だと思いました。
 
それにしても、この技術的に両極端な二人が一つの部活に存在し、部活そのものが成り立つのかという疑問が生まれてきます。あくまでも物語だからそれを可能にしている、それが小説の醍醐味とも言えます。しかし、これを手にして知ったことですが、この物語には実在のモデルがあるのです。それは岩手県にある中高一貫の私立男子校・岩手中学校・高等学校将棋部がそれです。なぜこの学校がモデルになったのかというと、偏差値的には50のこの学校が、全国大会で偏差値70超の開成高校や灘高校を破って団体戦で優勝しているのです。このことはフジテレビがドキュメント作品「偏差値じゃない~奇跡の高校将棋部~」として番組を製作しています。物語にも、実際の同校将棋部のサイトにも記されているので
すが、この部活はただの将棋好きの生徒3名が同好会として出発しています。そこには、現在もスタートラインは歩のような初心者から倉持のようなトップクラスの部員までが玉石混交。しかし、そこで指導に当たる顧問と先輩たちの後輩に対する接し方によって部活が気持ちいいほどに成り立ち、歩のような部員が倉持のように力をつけてくるのです。その過程をこの作品で丁寧に描かれています。この部分もこの作品の魅力の一つでもあります。
 
今年も昨年以上に将棋界は脚光を浴びる予感があります。それと同時にこの作品も再度注目を浴びるのではないでしょうか。新年すがすがしい気持ちにしてくれる1冊です。
 
文責 木村綾子





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KIMURAの読書ノート フィンランド育ちと暮らしのダイアリー

2017年12月23日 | KIMURAの読書ノート


フィンランド育ちと暮らしのダイアリー』。
藤井ニエメラみどり 著 解説 髙橋睦子 かもがわ出版 2017年8月10日
 
今年も残すところ半月ばかりとなった。今年の読書を振り返ってみると、少しだけ興味の幅が広がったことと、かつて読んだ大掛かりなシリーズ物の小説を読み直し始めたことだろうか(小説は読みっぱなしで、余り再読することはない。しかもシリーズとなっては皆無である)。読書の幅が広がったという理由は間違いなくフィンランドという未知の国を訪れる機会に恵まれたことにある。それまでフィンランドは私の中では、ステレオタイプの「福祉の国」「サンタクロースの国」「ムーミンの国」というだけであった。しかし、このような機会が与えられたということで、訪問前の事前学習という名の関連本をむさぼることで、より具体的な福祉の制度を知るばかりか、建築の世界においても名だたる国であ
り、おかげで世界各国から視察団が訪ねてくる図書館も見学することができた。帰国後も旅の余韻を消すことなく、書店や図書館に行けば「フィンランド(もしくは北欧)」と冠のつく本を当たり前のように目にするようになり、世の中にはこんなに関係する著書が出版されているのかということを今も目の当たりにしている。そのような訳で、今年を締めくくる読書ノートもフィンランド関係にしたいと思う。
 
本書はフィンランド人との結婚を機会に夫の地で生活することになった著者のフィンランドでの日々を綴ったものである。本書のタイトルは「ダイアリー」となっているため日記のように日付入りで記されているが、ただの日記ではなく各項目にまとめられていて、重なる内容はほぼない。著者が見聞き・体験したフィンランドの姿であり、それがフィンランドという国全体を表すわけではないが、少なからずステレオタイプのフィンランドを脱却することはできるのではないだろうか。
 
著者自身が3人の男の子の母ということ、そしてフィンランド国内で「学習支援員」という資格を取得し、現地の学校で働いているため、内容的には教育や福祉の割合が本書では多くなっている。しかし、それだけでも興味深いことが多く書かれてあった。
・筆記試験の入試はないものの学校での成績で進学先を振り分けられること。
・公教育に母語教育が保障されていること(フィンランド公用語以外を母語にする人達に対して)。
・義務教育の間は、ノートや鉛筆1本に至るまで無償であること。
・授業は現場の教師の采配に任されていること。
・18歳から立候補権あるため、10代の市議会議員も比較的多いということ。
などなど。
 
 そして何よりもあえて特記しておきたいことが一つ。ここ何年か日本では「待機児童問題」つまり、保育園が足りないことが問題となっている。しかし、フィンランドでは共稼ぎが当たり前でありながら、「待機児童問題」はない。それは「保育園」がたくさんあるからではない。3歳まで、育児休業が夫婦で取れること、それに対して給与(生活)が保障されているため、0歳児から入園は可能であるが、あえて3歳までは「保育園」入れないのである(そのため、フィンランドでは「保育園」という概念はなく、全て「幼稚園」と言われている)。この件に関しては、著者の綴ったことに併せて第3章で、フィンランドの社会の仕組みや歴史を分かりやすく説明されているので是非目にしてもらいたい。「保育園」と
いうハードなものを増やせばいいのか、それ自体視野が狭くなっていないか、考える余地はないだろうか。 日本とは歴史的・社会的背景、そして自然も風土も全く異なるこの国から、様々なことを日本に取り入れるのは難しいことだと正直思う。しかし、他のことはともかく、今日本は「働き方改革」として政府は様々な取り組みをしている。「働くこと」と「生活すること」は直結してくる。生活の保障さえあれば、あっという間に「働き方」も改革されるのではないだろうか。それは国が変わっても同じ事だろう。
 
12月6日にフィンランドは建国100周年を迎えた。わずか100年で人々が暮らしやすい国の上位にランクインされるほどとなった。しかし、それでもフィンランドは著者の言葉を借りれば「改革と検証がこれからも続く」とある。今後フィンランドがこの「改革と検証」を進めて、どのような国に変わっていくのか、私自身もう一度訪れてこの目で確認したい。そのような思いをさせてくれる1冊であった。

文責 木村綾子

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KIMURAの読書ノート [皇室ってなんだ!?]

2017年12月03日 | KIMURAの読書ノート
『皇室ってなんだ⁉』
竹元正美 著 扶桑社 2017年9月30日

日本の皇室は世界最古の「王朝」であると、ギネスブックに登録されているという。日本人にとって「皇室」は「皇室」であって、「王朝」というとあまりピンとこないというのが本当のところではないだろうか。大辞林によると「王朝」とは「同じ家系に属する国王の系列」とあり、確かに「日本」の場合、教科書や、日本史の書籍でお馴染みの「天皇系図」で一代目神武天皇から現在の125代今上天皇まで2600余り途切れることなく続いているのを目にすることができる。本書は、まずこのような「皇室」とは「天皇」とはという形式的なところから始まり、皇室の「公務」について、「伝統」、更には天皇陛下が「祈って」いることまで、36のQ&A方式で構成されている。

筆者は現在の天皇陛下が皇太子時代に東宮侍従を務め、後に宮内庁式部副長、また外交官としても海外で天皇陛下をはじめとする皇室の方々のお手伝いをしていた経歴を持っている。私達国民が知らない皇室の素顔を間近で見守っていた一人であり、文章の間には皇室に対する敬意と、親しみをより感じ取ることができる。だからこそ、天皇陛下が昨年の夏に発したお言葉に対しても、陛下のお気持ちをくみ取った上で、本書ではその説明を記している。それは、この「お言葉」だけではなく、全般を通して、きちんとした時代背景を伴うものであり、分かっているようで分かっていない「日本史」としての「皇室」や、「天皇」の立ち位置についても記述している。

前述したように、本書はQ&A方式で構成されているが、その中でも私がお勧めする項目は、
Q8……諸外国の「王様」と、「天皇」はどう違うの?
Q11……ニュースでよく聞く「ご公務」って、なんのこと?
Q15……皇室の伝統行事を教えて
Q25……国事行為の宮中祭祀が少ないのはなぜ?
Q27……今上陛下の皇室外交に特徴はある?
Q32……今上陛下はどうしてそこまで危機感をおもちなの?
Q36……国民は天皇に対してどうあるべき?
 
Q32は分かりづらい質問となっているが、これは昨年夏の天皇陛下がお言葉を述べられたのには「危機感」があるからであるという筆者の指摘とその考察になっている。このQ32の項目を読むだけでも今上天皇が、これまでの天皇家2600年の歴史の重みを感じつつ、今を生きている国民のことをただ一途に考えていらっしゃることが分かる。「天皇」と言いながらも、一人の人間である。それを独りで背負われているのかと思うと、Q36の筆者の問いかけは読者として、日本国民としてきちんと受け止めなければならないだろう。

まもなく、天皇陛下のご退位の日が決定される。本書を読むと、それまでより一層天皇陛下にはご自愛頂き、現皇太子殿下は今上天皇をはじめとする歴代天皇や皇室の培ったものを無事に引き継いで欲しいと願うばかりである。国民の誰もが無意識のうちに感じていることかもしれないが、それが恐らく「日本」そのものなのだと思う。

文責 木村綾子

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KIMURAの読書ノート[天国から来たストッパー!]

2017年11月17日 | KIMURAの読書ノート

『天国から来たストッパー!』
堀治喜 作 文工舎 2013年

この秋、念願かなって東京神保町で行われている古書祭りに赴くことができた。店舗だけでなく、通りにもワゴンが並び、大勢の人で溢れかえっていた。その中でプラカードを持ち呼び込みをしている人。そのプラカードには「神保町野球ブックフェア」とある。「野球」と言えば私の中では「カープ」である。しかし、ここは大御所「巨人」のお膝元。更に東京には「ヤクルト」も存在する。「カープ」本がここにあるわけがないとは思いながらも、プラカードを持ったスタッフに促されるように雑居ビルの3階に足を向けた。エレベーターの扉が開くと、目の前には10畳ほどの小さな部屋が目に飛び込んだ。そこに長テーブルが左右3台ずつ。そして各球団のユニフォームを着た出版社の人が所狭しと佇んでい
る状態。「フェア」にしては、想像以上に小規模であったが、ひときわそこで目につくのが赤いユニフォーム。期待が膨らみそのユニフォームの前のテーブルに向かうと目に飛び込んできたのが本書である。もちろん、他にもカープ本は並んでいた。しかし、カープファンにとって、いや往年のカープファンにとっては、本書のタイトルになっている「ストッパー」に惹かれないわけがないであろう。「ストッパー」という言葉は1993年7月に脳腫瘍のため亡くなった津田投手以外にイメージすることはない。

2012年オフシーズン。15年間続いているBクラスを打破するためカープは大きな組閣を行う。その一つとしてドラフト会議でも無名の選手を育成枠で指名する。天海翔、それがこの物語の主人公である。彼はあの津田投手が闘病生活を送った病院で働いていたところを、たまたま通りかかった関係者の目に留まったのである。彼は入団してすぐに頭角を現し、球団ばかりか他球団からも一目置かれる選手になっていく。そしてカープは彼の活躍によって優勝前線に食い込んでいく。

本書は津田投手没後20周年のための特別書下ろしで、フィクションである。当時のカープは15年間Bクラスの暗黒時代真っ只中であった。この作品は津田投手へのオマージュであるが、それ以上に作者はファンの1人として何ともやりきれない気持ちを打破すべく書き上げたと思われる。なぜならファンとしては身震いするほどの選手たちがチームを構成しているのである。その筆頭が監督として「鉄人」と言われた衣笠選手(と思われる。人物名は微妙に変わっている。以下同様)。コーチには江夏選手、高橋選手、達川選手などなど。それだけでも「妄想チーム」として満足してしまいそうだが、そうは問屋がおろさない。この「妄想チーム」ではFAでカープを去った新井選手がカープに戻り、大リーグに行った黒
田選手まで帰ってきて、主人公を盛り立てるのである。そして、本作品が刊行された2013年カープは初めてクライマックスシリーズに出場。なんと2014年オフシーズン、現実でもこの2人がカープに復帰。2016年には優勝している。

この作品が現実のカープの優勝への足掛かりになったというわけではないはずだが、現実の世界とリンクしてしまったこの作品は、ファンにとってはたまらない1冊となるであろう。そして、もしかしたら、この優勝への道筋をつけるために、故津田投手が作品を通して天国から来た理由なのかもしれないとファンの1人として密かに思ってしまうのである。

文責 木村綾子

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KIMURAの読書ノート

2017年11月02日 | KIMURAの読書ノート


『どんな絵本を読んできた?』
「この絵本が好き!」編集部 編 平凡社 2017年8月25日
 
 このようなタイトルの場合、内容がガイドブックであると予測はできても、つい手にしてしまうのが本好きの習性かもしれない。しかし、本書はガイドブックではなく、総勢57名による自身の絵本に関する思い出を語ったエッセイ集である。
 
 私の中での絵本の思い出は小学校1年生の時に、担任の先生がみんなに読み聞かせをしてくれた『モチモチの木』(岩崎書店 斎藤隆介 作 滝平二郎 絵 1971年)。生まれながらの活字中毒……と書けば大げさだが、少なからず幼稚園の時には自分自身で絵本は読んでいたため(更に親の証言によると、私は当時からお友達に読み聞かせをしていたらしい)、まず読んでもらうということが新鮮であった。しかし、何よりも未だに鮮明に思い出すのは、この作品の中にある「モチモチの木」光っている場面。今そのページを開けば背景が暗くて、モチモチの木が明るく描かれているだけなのであるが、わずか7歳の子どもにはそれが本当に眩しくて、モチモチの木が絵本から出ているように見え(今で言うところ
の3D現象)、しかも絵本に後光を指しているように受け止めている。その『モチモチの木』。本書では書店経営者の辻山良雄さんが挙げている。彼の場合、この作品を母親が寸分違わず、本物そっくりに作って幼かった彼に与えていたというのである。見事すぎる出来栄えのため、この作品の世界観や畏れが失うことなく再現され、幼心に恐怖心を叩き込まれたという。同じ作品を手にしているのに、ある意味、私の印象とはまったく反対のイメージが記憶として残っているというのが、絵本の面白さなのであろう。
 
 しかし、絵本の思い出は時にして残酷である。本書があくまでも「エッセイ」であり、「ガイドブック」ではないことを示してくれる書き手が少なからず2名いる。そのうちの1人を紹介する。編集者でエッセイストの末井昭さん。彼は幼い頃絵本を読んだ記憶が全くないという。自身が育った土地に本屋というものがなかったこと、だからと言って母親がどこからか手に入れてきて与えてくれたこともなかったらしい。と、ここまでであれば、どこかのエッセイにでもありそうなエピソードである。しかし、その後の一節が衝撃的である。「僕の母親は、僕が小学校一年生のとき、ダイナマイトで近所の男と心中していた」(p15)。本書のタイトルからは全く想像の出来ない内容。それなのに、なぜ彼はこの原稿を
引き受けたのだろうか。そして彼の中の絵本というのは……読んでからのお楽しみである。そして、もう1人の書き手は更に辛辣であることだけをここに記しておこう。
 
 本書の表紙を含めイラストは、昨年末から今年にかけて話題をかっさらっていった『この世界の片隅に』(双葉社 2008年)の作者こうの史代さんである。彼女は本書に対してはイラストを提示するだけに徹している。どの文章に対しても主張をせずに、ただぼんやりとした彼女らしいタッチが読み手を和ませてくれるだけでなく、厳しい内容に関しても中和剤となり、なぜか顔がにんまりとしてしまうのであるから不思議である。

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文責 木村綾子





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KIMURAの読書ノート. 都市と野生の思考

2017年10月19日 | KIMURAの読書ノート

『都市と野生の思考』
鷲田清一 山極寿一 著 集英社 2017年8月

本書の二人は京都大学の先輩、後輩(鷲田さんが2年先輩)であるものの、当時はお互いのことを全く知らなかったらしい。山極さんの言葉を借りれば文学部と理学部それぞれのキャンパスは今出川通を国境として文化が大きく異なっていたようで、その国境をはさんだ二人は出くわすことがなかったというのは、当然と言えば当然なのであろう。その二人が知り合ったのは、それから二十年以上も後の1990年代になってからである。しかしその間、書物に囲まれ理論を導き出していた鷲田さんは、「現象」に視点を移し、「臨床」の世界へ。そして、フィールド・ワークから裏打ちされた「現象」から社会的な課題を追いかけるようになった山極さんは「理論」の世界に足を踏み入れる。相見えることのなかったお
互いの世界が、知らぬ間に歩み寄り二人が出会ったというのが、約20年後国立民族学博物館であったというのは、感慨深いものがある。それ以降お互いの研究に対して、意見を求めたり、補完しあったりした関係が続き、今回の対談に至ったようである。

序章は、現在京都大学総長を務める山極さんと、京都市立芸術大学学長であり、かつては大阪大学総長も務めた鷲田さんの大学論から対話は始まる。そして、二人とも大学を束ねる立場だからこそ見えるトップの在り方に話は進んでいく。とりわけ、山極さんの自身の研究から語るリーダー論の例えが、「ゴリラ」の生態からというのは、読み手にとっては意表を突くものであり、くすっと笑いをもたらしてくれる。しかも、見習うべきリーダー論として挙げられた松下幸之助さんは「ゴリラ」そのものと断定する辺りは、これまでの何十年もゴリラと共に生きてきた山極さんにしか指摘することができないものである。このリーダー論を皮切りに、本対談全般の例えや事例が「ゴリラ」というのが、読みどころの
一つである。

それに対して、理論を積み上げてきた鷲田さんの話は「語源」から始まる。とりわけ印象的だったのは「芸術(art)」の起源と、自由という意味の「liberal(リベラル)」の話。前者はもともとラテン語の「ars(アルス)」であり、これは「生きるための技術」だという。現在多くの物事に対して「目標」というものがあり、人はそれに対して向かっていくようになっているが、そもそも「art」には、目標というものがなく、偶然の産物から生まれていく。予定調和のないところで、人はどのように生きていくのかという力がまさに、「生きるための技術」であり、「art」であり、今はそこがおざなりになっているのではという指摘であった。また、後者はそもそも「気前が良い」という意味であり、もっと遡ると「
解き放つ」という意味があるのだそうだ。ここから、鷲田さんは現在の政府に対する大学への扱いについて、話が及んでいく。つまり、学問に対して今の政府は「お金で縛り上げて」いるというのである。それは「学問の自由」に相反しているという大学のトップだからこそ、より身に染みて感じている視点であろう。

「ゴリラ」と「語源」。全く異なる視点からの二人の対談は、20年の時を経て、二人が巡り合ったように、自然に話は重なりあっていく。そして、同じ方向へ向かって語り合うその過程と姿は、今出川通に国境があるのか(あったのか)、疑問にさえ思う。この対談は更に教育全般について存分に話す機会を持つそうである。この対談についての続編もとても心待ちにしている。========


文責 木村綾子

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KIMURAの読書ノート『暗号名は「金沢」』

2017年10月05日 | KIMURAの読書ノート
『暗号名は「金沢」』
西村京太郎 著 新潮社 2017年3月

半月前ほどのことである。たまたま目にしたテレビ番組に作家の西村京太郎さんが出演していた。「かつて最大の年収は7億円」とか、「累計2億部の売り上げ」と言う素人にとっては別次元の話から、「今の列車は死体を隠すことができない作りになっている」という小説を書く上での裏話までコミカルに語られていた。そのような番組を観たためであろうか、久しぶりに彼の作品が読みたくなり、図書館の新刊書に鎮座していた本書を手にした。

彼はトラベルミステリーの第一人者である。タイトルから「北陸新幹線」にまつわるミステリーではないかと推測しながらページをめくったところ、その目次には何とも「トラベル」にはそぐわない言葉の数々。

第一章 ポツダム宣言を知っていますか
第二章 カネダを知っていますか
第三章 スプルーアンスを知っていますか
第四章 午前九時十五分十七秒を知っていますか
第五章 東京裁判を知っていますか
第六章 朝鮮戦争をしっていますか
第七章 恩に報いることを知っていますか

読者に対する問題提起をしたエッセイかと思われたが、第一章の冒頭は1945年7月26日、日本がポツダム宣言を突きつけられたところから物語は始まっていた。それならば、西村京太郎作品には欠かすことのできない「十津川警部」の文字を探すが、ページをめくってもめくっても、その名前を目にすることはできない。そして、話は更に遡り、「十津川警部」の名前を置き去りにしたかのように、ポツダム宣言に関する各国の思惑だけがあれやこれやと浮き彫りになってくる。しかし、サブタイトルには「十津川警部『幻の歴史』に挑む」とある。これは史実を著者なりに解釈し、それを十津川警部が最初から語らせることで、あえて彼の名前を出していないのであろうか。物語に引き込まれながらも、片隅には「十津川警部」のことが頭から離れない。

そうこうするうちに、歴史を教科書レベルでしか知らない人間にとっては、初めて目にする日時が目に飛び込んでくる。それを起点に、現実と虚構の世界が絡み合いながら、自分が知っている知識では追いつくことのできない物語がそこに展開していく。その世界観に読後は軽い眩暈すら感じた。

作者は1930年(昭和5年)生まれ。御年87歳。言わずと知れた戦争を経験している世代である。この作品には大きなキーワードが隠されている。これは作家「西村京太郎」として独自のものでありながら、戦争体験者として戦後72年経ったからこそようやく俯瞰的に捉えることのできた「キーワード」であろう。しかし、それは残念なことに「幻」なのである。

================== 文責 木村綾子

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読書ノート 祖国の選択

2017年09月19日 | KIMURAの読書ノート
『祖国の選択』
城戸久枝 著 新潮社 2017年8月

第二次世界大戦中を中国(旧満州)で過ごした日本人たちがたくさんいることは周知の通りである。しかし、終戦後その日本人たちが簡単に日本に戻れた訳ではない。戦後の中国を彼らがどのように生き延び、日本へ戻って来たのか。

最初に登場する小林栄一さんは、戦時中の満州で母親が病死し、父親は招集され、同じ満州に住んでいた親戚のところへ弟と一緒に預けられることになる。しかし、日本の敗戦が決まると小林さんと弟は別々の中国人のところに引き取られる。そこから小林さんは何人もの中国人の家をたらい回しにされる。その間の生活は言葉では表せられないものであり、文字を追うだけで追い詰められた気持ちになる。二人目の証言者は目の前で肉親の全て殺された富密ていこさん。当時東京開拓団の団員として満州に渡っていたが、敗戦後、団員688名のうち、生き残ったのは78名であり、彼女は肉親だけでなく、当時の殺戮の様子も目にしている。

上記2名をはじめとする計6名の貴重な証言が本書では綴られている。当事者の口から語られる当時の様子は、あまりにも想像を絶するもので、今ここ日本で証言をしているというその存在自体が奇跡のようにすら感じる。戦後36年経ち、中国に残された日本人の肉親捜しが当時の厚生省の管轄で行われるようになったが、その間、中国の人に丁重に育ててもらった人もいるがそれだけではないという現実が、突き刺さってくる。それでも、冒頭の小林さんは、中国人に対して、「感謝はある」と答えている。なぜなら、中国人が全て悪いのではなく、いい人も、そうでない人もいる。少なからず自分自身、殺されていない。「もし、中国人が日本人の子どもを全部殺したら、今、残留孤児はいない」。この言葉をどのようにして受け止めればいいのか、あまりにも重い言葉である。

著者の実父は中国残留孤児であり、1970年に帰国している。著者は実父のそれまでの軌跡を10年かけて取材し、『あの戦争から遠く離れて』(情報センター出版局、後に文春文庫)を上梓した(大宅壮一ノンフィクション賞受賞)。しかし、それで実父と彼女自身のアイデンティティを巡る旅は終わったのではない。そこからつながる縁でさらに取材を重ね、こうして新たな1冊が刊行されることになった。それは、彼女の家族の軌跡の一端でもあり、戦後72年経ち、次第にあの戦争の傷跡が風化しているように見せかけられる今の日本に対しての警鐘でもある。

私事であるが、実は私の父も中国からの引揚者である。その父と結婚をした母は例に漏れず嫁姑の関係に苦労したようである。それでも、母が姑に関して父に伝える言葉がある。「あなたのお母さんの唯一の功績は、子ども3人を中国に残すことなく全て連れて帰って来たこと」。本書を読むまでは、この「功績」という言葉を、そのままの意味だけに受け止めていたが、実際は、本書の証言者の人たちと同じように戦中、戦後を生き抜いた姑の心中を察した母の想いだったのだろうと、その意味を遅まきながらようやく想像することができた。
文責 木村綾子

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読書ノート『作家の収支』

2017年09月02日 | KIMURAの読書ノート
『作家の収支』
森 博嗣 著 幻冬舎 2015年

お隣の台所事情というのがふと気になることがある。とりわけ、同じ家族構成で子どもたちも同じ学校、その上で、どうも我が家より物持ちが良いとなると、どのように家計を切り盛りしているのか、もしかしたら、入ってくる額が我が家の何十倍もあるのか、だとしたら、どこで働いているのだ……いや、夫婦のどちらかのご両親が資産家なのかもしれないと果てしない妄想が広がる。が、それ以上に妄想が抱かせてくれるのが著名人のお金の流れ。ワイドショーを何気なくみていると、何十億円の自宅を建てたとか、ファーストクラスの飛行機で海外へ家族旅行をしたとか、残念なニュース(麻薬を使用していたとか)でも高額なお金が絡んでいる。しかし、少なからず日本の場合、このお金の話をすることはマナーにそぐわないと考えられているため、なかなか表に出ることはない。そのような慣習に日の目を当てたのが本書である。

本書は少なくとも著者自身の作家としての収支を明らかにしたもので、それが他の作家にも該当するかは確かではない。しかし、自分の額だけでなく、一般的な印税率などを挙げていることから、おおよその金額は想像できるようになっている。

作家と言えば、原稿料や印税での収入というイメージがあるが、それ以外にも細かな依頼があるようでそれについても紹介している。例えば、文庫本の解説や帯。講演会にインタビュー。自身の作品が原作となってアニメ化、ドラマ化した場合の対価。お金のことだけでなく、これらを読んでいると作家という仕事も幅が広いことが分かる。

その中で特記するべき事項は近年台頭してきた電子書籍についての記述であろう。2014年時点の話となるが、この年著者の作品(『すべてがFになる』講談社1996年)がテレビドラマ化され、作品の売り上げがこの年再度上がったが、いわゆる「本」と呼ばれる紙媒体よりも電子書籍の方が売れていたということである。その電子書籍であるが、印刷をすることがなく、データのみで読者に作品を売ることができるため、印税は平均すると本の3倍となっている。著者はこのことに対して、紙媒体の1/3の売り上げで同額の収入を得ることが可能であると記述している。しかし、紙媒体は初版が決まっているので、それが売れようと売れるまいと印刷された分だけは印税として作家の手元に入ってくるが、電子書籍はデータ管理されているために、売れた冊数のみが収入となる。売れ残った作品のリスクを出版社でなく、作家が負うことこそ、本来「自然」なことではないかと著者は指摘している。

本書はこのように作家の収支だけでなく、現在の出版業界に対する疑問や課題なども盛り込んでおり、1人の作家の懐具合という域を超えて、この業界の経済学、経営学書として十分すぎる程機能している著書である。  文責 木村綾子

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KIMURAの読書ノート『異才、発見!』

2017年08月19日 | KIMURAの読書ノート
『異才、発見!』
伊藤史織 著 岩波書店 2017年4月

2年前、「異才、発掘プロジェクト」という番組を観た。日本財団と東京大学先端科学技術研究センターが開催しているもので、学校の枠からはみ出した子ども達がここで自らの学びを立ち上げ、旧来型の学習からの脱却をはかるものである。当時の番組はプロジェクトが立ち上がったばかりの時でもあり、そのプロジェクト成り立ちから一期生の活動が番組で紹介されていたが、現在は四期生までが活動している。本書ではその後の子ども達の様子も取り上げられている。

ここに集う子どもたちは、プロジェクトの言葉を借りると「多動や学習障害、集団行動が出来ないなどの問題を抱え、不登校になったり、『発達障害』と診断された子どもも多い。しかし、ある子どもは数学や物理でずば抜けた能力を持ち大学生レベルの量子力学の問題までこなし、ある子どもは1日100枚もの繊細な絵を描き大人たちを驚かせる」まさに、公教育からは「はみ出た」子どもたちである。しかし、このプロジェクトを立ち上げた中邑教授は、公教育そのものを否定しているわけではない。多くの子ども達は現在の公教育に適合している。しかし、そこに馴染めない子たちの才能を活かす場所も必要であり、教育現場は両輪が求められると考え、そのノウハウをこのプロジェクトにより、広めようとしているのである。

ここでの学びは「自由」でありながら、「不自由」さも多々ある。そこに中邑教授の信念がうかがえる。公教育からはみ出ている子ばかりなので、決して「押し付け」はない。しかし、なぜそれを行うのか、自分はどのような形で学びを獲得していくのかという説明責任を教授は子ども達に徹底して求めていく。自分がやりたいと思っていることへのプレゼンテーションはとても厳しく、そこに隙があると「GOサイン」は下りない。それは「やりたい」ことに係る費用の1円単位まで容赦がない。しかし、それをクリアすると大きな金額でも「やりたい」ことへの研究費として与えられるし、海外派遣もいとわない。また、個性が強すぎて子どもたち同士での話がかみ合わなくても徹底的にグループによる討論も行わせる。決して「学校からはみ出る」からと言って、1人だけで全て気ままというわけではない。一般的に公教育で求められる「協調性」をここの子ども達には求めていないが、自分の意見を否定されると自分の殻に入っていこうとする子ども達を時として教授は、挑発することで表舞台に引っ張り上げる。教授はそれを「挑発する教育」と読んでいる。相手の話に「耳」を傾け、考えさせることで、別の世界があること、またそれを知った上で、自分の意見を相手に伝わるように伝え、しかしながら、「人とは異なる自分」が大人になった時に社会に出ても問題なく生活できる生活力を身につけさせるためでもある。公教育も将来大人になった時の生活力をつけることが最終的な目的である。つまり、公教育とのアプローチが異なるだけで、このプロジェクトが公教育との「両輪」であることが、よく分かる。

本書は中邑教授の想いと、このプロジェクトの方向性や過程はかなり詳細に記されているので読み手に伝わりやすいが、子ども達のそれぞれの持ち味や個性を文字にするには限界があることに、テレビ番組を観ていたため気が付いた。本書だけであると、ここに集まる子どもたちが読み手によって、偏りのあるイメージを持ってしまうのではないかと少し危惧する。そのため、本書と合わせて、動画などにより子どもたちの様子も観て頂きたい。「異才発掘プロジェクト」で検索をすると、私が観た番組ではないが、幾つかこのプロジェクトに関する動画の視聴が可能である。 (文責 木村綾子)

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KIMURAの読書ノート『二重被爆』

2017年08月06日 | KIMURAの読書ノート
『二重被爆』
稲塚秀孝 著 合同出版 2014年

国の定義によると「二重被爆」とは「1945年8月、広島、長崎両市で被爆したことで、投下後2週間以内に残留放射能を浴びた入市被爆も該当者となる」となっているようである。2005年読売新聞の記者が広島の追悼平和祈念館に残されていた「被爆体験記」を調査した結果では、この二重被爆者のうち入市被爆者が165人、二度直接被爆を受けた人は多数生存していたことが分かった。しかしながら、この時点で国は「二重被爆者」についての正式な調査というものを行っていなかった。またさかのぼること、1957年、すでにアメリカのジャーナリストは9人の二重被爆者を見つけ出し取材を行い、そのことをまとめたものがアメリカで出版されている。

著者、稲塚秀孝さんは、テレビ番組を制作するプロデューサーである。仕事仲間から「広島と長崎で二度被爆した人を知っているか」という質問を受けたところから、「二重被爆」に関心を持ち、調査していく。そしてたどり着いたのが、当時長崎市に住んでおり、広島と長崎で2度直接被爆した山口彊さんである。著者が山口さんに出会った2005年。この時、すでに90歳という高齢ではあったが、著者が山口さんの記録映像を残したいという想いを汲み、取材に協力する。実は山口さんはかねてより原爆について多くの人に伝えたいという気持ちを強く持っていたものの、まだまだ被爆者に対する差別や偏見が世間には流布しており、そのことに伴い周囲の反対があった。そのため山口さんは自分自身の思いを胸に留めていたが、著者との出会いで山口さんは90歳という年齢から語り部を始めることになる。その出会いから、山口さんが亡くなるまでの約5年間を山口さんの生い立ちを含めて記録したのが本書である。

山口さんの語り部としての人生はわずか5年であったが、著者との出会いにより、「二重被爆」というたぐいまれなる、しかしあってはならない体験が国内外にクローズアップされたことは、そこに大きなうねりを感じる。そしてそのうねりは政府が被爆者に対しての援護が不十分であったことも明らかにしていく。なぜなら、山口さんが手にしていた被爆者健康手帳の記録に両県で被爆したことが記されたのは、彼が亡くなる前年のことだったのである。しかも申請から15年の歳月を経ている。また、10年ごとに行われる厚労省の原子爆弾被爆者実態調査において「被爆した場所」の回答に「広島・長崎両県」と記されるようになったのは2015年の調査が初めてである(それまでは、「広島」「長崎」それぞれでしか回答ができなかったため、両県ともで被爆したかどうかは分からなかった)。

その2015年の調査(被爆者健康手帳を所持者より無作為に約50000人抽出。回収率約73%)では、回答者約35000人の中で二重被爆者が6名いた。しかしながら、あまりにもの少数となっているため、割合を示す数値は「0.0%」。決して「いない」わけではないが、限りなく存在を示さない数値となってしまっている。政府はこの「0.0%」を今後どのように捉えていくのか国としての在り方を問われる時ではないだろうか。と共に、早くからこのような回答が記される調査を行っていたら、もっと多くの生存者から異なった形の体験談をたくさんの人が知ることができただろうと思うと、被爆国としての責任をこれまで果たしていたのだろうかと考えてしまう。

現在、国は防衛省をはじめ、あちこちでほころびが見え、国民に憤りを感じさせてくれている。
その中で今年もまた8月6日、9日を迎える。。。。 文責 木村綾子  

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KIMURAの読書ノート『限りなく完璧に近い人々』

2017年07月18日 | KIMURAの読書ノート
『限りなく完璧に近い人々』

マイケル・ブース 著 黒田眞知 訳 角川書店 2016年

日本では「北欧」というと「福祉国家」というイメージである。しかし、北欧5か国(デンマーク・アイスランド・ノルウェー・フィンランド・スウェーデン)がどのような福祉政策をしているのか、またそれは同じような政策なのか、異なるが結果どの国も「福祉国家」と言われるようになったのか、案外分かっていない。著者はイギリス人であるが、デンマーク人の妻の故郷デンマークで暮らしている。2012年国連が発表した「世界で一番幸福な国」でデンマークは第1位となったが、デンマークに住むようになった著書は実生活と国連の発表にギャップがあると感じた。そこで、著者は北欧5か国全てを自分の足で歩いて、それぞれの国の状況を取材し、分析したものが本書である。

至る所に、興味深く面白い記述を目にする。「福祉国家」としての北欧は、北欧5か国のそれぞれの政策を合わせると、イメージする「福祉国家」が成立するとか、そもそも5か国を「北欧」と他国は一括りにしているが、5か国の意識は、「デンマーク・スウェーデン・ノルウェー」と「フィンランド・アイスランド」の3対2に分かれるとか。フィンランド教育は日本だけが注目したものではなく、世界各国から視察が来たとか、デンマーク人は他の国よりも突出して仕事をしなければならないという感覚がないとか(早退の理由をパーティーのためと素直に伝えても問題ない)、アイスランド人の半数以上が妖精の存在をまじめに信じているとか、ノルウェーは石油と乳製品を独占しているため、他国をあまり重要視していないとか、北欧の最重要国はスウェーデンで、文化的、政治的、社会的かつ北欧の歴史について多くを解き明かす国だとか……。これまでの「北欧」のイメージを思いっきり覆される。だからと言って著者も記しているが、結局北欧5か国はそれぞれの課題があるものの、「地球上で最も幸福で、誰よりも信頼できる」国々であると結論付けている。

そして、その理由が「福祉」ではなく、「社会的流動性(一つの社会のなかで、職業や階級、場所の移動が可能かどうか)」だという。それは「アメリカンドリーム」というスローガンではなく、現実的なもので、アメリカで肩身の狭い思いをする選択肢(結婚をしながら、子どもを持たない選択や子どもをイスラム教徒として選択することなど)など皆無である。実際にデンマークでは「自分の人生を変えたくても変えられない」と、とある調査で答えた人はわずか5%だったという。そして、極め付けがこの「社会的流動性」を支えているのは、「福祉」ではなく、「学校教育」だという。行きつくところ、「人を幸福にする」ツールは教育なのであることをこの北欧からも教えてもらうことになったのは、目から鱗である。

本書の特徴は論述文でありながら、北欧ではよく使われているジョークを多用し、エッセイ風の文体で書かれており(場合によっては紀行文にも感じる)、肩ひじを張らずに読める。しかしながら、全600ページ弱となかなか読みごたえがあるばかりか、分厚すぎて、重いのが難点である。構成はそれぞれの国ごとになっているが、国ごとの章立ては共通していない。各国の共通する部分や、異なる部分はその都度その場で書かれている。これまで、「福祉大国」という言葉でしか表すことのできなかった「北欧」が、それぞれの個性を余すところなく発揮し、魅惑のある国々であり、他国と同様に多面的な部分をたくさん発見することになる1冊である。また著者は日本でもアニメ化された『英国一家、日本を食べる』(亜紀書房 2013年)シリーズの作者でもあることをここに付記しておく。

              文責 木村綾子

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