京都で、着物暮らし 

京の街には着物姿が増えています。実に奥が深く、教えられることがいっぱい。着物とその周辺について綴ります。

KIMURAの読書ノート『ロシア日記  シベリア鉄道に乗って』

2017年03月21日 | KIMURAの読書ノート
『ロシア日記 -シベリア鉄道に乗って』
高山なおみ 著 新潮社 2016年7月

ロシアのウラジオストクから韓国を経由して日本の鳥取県境港市にフェリーが出ているのを知ったのはつい最近のことである。日本好きのドイツ人が母国ドイツから自らの旅のために手を加えた車(通称ネコバス)でユーラシア大陸を走って日本に来るという番組で、彼とネコバスはウラジオストクからそれに乗船して日本にたどり着いたのである。本書の冒頭、旅のスタートが彼とネコバスの逆をたどりウラジオストクに向かうことが綴られおり、俄然興味を持った。しかし、著者は前述のドイツ人とは旅の目的が異なり、彼女の愛読書武田百合子さんの『犬が星見た』(中央公論新社 1982)に記されたロシアへの旅の道筋をたどる旅であった。

残念ながら私はその著書に関して未読であるため、筆者のこの旅に対する思いをどれだけ重ね合わせることができるか心配であった。しかしそれは読み始めて杞憂であることが分かった。著者高山なおみさんは執筆家でもあるが、もともと料理家として名を馳せている人である。この旅には数多くの食べ物に関するエピソードが登場する。時折、文中には武田百合子さんが顔を出してくるが、それ以上にとかく食べる話が多い。身近な食べ物から、未知の食べ物まで、それだけで十分に心とお腹が満たされる。無論、前述の武田百合子さんの著書が克明に食べ物に関して記載されているようで、それが深く関係していることは疑う余地はない。

出発当日の羽田空港では「ぶっかけ温玉冷やしうどん」を食べたという一文が出てくる。正直、そこにはそれ以上のものはなく(つまり、味に関しての感想など)、ただ「食べた」というだけの事実だけがポンと置かれている。フェリー内でのバイキング方式での夕食。料理名だけでなく、その食材まで記されている。食べ物の話はページをめくるごとに加速する。ウラジオストクで最初の夕食。上記食材にプラスその食べ方が追加される。翌日はそれだけでは書き足りなかったのか、自分が玉ねぎ臭いことまで綴っている。シベリア鉄道に乗ると、更に拍車がかかる。停車駅では必ず下車して駅周辺の露店でロシアの家庭料理を購入。その時のトレイに並べられた料理の並べ方を一つ一つ書き記す。途中下車した町では地元の人の自宅で料理を学び、それらの合間合間にウォッカとビールを嗜む。旅の最終日イルクーツクではロシアの料理本を通訳の人に邦訳してもらう。しかし、武田百合子さんは更に旅を続けている。著者はその思いを食べ物で表現し、自身もその続きの旅を願いながら本書はエンディングを迎える。

本書のあとがきに衝撃的なことが記されていた。この旅は本書が刊行される5年前、つまり2011年6月のことであったと。2011年と言えば、あの東日本大震災が起こった年である。奇しくも私がこれを読み終わったのが、その3月11日。これだけ食べることという楽しい話題の紀行文で心もお腹も満たされているのにも関わらず、全体がモノトーンで静まり返っているように感じたのはそのせいであったのだろうか。この事実を知って読むと、この紀行文もまた別の意味合いが見えてくる。

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KIMURAの読書ノート『サイコパス』

2017年03月03日 | KIMURAの読書ノート
『サイコパス』
中野信子 著 文藝春秋 2016年11月

「サイコパス」という言葉からどのようなイメージを抱くだろうか。大抵の人が世間を震えさせる強烈な殺人鬼を連想するのではないだろうか。本書では、それも含め私たちの周りにいる「サイコパス」について特徴から脳科学的構造、歴史に至るまで論じたものである。

ここで身近にいる「サイコパス」としての特徴の幾つかを挙げると、
・常習的にウソをつき、話を盛る。自分をよく見せようと、主張をコロコロと変える。
・ビッグマウスだが飽きっぽく、物事を継続したり、最後までやり遂げることは苦手。
・傲慢で尊大であり、批判されてもおれない、懲りない。
・つきあう人間がしばしば変わり、つきあいがなくなったことを悪く言う。
・人当たりはよいが、他者に対する共感性そのものが低い。(p8)

となる。これら全てでなくても幾つか当てはまる人が周囲にはいるのではないだろうか。私も正直このような方がかつて身近におり、付き合い方にほとほと悩み、エネルギーを消耗したことがある。と同時に、その人がそうなった背景に興味を持ったのも事実である。この部分で言うと、
・脳の機能について、遺伝の影響は大きい。
・生育環境が引き金となって反社会性が高まる可能性がある。(p150)

現段階ではこれ以上のことを言うのは、難しいそうである。とても肩透かしのようにも感じるが、ここに至るまでに本書が取り上げている文献の数は目を見張るものがある。と同時に、世界で「サイコパス」について様々な研究が古くから行われていることに驚かされる。実際に「サイコパス」という言葉が使われる以前からそれに該当する言葉を持っていた少数民族の存在も確認されている。また概念的なものとしては、ギリシア時代にさかのぼる。19世紀に入ると「サイコパス」の存在についての「発見」があり、そこから本格的な研究が始まっているようである。現代では、これらに関して脳科学的にも研究が行われており、一般の人との活動部位が異なることも分かっている。しかし、現段階では更に実験的な研究というのは倫理的に不可能であるということも記されていた。

更に本書では、昔から一定数集団に存在し、現在も淘汰されていない「サイコパス」について言及している。それには、誰もが不安や尻込みするような事案に対して恐怖心を持つことなく進むことで、新たな道を開く存在であるためというのが理由の一つのようである。そのような意味において広義的な「サイコパス」が存在している職業を最後に本書では記しており、著者は「好むと好まざるとにかかわらず、サイコパスとは共存してゆく道を模索するのが人類にとって最善の選択であると、私は考えます(p230)」と締めている。しかし、凶悪犯罪者でなくとも、身近にいる「サイコパス」と渡り合うのはやはりしんどいと思うのは私だけであろうか。  (文責 木村綾子)

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KIMURAの読書ノート『カレー地獄旅行』

2017年02月23日 | KIMURAの読書ノート
『カレー地獄旅行』
ひげラク商店 作 パイインターナショナル 2017年2月

ユニークな経歴の絵本作家が生まれた。絵を描くことをそもそも生業としていたが、そのスタートは似顔絵師であった。しかし徐々に力をつけ、今では似顔絵師の枠を超え、鳥瞰図や各種看板・壁画と様々な場面での制作を行っている。とりわけ、作者の描く鳥瞰図は繊細でかつダイナミックで目をみはるものがある。その実力をかわれ、昨年は名古屋市鳥瞰図が名古屋市に寄贈され、それが市長室に飾られるという快挙を果たしている(現在も常設展示)。

そのような経歴の作者が描いたこの作品。帯には「きっと残さず食べたくなる。コワくて笑える激辛食育絵本」となっている。

カレーの大好きなみちひとくんはお母さんの作ったカレーを一口食べ、人参が入っていることに激怒。野菜をカレーから全て排除しようとしたところ、みちひとくんはカレーの中に吸い込まれていく。みちひこくんが気が付くと、目の前にはスプーンを持ったエンマ大王。みちひこくんへの裁きが始まる。その裁きの結果、地獄に落ちることになるみちひこくん。無事に家族のもとに帰ることができるのか。

何がすごいって、ここに出てくる地獄の数々。「包丁地獄」に「鉄鍋地獄」、「煮こみ地獄」に「清めルーの滝」。文字だと思わず吹き出しそうな地獄であるが、案外絵をみると、まさに「怖い」。出てくる包丁も炎も全てが大きくダイナミックに描かれ、昭和の匂いが漂うレトロ調の絵でありながら、妙にリアルさを感じさせてくれる。野菜を放り投げた位でこのような地獄に落とされるのなら、きっと食べた方がマシだと間違いなく小さな子どもたちは思いこんでしまうに違いない。まさに「激辛」。かと言って、これを読んだ子どもたちがトラウマになる程のものかというとそうでもなく、悪役であるエンマ大王や鬼たちは何とも言えないユーモラスな顔をしている。この絶妙なバランスがこの作品を楽しいものに導いている。「食育絵本」というだけあり、そこは教育的配慮となっているのであろうか、と無粋なことすら思ってしまう。ページをめくるごとに変わるみちひこくんの表情にも注目すること請け合いである。人というのはこんなにも恐れの中にも表情があるのかということを気づかせてくれる。作者の似顔絵師としての真骨頂であろう。

本作品は対象が3歳以上となっている。文章としては少し長いのであるが、これだけ表情豊かでダイナミックな作品であるため、3歳位の子どもでも十分に物語の内容が理解できる。絵を読ますとはこのことであろう。しかし、これはそれだけではない。読み手になることになる大人も意外なところで楽しめるような仕掛けが散りばめられている。例えば、物語最初のページ。みちひこくんの家の和室の背景。そこに貼られたり、置かれたりしている小物類の文字の数々。それは俄然大人心をくすぐるものとなっている。しかし、これが小さな子どもだったら、どうなのかという疑問は皆無である。成長するたびにその仕掛けを発見することになり、いつまでも手元に置いておきたくなるだろう。そして、見開きに描かれているカレー地獄の鳥瞰図は現在の作者の活躍を垣間見ることのできる一つの作品ということをここに付け加えておく。

作者はこの作品で絵本作家としてデビューしたが、ここに留まらず、彼が描く鳥瞰図のようにもっと高いところから「絵」を俯瞰し続ける作品を描き続けてほしい。

        文責*木村綾子

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KIMURAの読書ノート『学歴分断社会』

2017年02月15日 | KIMURAの読書ノート
『学歴分断社会』
吉川徹 著 筑摩書房 2009年

前回の読書ノートの中で「学歴分断社会」について言葉として軽く触れた。それについて深く論じられているのが本書である。

本書は、日本は現在、「経済格差」をはじめとする「格差」という言葉が流布して「格差バブル」とさえ言われているが、その「格差」の根源はどこにあるのか、きちんと述べられていないのではという提起から始まる。そして人生のその格差の分岐点を探すと、18歳という年齢が見えてくると指摘している。その理由として、高校がほぼ義務教育化状態になった上、大学全入時代と呼ばれるようになったにも関わらず、大学進学率が50%ということ。つまり、大学に行きたいと高校生が望めば全員入学が可能になったにも関わらず、それを望む高校生が半数しかいないというのが、その分岐であり、「分断」であるというのが著者の主張である。そして、このラインを「非大卒/大卒」と分け、様々な調査をしている。その結果として、「格差」としての貧困問題、雇用問題などが見えてくる。

さらに、ここでは、本人のスタートラインを考える上で、自分自身の分断ラインではなく、親の学歴に注目して考えるべきではないかと述べている。親が「非大卒」であると、「非大卒」つまり「高卒」でも構わないと考えるし、「大卒」であると、子どもが大学進学を願う傾向があり、それは世代間に受け継がれる。そして、このことは学歴だけではなく、文化・職業・経済力の4分野に渡ってくる。こうして世代間関係が固定されてしまうことを著者は危惧している。そのため、子の世代がこの世代間関係から脱却したい時に、チャンスを与える政策が必要であると指摘する。

しかし、この「学歴分断」ラインはそればかりではない問題も含んでいる。バブル経済が破綻して以降、雇用情勢の悪化は「大卒」の人にも襲ってきた。そのために、日本で起こった出来事、それは「非大卒」の人たちが得ていた職業に、「大卒」の人が押し寄せ、「非大卒」の人たちをところてん式に押し出してしまったことである。公務員の「高卒」枠に、大卒の人が「高卒」と偽って採用された問題を覚えている人もいるのではないだろうか。ただ、職業を受け継ぐだけでもリスクは高いが、それでもそこでの「安定性」というものがあったが、雇用が流動化してしまった現在において、「非大卒」は更に下層へ流れてしまうリスクがあるのである。

そこで著者は、このラインを上下関係としてみるのではなく、水平関係としてみるように心がけるだけでなく、異なる社会的役割を果たしながら、お互いに支え合う分業関係にあることを忘れてはならないとして締めくくっている。

これらのことが、前回の読書ノート『下剋上受験』の著者が最も伝えたかったこととつながってくることが分かる。負のスパイラルからの脱却を目指した親の思いが本書を読むことにより、更に伝わってくるのではないだろうか。 (文責 木村綾子

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KIMURAの読書のノート『下剋上受験』

2017年01月22日 | KIMURAの読書ノート
『下剋上受験』
桜井信一 著 産経新聞出版 2014年

中卒の父親が我が子を塾に行かさずに「親塾」と称して、自分自身で指導をし、最難関の中学校を受験させた記録が本書である。そして、これはドラマ化され、この1月からTBS系列(金曜日午後10時から)で放映されている。

中卒の父親が自らの指導で最難関中学を受験させるというと、何らかの理由で高校に行くことができず、しかし今は自らの努力でそれなりの立場になったという印象を受けるが、著者はどうも勝手が違うようである。著者の妻も中卒であり、親も中卒。著者の中学時代はとりあえず学校に行っている不良。高校は受験さえすれば誰でも合格できる高校に入学し、周囲の在学生の例にもれず、中退。その後転職を繰り返し、今は転職するのが面倒くさい年齢になり仕方なく落ち着いている状況。著者の言葉を借りれば「負のスパイラル」。しかし、とある一件の出来事がそれを「断ち切らなければならない」という思いを駆り立てることになる。それが「全国統一テスト」。四谷大塚という受験塾が主催している全国規模の無料のテストである。著者の娘は、学校の宿題をこつこつする努力家のようである。そのため、決して悪い結果が出る訳がないという確信のもと、そして「無料」という言葉にそそられ、著者はこのテストを娘に受けさせたようである。しかし、現実は非情で受験者2万6000人中の2万番目。偏差値は41という結果であった。そこから父親、つまり著者は娘に対しての将来を考え始めるのである。

この「親塾」は正直並大抵のものではない。なぜなら、前述したように著者自身中学校はただ登校していただけ。高校も受験さえすれば合格するという学校である。中学受験に出題されるような問題を解く力がないのは、明らかである。しかし、著者の「負のスパイラル」を断ち切る思いは半端ではなく、まさに身を削って娘に尽くしている姿がそこに現れる。そこまでして受験をさせようとした思いが綴られている文章が次の通りである。

「勉強することの大切さを大人になってから気付かされる。後の祭りだと気付かされる。もう今更嘆いても遅いよと囁かれる。小学生の睡眠時間を2時間減らすことが虐待だと考える人は、大人になり定年までの40年間を惰性で生きていく運命になること、眠れないほど将来の不安が襲ってくることをどう考えているのだろう。大人になってからの人生はその本人が責任を持つべきことという常識は、『前提』があってのことではないのだろうか。」(p189)

ここでの「前提」は間違いなく、大学まで普通に卒業した人のことを指すのであろう。18歳人口の半数以上が大学に進学する時代である。大学に進学することが「普通」になってしまった今、著者が指摘する「前提」が一般的に「当たり前」になってしまっていることに本書を読むことで気付かされる。しかし、とりわけ著者のような人生を歩んだ人にとってはその「当たり前」のことが、決して「当たり前」ではないし、「教育が大切である」というような基本的な情報を入手できずに、大人になる、いや、大人になっても入手できないことが多いと指摘している。本書は受験体験記という括りにはなっているが、一方で、日本における学歴分断社会の一端を知るものとなっている。

この1月からのドラマはホームコメディータッチで描かれるようであるが、是非とも原作で綴られている著者の本当の思いを深く掘り下げた作品に仕上げてくれることを期待する。

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KIMURAの読書のノート『九十歳。何がめでたい』

2017年01月10日 | KIMURAの読書ノート
『九十歳。何がめでたい』
佐藤愛子 著 小学館 2016年8月6日

明けましておめでとうございます。本年も変わらずダラダラと本を読んだ中から、その一部の感想をこれまたダラダラと書いた駄文を皆様にお届けします。どうぞお付き合いくだされば幸いです。

さて、新年のこのおめでたい日の一冊目、「何がめでたい」という強烈なパンチのあるタイトルを引き当ててしまいました。直木賞作家で数々の作品を生み出してきた巨匠佐藤愛子さんのエッセイが本書です。昨年8月に刊行されて以来、未だに売れ続け、昨年の11月末日現在トーハンのランキングで第4位。勢いが衰えることはないようです。

御年93歳。抱腹絶倒、毒舌満載とはこのことではないでしょうか。売り上げの勢いもさることながら、本書の佐藤愛子さんの怒りの勢いは凄まじい。最初から「こみ上げる憤怒の孤独」として、自らの老いに怒っております。もちろん、老いだけではありません。日本人に対しては「総アホ時代」と銘打って憤っており、新聞の内にある人生相談の相談者だけでなく、回答者にも嘆いており、丸ごと1冊怒りに満ちています。しかし、読み手としては、それに対していちいち納得しながら、笑っているのだから不思議です。例えば、先の最初の章。佐藤さんがおっしゃるには、ご自身声が大きいらしい。そのため、「声が大きい」だけで、「元気」と思われ、あれこれ依頼が来るので困っていらっしゃる様子。弱弱しく見せようと小声でしゃべっていても、攻防戦が繰り広げられるとうっかり地声になり、「元気」じゃないですかと言われる始末。挙句には佐藤さん「声がでかいのが病気」と言わざるを得ないとか。しかし、現実的には90歳を超えた体は声が大きかろうと小さかろうと、日々の衰えを身をもって感じ、徒歩15分で行けた場所に倍以上かかったりとその年齢にならないと理解できない状況を佐藤節でまくし立てています。そして、最後彼女は、周囲の人から卒寿に対して「おめでとうございます」と言われることに対して、この状況から「何がめでたい」と一蹴するのです。

しかし、彼女の怒りは決して、彼女の年齢になったから分かるというものだけではありません。今の日本の政治や社会の流れに対しても愁いを感じています。それは間違いなく、私達がひそかに心の中で思っていることばかりです。ただその中には、それを一般の人が世間話にでさえも、口に出したらはばかるような内容も含まれています。日本は民主主義で表現や言論の自由があるはず。なのに、本書を読んでいると、案外今の日本、これらのものが不自由になってきているのではないかしらと感じてしまいます。それこそ年の功ではありませんが、御年93歳の佐藤愛子さんだからこそ、いや、彼女の筆力だからこそ、こうして笑いに変えて代弁してくれているのです。

と書いてしまうと、新年早々暗い感想となってしまいますが、本書は間違いなく素直に笑えます。「笑う門には福来る」。新年の幕開けにはもってこいの1冊です。  (文責 木村綾子)

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KIMURAの読書ノート『ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅』

2016年12月20日 | KIMURAの読書ノート
『ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅』
デイビッド・イェーツ 監督 J.K.ローリング 脚本 エディ・レッドメイン 出演
2016年11月23日 公開

今年最後の読書ノートは再び映画の話題である。この作品は公開前から「ハリー・ポッター」シリーズの新作という触れ込みで取り上げられており、雑誌でも特集を組まれるほどのため、内容はともかくタイトルはご存じの方も多いのではないだろうか。ましてや、ボッタリアンに至っては、良くも悪くも注目せざる得ない作品であろう。正直、私自身、「ハリー・ポッター」が好印象だったため、同じシリーズとは言え、主人公も舞台も異なるということもあり、期待をしないで劇場に向かった。

主人公ニュート・スキャマンダーは、後にホグワーツ魔法学校でハリー達が教科書として使用することになる『幻の動物とその生息地』(※実際に静山社より2001年に刊行されている)の著者であり、現在は魔法動物学者。イギリス出身であるが、とある事情のため、今回はじめてアメリカに上陸する。アメリカでは魔法界に危機が迫っており、不可解な現象が街中に爪痕を残していた。その中で彼が持ちこんだトランクの中に忍ばせていた魔法動物たちが脱走。そのため、あらぬ疑いをかけられてしまう。追われる立場になったニュートであるが、その過程で同志となった仲間3人と動物たちを探しながら、不可解な現象に対しても解決していく。

オープニングで鳥肌がたった。スクリーンから流れる聞きなれた曲、「ハリー・ポッター」のテーマ。そして、所々に出てくる聞き知った場所や人物名に魔法の言葉。登場人物の魔法を使う時の振る舞い。ポッタリアンなら否が応でもこの物語が「ハリー」の世界の道筋の上に成り立っていることを意識させられる。と同時に、初めて「ハリー」の世界に足を踏み入れる人に対しても、敷居が低くなっているのが、この作品の特徴でもある。「ハリー・ポッター」のシリーズは子ども達の成長物語でもあり、更には彼の生い立ちを追いかける旅としての伏線が張り巡らされており、シリーズの途中から鑑賞するというのには無理があった。その点において、この新作は登場人物を一新することにより、J.K.ローリングの描くパラレルワールドに初めて足を踏み入れる人にも楽しめるようになっている。

この物語にも数々の魅力的な人物が描かれているが、中でも主人公ニュートの同志となった「ノー・マジ」(ハリーの世界では「マグル」。魔法使いでない純粋な人間)のジェイコブ・コワルスキーは注目に値する人物である。彼はニュートに出会い、目の前で繰り広げられた魔法に関しても最初から全く動じない。またその魔法によって自らの命が危ぶんでも、決してそれに対して否定をしない。逆に目の前で起こったことが夢でないことを祈る人物である。彼を少年の心を持った持ち主として括ることもできるが、それだけでは語れない懐の広さを感じる。ニュートを魔法使いが戦っている最中、それに加担せずあえて一歩ひいてそれを見守る姿など、印象深いシーンが多い。かと言って、決してクールなキャラクターではない。全体的にはコミカルなキャラクターで、場を和らげる役割を担っている。それだけに、彼から目が離せなくなるのである。

この新シリーズは全5作になるという。この1作目でイギリスに戻ったニュート。アメリカの同志たちと次回作ではどのように再会するのか。また別の同志を見つけるのか。はたまたホグワーツとの絡みは。新たな敵とは。そして、何よりも教科書となる『幻の動物とその生息地』の刊行を見届けてのシリーズ終了となるのか。さまざまな謎と期待を残してくれる。

また、この第1作のオリジナル脚本化日本語版が来春刊行予定である。まだまだ、J.K.ローリングのパラレルワールドには翻弄させられそうである。
                 文責 木村綾子

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KIMURAの読書ノート『この世界の片隅に』

2016年12月05日 | KIMURAの読書ノート
『この世界の片隅に』
こうの史代 原作 片渕須直 監督・脚本 2016年11月12日 公開

広島市・呉市の戦時中を舞台にした市井の人々の生活を描いた同名のコミックをアニメとして映画化された。主人公のすずは穏やかを通り過ぎ、のんびりとし過ぎた女の子である。親に頼まれたお使い先で人さらいにさらわれても「弱ったねえ。おつかいやって、おみやげ買うて、夕方には鶏にエサやりに帰らんといけんのに」と悩むツボがどこかずれている。18歳で呉に嫁いでもそののんびりとした性格は変わらず、嫁ぎ先にもどこか緩やかな笑いをもたらす。それでも、戦争の影は日々色濃くなり、すず達の穏やかな生活は脅かされていく。

本作品の見どころはたくさんあるが、私のあえて個人的な見どころを紹介する。なぜなら、この舞台・呉市こそ私の地元だからである。つまり、地元目線での見どころということになる。

(1)方言
これまでの、ドラマをはじめとする舞台が広島のものは、もちろん登場人物に広島弁が使われる。そして、そこで話される広島弁は、「じゃけん」とか「ばり」と言った目立つ部分が強調されすぎ、正直耳障りなものが多かった。しかし、この作品はパーフェクトと言ってもいいくらいとても自然な仕上がりで、方言を方言として意識せず、作品に集中できるものとなっていた。ましてや、主人公のすずはとってもおっとりとした性格である。その中で繰り広げられる広島弁は本当に穏やかで、これまで「きつい」「汚い」というイメージを印象づけていた広島弁を一蹴するものとなっている。これぞ本物の広島弁(正確には呉弁なのであるが)である。そして、このアテレコを行ったのん(能年玲奈)さんの実力を思い知らされたのである。

(2)聖地巡礼
本作品では、当時の呉市の街並みそのままが描かれている。呉市は目の前が海、そして裏はすぐに山が迫った街であり、多くの家がその迫った山に建てられている。すずの嫁ぎ先も海を見下ろす山にあり、そこから見える軍艦の様子をはじめ、市内中心部、主要な軍の施設などが正確に描かれている。現存する建物も多くあるため、「聖地巡礼」でファンが多く詰めかけるのも時間の問題であろう。しかし、この作品においては「聖地巡礼」という言葉が不謹慎であることも鑑賞後には気づくはずである。なぜ、監督がこの作品(原作)に出会って、6年もの歳月をかけて映画化にしたのか。その期間、何度も広島市と呉市を綿密に取材し街並みの完成度を高めたのか、もっと言えば、原作者のこうの史代さんも同じで、呉に住む親せきに幾度となく取材をし、資料を集め、この作品を編み出したのか、2人の、そしてスタッフの想いが伝わる街並みとなっている。それは、当時の戦時中と今が断絶したものではなく、地続きになっていることを表したかったというほかならない。戦争時のことを描きながらも、軍人が出てこないというのも、その一端を示している。と同時に、地続きということであれば、映画のエンディング、すずと夫の周作が選んだ道。あまり表に出ることはないが、広島ではよく目にした光景であったと言われている。是非このエンディングは原爆投下後の広島の一片として知ってほしい出来事でもある。

本作品は公開された時点では、全国で68館しか上映されていなかった。しかし、公開されるやいなや、口コミでその評判は広がり、11月30日現在上映中・上映予定館157館になったという。また、この作品は「クラウドファンディング」によって集められ制作されている。つまり、原作を読んでその良さを知っている人たちが映画化を希望して支援し、出来上がったものなのである。まさにカープの樽募金と同じであることは付け加えておかなければならないだろう。
(文責 木村綾子)

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KIMURAの読書ノート『ハリー・ポッターと呪いの子』

2016年11月20日 | KIMURAの読書ノート
『ハリー・ポッターと呪いの子』
J・K・ローリング ジョン・ティファニー&ジャック・ソーン 著
ジャック・ソーン 脚本 松岡祐子 訳 静山社 2016年11月

2008年に『ハリー・ポッターと死の秘宝』が日本で出版され、このシリーズが全て完結したものと思われていた。私自身、この作品のファンとしては読後、かなりの喪失感を味わったことは事実である。そもそも、最初の「賢者の石」が国内で出版されたのが、1999年。そこから、「死の秘宝」の7巻だけでも、約10年。ハリー自身長い旅であったが、読者も同様に長い旅であり、それは、ただ「終わってしまった」というだけのものではなく、どこか何か忘れ物をしたような、そのような感情が喪失感を生み出したように感じる。が、しかしこれが終わりではなかった。今回刊行されたのが、本当の旅の終着点であったのである。

本書はこれまでの物語とは異なり、この夏イギリスで舞台化されたものを書籍化している。つまり、構成は小説ではなく、戯曲である。しかし、ト書きを地の文。それ以外を登場人物の会話として読めば、これまでと同様に小説として十分に楽しめる。ましてや、このシリーズのファンであれば、情景はすでに脳内にインプットされているはずなので、余計な説明がないだけ、物語に集中できる。そもそも、この最終巻を購入する読者は1999年以来のファン以外は執筆者もほぼ想定していないと考えられるので、構成が戯曲であろうと、小説であろうと何も問題ないと言えばそれまでである。

さて、作品の内容であるが、第7巻から19年後のハリー(37歳)達を描いている。物語の冒頭は第7巻の最後の場面とつながっている。ハリーは父親になり、息子たちをホグワーツへ見送るためのあの場所、キングスクロス駅・9と3/4番線である。主人公はハリーから息子アルバスに変わる。そしてもう一人の主人公が、かつてハリーのライバルであったドラコの息子・スコーピウスである。この物語は本来ある、親子の物語を次の世代に引き継いだ形で表されているが、それはホンの一端。もちろん、友情の物語でもある。が、何よりも魅力的なのは、これまでのシリーズ以上にミステリー要素が強いことであろう。7巻で死んだはずのヴォルデモートの影がちらつき、ハリー達を翻弄させる。その影を主人公の二人が思わぬ形で追いかけることになる。そこには、かつて父達が戦った様々な場面が繰り広げられ、7巻までの物語がこの最終巻への伏線であったことが分かる。思わず読者はそれらの場面の裏側では、そのようなことが起こっていたのかと驚愕するであろう。おそらく、これまでの7巻を全て読み返すことになるであろう。そして、どこまで、大風呂敷を広げていたのかということを思い知らされる。と同時に、それをきれいに畳んだこの最終巻。読後、7巻のような喪失感はなく、安堵感でいっぱいになる。それは、もちろん、忘れ物が何だったのか、はっきりとしたからであろう。

それにしても、あれだけ勇敢だったハリーが、父親になると案外ヘタレであるというのは、微笑ましい。息子のことに必死になり周りが全く見えずに、かつての恩師(の肖像画)のダンブルドアからもゆるく忠告を受ける。古今東西、親というのは、視野狭窄に陥るものだということを改めて知らされるのである。親は親であるのではなく、子どもによって親になっていくというテーマは避けることができないようである。

前述したように、本書はこの夏に舞台化された戯曲である。しかし、個人的にはぜひこれをこれまでの作品同様に映画化してくれることを切に願う。もちろん、俳優陣はハリー…ダニエル・ラドクリフをはじめとした、いつものメンバーである。大人になった彼らをスクリーンで是非観たい。 (文責 木村綾子)


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KIMURAの読書ノート『広島はすごい』

2016年11月07日 | KIMURAの読書ノート
『広島はすごい』
安西巧 著作 新潮社 2016年6月20日

先月29日残念ながら日本一を逃したものの今シーズンのプロ野球は広島に始まり、広島で終わったような気がする。これほどまでに「広島」が近年注目されたのは平和都市としての「ヒロシマ」以外ではなかったことではないだろうか。しかし、カープと平和都市としての「ヒロシマ」は全く別物ではなく、深くつながっており、カープを語る上で「ヒロシマ」は切っても切り離せない。本書は、それを踏まえた上で、更に「広島」が他の都市とは異なる地方中核都市としての魅力があることを伝えてくれるものである。また、著者は北九州市生まれで、2015年日本経済新聞社広島支局長に就任するまで、広島とは縁もゆかりもない人物である。広島にはビジターの著者から見える「広島」はどのように映っているのか。だからこそ興味を持って手にすることのできる1冊である。

第1章、第2章はカープ考に「ヒロシマ」についてであるので、あえてここでは割愛する。第3章以降は地元広島県人でも知る人が多くない事柄が記されている。

第3章は広島の歴史からみる広島気質。村上水軍の話からハワイ移民にまで話は遡る。そこから著者が導き出した気質は、「媚びない自由人」。実際にハワイへの移民者は広島県人が全国でいちばんだという。私の周囲(自分も含め)でも地元を離れて県外の大学や職場に行き、そのまま定住する人は多い。あまり地元に未練はないという感覚はある。しかし、ここで一つだけ著者の導き出した気質に疑問符を打つ。自由人なわりには、カープファンだけは多くが辞めない。カープに固執するのである。いや、カープに媚びていると言っても過言ではない。その謎だけは解明されていない。これを本書に求める方が良くないのは分かっているが、少しだけ残念な気もした。

第4章は今や全国区となったアンデルセン(タカギベーカリー)とカルビーの創業以来の話である。更にはこの4章は7章との内容にも関わってくる。日本初のものを多く出しているのがこの広島の企業であるという。誰もが日常的に通ってしまう100円均一の「ダイソー」もまさにそれである。

第5章、6章は自動車産業で有名な「マツダ」やかつての造船業であった軍港都市の呉を取り上げている。この二章から見えることは、広島は大企業であっても職人気質のモノ造りの企業であることである。マツダに関しては、表からは見えない数々の苦労やこだわりの一部を本章から垣間見ることができ、ホームの人間だったら当たり前だと思っていたことを、ビジターの著者だからこそあえて取材し、表に出てきた部分ではないだろうか。この二章は共に戦後から現在までの歩みを要点を時系列的にまとめており、それはモノ造りというだけでなく、広島市及び呉市の戦後の市政の歩みにも重なってくることが分かる。これこそが、中核都市としての魅力の一端であることがまかりなりにも理解できる章である。

本書1冊で広島県のすべてを語れるわけではないことは承知である。それでも、地元のことをビジターの人が好意的に書いてくれるのは、心地いいものである。是非とも他の市町村に関してもこのような著書が出てくることを期待する共に、次に広島が注目されるのが、25年後でないことをそれ以上に今は願っている。(文責 木村綾子)

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KIMURAの読書ノート『聲の形』全7巻<

2016年10月24日 | KIMURAの読書ノート
『聲の形』全7巻
大今良時 作 講談社 2013年11月15日~2014年12月17日

第19回手塚治虫文化賞新生賞受賞。そして、アニメとして映画化され現在劇場で公開されている本作品は、聴覚に障害を持つ硝子と退屈が何よりも大嫌いな将也、そして二人を取り巻く同級生たちの物語である。

当初、タイトルと主人公硝子の生い立ちからイメージする内容は、聴覚障害に対する啓発物語だと思っていた。しかし、それはいい意味であっさりと裏切られた。しかし、物語はそれ以上に重く、深く胸にのしかかるものであった。

話は二人が小学生の時から始まる。将也のクラスに硝子が転校生としてやってくる。みんなとノートを通して仲良くやっていきたいと、筆談で挨拶する硝子。しかし、その筆談のため授業が滞ってしまうことがあり、徐々に硝子への風当たりが強くなっていく。そして合唱コンクールの出来事をきっかけに将也を中心として硝子へのいじめが始まり、硝子は転校を余儀なくされる。また、将也は硝子の転校をきっかけにいじめる側からいじめられる側に立たされる。2巻目以降は硝子たちが高校3年生になってからエピソードが描かれている。

1巻目は壮絶である。どうやっていじめが生まれるか。そして立場が逆転していくのか。言葉だけでは表現しづらい残酷さを、画と吹き出しいう視覚で訴えられるマンガで描写することにより、リアルにそれが読み手に伝わってくる。それだけに、ページをめくるのが怖くなっていく。2巻目以降も決して高校生の青春の一コマではないどころか、小学校の時のいじめを正当化し、硝子や将也だけでなく、関わっていたそれぞれの同級生たちはお互いを罵倒し、ののしりあっていく。1巻以上にリアルさが増していく。それでもエンディングに見えてくるわずかな光。それこそタイトル「聲の形」、まさにそれである。しかし、全てが解決されたわけではないこの物語。読後にも多くの宿題を与えて、読み手は自分の出来事と重なり合わせて、その場をウロウロするだけである。

本作品は小学生、高校生時代の硝子や将也にどうしても視線が行きがちだが、彼らを取り巻く大人たちの存在にも注目すべきである。耳の聞こえない硝子を守るあまり、過剰なほど彼女に対してきつい態度をとってしまう母親。退屈が嫌いで、内で外で大暴れする将也をあちこちで頭をさげつつも何も言わず黙って見守る母親。両者をシングルマザーとして描くことで2人を対比させつつ、どちらも親としての痛みを背負っていることを表している。二人が親としてもお互いに受け入れられない存在から、我が子たちを通して認め合うその過程は、子ども達の葛藤とは別に胸に響くものがある。そして、全体を通すとわずかな登場ではあるが、強烈なインパクトを残すのが小学校時代の担任である。いじめがどうして始まるのか、加速していくのか、継続されるのか。案外子どもだけの問題ではなく、大人の何気ない本音の一端を子ども達に吐露してしまうことでこのような現象が起きていくのではないのか。子ども達は思っている以上に感嘆に大人の汚い部分を見透かしているのではないか。そのようなことを考えさせられる役割を担任には与えられている。

同時期に映画上映された『君の名は。』で報道的には少し影が薄くなってしまった本作品であるが、9月末の観客動員数週間ランキングでは『君の名は。』と逆転して、1位になっている。原作と合わせて鑑賞する価値のある作品であろう。

                  (文責  木村綾子)

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KIMURAの読書ノート『ふまんがあります』

2016年10月04日 | KIMURAの読書ノート
『ふまんがあります』
ヨシタケシンスケ 作 PHP研究所 2015年1

絵本作家の作品としての出会いは第61回産経児童出版文化賞美術賞受賞作品ともなった『りんごかもしれない』(ブロンズ新社 2013年)。りんごが見方次第で別のもの(なのかもしれない)という発想を広げてくれるだけでなく、その「モノ」を問うという部分においては哲学的な内容となっており、「絵本」という括りにとどめることのできない作品である。ページをめくればめくるほどに、どこまでが真実(りんご)でどこからが虚構(別の角度のりんご)なのか見えなくなってくる。つまり、今私たちが知っている「りんご」とは果たして本物の「りんご」なのかという疑問が生まれてくるのである。

今回紹介する本書は、前書以上に虚構の世界が強くなっている。絵本の冒頭は女の子が「いま わたしは おこっている」という文から始まる。何に対して怒っているのかというと、大人はいろいろ「ズルい」からだという。そのため「ふまんがあります」というタイトルになっている。例えば、「おとな よるおそくまで おきているのに、こどもだけ はやくねなくちゃいけないの?」「どうして こどもは、よる ねるまえに おかしを たべちゃ ダメなの?」など。ちなみに前述の大人の応えは「じつは、つぎのクリスマスのために、サンタさんから たのまれた ちょうさいんが、『よる はやく ねるこか どうか』を、なんかいも しらべにくるんだよ」。

こうして書いてみると、こどもの「どうして」という問いに対して、大人がそれに応えるというよくある内容にみえる。しかし、これまでの同じような類のものと比較するとそこには、問いに対する子どもへのファンタジーというものは、見られない。あくまでも大人の都合による「噓」の世界が広がる。秀逸は「どうして パパは じぶんが ほしいものは すぐに かうのに わたしの ほしいものは かってくれないの?」という問いに対する返答。「だって あのぬいぐるみを レジに もっていくと、 おみせのおじさんは じつは わるもので、 パパはつかまって、おにんぎょうに されてしまうんだよ」。ここには虚構の世界だけでなはく、大人のずるがしこさが見え隠れする。これらの応えに対して女の子は半分納得せざる得ない表情をするものの、エンディングでは、実は子どもは大人のそれを全てお見通しであったことを指摘するものとなっている。ここに至るまでの二人のやり取りの距離感が絶妙である。

この作品の対象年齢は「4~5歳から」となっているが、大人の世界に踏み出そうとする10代の子ども達に是非読んでもらいたい作品である。人が生きていくためには、必要な「噓」の世界があり、その「噓」をつくために大人は頭をひねり、ドキマキしながら、実は日常を生活しているという一端を知ることができるのではないだろうか。

本作品は『りゆうがあります』(PHP研究社 2015年)の続編。立場が逆で大人の疑問に対しての子どもが理由を述べているもの。こちらも大人顔負けの虚構の世界が広がっている。    (文責 木村綾子)

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KIMURAの読書ノート『実録!あるこーる白書』

2016年09月17日 | KIMURAの読書ノート
『実録!あるこーる白書』
西原理恵子 吾妻ひでお 著 徳間書店 2013年

戦場カメラマンでアルコール依存症、癌患者だった夫・鴨志田穣を介護し、看取った漫画家の西原理恵子さん。アルコール依存症の当事者で失踪までしてしまった同じく吾妻ひでおさん。そしてオブサーバーとしてやはりアルコール依存症の当事者で内閣府「アルコール健康障害対策関係者会議」の委員でもある月乃光司さん、3人による鼎談集である。

当事者の話として鴨志田穣は自らの体験を本(『酔いがさめたら、うちに帰ろう』講談社 など)に残しているが、本書で西原さんから語られる状況を知ると、当事者が自分のことをどれだけオブラードに包んで語っているかがよく分かる。それは吾妻ひでおさんの『失踪日記』(イースト・プレス)でも同じである。アルコール依存症は当事者も辛いがその周囲にいる家族がどれほど苦しみ、憎しみをもつのかというのが本書でよく分かる。何度も鼎談の中で彼女は夫に対して「死んでくれ」と願ったということを口にしている。またそれと同時に作品ではオブラードに包んで自らの体験を描いている吾妻さんであるが、やはりここで語られていることは作品以上に壮絶である。作品と自らの経験にはどうしても埋められない溝というのがあることを知ることにもなる。

それは3人が本書をアルコール依存症に対する啓蒙本として位置付けているからである。そこを明確にしていないとアルコール依存症というものが、きちんとした形で世に知られることがなく、「意志が弱い」などという間違った精神論になってしまうと本書でも語っている。精神論で語ってしまうと病気であるのに、治療を受けることなくして、家族が崩壊したり、当事者に至っては死んでしまう人も多いという。つまりこれがきちんとした病気であるという知識を持っていれば早い段階で対処でき、回復も早くなるというわけである。しかしながら、これは当事者だけが知っていてもどうしようもない病気であることも伝えている。アルコール依存症は「否認の病」とも言われ、まず当事者周囲の人間関係が壊れていくのだが、その時点ではもう本人は分からなくなっており、自身が病に罹っているということを認められなくなっているという。こうしてはっきりと断言しているのも、3人が(西原さんの場合、その夫になるが)周囲に支えられながらきちんと治療し、社会復帰できたからこその部分が大きい。その「支え」に対しても、一般的にイメージする「支え」でないことが本書で伝えられている。おそらく、アルコール依存症というものが、この1冊を読めば、これまでイメージしているものと大きく異なっていることも分かってくる。それだけ、この病気は言葉だけが先行され、正しい情報として世間に広がっていないということである。

西原さんは語っている。
「飲酒で壊れるのも、男に依存するのも、つまり無知と貧困の連鎖だと思います」(p218)
本書は辛辣な表現と汚い言葉がたびたび出てくる。しかし、それがこの病気の全てを物語っている。当事者の、そして当事者の家族の生の声をしっかりと受け止め、アルコール依存症という病気を正しい知識を身につけたい。それが出来る1冊である。(文責 木村綾子)


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KIMURAの読書ノート『秘湯、珍湯、怪湯を行く!』

2016年09月04日 | KIMURAの読書ノート
『秘湯、珍湯、怪湯を行く!』
郡司勇 著 角川書店 2014年

衝撃的すぎました。本書の表紙。あの『テルマエ・ロマエ』(ヤマザキマリ・作 エンターブレイン)のルシウスが表紙に出てきているではないか。そしてあの名言「平たい顔族は…」と真っ青になり、続いて「こんな温泉に入ってるのか!!」と驚愕している。他人の著書にまで進出してしまうルシウス。そしてルシウスを驚かせている温泉が記録されている著書であるなら読まなければなるまい。

と書いて、ルシウスに面識のない方に、ここで彼の説明をしておく。彼が登場する『テルマエ・ロマエ』は2008年雑誌で不定期連載がスタートしたマンガである。ローマ帝国時代のお風呂事情を描いた作品で、ルシウスはその主人公であり、2010年に定期連載されるようになり、その年マンガ大賞・手塚治虫文化賞を受賞。2012年にはアニメ化。続いて阿部寛・上戸彩で実写映画化され、一躍有名になった作品である。

さて、本書。残念ながら表紙以外にルシウスは登場しない。しかし、この表紙が示しているような驚愕な国内の温泉が紹介されている。いや、それ以前に著書の経歴が驚愕である。著者、郡司勇は表紙には肩書「温泉評論家」としているが、普段は一介の建築士。学生時代に『TVチャンピオン全国温泉通選手権』という番組で優勝したことがきっかけで、より深く温泉に接するようになったという。いや、私からするとすでにこの番組で優勝してしまってること自体で深く接していると思うのであるが、著者はそう思っていないところが、本書に紹介されているような温泉に足を向けてしまうのであろう。それが、私が知る限りではかなりレアな温泉ガイドブックとなっている。

「秘湯」「珍湯」というのは、私が本書を読む限りでも他著で見かけたことがある。ここでの推しは「怪湯」。まずは、「廃屋湯」。温泉があったが、予算がなかったので素人がバラックをその周りを囲むように建てたというもの。こちらはその外観が写真で掲載されているが、私がイメージしているバラック以下であった。バラックの壁や屋根には青いビニールシートがかけられ、そのわきには廃材となりつつある資材が積み上げられている。一見するとまだバラックの建設途中か、断念して放置した状態。この中に温泉があるとは誰が思うであろう。いや、あったと分かっていてもまず一歩を踏み出すのに躊躇してしまうであろう。一層、野湯の方が入りやすかったのではないかと思う程である。この写真が掲載されている温泉とバラックぶりなのが、あの天皇陛下の御用邸のある葉山町郊外にもあることが紹介されている。葉山とバラック温泉とは相いれないものがあるが、温泉天国の日本。どこでもかしこでも温泉が噴出しているいい事例ではないかと思われる。

更に「怪湯」なのは、「仮設温泉」。施設(建物)を建てようとしたら温泉がわいていたので、とりあえず樽や、ポリ浴槽を置いてかけ流し、いや著者の言葉を借りると「垂れ流し」にしているもの。建物ができると撤去されている場合が多く、「幻の湯」となっている。正直、わずかな期間だけの、しかもあったからと言ってもおそらく誰も入ろうとしない温泉をその嗅覚で見つけ出し、入る著者。天晴である。

本書には、これらの温泉についての場所だけでなく、取り上げている温泉の泉質をはじめ、自身が観察した「色」「臭い」「味覚」「感触」の4点が記録されている。国内の温泉施設をほぼ廻った温泉通には、必読の一冊であろう。確かに本書を読むとルシウスも真っ青になるはずである。温泉天国の日本。酷暑だったこの夏。疲れた体を温泉で癒したいものである。
(文責 木村綾子)

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KIMURAの読書ノート『三毛猫ホームズの遠眼鏡』

2016年08月19日 | KIMURAの読書ノート
『三毛猫ホームズの遠眼鏡』
赤川次郎 著 岩波書店 2015年

教養人というのは、このような人のことを言うのではないかと彼のエッセイを読んで気が付いた。著者である赤川次郎さんは言わずと知れたミステリー作家である。私自身小学生の時に彼の作品に出会い、どっぷりハマった時期がある。しかし、いつしか別の作者のミステリーへと移行し、彼の作品を読むことは少なくなった。そして、何年か前のことである。書店のカウンターに置いてある「ご自由にお取りください」というフリー冊子(厳密に言えば無料ではないのだが、書店ではたいてい無料で扱われている)『図書』。それを手にした時、彼の文章が目に入った。私が知っている彼の書く物はミステリーのはずであるが、そこにあったのは、エッセイであった。それは私にとってはミステリー以外の初めての文章の出会いであった。それをまとめたものが本書である。

ここには、彼が足しげく通うお芝居や音楽界のことが余すことなく書かれてある。その幅はかなり広い。ベートーヴェンについて語っていたかとおもうと、ギリシャの映画監督の話もある。かと思えば、文楽について綴られ、フランス文学についても言及している。ベストセラー作家に君臨し何十年も経つのに、どうやって時間をこしらえ、DVDを鑑賞したり、劇場に足を運ぶのか謎である。しかし、これらのことを嗜むということで私は教養人と記したのではない。多くのエッセイの冒頭はどれも彼が親しんだこれらの芸術文化についてのはずなのに、気が付いたら今の時事問題について鋭く指摘しているのである。

例えば、「非情の町、非情の国」と題した文章。話のスタートは深夜の息抜きにつけたテレビで流れていた音楽。それが1962年に公開された『非情の町』という映画の主題歌だったことを思い出したということが綴られている。そこからこの映画の内容をかいつまんで説明しているのだが、気が付くと安倍首相が通そうとしている「特定秘密保護法案」のことになっているのだ(この随筆は2013年に書かれたものなので、まだ法案が通る前。結局その後通ってしまったのだが)。そして、その矛先はこのことだけでなく、今の日本のジャーナリストにまで向けている。また逆に今の日本の出来事から一つの作品を例に出しているエッセイもある。その書き方は様々であるが、文化と芸術、そして政治や経済は決して切り離せないことを彼は教えてくれている。一つの流れの中にこれらが混在してこそ人の営みが生まれているのである。

彼がこのようなエッセイを書き始めたのには理由がある。もともとは自分の趣味のこれらの文化芸術だけのエッセイを連載していた。理由を書いているのは、本書の前に刊行された『三毛猫ホームズのあの日まで・その日から』(光文社 2013年12月20日)。「あの日・その日」とは東日本大震災のことである。あの日を経験したことにより、赤川次郎さんは「今連載コラムを持っている意味」を考えたそうだ。「あの日」の衝撃と恐怖を忘れないために。そして、続けてこのようにも書いている「いつやって来るかもしれない次の大地震への備えを忘れて、オリンピックのための大競技場を作ろうとする今の日本を、世界はどんな目で見ているのか」。

奇しくも今、リオオリンピックで日本は盛り上がっている。赤川次郎さんが危惧していることは何なのか。文化と芸術はその時の世情を示している。本当の教養人とはそこから何を学ぶのかということである。今の日本の政治家に彼以上の教養人がいるのか、私にははなはだ疑問である。
           (文責 木村綾子)

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