京都で、着物暮らし 

京の街には着物姿が増えています。実に奥が深く、教えられることがいっぱい。着物とその周辺について綴ります。

KIMURAの読書ノート『ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅』

2016年12月20日 | KIMURAの読書ノート
『ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅』
デイビッド・イェーツ 監督 J.K.ローリング 脚本 エディ・レッドメイン 出演
2016年11月23日 公開

今年最後の読書ノートは再び映画の話題である。この作品は公開前から「ハリー・ポッター」シリーズの新作という触れ込みで取り上げられており、雑誌でも特集を組まれるほどのため、内容はともかくタイトルはご存じの方も多いのではないだろうか。ましてや、ボッタリアンに至っては、良くも悪くも注目せざる得ない作品であろう。正直、私自身、「ハリー・ポッター」が好印象だったため、同じシリーズとは言え、主人公も舞台も異なるということもあり、期待をしないで劇場に向かった。

主人公ニュート・スキャマンダーは、後にホグワーツ魔法学校でハリー達が教科書として使用することになる『幻の動物とその生息地』(※実際に静山社より2001年に刊行されている)の著者であり、現在は魔法動物学者。イギリス出身であるが、とある事情のため、今回はじめてアメリカに上陸する。アメリカでは魔法界に危機が迫っており、不可解な現象が街中に爪痕を残していた。その中で彼が持ちこんだトランクの中に忍ばせていた魔法動物たちが脱走。そのため、あらぬ疑いをかけられてしまう。追われる立場になったニュートであるが、その過程で同志となった仲間3人と動物たちを探しながら、不可解な現象に対しても解決していく。

オープニングで鳥肌がたった。スクリーンから流れる聞きなれた曲、「ハリー・ポッター」のテーマ。そして、所々に出てくる聞き知った場所や人物名に魔法の言葉。登場人物の魔法を使う時の振る舞い。ポッタリアンなら否が応でもこの物語が「ハリー」の世界の道筋の上に成り立っていることを意識させられる。と同時に、初めて「ハリー」の世界に足を踏み入れる人に対しても、敷居が低くなっているのが、この作品の特徴でもある。「ハリー・ポッター」のシリーズは子ども達の成長物語でもあり、更には彼の生い立ちを追いかける旅としての伏線が張り巡らされており、シリーズの途中から鑑賞するというのには無理があった。その点において、この新作は登場人物を一新することにより、J.K.ローリングの描くパラレルワールドに初めて足を踏み入れる人にも楽しめるようになっている。

この物語にも数々の魅力的な人物が描かれているが、中でも主人公ニュートの同志となった「ノー・マジ」(ハリーの世界では「マグル」。魔法使いでない純粋な人間)のジェイコブ・コワルスキーは注目に値する人物である。彼はニュートに出会い、目の前で繰り広げられた魔法に関しても最初から全く動じない。またその魔法によって自らの命が危ぶんでも、決してそれに対して否定をしない。逆に目の前で起こったことが夢でないことを祈る人物である。彼を少年の心を持った持ち主として括ることもできるが、それだけでは語れない懐の広さを感じる。ニュートを魔法使いが戦っている最中、それに加担せずあえて一歩ひいてそれを見守る姿など、印象深いシーンが多い。かと言って、決してクールなキャラクターではない。全体的にはコミカルなキャラクターで、場を和らげる役割を担っている。それだけに、彼から目が離せなくなるのである。

この新シリーズは全5作になるという。この1作目でイギリスに戻ったニュート。アメリカの同志たちと次回作ではどのように再会するのか。また別の同志を見つけるのか。はたまたホグワーツとの絡みは。新たな敵とは。そして、何よりも教科書となる『幻の動物とその生息地』の刊行を見届けてのシリーズ終了となるのか。さまざまな謎と期待を残してくれる。

また、この第1作のオリジナル脚本化日本語版が来春刊行予定である。まだまだ、J.K.ローリングのパラレルワールドには翻弄させられそうである。
                 文責 木村綾子

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KIMURAの読書ノート『この世界の片隅に』

2016年12月05日 | KIMURAの読書ノート
『この世界の片隅に』
こうの史代 原作 片渕須直 監督・脚本 2016年11月12日 公開

広島市・呉市の戦時中を舞台にした市井の人々の生活を描いた同名のコミックをアニメとして映画化された。主人公のすずは穏やかを通り過ぎ、のんびりとし過ぎた女の子である。親に頼まれたお使い先で人さらいにさらわれても「弱ったねえ。おつかいやって、おみやげ買うて、夕方には鶏にエサやりに帰らんといけんのに」と悩むツボがどこかずれている。18歳で呉に嫁いでもそののんびりとした性格は変わらず、嫁ぎ先にもどこか緩やかな笑いをもたらす。それでも、戦争の影は日々色濃くなり、すず達の穏やかな生活は脅かされていく。

本作品の見どころはたくさんあるが、私のあえて個人的な見どころを紹介する。なぜなら、この舞台・呉市こそ私の地元だからである。つまり、地元目線での見どころということになる。

(1)方言
これまでの、ドラマをはじめとする舞台が広島のものは、もちろん登場人物に広島弁が使われる。そして、そこで話される広島弁は、「じゃけん」とか「ばり」と言った目立つ部分が強調されすぎ、正直耳障りなものが多かった。しかし、この作品はパーフェクトと言ってもいいくらいとても自然な仕上がりで、方言を方言として意識せず、作品に集中できるものとなっていた。ましてや、主人公のすずはとってもおっとりとした性格である。その中で繰り広げられる広島弁は本当に穏やかで、これまで「きつい」「汚い」というイメージを印象づけていた広島弁を一蹴するものとなっている。これぞ本物の広島弁(正確には呉弁なのであるが)である。そして、このアテレコを行ったのん(能年玲奈)さんの実力を思い知らされたのである。

(2)聖地巡礼
本作品では、当時の呉市の街並みそのままが描かれている。呉市は目の前が海、そして裏はすぐに山が迫った街であり、多くの家がその迫った山に建てられている。すずの嫁ぎ先も海を見下ろす山にあり、そこから見える軍艦の様子をはじめ、市内中心部、主要な軍の施設などが正確に描かれている。現存する建物も多くあるため、「聖地巡礼」でファンが多く詰めかけるのも時間の問題であろう。しかし、この作品においては「聖地巡礼」という言葉が不謹慎であることも鑑賞後には気づくはずである。なぜ、監督がこの作品(原作)に出会って、6年もの歳月をかけて映画化にしたのか。その期間、何度も広島市と呉市を綿密に取材し街並みの完成度を高めたのか、もっと言えば、原作者のこうの史代さんも同じで、呉に住む親せきに幾度となく取材をし、資料を集め、この作品を編み出したのか、2人の、そしてスタッフの想いが伝わる街並みとなっている。それは、当時の戦時中と今が断絶したものではなく、地続きになっていることを表したかったというほかならない。戦争時のことを描きながらも、軍人が出てこないというのも、その一端を示している。と同時に、地続きということであれば、映画のエンディング、すずと夫の周作が選んだ道。あまり表に出ることはないが、広島ではよく目にした光景であったと言われている。是非このエンディングは原爆投下後の広島の一片として知ってほしい出来事でもある。

本作品は公開された時点では、全国で68館しか上映されていなかった。しかし、公開されるやいなや、口コミでその評判は広がり、11月30日現在上映中・上映予定館157館になったという。また、この作品は「クラウドファンディング」によって集められ制作されている。つまり、原作を読んでその良さを知っている人たちが映画化を希望して支援し、出来上がったものなのである。まさにカープの樽募金と同じであることは付け加えておかなければならないだろう。
(文責 木村綾子)

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