京都で、着物暮らし 

京の街には着物姿が増えています。実に奥が深く、教えられることがいっぱい。着物とその周辺について綴ります。

蓮華寺の雪

2014年02月18日 | KIKUの庭


                      KIKUの庭の椿


数日前京都に今年3度目の雪が降り、私は昔目にした心に沁みるような蓮華寺の美しい雪の風景を想い出しました。
その日近所の友達から電話でお誘いがあり、タクシーを頼んでわざわざ雪を見に八瀬の蓮華寺(京都市左京区)まで出かけて行ったのでした。

門の前に人ひとり分、雪かきがしてあり、扉がひっそりと開いていたときの嬉しかったこと。
八瀬の地の雪の深さに、もしや閉門しているのでは、とちょっぴり不安でしたから。

痛いほどに冷たい縁側に正座して、きりりと冷えわたる庭の空気にふれながら、私たち女3人、声もなく数十分を過ごしました。
おもいおもいの形に雪を頂いている木々、遠くに白く煙る比叡の山並み、シャーベットを溶かしたような池の面、時折り吹く風とともに南天や竹からささっと舞い落ちる雪の花、白い綿にくるまれてところどころに顔をのぞかせている真っ赤な椿、池の端にはかすかに赤い万両の実・・・。

視野の右端では、私たちのために、渡り廊下の雪を掃いてくださっている作務衣の竹箒がせっせと動いていて、まるで夢の世界のようでした。
寂しいほどにしんとしている雪の風景が、ひとたび日差しを浴びるとたちまち華やかに輝いて、雪の大きな不思議を見つけたような気もしました。

歳を重ねてこの頃、あまりに美しい自然の光景を見るとき、感動のあまり、なにか“哀しみ”と表現したいような気持になることがあります。
若いころには無かったことです。

感情の成熟なのか、単なる老化なのか、見極めにくいところですね。



       


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「見てみて、虹よ、虹よ!」

2013年11月11日 | KIKUの庭

先日,わたしも大きな弧を描く虹を観ました。



以前に、KIKUの庭にも「虹」を書いたいい文章があったことを思い出して、ここに再掲しました。

「見てみて、虹よ、虹よ!」

                 きく子

今日の午後4時ごろ、京都でどなたか虹を見ましたか? 私は見たのです! 
ずいぶん久しぶりで見たような気がします。

夫と買い物に出かけ、帰途タクシーの窓からふと見上げた空に、大きな大きな虹がかかっていました。
思わず大声で「 虹! 虹! 大きい! すごい!」と子供のように叫び、夫と運転手さんを驚かせました。
それは東の空に、のびやかに鮮やかに、美しい大きな弧を描いていました。
家々の屋根が無かったら、地平線から地平線まで完璧な半円を描いていたはずです。

タクシーの中で「きれい、きれい」と叫び続け、私は家に着いた途端、転がり落ちるようにタクシーを降り、留守番をしていた娘に知らせなくてはと、もどかしい思いで鍵を開け玄関に飛び込んで、娘の名を呼び「早く、早く! 虹よ、虹よ、外へ出て、外へ」と叫びました。
娘も飛んで出てきて、「わあ、本当! きれい!」と見とれました。
3人の目の前で、虹はしばし優雅な姿を空の高みに横たえ、数分後にあわあわと消えていきました。
あまりに久しぶりに見た大きな虹だったので、思いがけずとても貴重なものを見たような、幸せな気分になりました。
そして昔大学で習った次のような詩を思い出しました。

それは英国の詩人ウィリアム・ワーズワース(1770-1850)が書いた「虹」です。

「大空に虹みれば、わが心跳り立つ。
・・・・・・・・
・・・・・・・・
生まれながらの敬いに
わが日々の結ばれいくぞ願わしき。」(斎藤 勇訳)

「生まれながらの敬い」は原文では natural piety となっており、ワーズワースは“生まれながらに有する自然に対する敬愛の情”とでもいう意味で使ったのではないかと思われます。
自然のうちに神を認め、天地の恵みを歌い続けた彼は、生涯の日々を自然に対する敬愛の念を忘れずに生きていきたいと思っていたのでしょう。

虹が消えてから30分後の今、私の右手の甲はどんどん腫れ始めています。
色も赤紫色になってきました。大慌てで家に飛び込んだとき、玄関のどこかに思いっきりぶつけたことを思い出しました。
でもいい。数日腫れるかもしれないけれど、私は満足です! あんなに見事な虹を見られたのだから。

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 「KIKUの庭」のバックナンバーの一部は
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五山の送り火

2012年08月15日 | KIKUの庭
            きく子


例年、8月16日には「五山の送り火」のうち、「妙法」の「妙」を必ず見る。
運の良いことに遠目に「大文字」と「鳥居」と「船」も見える。

「妙」は家から歩いて2分のところにある。
点火の時間になって山肌に赤い点がひとつ瞬いたかと思うと、あっというまにそれが連なって、妙の字の炎となり夜空を赤々と焦がし始める。
私は手を合わせ瞑目して、親しかった故人のことをひとりひとり想うことにしている。
毎年少しずつその数が増えていって切ない。
思いがけない死を迎えた友人がいた年はことさら胸が痛む。



以前関東に住んでいたときは、私にとってテレビのニュースで流される「五山の送り火」は、夏の美しい風物詩であった。
京都に住むようになってからの初めての「送り火」のとき、「きれいねえ」と見とれている私のとなりに、白髪の老婦人が手を合わせて一心に祈っている姿を見た。心をうたれた。
その時以来私も瞑目して故人を偲ぶようになった。

今は見慣れた光景となったが、7,8年前に瞑目から目を開いてびっくりしたことがある。
まわりに50ほどの小さな四角い青い光が瞬いている。
つまりそれは周囲の人たちがいっせいに手をのばして、携帯電話の画像に送り火を写し取っていたのであった。
その画像を送ってもらった人たちは、そこにいなくても京都の送り火を楽しめている。
真っ暗な夜空に赤々と燃える本物の「妙」、そして青い光の箱の中に映る50の「妙」・・・。不思議な光景だった。
その時、世の中は急速に変わっているのだ、とあらためて感心したものである。
ちょうど家庭の固定電話の数を、携帯電話の数が超えた時期であった。

願わくは、携帯で送ってもらった「送り火」の画像を見た人たちが、いつか必ず京都に来て、夜空を焦がす本物の送り火を見てほしい。
その美しさと、周囲の厳粛な雰囲気と(妙は山の低いところにあるので、運が良ければお坊様たちのお声明を聞くことも出来る)、その日のために何ヶ月も準備をしてこられた人々の努力が想われて、きっと胸が熱くなるに違いないから・・・。





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KIKUの庭  最新号

2011年12月15日 | KIKUの庭
KIKU の庭 2011
>
                                        
                      庭主: きく子  

茨城県生まれ  東京で大学生活と洋画輸入配給会社勤務を経て
結婚してカナダに渡り8年暮らす。1970年代後半、京都に帰国して現在に至る。
1978年にアケミとある会で知り合い共白髪までといい合う仲になる。 
仕事:通訳・翻訳  家族:夫(息子と娘はそれぞれ所帯を持っている)と左京区に暮らしている。 
          
 

「モントリオールのクリスマス」
 
         2011/12/14 更新

人間とはぜいたくなものです。12月になると、モントリオールのクリスマスがとてもなつかしくなります。
あちらにいた時は、日本のお正月が恋しくてたまりませんでしたのに・・。

モントリオールの12月、大人も子供も気持ちはクリスマスに向かってまっしぐら。
日一日と心が高揚していくのが、目に見えるようです。
各家庭では外の通りからも見えるように大きなツリーを窓辺に置いて自慢の飾り付け。
ちなみにクリスマスの1週間ほど前に、山から伐採してきたばかりのツリー用の木の市から、
お家の居間の大きさに合ったサイズの枝振りの良い木を買ってくるのはお父さんの役目です。
思っていたようなツリーを購入できたお父さんは鼻高々で、
家に帰ると家族を前に、どこどこの市場でまたは園芸屋さんでいくらで買ったと、しばし自慢話です。

たくさん来たクリスマスカードは糸でつるしたり、暖炉の上に飾ったり、壁にピンで止めたり、やはり大切な装飾のひとつです。

おとなたちは家族や友人の誰やかれやの顔を思い浮かべて、最良のプレゼントをしようと、2か月ほど前から知恵をしぼり始めます。
どこかの国のお歳暮のように、義理であったり、毎年同じものであったりはありません。
子供たちはサンタからのプレゼントの期待で胸がふくらみっぱなしです。

デパートはもちろんクリスマス一色。
特に見事なのはろうそく売り場で、この時ばかりは10メートル四方ほどの広さに拡張されて、美しいろうそくのオンパレード。
一番大きくて高価なのは高さ60センチぐらい、直径30センチほどもあるような家であったり、花束であったり。
てっぺんに芯の先が見えていなかったら、まるで彫刻と見まがうばかりです。
ちっちゃいのはたいていサンタさんやトナカイさんやエンジェルたち。
火を付けて溶け出すのを見るなんて残酷なことはとても出来そうにありません。

街の通りの並木も公園も家の周りの木々もほとんど豆電球に飾られて夢のよう。
街の多くの人々が車でダウンタウンから公園、住宅地を一巡して飾り付けを見るのを毎年の習慣にしています。

クリスマスが近づくと友人たちとのホームパーティが盛んに開かれ、
外国人である私たちは心やさしきカナダ人の友人たちに招待され、時にはかけもちになったりしました。
そしてクリスマスイブの夜、遠方の日頃会えない家族もやって来て、共にターキーを食べたり、ミサに行ったり、楽しい時を過ごします。

教会では1年に1度のせめてものクリスマスディナーを貧しい人々にと、腕をふるって大量の無料の食事作りにフル回転。
まるで建物全体があたたかい湯気に包まれているようです。
外はしんしんと降りつもる雪、そこここで聞こえるキャロリングの歌声、
中には美しく飾られたツリーと根元いっぱいに置かれたプレゼントの山、人々の笑い声、子供たちのバラ色のほっぺ・・。

なつかしい、なつかしいモントリオールのクリスマス風景です。



「魂を揺さぶるコンサート  BBCフィル(佐渡裕氏指揮)と辻井伸行さんの競演」


                             2011 3/9

今から半年前のある雨の日、私は京都コンサートホールへ急ぎ切符発売時間の40分前に着いた。
だがすでに3重の列! 皆番号札を手に並んでいる。
もっと早く来るのだったと歯噛みしながら並び、それでも1階のとても良い席を手に入れることが出来た。
これだけの人が並ぶのも無理はない。
天下に名だたるBBCフィルの演奏と今飛ぶ鳥を落とす勢いのマエストロ佐渡裕氏の指揮、
そしてヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールで優勝した辻井伸行さんのピアノの組み合わせなのである。
夫と私はこのホールのスペシャルメンバーになっているので、
年間4枚ほどの名演奏の切符が郵送されてくるが、3月5日に行われたBBCフィルのこのコンサートは特別演奏会。
会員でも並ばないと手に入らないのだ。

半年もの間わくわくして待ったコンサートが始まった。
辻井さんが演奏する曲目はチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番。偶然にも私が手に入れた人生最初のクラシックのレコードの曲である。
そのレコードは辻井さんが優勝されたヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールの当事者クライバーンが演奏したものだ。
高校3年のとき英会話に慣れるため、義兄の友人である米軍の軍医の家に1週間滞在したことがあり、
最後の日にご夫妻の大きなハグとともにお別れのプレゼントとしてもらったものである。

18歳のときから何度も何度も聴いたその曲が今夜辻井さんの手で、目の前で演奏されている!
 強くたくましい音、ふくよかな優しい音、静かで澄み切った音、オーケストラをかき消してしまうような激しい音・・・。
辻井さんの全ての音に純粋な美しい響きがあった。
感動で魂がゆさぶられるようであった。
聴いているうちにじわじわと涙が出た。
あぁ、この青年に神は類まれなる天賦の才と美しい魂を与えたもうたのだ、と思いながら聴いた。
あちこちでハンドバッグからハンカチを出している女性が見えた。

辻井さんと佐渡さんとはご縁が深い。
辻井さんの才能を1歳半の頃いち早く気づかれていたお母様は、
辻井さんが10歳を過ぎたころに弾いた曲をカセットに録音して佐渡さんに送り、
その素晴らしさに驚いた佐渡さんはすぐお母様に連絡をとり辻井さんに会ったという。
そして「これからは世界に出ていきなさい」と伝え、機会あるごとに辻井さんを指導するようになった。
眼の不自由な辻井さんには指揮者が見えないので、協奏曲を弾くときにオーケストラと合わせるのが難しい。
佐渡さんは“指揮者の息遣いを聞くように”と指導する。
その他さまざまな実践的な指導があったというが、それはどんなに辻井さんにとってありがたいことであったか。
長年にわたるふたりの信頼関係がますます演奏を素晴らしいものにしているに違いない。
演奏が終わって大きな佐渡さんが小柄な辻井さんを抱きしめると、
辻井さんは身体全体がすっぽりと佐渡さんの腕のなかに包み込まれて、ほっと安堵して身をゆだねているように見えた。
本当に素敵なふたりである。

3月5日のコンサートのまさに当日の朝、
京都新聞の「天眼」というコラムに京都大学名誉教授であり京響友の会会長でいらっしゃる岡田節人氏の「京都の音楽受容」という文章が掲載されていた
氏は、最近コンサートで演奏されるのが“耳タコ”になった名曲が多いことを嘆いておられ
先日京響が滅多に演奏されない曲を演奏したら「会場は随分と盛り上がり、京都の聴衆が、耳タコ以外の名曲であっても、決して拒否反応を示すわけではないことを実感できた」と喜んでおられた。

ところで5日のBBCフィルの曲目は辻井さんのチャイコフスキー以外には、ブリテンの「4つの海の間奏曲」で、まさに岡田氏が言っておられた“耳タコ”以外の曲であり、佐渡さんの指揮のもと、すばらしい演奏であった。月に照らされる夜の海や、荒れ狂う嵐の情景が眼に浮かぶようであった。最後の曲目はドヴォルザークの「新世界より」。まさに耳タコの曲で、曲目を知ったとき岡田氏は苦笑されたのではないだろうか。私自身、生の演奏をたぶん10回以上聴いているかもしれない(ちなみに、5月にコンサートが行われるプラハ交響楽団も「新世界より」を演奏する)。だが、この演奏がまたすばらしかった。佐渡さんらしいダイナミックな指揮のなか、第2楽章のいわゆる「家路」のメロディーを含む章を非常にゆっくりと心にしみいるように表現して、美しいだけではなく、切ない感情まで呼び覚ますような演奏だった。

BBCフィルは、佐渡さんの指揮のもと心をひとつにして情熱的で力強い演奏を繰り広げてくれた。演奏が終わったときの団員たちの充実した表情も印象的であった。私はかつて毎年暮れになるとベートーベンの「第九」のコンサートでコーラスの一員になって歌い、9年間続けた。そのうち2回は佐渡さんの指揮である。本番の前に数回合唱の指導に来てくださり、その熱血指導ぶりに私たちは胸を熱くしたものである。そのときの佐渡さんの口癖は「一緒にすばらしい音楽をつくりましょう!」。そしてその至高のお手本が5日のコンサートであった。



「想い、祈り、励まし」 09/7/10

“思う”と“想う”の意味の違いはなんであろうか。
調べてみると“思う”は一般的な意味で“考える”こと、“想う”は“思いを馳せること”や“思い慕う”こととある。
人が人を“想う”ことにはちからがある、もちろん祈りにもちからがある、そして想いをこめ、祈りとともにある“励まし”にはいっそう大きなちからがあると私は思う。

夫が病気のあいだ、実にさまざまな人が私たちを想ってくれ、私たちのために祈ってくれ、実際に励ましてくれた。
家族や親族が支えてくれたのは当然だが、他人であるはずの友人たちもどれほど私たちを支えてくれたか、今思っても感謝で胸がいっぱいになる。

入院した病院が京都以外の地にあり治療も過酷を極めたので、
私は病院に頼み込み夫のベッドの隣に長いす兼用の固い狭いベッドを並べてもらい、
病室に週の半分を泊まりこみ、残りの半分を京都の自宅で過すことにした。そんなことが7ヶ月近く続いた。

京都に住む友人のうち、明美さんと英子さんは私の労力を少しでも省いてくれようと、
半調理品を中心とした食品の詰め合わせを何度か贈ってくれた。
他のひとりは私が京都に戻ると、何度も私を食事やお茶に連れ出し、黙って私の話を聞き続けてくれた。
また他のひとりは、時間があるときに読んでね、と毎月1冊ずつ雑誌を1年間送ってくれ、
返事は要らないといって一方的に美しいイラストいっぱいの長い優しいメールも送ってくれた。
この友人夫妻は夫が退院したあと、お祝いにと琵琶湖畔のホテルでのスイートルーム一泊をプレゼントしてくれた。
豪華なディナーや翌日の朝食まで用意されていて感激した。

町内の友人のひとりは私の姿を見かけると決まってさっと涙ぐみ「大丈夫?」と優しく聞いてくれて、
ときどき食事を作って持ってきてくれた。
町内のもうひとりの友人は、花いっぱいの自分の庭からたくさんの花を切り取って腕に抱え、
10日に1度ぐらい前ぶれもなくやってきて「大丈夫!きっと大丈夫!」と笑顔で私の手を力強く両手でギュッと握り花を渡してくれて、さっと帰っていった。
彼女のそのまた友人のひとりは、私と面識がないにもかかわらず、フランスのルルドに行ったとき手に入れたという“聖水”をその友人を通じて私に贈ってくださった。
(そのお会いしたこともない親切な方が、実は先日の娘の結婚式に聖歌隊の中で歌っていらして、初めて直接お会いしてお礼を申し上げることが出来た。胸がいっぱいになった。)

東京に住み、この9年間毎年京都にやってきて、
以前「KIKUの庭」にも書いたことがある“3人娘(?)京都遊び”を楽しんでいる大学時代の親友ふたりは、
やはり何度か食料品を送ってくれた。励ましのメールもたくさんくれた。
病院の近くに住む友人夫妻は、花やお菓子を持って何度も様子を見にきてくれ、夫が気分が良いときだけゆっくりと穏やかにおしゃべりの相手をしてくれた。
広島の親しい友人は「疲れたとき、これを覗いてちょっとの間でも気を休めて。
「私とおそろいよ」との手紙とともに、5センチほどの細長いメタルの筒型の、中を覗くとそれはそれは美しい別世界を見せてくれる万華鏡を送ってきてくれた。外見はミニの筒なのに中の世界は実に華やかで広い。
その万華鏡には小さい丸いアクリル板に挟んだ四つ葉のクローバーまで付いている。
今それは私の携帯のストラップになっている。

海外の友人たちもメールなどで励ましてくれた。
特に夫の研究仲間たちは、こちらからの知らせに驚愕しながら励まし続けてくれた。
周囲にいる知人が同病で今は元気に回復しているからといって、
その人の治療法と経過を詳しく書いてきてくれる友、とにかく闘う気持ちを捨てないでと励ます友、何回かに分けて美しいカードを送ってくれる友・・・。
夫の師であり、ノーベル医学生理学賞を受賞したトーマス博士ご夫妻は
(もう10年にもなるだろうか、来日された時我が家でパーティを開き、明美さん夫妻、英子さん夫妻にも参加して頂き、
英子さんには、オペラの大好きなご夫妻のために歌を歌ってもらったことがある)、自分の弟子の病気を悲しんで、
奥様ともども「驚愕し、悲しんでいる。とにかくがんばって」と何度もメールをくださった。
そのトーマス博士のもとで共に研究をし、
今は3大テノールのカレーラス氏の主治医になっている友は
「とにかく過酷な治療に耐えて。体調が回復したら我が家のゲストハウスに滞在してほしい。干渉しないから1ヶ月でも2ヶ月でも好きに住んで」と言ってきてくれた。
今でもときどき「あの招待状は今も有効だよ」と言ってきてくれる。

励ましの形は実にさまざまである。
でも励まされる側に作用するその力はまったく同じである。
それは決して直接病気を治してくれるものではないけれど、病人に闘う力を与え、そばで介護する者に持続する力を与えてくれる。
真夜中、夫の横に寝て暗い天井を見上げているとき、支えてくれている家族や友人たちの顔を思い出すと胸にぽっと灯がともった。
明日もがんばろうと思った。

ひるがえって自分のことを考えると、私も周囲で辛い想いをしている人がいた場合、自分なりに精一杯ちからになろうとしてきたつもりである。
でも、つもりではあっても、まだ足りないところがあったかもしれない。
励ますつもりだったのに、あまり干渉するのもと躊躇し、とつおいつ考えているうちに時機を逸してしまったこともある。
想う、祈るは出来ても、直接励ますのは簡単ではない。
それでも私はいろいろな状況をよくよく考えて、その時最善と思う形でなんとかちからになりたいと思う。
私もそうやって支えてもらったのだから・・。それで少しはお返しが出来るかもしれないから・・。




「娘の結婚」 09/5/28

先月初め、桜が満開の佳き日に娘が結婚した。

ここ数年間、地球温暖化のせいで桜の満開は3月の下旬になり、かつて小学校から大学まで入学式の写真では、必ず青空に満開の桜が背景だった思い出を持つ私は、“入学式に満開の桜が無いなんて”などと、いつも勝手にぴかぴかの一年生たちを可哀そうがっていた。 
そして案の定、今年の桜も満開予想は3月下旬。が、なんと運の良いことか、数日間ひえびえとした日が続いたおかげで、4月4日の大安吉日、まさしく娘の結婚式の日に、満開となった。
ぴかぴかの新郎新婦の輝く笑顔にはやはり満開の桜がよく似合う。
朝、教会の庭に薄紅色の爛漫の桜の枝を見上げることから、うれしい結婚式の一日が始まった。

一昨年から昨年にかけて夫が大病にかかり、家族総出の闘病があった。
何よりもすさまじいほどの気力で本人が病気を乗り切り、必死で支えた私たち家族の力も多少は役に立ったのか、夫は無事回復し、娘の結婚式に出席することが出来た。
娘とフィアンセは式場に市内のカトリック教会(彼のご家族がカトリック教徒)を選び、厳粛ながらも和気藹々としたすばらしいお式となった。

「お嬢様の結婚式には出られない可能性もおおいにあります」と何度か主治医がひそかに私に伝えていた夫その人が、娘と腕を組んでヴァージン・ロードを歩き、娘の手を彼女の最愛のひとの手にあずけている・・。
涙が止まらなかった。事情を知っている人たちは皆涙した。
父親の病気のことで何度も泣いて、今晴れて回復した父と腕を組む娘は輝くばかりの笑顔である。
娘を支え続けてくれた新郎も大きな笑みを浮かべて、娘の手を受け取る。
若いふたりは終始笑顔がいっぱいで、披露宴を行う予定のホテルから派遣されたプロのカメラマンに「今日は写真を撮るのがとても楽しかった」と言わしめたほどであった。

涙の出番の多かったお式とは正反対に、親しい人たちだけで集まった披露宴は、笑顔がはじけ、笑い声がうずまく楽しい楽しい宴となった。
十人ほどの来賓の中のおひとりであった彫刻家の方は、ちょうど数週間前に栄誉ある賞を受賞されたところで(受賞作モデルは娘であった)、来月天皇陛下から賞を授与されることとなり、陛下との会食の際に作品の説明をされるという。
また他のおひとりは、娘が務めた職場のボスの方で、ちょうど数日前に人事で教授にと内定されたところであった。
そして、夫の回復へのおめでとう!もあり。。。
思いがけなく、結婚のお祝いだけではなく、いろいろな種類の“おめでとう!”が一堂に飛び交う、幸せな場面となった。
去年の今頃には、一年後にこんな素晴らしい笑いのあふれる宴を催すことになるなんて、誰が想像出来ただろうか?

全てが終わって帰宅後、夫と私は厳粛なお式の感動、喜びに満ちあふれた披露宴、
若いふたりの輝く笑顔、新しい息子の頼もしかったお礼の挨拶・・等々を反芻した。
幸せな気分に包まれて、うれしい結婚式の一日が終わった。

ほんの一年前までは縁もゆかりもなかった若い青年が、今は私たち両親と同じくらいに娘を心から愛し、何よりも大切にしてくれている。
こんなうれしいことがあるだろうか。


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">「 春のKIKU の庭」  06/5/8


長い間「KIKUの庭」を更新できず、表紙の写真も冬のままであった。
あたふたと時を過ごしているうちに、我が庭はすっかり春仕様になっている。
数枚写真を並べて見ていただこうかと思う。
だがその前に“花つながり”で、花が大好きだった友について少し書いてみたい。

私の周囲の人々の中で最も花を愛したのは、親友のひとりであり世界的に著名な社会学者であった故タマラ・ハレブンさんである。
彼女は数度にわたって京都を訪れたが、どの滞在期間中でも、
花が美しいとされる庭、寺、神社、通りの名を聞くと、多忙の中をなんとか花を見ようと足を運んだ。
お目当ての花がまだ最高の盛りではないと知ると、数日ずらしてまた見に出かけた。
平安神宮の神苑には、かきつばた、あやめ、花菖蒲をそれぞれの一番美しい時に見たいと、短期間に3回も行って私を驚かせた。
彼女は急逝した2002年の春、“第二の故郷”である京都にまるで別れを告げるかのようにやって来て3ヶ月滞在したが、
なつかしい人々との再会を喜んだと同じぐらい、京の花々との出会いを慈しんだ。

花を愛した彼女は、しおれた花を見るのが嫌いだった。
レストランのテーブルの上の小さな花瓶の中で花がしおれていると、
必ずウェイターを手招きして呼び、にっこりしながら、「花がしおれているぐらいなら、無いほうがましですね」と言った。
京都滞在中に誕生日を迎えた彼女に、私が大きな花束を抱えてホテルを訪ね「おめでとう」と手渡すと、
彼女はさっと目をうるませ、突然私の首をかき抱き、Oh, Kiku, Thank you! Thank you! They are gorgeous!と耳元で何度も言った。
あまりの反応に私はめんくらったものである。

彼女がこんなに花が好きなのは、多分お母さまの影響であろう。
ある日、彼女がくすっと小さく笑いながらなつかしそうに「きく、母にね、こんなことがあったのよ」と、
話してくれたエピソードがある。

彼女達はルーマニアに住んでいたユダヤ人であったが、そのルーマニアは第二次世界大戦時にナチスドイツに占領された。
あるとき、突然ナチスの兵士がふたり彼女の家にやってきた。
お母さまはあわてて幼い一人娘のタマラに、急いで二階の小部屋に行って身を潜めるように言い、自分は隠し持っていた銃を後ろ手に毅然として応対した。
ふたりの兵士は何らかの用事を済ませ、その時はすぐに帰って行き事なきを得たのだが、
お母さまは二階に興奮と緊張を顔に残したまま上ってきて、
「ああ、いい気味!今朝私、花瓶の水を換えようと思っていたのに時間が無かったので、まだしていなかったの。
花瓶の水は少し臭い始めていたし花もうなだれていた。あのふたりに一番きれいな時の花を見せてやらずに済んだのよ!本当にいい気味!」
と胸を張ったという。
嫌な思い出の筈なのに、タマラの顔にも声にもお母さまをなつかしむ笑みが浮かんでいた。
(このエピソードの後すぐに、タマラたちは忌まわしいユダヤ人収容所に収容され、彼女は4歳から8歳までの4年間をそこに住むことになる) 
あさって5月10日は今は亡き彼女の誕生日。生きていてくれたら、抱えきれないほどの花束を贈ったのに、としみじみ思う。

美しい花を見るとどこにいても必ずタマラを思い出すが、今回ささやかな我が庭で写真を撮っていた時も、
4年前ここにたたずんで目を細めて花を見ていた彼女の姿を何度も想った。




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