赤い傘と一杯の珈琲とちょっと一息

なんとなく考えたことを書き留めていきます。

証明すること

2020-01-28 | 映画
映画で考えたことも少し書き留めておきたい。名付けて、振り子式映画館走(走る振り子式映画館の感想ということで)。
振り子式映画館走の1本目は、「肯定と否定」という作品。公開当初から見たいと思っていて、そう思っているうちに公開期間が終わってしまって1年後に見れた映画、それが「肯定と否定」。原題は単純に「Denial」となっている。1994年に起こったホロコーストを研究するアメリカ人歴史学者のリップシュタットと否定論者のアーヴィングとの裁判を描いた作品。これが90年代の事件なのか、というのを改めて思うと、今の世界的な右傾化、右派ポピュリズムの台頭のはじまりのまさに象徴的な出来事であったのかもしれない。
「真実」というものは何か、考えさせられる。細かな事実の蓄積と、それらの細かな破片の繋ぎ合わせによって歴史は作られ、歴史家たちによってさらに精緻なものへと作り直され、作り重ねられてきている。そんな歴史家たちの緻密で誠実な作業の尊さを感じる。それがまさに専門性なのだろう。しかし、その作業は論理的でありながら、専門化され過ぎているがゆえの弱点ももっている。1つの事実でもって否定することは簡単で、その「否定」はとても大きな「印象」を残す。その「印象」と信じたい物語でもって、多くの人を圧倒するというのがアーヴィングの技であった。
昨年の秋、友人と「主戦場」を見に行ったことを思い出す。問題の構造はそっくりだ。
偉い人、権威ある人が言うんだから間違いない、と考えてしまうことも多い。でも、自分の頭で考え、観察と裏づけの積み重ねを怠らないこと。そんな態度がやはり必要なのだと思う。
否定と肯定(予告編)
映画『主戦場』予告編
コメント

最後の生産者

2020-01-24 | 食べること飲むこと
漬け物って昔はそんなに魅力を感じなかったのだけれど、最近とても魅力的だと思うようになった。スーパーで漬け物コーナーに近づくとつい、口の中に唾が出てきたりする。城下町などにある漬け物専門店を見つけると、かなりテンションがあがる。
名古屋駅に行くと必ず立ち寄る漬物屋さん。そこで発見したのが「白髪きりぼし」という切り干し大根だ。これを買うようになってもう5年くらいになると思う。「白髪きりぼし」は、守口漬けにするような細長い大根1本を丸々割いて干している。白髪という名前だけあり、とても細長く、色も白っぽい。さっと水洗いするだけで生で食べる切り干し大根だ。さっと水洗いして、千切りにした人参やきゅうりとあえて、ドレッシングをかけて食べると、歯応えと大根の甘みが絶妙。はじめて買った時からすっかりリピーターになった。冬の一番涼しい時期のみ生産・販売しているので、毎年年末に、一度贈ったら同じくリピーターになった地元の親戚(料理のお師匠と勝手に思っている叔母)の分と合わせて購入した。
昨年は年末に買いに行ったときにはすでに完売。さらに、お店のオーナー曰く「この切り干し大根は、もう生産者が1軒しか残っていないので、いつまで食べられるかわからない」とのこと。こんなに美味しいのに、それを継承する人がいないのか、それだけ手間がかかるのか…。確かに、1つ1500円と切り干し大根にしては高級で、それをわざわざ買おうとする人も少ないのかもしれない。それでも最後の1軒が生産を続けている間は、また美味しくいただきたいと思う。
細く長くの裏にある努力を想像すると、より格別な味になる。

コメント (1)

振り子式車両の功罪

2020-01-21 | 映画
松本と名古屋を行き来する特急しなのは、振り子式車両が使われている。山の合間を走っていく電車が、スピードを落とさずにスムーズにカーブを曲がり、安定的な走りができるための仕組み、とのこと。しかし、この振り子式車両は、車体が左右に大きく揺れるため、酔うことでも有名。電車の揺れで読書ができないし、2時間ちょっとの時間がもったいないなあと感じていた。
そこで思いついたのが映画を見ること。タブレットを席のテーブルに立てかけて置いて、予めダウンロードした映画を再生。ちょうど1本の映画が終わる頃には目的地に着くという。
早速やってみたところ、少し酔ってしまうけど、映画に集中していれば酔いもひどくならないし、悪くはないかも。映画を見る時間を確保できないでいたということもあり、大事な時間になりつつある。
2019年末から最近まで見た映画を忘備録として記録。
・あん
・怒り
・肯定と否定(Denial)
・ワンダー 君は太陽(wonder)
・ニコラス・ウィントンと669人の子どもたち
・サーミの血
・スターウォーズ エピソード9 ※映画館にて
コメント

年初め

2020-01-06 | 言葉にする
結婚後はじめての年末年始。パートナーの実家と私の実家をそれぞれまわりつつ、あっという間に過ぎてしまった。一年の計は元旦にあり、と言うらしいけれど、そんな時間もとれないままに仕事初めとなってしまった。
実家でのお正月は、いつものように母の実家への挨拶に行く元旦、2日は父の親戚が挨拶にやってくるためその準備やおもてなしをするという2日間だった。でも、いつもと違うのはパートナーがそれに参加したこと。パートナーにとっては初めて会う親戚も多く大変疲れただろうけれど、そんなことは一切言わず、ありがたい。逆に、我が家のように、男が座って食事をし、女が忙しく動き続けるのがすごく居心地が悪かったようで、お茶をいれたり、料理の仕上げを手伝ってくれたりとても助かった。
鏡開きとなる11日、近所の神社へ初詣に。願い事なんだろう。そう最初は思ったけれど、気付いたらたくさんの願い事が頭の中をよぎって、最終的に何にしようか決められなくなった。気づいたら、隣の人は入れ替わり、列の次の人になっていた。自分が思っている以上に、願いが多いこと、そして、どこかでたくさん願ってはいけない、と思っていることに気づいた瞬間だった。
コメント