吉野弘の「生命は」という詩がある。その詩は「生命は 自分自身だけでは完結できないように つくられているらしい」という一節からはじめる。はじめてその詩を読んだとき、すーっと何かが染み込んでいくような気持ちになったのを覚えている。そしてその詩は次の一節でおわる。
「生命は その中に欠如を抱き それを他者から満たしてもらうのだ」と。
私は人は生まれてから死ぬまでずっと「発達」し続けていると思う。どんな営為のなかにも個人の発達が必ず含まれる。その「発達」とは何なのだろうか。「発達」というと、何かが出来るようになったとか、前と何かが変わったとか、何かに向かって努力をしているとか、そんなことが思い浮かぶ。それは往々にして動的なものと捉えられがちだ。でも、静的なものもあっていいのではないだろうか、と思う。
人間は誰しも欠点がある。それを努力によって克服できた人は大した人だと思う。でも、欠点は必ずしも克服できるものでもない。ましてや欠点のない人なんていないのではないか。だから、欠点が克服できないからといって、努力していない、成長していない、と切り捨てるのは如何なものか。例えば、自分を知ること、自分と他者の関係を知ること。それは、欠点を自覚すること、欠点を他者に満たしてもらっていることを感じることでもある。そんなことも立派な「発達」だと思う。
「生命は その中に欠如を抱き それを他者から満たしてもらうのだ」と。
私は人は生まれてから死ぬまでずっと「発達」し続けていると思う。どんな営為のなかにも個人の発達が必ず含まれる。その「発達」とは何なのだろうか。「発達」というと、何かが出来るようになったとか、前と何かが変わったとか、何かに向かって努力をしているとか、そんなことが思い浮かぶ。それは往々にして動的なものと捉えられがちだ。でも、静的なものもあっていいのではないだろうか、と思う。
人間は誰しも欠点がある。それを努力によって克服できた人は大した人だと思う。でも、欠点は必ずしも克服できるものでもない。ましてや欠点のない人なんていないのではないか。だから、欠点が克服できないからといって、努力していない、成長していない、と切り捨てるのは如何なものか。例えば、自分を知ること、自分と他者の関係を知ること。それは、欠点を自覚すること、欠点を他者に満たしてもらっていることを感じることでもある。そんなことも立派な「発達」だと思う。