世相を斬る あいば達也

民主主義や資本主義及びグローバル経済や金融資本主義の異様さについて
定常で質実な国家像を考える

●脱原発派分裂、争点隠し、大雪が問題ではない 日本の歴史のとらえ方に課題あり

2014年02月10日 | 日記
転換期の日本へ―「パックス・アメリカーナ」か「パックス・アジア」か (NHK出版新書 423)
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●脱原発派分裂、争点隠し、大雪が問題ではない 日本の歴史のとらえ方に課題あり

 マスメディアの総シカトで、組織票ゼロの細川がどこまで伸びるか、国民の政治への意識レベルを知る上でも興味深い都知事選であった。マスメディアの思惑通りと云うか、政治家と官僚による統制圧力の影響をすり抜け、細川・小泉の掲げる「脱原発」を通して語る自由社会主義な政治哲学が、どれほど国民に理解できるものかのマーケッティングには最適な選挙になるはずだった。しかし、前日の信じられない大雪が、その興味深いマーケッティングに水を差してくれた。状況把握と云う点で、テスト・マーケッテイングの域を出ないものになった点は残念だ。

 舛添:211万、 宇都宮:98万、 細川:95万、 田母神:61万票と云う票数を見比べても、マスメディアやコメンテータらが口々に語る、舛添勝利の分析など、屁の役にも立たないことは自明である。46,14%の投票率では、参考程度の資料にしかならない。しかし、組織票による投票行動とは別に、いまだに60代以上の層に、再配分を求める癖が元気に生きている点には驚かされる。最も再配分の恩恵を受け続けている人々が、更に厚みのある配分を希求している“浅ましい姿”が浮き彫りになったことは、衝撃的だ。

 高齢者とは、どこまで欲が深いのだろうか(笑)。高利回りを謳う詐欺商法に騙される人々が多いことからも、奇妙な現象だなと思っていたが、呆れてモノも言えない。何時から、日本人はこんなにも醜い人々になったのだろう。到底、自立と共生だとか、「自由社会主義」なんて新しい政治哲学など、話す必要もないし、話しても無意味なことだろう。少なくとも、70代以上が世直しには役立たずと云う調査は出来た。20代、30代において田母神支持がかなり存在する問題は深刻だろう。投票に行った、これら世代の人々には配分云々よりも、取りあえず世の中が滅茶苦茶になって、リセットしてしまいたい感情が勝っているのだろう。

 「永遠のゼロ」の映画や本を素晴らしかった、と感動する世代の怖さがある。ただ、彼らに、何一つ真っ当な歴史も、社会の仕組みも教えようとしなかった大人世代に罪があるのだろうが、LINE世代、アニメ世代、AKB世代に語る言葉を探すことも容易ではなかったのだろう。なにせ、若者の中には「えっ!日本とアメリカ戦争したの?」と云う人種さえいるのだから。自分たちは、逃げ切り世代に居るのだから、気の毒世代と云う妙な遠慮が、彼らに、歪んだ欲求を持たせてしまったかもしれない。永遠の零と云う題名、実は彼ら世代の社会を指摘しているような気にもなってしまう。しかし、ゼロでは済まず、マイナスも視野に入れるべき、これからの日本。理想(目的)をもって、破壊に勤しんで欲しいものだ。

 そのためには、時代感覚をどれ程磨くかだが、今の日本には、磨ける場所がない。マスメディアが世界の個別の紛争は伝えるが、世界全体が、どのような気づきを持って、どのような考えの人々が増えてきているとか、総体的思考のプロセスを報じることは滅多にない。また、報じたとしても、世界観、時代観といったものに、興味がない限り、その報道や言説を見聞きすることはなく、知識人の思考ゲームの範囲にとどまってしまう。マスメディアやテレビのコメンテータは、今回も争点隠しが功を奏したとか、安倍への支持率が、そのまま都知事選に持ち込まれた等々と語り、都民にとって、原発問題は喫緊の課題ではなかったという。

 今回の細川・小泉ラインの「脱原発」の主張は、シングル・イシューのような形を採るが、決してシングルな課題を解決する問題ではない、と云う改革案であったことに気づく人々は少なかった。当初より、都民に対しては、かなり高度な咀嚼力を要求するテーマの設定だ、と云う危惧は現実になった。説明しようとすれば哲学論争に至るわけで、その論議に加われる人は、かなり限られてしまう欠点を持っていた。「脱原発」が、実は日本を覆い尽くす「既得権益」全体の破壊と云う目的を包含していたのだが、それを指摘する記者もいなかったし、総括的に噛み砕いて説明する解説もなかった。噛み砕いたのは、宮台真司くらいだろう。

 脱原発候補が割れた所為とか、メディアの争点隠しが功を奏したとか、細川陣営の内紛が原因だとか、色々と取りざたされるが、細川と宇都宮では、政治哲学がまったく異なるのだから、統一を目指すこと自体がナンセンスでもあった。錚々たる顔ぶれに人々も、「脱原発」と云うシングル・イシューに拘泥し過ぎた嫌いがある。おそらく、彼らの「脱原発」意識が、非常に強いために起きた、視野狭窄と云う面も感じてしまう。細川・小泉ラインの主張には、明らかにパラダイム・シフトと云う、哲学論争的な部分があるので、具体的問題への対応を考える宇都宮とは異なる社会的ムーブメントである。

 ただ、細川・小泉ラインが考えている方向性が、実はある時点まで同じ列車に乗れるが、或る分岐点があるのも事実だろうから、解説は相当難しい。筆者の考えは、その多くを細川の考えに賛同する。小泉の「脱原発」には、規制改革の意図の方が強く意識されているようにも思えた。細川が主張している、価値観のチェンジ、腹七分目の生きざま。この方向性の糸口を見出すためには、「脱原発」が象徴的位置にある、と考えたわけである。原発の是非を通じて、日本人の生き方そのものに問いかけ、その問題解決を共同して考えないと、先に展望はないと言っている。

 右翼の考える改革は戦前への回帰であり、左翼の改革は大きな政府への憧れであり、たいして大きな改革にはなり得ないのは自明。小さな政府と大きな包摂的共同体社会の国づくり。このイメージで成立している政党は、現時点で甘い点数で見ても、「生活の党」くらいのもので、他は、この方向性に馴染まない政党ばかりである。“大きな政府・小さな政府”と外交的に“タカ派・ハト派”で類別すると、「小さな政府でハト派路線」の政党が、日本の政治の中では、ぽっかりと穴が開いている。英国、ブレア、キャメロン政権が立つ位置に近い。精々「生活の党」が入るのだろうが、小沢一郎や所属議員の説明も不十分で、政党の体質としても、政治哲学としても理解されるに至ってはいない。

 日本の政治史において、明治維新が、近代、民主主義の始まりのように思う歴史観があるわけだが、そのことにより、縄文から江戸まで続いた、日本独特の政治と共同体の棲み分けと云う文化そのものが放棄断絶させられた、歴史的重要さに目が向かない点が不幸なのである。紀元前の縄文時代から、弥生、飛鳥、奈良、平安、鎌倉……江戸時代までの、1万2千年以上続いてきた文化を、たかだか200年程度の歴史内に封じ込め、国のかたちを考えること自体、筆者から見ると、ナンセンスなのである。歴史を逆走する必要はないが、欧米人が彼らの歴史の中で培った、文化と云う内臓を、日本と云う国に移植したのだから、移植免疫(拒絶反応)が起きるのは当然なのだ。日本人がそこに気づき、考えがパラダイム・シフトするのはいつのことか、筆者にも見当がつかない。

縄文の思考 (ちくま新書)
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筑摩書房


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