世相を斬る あいば達也

民主主義や資本主義及びグローバル経済や金融資本主義の異様さについて
定常で質実な国家像を考える

●日本の美しい面にも目を向けてみる 両陛下と元気な熟年の姿

2016年09月23日 | 日記
天皇畏るべし 日本の夜明け、天皇は神であった
小室 直樹
ビジネス社


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●日本の美しい面にも目を向けてみる 両陛下と元気な熟年の姿

 筆者のコラムの多くは、日本の、世界の影の部分に焦点を合わせることが多い。自分でも、ネガティブなコラムニストだと思う時がある。特に、明治維新以降の日本社会への目線は皮肉に満ちており、“日本大好き”な人々から見れば、不快なコラムになることが多い。しかし、お隣の国のように、ピント外れな“オラがお国自慢”を見聞きする時、“情けないな~”と思うように、日本人が、“こんなに日本は優れている”と、世界の人々に吹聴する姿も“情けない~”と感じるのは、筆者の斜に構えた人間性の問題だ。最近では、日本賛美の書籍が本屋で平積みになっていることも多いが、手に取り、購入している姿を滅多に目にしないのは、或る意味で救いだ。

 『ジャパン・アズ・ナンバーワン』が売れていた時代は、それなりに日本も頑張っていたわけなので、名実ともにと評価出来る面もあった。Wikipediaは以下ように解説している。解説を読んでいて気づくことだが、現在に日本社会とは隔世の日本観が書かれている点は注目だ。まず一番目立った点が、学習への意欲と読書意欲だ。今や、活字離れはアメリカを凌いでいるだろう。日本的経営(終身雇用型経営、大家族観に基づく経営、目先の利益より長期ビジョン等々)。それと、通産省(現経産省)と大蔵省(現財務省)の官僚の質が驚くほど低下したことである。上記すべてが、今の日本社会から欠落したのだから、大学ランキングで、東大が中韓シンガポールなどの大学の後塵に帰すのも肯ける。

≪『ジャパン・アズ・ナンバーワン』(原題:Japan as Number One: Lessons for America)は、
社会学者エズラ・ヴォーゲルによる1979年の著書。戦後の日本経済の高度経済成長の要因を分析し、日本的経営を高く評価している。日本語版は、広中和歌子・木本彰子の訳により『ジャパン アズ ナンバーワン: アメリカへの教訓』として、TBSブリタニカから英語版より1ヶ月遅れで出版された。日本人が日本特有の経済・社会制度を再評価するきっかけのひとつとなり、70万部を超えるベストセラーとなるなど、一世を風靡した。現在でも、日本経済の黄金期(1980年代の安定成長期、ハイテク景気〜バブル景気)を象徴的に表す語としてしばしば用いられる。この著作の主要なテーマは、単に日本人の特性を美化するにとどまらず、何を学ぶべきで、何を学ぶべきでないかを明瞭に示唆した点である。実際最後の章はアメリカへのレッスンと書かれている。具体的には、まず日本の高い経済成長の基盤になったのは、日本人の学習への意欲と読書習慣であるとしている。ヴォーゲルによれば、この当時の日本人の数学力はイスラエルに次ぎ2位で、情報については7位だが、他の科学分野についても2位から3位であるという。ヴォーゲルは日本人の1日の読書時間の合計が米国人の2倍に当たることや、新聞の発行部数の多さなどにより日本人の学習への意欲と読書習慣を例証している。また、ヴォーゲルは、この本が出た当時、日本人は他の国の人たちより英語力は明らかに劣っているが今はまだそれは大きな問題ではない、優秀な通商産業省や大蔵省主導の経済への強烈な関与がまた日本の競争力を高めていると語っている。2016年に入ってから、中国でも注目され、翻訳されて発売されているという(題名は『日本第一』)。 ≫(Wikipedia抜粋)


 このままの調子で書きつのれば、いつもと変わらぬコラムの風景になってしまうが、今夜は違う(笑)。あぁ、日本にも、まだまだ、世界に誇れる「美しい日本」があると気づく、二つの記事が、朝日新聞に掲載されていた。天皇皇后両陛下の“被災地訪問の旅”は、敬愛の念と“国民と寄り添う”両陛下の理念と云うか、心構えには、深く頭が下がると同時に、日本人が世界に自慢できる“象徴天皇”なのだと確信できる。

 次の自慢しておきたい記事は、実際問題、相当複雑な最近の日本社会を象徴しているのだが、元気な中高年が、一億総活躍などと、わけのわからぬ音頭取り等とは無関係に、声が掛かる前から、自主的に、或いは致し方なく、既に働くことを選択している現状を伝えている。運よく60歳で満期定年になっても、僅かな年金が貰えるのは65歳。それも、年々減らされる。政府と日銀は、インフレにするぞと、出鱈目政策に奔走している。「こりゃ駄目だ!自助努力以外にネエズラ!」オジサンオバサン、爺さん婆さん、根性あるねと云う話題だ。たぶん、紹介されている人々の存在も、世界に自慢できる、そんな気がした。


≪ 両陛下、異例4泊の被災地訪問へ 走行距離300キロ超
 天皇、皇后両陛下は28日から4泊5日で岩手県を訪れる。生前退位の意向をにじませた天皇陛下のお気持ち表明後、初の東日本大震災の被災地訪問となる。地方へは2泊3日での訪問が大半だが、両陛下の強い希望もあり、長い日程となった。津波で大きな被害を受けた大槌町には、特別な思いで両陛下を待つ人がいる。
 宮内庁によると、両陛下は28日に特別機で花巻空港に到着後、遠野市、釜石市と移動する。29日は被害の大きかった大槌町と山田町を震災後初めて訪れ、復興状況を視察。30日に内陸に戻り、10月1日に北上市で開かれる国体の開会式に出席する予定だ。
 県内の移動はすべて車。走行距離は300キロメートル超に及ぶ=表。
 80歳を超える両陛下にとって過酷にもみえる行程だが、両陛下は震災直後から、被災地に強く思いを寄せてきた。天皇陛下は8月のお気持ち表明で も、天皇の務めについて「時として人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うことも大切なことと考えて来ました」と述べていた。

■ハマギクがつなぐ陛下との縁
 大槌町では、両陛下は千代川茂さんが経営する浪板海岸のホテルに泊まる。実は両陛下は19年前の来訪時にも、千代川さんのホテルに泊まった。だが当時、案内役を務めた千代川さんの兄・山崎龍太郎さん(震災当時64)は5年半前の津波で流され、行方不明のままだ。
 震災前、浪板海岸は砂浜と松林が美しい三陸有数の景勝地だった。
 1997年10月、天皇陛下はホテルの客室から岩場のハマギクに目を留め、「あの花は何ですか」と千代川さんに尋ねた。翌朝、両陛下は専務だった山崎さんを連れて砂浜を散策し、近くでめでたという。  山崎さんは後日、来訪の記念として皇居にハマギクの種を贈った。
 2011年3月11日。鉄筋コンクリート6階建てのホテルは、3階まで津波にのまれた。千代川さんは九死に一生を得たが、山崎さんや従業員は流され、ホテルは休止に追い込まれた。
 その年の10月。失意の中にあった千代川さんは、皇后さまの77歳の誕生日にあたって宮内庁が公開した写真を見て驚いた。お住まいの御所の車寄せの近くに、山崎さんが種を贈ったハマギクが咲いていた。
 宮内庁によると、当時侍従職から種を預かった庭園課員が植えたものだった。
 ハマギクの花言葉は「逆境に立ち向かう」。千代川さんは、両陛下からの激励のメッセージと受け止めた。背中を押されるように13年8月、ホテルを再開した。復興の象徴にと、ホテルの名は「三陸花ホテルはまぎく」とした。
 かつて両陛下が眺めた海岸のハマギクは津波で面積が半減し、砂浜も地盤沈下して散策できなくなった。それでも、今年もかれんな白い花がちらほら咲き始めている。
 千代川さんは「被災地に思いを寄せ続けてくださる両陛下に感謝申し上げたい。兄はおりませんが、あの花は19年前の朝と同様、津波に負けずに咲いていますとお伝えしたい」と話している。
 ≫(朝日新聞デジタル:多田晃子、星乃勇介)


≪ 高齢ホームヘルパー、なぜ急増? 60歳以上が36%
 在宅の高齢者の暮らしを支えるホームヘルパーが、高齢化している。古希を超えるヘルパーも珍しくない。高齢者を元気な高齢者が支える時代になっている。
 ホームヘルパーのうち60歳以上の人は36%で、15%だった10年前の倍以上――。公益財団法人「介護労働安定センター」(東京)は8月、こんな昨年度の調査結果を出した。抽出した全国の介護保険サービス事業所に聞き、ヘルパー約1万4千人について回答を得た。50歳以上が6割を占めていた。
 70代のヘルパーも珍しくない。大都市圏でサービスを展開する「ケア21」(大阪市)によると、5月に働いた登録型ヘルパー約2100人のうち、70歳以上は126人。最高齢は女性が86歳、男性が80歳だった。
 なぜ高齢ヘルパーが多くなっているのか。多くの訪問介護事業所が挙げるのは、募集しても若い人が来ないことだ。介護保険が始まったのが2000年。そのころにヘルパーになった人がそのまま仕事を続け、年齢を重ねている。一方で介護の仕事を志す若者は訪問ではなくフルタイム勤務の介護施設に流れ、「下の補充がない」状況だという。
 ヘルパーの働き方が、高齢者に向いているという指摘もある。
 早朝や夜間、週末や祝日の勤務は通常は敬遠されがちだが、高齢者は家庭の事情で制約されない人が多い。一日に長時間働くのは体力的に厳しくても、 短時間ずつなら働きやすい。もちろん、事業所が体調に配慮することは不可欠だ。また、利用者と相談しながら適切に調理や洗濯などをするには、人生経験が役立つ部分も大きい。特に明確な「定年」があるわけでもない。
 国は2020年代初頭に、施設勤務も含めた介護職が約25万人不足すると推計している。加えて、要介護より軽い要支援者を支える多様なサービスが 生まれており、その提供者の育成も急がれている。ヘルパー経験もある城西国際大の松下やえ子客員教授は「元気な高齢者が地域を支える担い手として活躍していく時代だ。経験を積んだ熟年ヘルパーは今後、地域住民に対人援助の魅力と専門性を伝える役割も担ってほしい」と話す。

 ■79歳ヘルパー「人生の勉強に」
 朝10時。大阪市の住宅街の狭い路地に、ヘルパーの藤井民子さん(79)が自転車に乗ってさっそうと現れた。訪問先の家の郵便受けをのぞき、チャイムを鳴らす。
 「おはようさーん、新聞取ってきましたよー」
 その声で、居間のベッドで横になっていた女性が「もうそんな時間」と言いながら体を起こした。藤井さんと3歳差の82歳。一人暮らしで、認知症だ。生活は毎日やってくるヘルパーに支えられている。藤井さんは週3日を担当し、もう3年のつきあいになる。
 女性は貴重品をしまった場所をよく忘れる。この日は財布。藤井さんは女性と一緒に布団の下などを捜しつつ、朝食を準備し服薬を促し、ベッド周りを片付けた。「あっ、出てきた」
 藤井さんは専業主婦だった42歳の時に夫を亡くし、子ども2人を育てるため、高齢者を世話する仕事を始めた。65歳で退職したが、立ち寄った訪問介護事業所で「遊んでたらあかん」とスカウトされた。いまは週5日働き、10人ほどを受け持つ。多くは一人暮らしだ。
 「人生の勉強をさせてもらっている。このまま元気ならあと2年は働きたい」。元気のひけつはよく寝てよく動き、食べること。焼き肉が好きで、一人暮らしの自宅で友人とマージャンを楽しむ。夢はヨーロッパ旅行だ。
 千葉県習志野市の山岸操(みさお)さん(79)は、6月から新しい訪問介護事業所で働き始めた。  塾を営んでいたが、60歳を目前にして「自分が元気でいるためにも介護の勉強をしよう」と思い立った。高齢者施設で3年働いた後、介護福祉士の国家資格を取得。事業所を渡り歩き、現場の責任者としてサービスの差配や後輩の指導も担ってきた。3月まで働いた所では夜勤もこなした。
 高齢ヘルパーがこなす仕事は、比較的力を使わずに済む家事の支援が中心だ。だが山岸さんは、寝たきりの人の体を拭いたり、入浴介助やオムツを替えたりと身体介護が多い。経験と技術がいきているとはいえ体力が必要だ。実はジムに9年通い、太ももと腕の筋力を鍛えている。
 直属の上司は最初、「無理のない範囲で」と思っていたが、人手不足もあり頼むことが増えたという。「『私、やりますよ』という感じで何でもしてくれ、助かっています」
 山岸さんに自身が高齢である利点を尋ねると、「相手の気持ちがよくわかること」。戦後の暮らし、老いていく体……。同時代を生きる者として共感し、耳を傾ける。
 朝起きると、「今日も仕事だ」とウキウキするという。「あてにされるのが、ありがたい」(十河朋子)    
  ◇  
〈ホームヘルパー(訪問介護員)〉 介護が必要な高齢者らの住まいを訪ね、主に調理、洗濯、掃除などの生活援助や、入浴、排泄(はいせつ)などの身体介護にあたる。介護福祉士や、介護職員初任者研修などを修了した人が務める。厚生労働省の調査では、把握できた限りで昨年は全国に約44万人おり、増加傾向だ。登録した事業所からの依頼を受けて時間給で働く非常勤のヘルパーが多い。
 ≫(朝日新聞デジタル)

日本で老いて死ぬということ―2025年、老人「医療・介護」崩壊で何が起こるか
朝日新聞 迫る2025ショック取材班
朝日新聞出版


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