アグリコ日記

岩手の山里で自給自足的な暮らしをしています。

ゴミの行方

2024-03-20 09:01:09 | 思い
私の家の隣りは少し高台になっていて、家が一軒ある。そこは地形上風当たりが強くて、風が吹くとよくうちの畑や山の中にそこから物が飛ばされてきた。みな、その家から飛んで出たものだということは明らかだった。他に該当するような家が無いのである。その家には70代になる老夫婦が二人住んでいた。
そこで私は越してきてしばらくの間は、それらの物を拾い集めてはまとめてその家との境の畑の脇に置いておいた。たぶん飛ばされてしまったのだろう。目が行き届かないに違いない。そのほとんどはくたびれたトロ箱や空の肥料袋のような、まったくゴミと呼ぶしかないものだったが、しかしその家の人もこういうものを環境中に散らかしていい気持ちはしないだろう。その拾い集めを代わりにしてあげているつもりだった。
しかし集めて置かれたそれらの物は、ほとんどの場合そのまま手付かずにされ、中には使えそうなもので時々持ち去られるものもあったが、そのまま何日か経つうちに風が吹いてはまたどこかへ飛ばされていった。その家の人の目につかないはずはない場所なのだ。私は不思議に思った。
ある日のこと、私の畑の真ん中に魚の生ごみの入ったポリの買い物袋が落ちていた。その家との境にある畑である。不思議なことだと思った。誰もこんなところにこんなものを捨てに来るはずがない。もしかしたらカラスでも咥えて飛んで来て、落としてしまったのだろうか。理解に苦しみながらも、そのまま畑仕事をしていたら、隣りからおじいさんが出てきた。そして言うには、悪ぃ悪ぃ、手元が狂った。そしてひょいとそれを拾い上げて、手でぶんぶん回してポーンと向こうの山に放り投げた。
驚いた。その山はまた他の家の山である。どうしてそんなことをするのかと問うと、こうしておけばカラスが食べるんだ。跡形もなくなる。いつもはその家の高台から向こうの山に向けて放っているのだが、今回は勢い不足でその中間にある私の畑の中に落ちてしまったのだということだった。
後でその出来事を、その家とは別方向の隣家のおじいさんに話してみたところ、実はその家は昔からごみを山に捨ててきたそうである。家庭ごみやらなにやらを集めておいて、まとめて山の中の廃屋となった家の庭などに捨てに行っていたそうである。そういえば、うちの裏山を歩くとなぜかそこここにビニールの切れ端などが散らばっている。
そのようにして大体の事情がわかった。つまりその家では、不要になったもので風に飛びそうなものを、わざと風の通り道に放置しておくのである。そうでないものは他の人の地所である裏山に捨てる。または隣接する他人の地所で燃やす(けっして自分の敷地では燃やさない)。それがその家のゴミの処分法だった。そういえばその家がゴミ出ししたのを見たことがない。そう近所の人も言っていた。ごみ集積所はそんなに離れたところにあるわけではないのに。
実は私の畑は、それまで彼らの格好のごみ処分地になっていて、同時に裏山に捨てに行く通り道にもなっていた。私が来てからは年に何度も草刈りをし、その都度刈草もきれいに集めていたのだが、なぜかすぐに枝や木材の切れ端が散乱していたのはこういうわけだった。彼らは不要なものを上から次々と投げ落としていた。現行犯にならなければなにをしてもいいという料簡だった。これでは堪らない。何度か悶着があって、でも埒が明かず、最後には境にバラ線を張った柵を作ってやっと解決を見た(結局のところ、そこまでするしかなかった)。
かの逆隣りのおじいさんに聞くと、実は私の家にもと住んでいた人たちも、やはりゴミを平気で山に埋めたり畑で燃やしたりしていたそうである。確かに、当該の畑からは耕すたびに夥しいビニールやプラスチックの燃え残りが出てきた。ゴミ捨て場の跡地を買ったようなものだ。私は正直げんなりしたが、でも毎年毎年、目についたゴミを丹念に拾い集めては処分していき、あれから22年経った今ではもうかなりきれいになっている。
しかし世の中には信じられないような考えの人がいるのだなと思った。もちろん田舎の人がみなそういうわけではない。中にはちゃんとした人もいる。というかあそこまでの人はたぶん珍しいだろう。それもこれも含めて私の「縁」だったのだ。いきなり人や山や地球についてたくさんのことを学べる環境に私はいたのだ。なにげなくゴミを捨てることがいったいどういうことなのか、どのような結果を招くのかを、今の私は痛切に知っている。

ここでこれらのことを「エネルギー」という観点から見てみよう。まずはわかりやすく私たちのいる「第三密度」の視点から。ここで自分にとって邪魔なものを人に押し付ける、他の者はどうなってもいいと思うのは、典型的な自分さえ良ければいいという「エゴ」(ここでは本当の愛とはかけ離れたエネルギー)である。宇宙は「自ら発したものが還ってくる」という原理に沿って動くから、その人のもとには本質的に同じ「愛とはかけ離れたエネルギー」がやがて還ってくることになる。例え地球や山からではなくても、回りまわって他のところから。必ず。
次に同じことを少し視点を上げて、いわゆるハイヤーセルフのいる「第六密度」から見てみよう。そこの「すべてはひとつであり、繋がっている」という観点からは、ゴミを「他に押し付ける」という行為は、単に自分が自分に対してする行為となる。より正確に言えば「愛とは反対のエネルギー」を自分の中に生み出す、という創造行為である。そして「自分の内側にあるものを自分の外側に投影して世界を作っている」ので、そのエネルギーはそのまま自分の世界に付け加えられて、より愛の少ない世界ができることになる。ここではあくまで「自分」しかいない。自分の選択のとおりに世界ができているだけなのだ。だから誰も得していないし、誰かを損させることもできない。
つまりどちらの視点で見ても、ゴミ(この場合はゴミに象徴表現された愛とは反対のエネルギー)は、自分に付け加えられたことになるのだ。そしてその人は自分で発した「愛の無いエネルギー」を物質次元的に他の人や環境中から受け取ることになる。もしその人がそれに対して怒り、対抗して更に悪意を発し続けるならば、愛の割合は更に更に減少する。
思えば隣りの人たちは、このような悪循環の世界に陥ってしまっていたのかもしれない。これはある意味「地獄への渦巻き」とも言える。そういえばその夫婦は明るいように見えて近所でも有名な「意地悪じいさん/ばあさん」だった。人が見ていないところで汚いことはなんでもやるし信用もされていない。彼らには頼ったりしない方がいいよと忠告してくれる人もいた。そして私は隣りに住んでいたものだから、それを理解するのにさして時間がかからなかった。

長期的には確かにゴミを無くすこと、例えば江戸時代のように100%自然の中で循環させることが理想なのはわかる。しかし今の時点で私たちの日常生活からゴミを出さなくするということは非常に難しい。いきなり核廃棄物や埋め立て処分場のことを考えてしまえば気が遠くなってしまう。だから当面は、それを使わせてもらったことに感謝すること。そして自分にできる適切な(より愛の大きい)方法で処分することが大切だと思う。そうすることで自分の中に愛が蓄積されるし、身の回りの世界に愛のエネルギーを巡らせることができる。そうしながら、徐々に自分たちの生活スタイルを変えていくのが現実的だと思う。

時は流れあれから20年が過ぎ去った。その間に私は自分のネガティブ信念を外し続けた。一方その夫婦の方といえば、だいぶ前におじいさんは癌で亡くなり、おばあさんの方が今はひとりで暮らしているらしい。「らしい」なんて、隣りに住んでいるのにそんなこともわからないのか、と訊かれそうだが、しかしそうとしか言えない。不思議なことに、まったくと言っていいほど顔を合わせることがないのだ。ごくたまに、どこか遠い世界のように彼女の飼い猫を呼ぶ声が聞こえたりするが、ただそれだけ。たぶんお互いの波動がそれだけ離れてしまったのだと思う。もしかしたらもう会うことも無いのかもしれない。
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