
いろんな人がいろいろなBLOGの使い方をしてるのを見て思うんだけれど、
BLOGをまったくの楽しいコミュニケーションの場として使う人もいれば「創作発表の場」ということに比重を置いて使う人もいる。もちろんみんなそれ以外にもたくさんの動機でBLOGに取り組んでいる。そしてそれぞれなりに、人を寄せることが主眼になったり良い作品を書いてたくさんの人に読んでもらおうと思ったり、多くの関心ある情報を得ようとしたりする。
そしてどのような場合にも、BLOGならではの機能を通して他者から何らかのレスポンスを得られるということはとても大きい。
しかし例えば、アクセス数やコメントというのはいろいろな情報をもたらしてくれる半面、使い方によってはちょっとした落とし穴にもなり得る。例えば創作活動をする人にとっては捉え方を誤ると徒に迎合的な作品の乱発に陥る危険性を持っているし、自己表現をする場合ではとかく「大衆受けする面」だけを取り上げがちになる。何かの目的を持ってBLOGを使う場合には気をつけないといけない。
殊にに学校の偏差値指向からこの方なんでも数値に換算して比較する習性を身に付けてしまった現代日本人は、とかく「優劣を示唆するように見える数値」で表わされるものに弱い。教育の中で培われた持ち前の競争心が多分に刺激される結果となってしまう。
もちろんBLOGはコミュニケーション・ツールとして特化したような道具だから、完全に他者との交流を期待しないでBLOGをしている人はあまりいないだろう。多くの人は誰かと何らかのコンタクトをとろうとして使っているし、そして相手が人である限り、自分がどう思われているかが気になるのも当然のことではある。
私も去年の春にBLOGに出会って以来、この未知の道具はいったい何に利用できて自分にとってどんな使い方ができるかとずっと思ってきた。当初BLOGを始めた頃の思惑は使っているうちに二転三転した。アクセス数に一喜一憂した頃もあるし連日レスを書くのに忙しかったほどコメントがたくさん付いた頃もある。自分を素直に表わせたなと思う時もどうもこの頃世間に迎合した記事を書いているなと反省した時もある。創作発表をした時も、誰かに何らかのメッセージを伝えようとして用いた時もある。
今私はBLOGを「自分という存在の記録」のために使おうとしている。基本的に「日記」として、日々思うこと、出会うことを創作や思い出を含めてそのまま表わそうとしている。だからたまに成り行きで「これは素直な自分じゃないな」と思うような表現をしてしまった時には、後から気づいて書き直したりもする。例えそれがどんなに気の利いて素晴らしく見えるものであっても、自分でないものを日記に書く気にはなれない。
しかしもちろんそんな綺麗ごとだけではない。時々アクセス数を見て喜んだり、うぅんと唸ったりもするし、コメントがあまりに付かないと少しがっかりしたりもする。特にこの記事では自分を出せた!と思う時は尚更だ。ある面狭い意味での自己表現の手段としてBLOGを使っているのだから、それはなんだか自分が世間から関心を持たれないことを象徴しているように思えて少し哀しかったりする。
そしてある時、自分の心の動きを見ていると自分が本当はどんな思いでBLOGを使っているかがわかるような気がした。自分の意識上での思惑とは別に、BLOGに取り組む本当の自分の姿を知るためにいい分析材料を与えてくれてるように思った。
レスポンスが見えない分だけ寂しがってる自分がいるし、アクセス数の増減を気にする分だけみんなの輪の中に入りたいと思う自分がいる。嘘や虚飾を書かない分だけ正直に人と接しようとする自分がいるし、コメントで深い言葉を交わしたたったひとりの人に喜ぶ自分に、自分の本当に求めているものは何かを見ることができる。
そんな思いの割合に応じて自分はBLOGを使っているし、それに期待している。言い換えればそれは、さまざまな感情が自分の心を構成する、その割合でもあるかもしれない。
その意味でBLOGは人間関係の縮図とも言える。身の周りで人との関わりに求めていること、人間関係で自分が重きを置いていることの一端を、BLOGを見ながら少しだけ窺い知ることができるかもしれない。
例え醜くても意に沿わなくても自分のありのままの心をそのまま受け留める。素直に振る舞ってそれで足る。そんな人とのつき合いを、いつかしてみたい。
どんなに時間がかかっても、少しずつそんな状態になれればいいなと思う。
【写真はマスキー。生まれながらに哲学者的容貌を備えている。】
BLOGをまったくの楽しいコミュニケーションの場として使う人もいれば「創作発表の場」ということに比重を置いて使う人もいる。もちろんみんなそれ以外にもたくさんの動機でBLOGに取り組んでいる。そしてそれぞれなりに、人を寄せることが主眼になったり良い作品を書いてたくさんの人に読んでもらおうと思ったり、多くの関心ある情報を得ようとしたりする。
そしてどのような場合にも、BLOGならではの機能を通して他者から何らかのレスポンスを得られるということはとても大きい。
しかし例えば、アクセス数やコメントというのはいろいろな情報をもたらしてくれる半面、使い方によってはちょっとした落とし穴にもなり得る。例えば創作活動をする人にとっては捉え方を誤ると徒に迎合的な作品の乱発に陥る危険性を持っているし、自己表現をする場合ではとかく「大衆受けする面」だけを取り上げがちになる。何かの目的を持ってBLOGを使う場合には気をつけないといけない。
殊にに学校の偏差値指向からこの方なんでも数値に換算して比較する習性を身に付けてしまった現代日本人は、とかく「優劣を示唆するように見える数値」で表わされるものに弱い。教育の中で培われた持ち前の競争心が多分に刺激される結果となってしまう。
もちろんBLOGはコミュニケーション・ツールとして特化したような道具だから、完全に他者との交流を期待しないでBLOGをしている人はあまりいないだろう。多くの人は誰かと何らかのコンタクトをとろうとして使っているし、そして相手が人である限り、自分がどう思われているかが気になるのも当然のことではある。
私も去年の春にBLOGに出会って以来、この未知の道具はいったい何に利用できて自分にとってどんな使い方ができるかとずっと思ってきた。当初BLOGを始めた頃の思惑は使っているうちに二転三転した。アクセス数に一喜一憂した頃もあるし連日レスを書くのに忙しかったほどコメントがたくさん付いた頃もある。自分を素直に表わせたなと思う時もどうもこの頃世間に迎合した記事を書いているなと反省した時もある。創作発表をした時も、誰かに何らかのメッセージを伝えようとして用いた時もある。
今私はBLOGを「自分という存在の記録」のために使おうとしている。基本的に「日記」として、日々思うこと、出会うことを創作や思い出を含めてそのまま表わそうとしている。だからたまに成り行きで「これは素直な自分じゃないな」と思うような表現をしてしまった時には、後から気づいて書き直したりもする。例えそれがどんなに気の利いて素晴らしく見えるものであっても、自分でないものを日記に書く気にはなれない。
しかしもちろんそんな綺麗ごとだけではない。時々アクセス数を見て喜んだり、うぅんと唸ったりもするし、コメントがあまりに付かないと少しがっかりしたりもする。特にこの記事では自分を出せた!と思う時は尚更だ。ある面狭い意味での自己表現の手段としてBLOGを使っているのだから、それはなんだか自分が世間から関心を持たれないことを象徴しているように思えて少し哀しかったりする。
そしてある時、自分の心の動きを見ていると自分が本当はどんな思いでBLOGを使っているかがわかるような気がした。自分の意識上での思惑とは別に、BLOGに取り組む本当の自分の姿を知るためにいい分析材料を与えてくれてるように思った。
レスポンスが見えない分だけ寂しがってる自分がいるし、アクセス数の増減を気にする分だけみんなの輪の中に入りたいと思う自分がいる。嘘や虚飾を書かない分だけ正直に人と接しようとする自分がいるし、コメントで深い言葉を交わしたたったひとりの人に喜ぶ自分に、自分の本当に求めているものは何かを見ることができる。
そんな思いの割合に応じて自分はBLOGを使っているし、それに期待している。言い換えればそれは、さまざまな感情が自分の心を構成する、その割合でもあるかもしれない。
その意味でBLOGは人間関係の縮図とも言える。身の周りで人との関わりに求めていること、人間関係で自分が重きを置いていることの一端を、BLOGを見ながら少しだけ窺い知ることができるかもしれない。
例え醜くても意に沿わなくても自分のありのままの心をそのまま受け留める。素直に振る舞ってそれで足る。そんな人とのつき合いを、いつかしてみたい。
どんなに時間がかかっても、少しずつそんな状態になれればいいなと思う。
【写真はマスキー。生まれながらに哲学者的容貌を備えている。】
無料ブログが多いですから、使い分けている方も多いと思います。
つまり言葉に語弊がありますが「迎合タイプ」と「遮断タイプ」というふうに。
先日ブログの調査をある記事で読んでいたのですが多くの方が二つ以上のブログを持っているようです。なにか人間の二面性を表しているような気がしますけど、これについて私は肯定も否定も出来ません。
私の場合のブログは「goo」はあくの強い迎合型であり、「はてな」はコミュニケーションに対して一切の期待をしない「遮断型」と云う決めつけで運営しています。こんなに簡単に分けれるのか、という否定的になりがちな気持ちもあるのですが、まだブログは発展途上だと思うんですね。ですからいろんな事を試してみたくなるんですね。でもなかなか人間なんて上手い具合に使い分けが出来ないようになっていてバランスを取るのが難しくできているような気もします。
またこれとは別に海外のブログサイト(blogger.com-Google系)にも英文でブログを書いています。もっともアタマの運動の為にですけどもね。しかも更新はほとんど無い。コメントも付かない(汗
南無さんの言葉を借りれば、「遮断タイプ」で書いてるくせにランキングをかなり気にしてる。いただくコメントに時に舞い上がって返事を書いて、で自意識過剰だった・・・と後悔したりする。矛盾だらけのしょーもない人です(笑)
やっぱりアホやった~という事実と、でもこんなBlogを毎日誰かが見に来てくれるという事実、その二つのバランスをとりながら、今ここにある世界の勉強をさせてもらってます。
私にとっては良い経験でした。
人の記憶がその人自身にしか価値を持たないように、「記録」というものも、それを認める本人にのみ本質的な価値があるものなのでしょう。
内面から湧き起こる表現の衝動、それは詩や散文、絵画、記録などいろいろな形をとって現れますが、その根幹の目的は「自分のため」なのでしょうね。
(もちろん営利や業務、商業目的で書く場合は除きます。)
だから純粋な創作品(そういうものがあればの話ですが)は、例えBLOGで公開してもなんらレスポンスを求めないこともあり得るでしょう。その場合は一方通行の伝達媒体としてBLOGを使ってるということになりますか。
私自身この1年近くBLOGを書いていて思うのですが、自分の深い部分を表わせたと思う記事を書いた時は、BLOGのことなど念頭から離れてる時だったりします。
つまりアクセス数を上げたいとかコメントを欲しいとかいうことと離れた心の状態にいる時に、思いが溢れ出してすらすらと形になる。
もっとも、それが大衆受けするとは限りません。だけど例えレスポンスは少なくても確実に人の心に響くのは、そんな作品のような気がします。
最近幾つか現代小説を読んだのですが、有名な作家の作品には確かに心打たれるものも幾つかありますが、一方で面白くはあるけれど内容の無い、読んで娯楽にはなるけれど心の奥には届かないものが多いですね。
それが文筆を職業をする人の行き着くところならば、自分はこれから先何かを書き続けるにせよ、あくまでアマチュア作家を突き詰める方がいいような気がします。
猫や犬にはそれがないんだろうか、なんて思ったりしますよ。
それだけ人間は脳だけじゃなくて心も多層化、複雑化させてるんでしょう。
自分の心の構造を紐解くことは、例えれば何の専門知識も無い私が車のボンネットを開けて、自動車が動く仕組みを解明しようとしてるのにも等しいのでしょうね。
でも矛盾がある、とさえ自覚できれば、矛盾は矛盾であった方がかえって楽しいかもしれない。
私たちはこの世界で最も精緻な感情と記憶蓄積体系を持っている、そのひとつの表れなのでしょうから。
花鳥風月さんの詩にはいつも楽しませてもらってますよ。
先日教えていただいた私の「BLOGをしてる」と「然」(だと思う)との関連性が自分なりによく呑み込めないのでちょっと残念だったりしますが、十人十色の感性やアプローチでものに触れ、それを表現するから面白いのですよね。
私はBLOGでも個性のあるものに惹かれますね。
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=13001&pg=20031126
これとは180度異なる方向性を持った試みが、昨年5月に開始したgooブログでした。
さらに、半年後の11月に僕はこんな記事を書いています。
http://blog.goo.ne.jp/kanimaster/e/32bb69c5214c455e3fc0d60d818c1b76
ブログに関しては、コミュニケーション・ツールとして、割り切っているわけですが、これはこれで楽しんでやってますよ。
私の場合は「自己表現」として意識して使ってるので、BLOGでの関わり方が即、実際の自分の人間関係での関わり方と一致する面が出て来る。
でも人によって、BLOGによっては必ずしもそうとも言えないということになりますね。
確かにそうです。私もつい自分中心の狭い世界の中でものを考えがちなので、いつもKenさんのすることや発想することには驚かされてばかりです。
それでも絵や文章と同じように、BLOGというものを通じてその人の人間の一部は必ず出ているのでしょうね。言い換えれば、自分に無いものは表わしようがない。
同時に、BLOGで表れたものは必ずしもその人のすべてではない、ということを念頭に置く必要もあるのでしょう。
私ももっと熱心にネットを使い込めばサイトに応じてカラーを出せるかもしれませんが、今のところBLOGひとつで精一杯ですよ。
KenさんのBLOGの11月の記事、以前にも読んだ記憶があります。
その時も思ったのですが、BLOGの持つ有用性のひとつの方向性を突き詰めた形としての(言い方によれば極論に近い)わかり易い考えだなと思いました。
また確かにBLOG自体元々その方向で作られてるし、BLOG特有の機能をフルに活かしてこそ可能な使い方(その意味では正論ですね)でもありますね。
KenさんのBLOGが異彩を放つのはその先進性にもあるのでしょう。
一方私自身は、今のところ自身の記録80%、コミュニケーション20%でしていこうと思ってます。
自分の人生を自分のために今目に見える形にしてみたい、ということが強い欲求としてあるのですよ。
それが所詮刹那的で表面的なことだというのはわかります。人生のスパンで見れば、口をついた言葉と大して差がないかもしれない。そうと知りつつも僅かな期間でもいいから明らかな形で残してみたいのです。
たくさんの素晴らしい人、貴重なものごとと出会い、やがてそれらが過ぎ去るのを見送り、私は今もひとりで生きている。
そんな私が、今内心から湧き出るようにそんな自己表現をしたいと思っているんですよ。
自分自身をありのままに表現することは、私の場合必ずしも他者から歓迎されることではないようです。
だから書きたいことを思い切って書くためには、ある程度コミュニケーションを期待しない、また場合によってはかえってそれを阻害することを覚悟してしなければならないみたいです。
しかし、それでいてあまりに反響が無いと落ち込むのだから、面白いものですね。
どこかで自分に無理したり誤魔化したりしてるのかもしれません。
ところでこの場で言うのも場違いだとは思うのですが、
「BLOG FRIEND'S」の一連の記事、興味深かったですよ。こういう人が関わる企画はいい方向に進むだろうなと思いました。
でも私はKenさんの記事を通してほんの僅かしかBLOG FRIEND'Sのことを知らないので、あまり意見を公言する気にはなれないのです。
多分たくさんの人が関わったのだと思いますが、それにもかかわらずあの記事にあまりに反響が無いのが不思議な気がします。
BLOGのつき合いをそんな程度に捉えている人が多いのでしょうかね。
じっくり読みたいから、
時間のあるとき限定で繋いでます。
自分のBlogは、う~んと、
最初はどれも興味本位で始めたものばかりです。
テンプレートが気に入ったとか、BlogPetを設置したかったとか、そんな理由から。
今は、なんだか枝分かれしちゃってきたようで。
gooは、当たり障りのない雑談コーナー。
絵日記はほぼ、日記。
こうさぎは、ぼやき。
ガラスのかけら~は、れんちゃんとの遊び場。
で、
実は、当初アップローダー代わりに借りていたんだけど、
ナイショにしていた場所のため、いつしか彼のことを書いてしまったBlogも・・
アドレスは、FC2のメッセージででも・・・。
ランキングを気にしているがありましたよ。
海の写真館。
ここだけは、訪問者数を気にしてます。
上の他にも俳句のBLOGがありますよね。怪人20面相みたいです。
今のところ私はこのBLOGだけで精一杯ですよぉ。自分のHPも年に一度くらいしか更新できてなかったりして・・・
よしっ!これから頑張って、あん♪さんのBLOGを踏破することを目指しますっ!
これは確か・・・あん♪さんの24番目のBLOGだったですか・・・
今までHP経由で見てましたが、さっそくお気に入りに追加します。
全部のBLOGをひとつに纏めれば、あっという間にトップ・ランクになるのでは?