アグリコ日記

岩手の山里で自給自足的な暮らしをしています。

家畜の夢

2024-05-07 09:59:41 | 思い
今日は、手放し/統合を進める人が時として陥ることがある、ひとつの落とし穴について述べてみよう。これはもしかしたら今意外とたくさんの人が直面していることかもしれないし、もしあなたがそうでなかったとしても、こんなこともあるのかと思って聞いてもらいたい。

私たちが教育や幼いころの躾けによって刷り込まれた信念の塊であるエゴは、それに従えば際限なく苦しみや悲しみを生み出すように意図的にデザインされている。そうして発せられる重たいエネルギーが、非物質領域にいるネガティブ存在にとっては食糧でありエネルギー源だからだ。彼らにしてみれば、私たちに幸せになってもらっては困る。しかも意図的に仕組まれてそうされていることがバレたら逃げられる可能性が高くなってしまうので、感づかれないよう、まるで誰からの強制も受けてはおらずに、さも自分の意思でそうしているように思わせなければならない。ここが洗脳支配の肝要なポイントだ。よって人間は、自分たちが搾取のための家畜だということをとても長い間知らなかった。
例えば一般に私たち誰もが描く夢。金持ちになりたい、ステキなパートナーと結婚したい。円満な家庭を築いて子どもはたくさん欲しい、広い庭付きの大きな家に住みたい、グルメを極めて高価な酒を飲み放題、人から羨まれる肩書と地位に就いて、人の上に立つ、人を思い通りに使う・・・これらはみな、「不足」「無い」という信念がベースとなって生まれているものである。更に言えば、「自分にはできない」「自分にはその価値がない」といった絶対的な無力感、無価値感があるからこそ湧き上がる願いでもある。更に慢性的なエネルギーの枯渇状態がそれに拍車をかけている。
さて、自らの洗脳を解く道のりを歩きだした人たちは、自分の中のネガティブな信念を見つけてはひとつひとつ外していくのだが、それを続けると現実は目に見えて良くなっていく。今までできなかったことができるようになるし、思いや願いがどんどん形になる。つまりそれらをブロックしていたものが無くなるにつれて、人間に本来備わっていた具現化/現実創造の力を思いどおりに使えるようになっていくのだ。
ただここで、人によっては陥りやすい落とし穴がひとつ待っている。手放しの道から逸れて「三次元の遊び」にのめり込んでしまうことだ。それまであまりうまくいかなかった自分の希望や夢が実現しやすくなったことに気づいて、そっちの方に心を奪われてしまう。目的地から目を逸らして、道端のゲームセンターに入り浸ってしまうようなものだ。
これをわかりやすく例えで言うのなら、このような状況を思い描いてもらいたい。
管理者は家畜を閉じ込めるのに二重・三重にして檻を囲っている。その中の一番暗いところで哀れにも自分たちにはそこしかないと思い込まされてきたヒツジたちは、汚物と粗悪な食餌に甘んじながら僅かな場所や食料を互いに奪い合ったりして暮らしてきた。そこへどこからか、こちらにもっと広いところがあるよ、もっと豊かで楽しい空間があるよと声が聞こえてきた。さあこっちだよと言われるままに行ってみると、檻の継ぎ目が少し開いていて、そこから外に広い空間が広がっていた。
けれどそこはまだ、管理者の張りめぐらした柵の中である。それまでのところに比べてちょっとだけ光が差し込むという程度である。ただそれまで最奥部の劣悪な状況しか知らなかったヒツジには、その空間がとても魅力的に見えた。喜びのあまり羽を伸ばして遊び歩き、少し上質の食料を貪るように食べた。上の空のどこからか、そこで止まってはいけないよ、もっともっと前に進むんだよ、と声がかけられるけれど、もうヒツジの耳には入らない。・・・とまあ、こんな状況だ。
信念体系(エゴ)には、屋台骨を支えるような太い柱が幾つかあって、それは「お金」に纏わるものであったり、「人間関係」や「仕事/働くこと」「習慣・常識・道徳・倫理」「(波動を落としめるような)個人的な嗜好」、更に深くには「劣等感」や「自己評価の低さ」「罪悪感」というものがある。また人によってはそれまでに獲得してきた財力やモデルケース的幸せの形、地位や名誉だったりもするし、特定の人やモノへの「依存」の場合もある。それらはすべて、次元上昇するために最終的には手放さなければならないものなのだが、それがなかなかできない場合に、人はこのような状態になりやすい。今までの延長線上ともいえる三次元的な遊びの追及が、「手放し」から目を背けるための格好の逃げ場になってしまうのだ。
あるシャーマンは、前述した私たち人間が一般に描いてきたもろもろの夢を、「家畜の夢」と呼んだ。それは檻に閉じ込められた者だけが描く夢なのだ。完全に自由で豊かな世界ではそれらの発想さえ出てこない。快適に住む場所があって食べたいものはなんでも食べれて、欲しいものはすべて手に入ってどこにでも自由に行ける、その上でじゃあなにをするか、が人間の本来持つ夢なのである。それは洗脳さえ解けば誰でもそうなる。
ただシャーマンの修行の過程で、弟子たちの中にはこのトラップに嵌ってしまう者もいたらしいのだ。そのような時、師は弟子が去るままにしていたそうだ。引き留めることはできないと知っていたし、また本人の自由意思を曲げてまでして解脱への道を歩み続けることはできない。その弟子は死んだものと諦めて、本人の自由に歩かせる他にすべはない。
このシャーマンの話には続きがある。修行の場を離れて世俗の幸せを追うことを選んだ者たちは、それから暫くの間(たぶん数年間)はなにをやるにもうまくいき、理想的な家庭にも恵まれて順風満帆でいるそうだ。でも「手放し」をやめれば信念体系は元に戻ろうとする。三次元社会にどっぷりと浸かった中にいて、高い意識レベルを保つことは難しい。やがて彼は以前のようにエゴにがんじがらめに支配され、すべてを失い、尾羽打ち枯らして、再び修行の道に立ち戻って来る。その時まで生きていて、状況が許せばの話ではあるが。
地球人類にかけられた洗脳を解く道のりはとても長い。その一合目あたりではこのようなトラップも待ち構えている。しかし大きな信念を幾つか外す頃には、もう脇目を振ることもなくなる。信念を外すことがどういうことか、それまで握りしめてきたものを手放すことによって、なにが起きるのかを身をもって実感できるからだ。ここに来てやっと二合目を抜けたことになる。先に続く道のりは確かに長くはあるが、反面今までになかった楽しみもたくさん増えてくる。手放して前に進むこと自体が、その頃には大きな喜びに変わっている。
五次元の夢は今までとはまるっきり違う。例えば子どもたちは、肩掛けバッグひとつ持って世界中どこでも旅をして回るだろう。どこに行っても自分の家族しかいないのだから。食べるために働いたり、愛する者を自分一人のモノにしようなんて、そんな発想さえも浮かばない。自分は既にすべてを持っている。この世界は豊かでこのうえなく美しい。このキャンバスに、思いっきり自分自身を描ききろう。そんな世界が今私たちが自分自身に、そして子どもたちのために創ろうとしている世界である。
今新しい地球に向かう世界中の人たちが繋がろうとしている。その輪は開かれていて日々大きく広がっている。それに加わるためにも、今は自分の中のもう使わないものを手放すときである。その「空き」がないと新しいものは入ってこない。たった一度の生で地獄と天国両方を見れるのは、今この瞬間ここにいる私たちだけの特権と言える。こんなことをはっきりと言えるほどに、もう世界は変わったんだと思う。

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