Activated Sludge ブログ ~日々読学~

資料保存用書庫の状況やその他の情報を提供します。

●電力会社やアベ様、原子力「寄生」委員会は「原状回復」して見せよ

2016年02月19日 00時00分17秒 | Weblog


東京新聞の記事【寒さに震え「老老避難」 私の見た福島事故】(http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201602/CK2016021402000137.html)。

 《五年前の東京電力福島第一原発事故は、福島の人々の暮らしを突然奪った。すぐに戻れると思い、ほとんど着の身着のままで逃げたが、今なお十万人近くが避難生活を強いられている人々が直面した過酷な現実を振り返り、あらためて原発事故がもたらす影響の大きさを考える》。

 敷地内には断層が無い? だからどうした!? 新潟県知事の再三の苦言にもかかわらず、東京電力の柏崎刈羽をも再稼働しそうな勢いではないか。狂っています。
 全ての電力会社やアベ様、原子力「寄生」委員会は福島を「原状回復」して見せよ。核発電再稼働や核発電輸出の議論はそれからだ。彼らに、「(悪)夢」を語る資格は絶対に無い。

   『●原状回復が損害賠償の基本: 東京電力原発人災で
             「ふるさとをなくした痛み」は全く癒えていない
    「「原状回復が損害賠償の基本」。でも、「終始一貫、
     “加害者”とは思えない立ち位置」の東京電力。東電原発人災で
     「ふるさとをなくした痛み」を癒し、ふるさとの「原状回復」をしてから、
     東電やアベ様らは原発再稼働等の「(悪)夢」を語るべきだ。
     現状、彼らには「(悪)夢」を語る資格はない」

   『●「避難指示解除準備区域」樽葉町:
      帰還しないと判断した住民が差別されてはいけない
   『●東電核発電人災、「だれひとり刑事罰を問われなくていいのか」?
                             「市民の正義」無き国ニッポン

=====================================================
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201602/CK2016021402000137.html

寒さに震え「老老避難」 私の見た福島事故
2016年2月14日 07時05分

 五年前の東京電力福島第一原発事故は、福島の人々の暮らしを突然奪った。すぐに戻れると思い、ほとんど着の身着のままで逃げたが、今なお十万人近くが避難生活を強いられている人々が直面した過酷な現実を振り返り、あらためて原発事故がもたらす影響の大きさを考える。

 福島県浪江町の舶来(はくらい)重夫さん(72)は大震災の翌日、福島第一原発の十キロ圏外への避難を呼び掛けるパトカーの巡回で、原発の危機を知った。

 車も運転免許もない。妻の幸子さん(70)とリュックに必要最小限のものを詰め、四キロ離れた南相馬市小高区に住む姉夫婦宅へ自転車で向かった。「そこならぎりぎり十キロ圏外。とにかく離れなければ」。急ぐ途中、ボーンという爆発音がし、福島第一のある方角に白煙が立ち上るのが見えた。

 姉夫婦宅には、同じく浪江町から軽トラックで駆けつけた兄夫婦と、兄の娘夫婦が合流し総勢八人に。八十七歳の義兄を筆頭に八十代が四人、一番若い兄の娘でも六十歳。足が不自由だったり、持病の薬がいくつも必要だったりの「老老避難」が始まった。

 トラックの座席に三人、残る五人は荷台に乗り、地震でぼこぼこになった道を八キロ、南相馬市内の避難施設に向かった。ここで二晩、雑魚寝したが、市の職員から「コンクリートの施設でないと放射線を防げない」と告げられ、四キロ北の小学校へ。

 ここも避難者であふれていた。市職員から「可能な人はどんどん車で避難して」と言われたが、一行は「この寒さの中、年寄りが荷台に乗って山越えは無理」と動くに動けなかった。

 その夜、避難者を受け入れるという群馬県東吾妻町からのバスが着き、皆で乗った。すし詰め状態で、悪路は振動も激しい。雪が降り出したがエアコンは故障し、寒さに震えた。体調を悪くした同乗者もおり、舶来さんは「何とか無事に着いて」と祈った。「一人でも力尽きたら、皆が共倒れになる。誰も死なせちゃいけない。いつもそれだけを考えていました」

 東吾妻町の保養所で二カ月間を過ごし、「少しでも地元近くに」と福島県猪苗代町のホテルの避難所に移った。夏になって避難所が閉鎖されることになり、舶来さん夫婦は白河市の借り上げアパートに、姉夫婦ら六人もそれぞれ仮設住宅などへ移った。

 浪江町への帰還が見通せない中、舶来さん夫婦は二〇一四年末、栃木県大田原市に新居を建て、やっと落ち着いた。事故から三年半がたっていた。舶来さんは今、苦しい老老避難を振り返り、こう語る。

 「あの厳しい状況で誰も倒れずに済んだのは、ただの偶然でしかない。あんなことを繰り返さないためにも、事故の教訓を絶対に忘れちゃいけない」 (小倉貞俊

(東京新聞)
=====================================================

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ●あのトンデモ「壊憲」草案が... | トップ | ●2011年の『X年後』:星... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事