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●「疑わしきは罰せず」「疑わしきは被告人の利益に」: 今ごろそれを裁判所に訴えねばならないとは・・・

2014年04月19日 00時00分51秒 | Weblog


東京新聞の社説【週のはじめに考える 冤罪はだれが防ぐ】(http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2014041302000150.html)。

 「疑わしきは罰せず、の鉄則をまず裁判所がしっかり守るしかありません」・・・・・・今頃それを裁判所に言わねばならない酷い状況。「疑わしきは罰せず」「疑わしきは被告人の利益に」どころか、「疑わしきは有罪に」「疑わしきは警察・検察の利益に」。それで「死刑」にされたのではたまらない。裁判員として「死刑のスイッチ」を強制されたのではたまらない。「飯塚事件」では久間三千年さんは一貫して否認し、足利事件と同じDNA鑑定で証拠が捏造され、しかも、わずか数年で森英介法相の命令の下で死刑にされている。

   『●「情況証拠のみ」によって「高度に立証」?:
       飯塚事件の再審請求棄却と冤罪下での死刑執行と裁判員制度


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http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2014041302000150.html

【社説】
週のはじめに考える 冤罪はだれが防ぐ
2014年4月13日

 冤罪(えんざい)にかかわるニュースを聞くと、少なからぬ人がこう思うでしょう。一体、裁判所は何をやっていたのか。ましてや今は裁判員時代であるのに、と。

 先日の袴田事件の再審決定では、決定理由が捜査機関の証拠の捏造(ねつぞう)にまで言及していたことに、多くの人が驚いたでしょう。

 しかしながら、この事件の裁判のもう一つの驚きとは、最初に死刑を言い渡した一審・静岡地裁判決の裁判官三人のうちの一人、熊本典道さんがのちになって、判決は誤りだった、自分は無罪を主張していた、と公表したことでしょう。自責の念からです。


◆一審判決の強い疑念

 本来なら裁判の評議の秘密は漏らしてはならないとむろん知りつつも、判事を辞めたあと、長い沈黙を破って胸の内を明かしたのでした。

 一審判決を振り返ると、特別な付言のあることに気づきます。

 こう述べます。

   …自白を得ようと極めて長時間にわたり取り調べ、物的証拠に
     関する捜査を怠ったため、結局は「犯行時着用していた衣類」
     という重要な部分について、虚偽の自白を得、これを基にした公訴の
     提起がなされ…。

 要するに、証拠の捏造は当初から強く疑われていたのです

 それにもかかわらず有罪とされたのはなぜか。大多数の証拠を退けつつ、検察官作成のたった一通の「自白」調書を採用したからです。もし冤罪であるのなら、その「有罪」は被告側から見れば、警察、検察、裁判所の共同的な作業の結果ということになるでしょう。

 中でも、刑事裁判の大原則、疑わしきは被告人の利益に、を実行すべき裁判所の役割は一体どこへ行ってしまったのか

 同じような体験は、日本刑法学の泰斗で、二年前に亡くなった元最高裁判事団藤重光さんもしています。


◆団藤氏の一抹の不安

 余談のようになりますが、団藤さんは、旧制の小中校で二年の飛び級をして通常より若く東京帝国大学法学部を首席で卒業。二十三歳で助教授、三十三歳で教授となった人物。教え子でのちに作家となる三島由紀夫は団藤講義の論理性に魅せられた一人です。

 団藤さんの体験とは、最高裁判事の時のもので、著書「死刑廃止論」に書いています。

 大要は以下のよう。

   …ある田舎町で起こった毒殺事件で、被告人は捜査段階では
     自白していたかとも思いますが、少なくとも公判では一貫して否認
     よくある型の事件です。しかし状況証拠はかなりそろっており、
     おそらく間違いないだろうと、心証はとれるのです。
      しかしながら、被告人、弁護人の言い分を聞いてみますと
     (捜査の不十分から)一抹の不安がどうしても払拭(ふっしょく)
     できなかった。そして死刑を言い渡した時、傍聴席から罵声
     (「人殺しっ」)が飛んだ。たまたま私の主任事件ではなかったが、
     胸に突き刺さった…。

 著書は事件名を明かしてはいませんが、それといわれる事件は状況証拠しかなく、毒物の入手先や所持の事実すらはっきりしないということでした。この被告、元死刑囚は獄死しています。

 団藤さんはこの裁判を機に死刑廃止論者となります。もともと誤判の恐れを抱いていたのです。

 しかし、以上の告白は、日本刑法学の巨人であり、戦後、新刑事訴訟法をつくりあげ、のちに文化勲章を受章した人物ですら、疑わしきは罰せず、という裁判の鉄則を守り切れなかったという、一つの事実でもあります。

 最近、足利事件などDNA鑑定の進歩による冤罪の証明がいくつか出てきています。

 米国ではもっと早く死刑囚の釈放が続々と現れました。過去の科学鑑定の誤りや隠された証拠が見つかったのです。陪審のある国ですから、市民が誤った有罪を言い渡した事例もあるでしょう。

 米国の民間団体「死刑情報センター」(DPIC)の調査では、一九七〇年代半ばからこれまでに百人を超す死刑囚の無実が判明し釈放されている。その理由とされた、拷問による自白、証拠の不開示、警察の不正は残念ながら日本でも繰り返されてきたことです。


◆「裁判員」時代だから

 日本は裁判員時代にあります。

 市民裁判員が、もしも熊本さんや団藤さんのような立場になった場合、一抹の不安は果たして生かされるのか。一抹の不安を生じさせないための、取り調べの可視化や証拠の開示など捜査側の改革はまさに急務です。

 誤判の根絶は難しいかもしれない。しかし、なくすためには、繰り返すようですが、疑わしきは罰せず、の鉄則をまず裁判所がしっかり守るしかありません。
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