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帯とけの「古今和歌集」
――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――
国文学が無視した「平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観」に従って、古典和歌を紐解き直している。古今和歌集の歌には多重の意味があり、その真髄は、公任のいう「心におかしきところ」である。人のエロス(生の本能・性愛)の表現である。それは、俊成がいう通り、歌言葉の浮言綺語に似た戯れのうちに顕れる。
歌のエロスは、中世に秘事・秘伝となって「古今伝授」となり、やがて、秘伝は埋もれ木の如くなってしまった。はからずも、当ブログの解釈とその方法は「古今伝授」の解明ともなるだろう。
古今和歌集 巻第五 秋歌下 (263)
是貞親王家歌合によめる 忠 岑
雨ふればかさとり山のもみぢ葉は 行かふ人のそでさへえぞてる
(是貞親王家の歌合のために詠んだと思われる・歌)。 壬生忠岑
(雨ふれば、笠取山のもみぢ葉は・色鮮やかで、行き交う人の袖さえ照り輝いている……お雨ふれば、嵩にかかってのぼる山ばの飽きの色は、ゆき交う男と女の身の端さえ、照らす)
歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る
「雨…もみじ色に染める雨…おとこ雨…ことの終わりを告げる雨」「かさとりやま…笠取山…山の名…名は戯れる。笠持つ山・嵩にかかって勢いある山ば・笠を取り去った山」「山…山ば…感情の山ば」「もみぢば…もみじ葉…飽き色した葉…厭き色した木の端…も見じしたおとこ」「ゆきかふ…往来する…行き来して交わる」
雨ふれば、笠とりさり山のもみぢ葉は、色彩鮮やかで・行き交う人の袖さえ照り輝いている。――歌の清げな姿。
おとこ雨ふれば、嵩にかかってのぼる山ばの飽きの色は、ゆき交う男と女の身の端さえ、ほ照らす。――心におかしきところ。
色情の果て方は、おとこ雨が降れば、ことの終わりとなる。この情況を、男は何時も後ろめたく思っている。その救いの歌だろうか・開き直りだろうか。お雨は、漏らせば漏れたで、ゆき交う身の袖(端)ほてるという。
「伊勢物語」(百七)によれば、藤原敏行が未だ若い頃、お雨が降れば果てて、ことの終わりになると悩んで居た。通っていた女は、在原業平の妻の許に居た女であった。敏行は便りを寄こした「雨の降りぬべきになむ見わずらい侍る。見さいはいあらば、この雨ふらじ(雨が降ってしまいそうでね、お目にかかれそにありません。身に幸いあれば、この雨は降らないだろうに……おとこ雨が降ってしまいそうで、見わずらっています。身の見に幸あれば、この雨降らないだろうに」とあった。
業平が見て、女に成り代わって、この若者に歌を詠んで遣った。
かずかずに思ひ思はず問ひがたみ みをしる雨は降りぞまされる
(いつもいつも、好きか、そうでないかを、お互い・問い難いので、身を知る雨は、降れば君への思い増さると知ってよ……しきりに、思いを思っているかと、女に問い難いので、身の見を汁るおとこ雨は、降れば降ったで、心地増さるのよ)。
歌言葉は、すでに浮言綺語の戯れのような意味を孕んでいた。
「み…身…見…覯…媾…まぐあい」「しる…知る…承知している…汁…濡れる」「雨…おとこ雨」。
「伊勢物語」は、心深く、清げな姿をしていて、心におかしきところのある文芸である。国文学的うわの空読みを脱するには、戯れの意味を心得ればいいのである。
(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)