帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの「古今和歌集」 巻第四 秋歌上 (222) はぎのつゆ珠にぬかむと取れば消ぬ

2017-05-09 19:07:07 | 古典

            

 

                      帯とけの古今和歌集

                          ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――


 国文学が無視した「平安時代の
紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観」に従って、古典和歌を紐解き直している。古今和歌集の歌には多重の意味があり、その真髄は、公任のいう「心におかしきところ」である。人のエロス(生の本能・性愛)の表現で、俊成がいう通り、歌言葉の浮言綺語に似た戯れのうちに顕れる。

歌のエロスは、中世に秘事・秘伝となって「古今伝授」となり、やがて、それらは埋もれ木の如くなってしまった。はからずも、当ブログの解釈とその方法は「古今伝授」の解明ともなるだろう。

 

古今和歌集  巻第四 秋歌上 222

 

(題しらず)                 (よみ人しらず)

はぎのつゆ珠にぬかむと取れば消ぬ よし見む人は枝ながら見よ
                    
ある人の曰く、この歌は、ならの帝の御歌也と。

(萩の露、真珠のように、緒を通そうと手に取れば消えてしまう、美しく観賞したい人は、枝のまま見なさい……端木の白つゆ、珠のように、おを差しいれ通そうとすれば、消えてしまう、好ましく見たい女人は、枝の柄を見定めなさい)
                     
或る人が言うには、この歌は、平城の帝(桓武天皇の皇子・平安京最初の帝・古今和歌集編纂時よりおよそ百年前の御時)の御歌であると。

 

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「はぎ…萩…端木…言の心は男…この時代の文脈では通用していた意味」「つゆ…露…液」「たま…珠…真珠…玉…貴重な物」「に…多様な意味を孕む言葉ながら…のように…比喩を表す」「ぬかむ…貫こう…穴にさし通そう」「けぬ…消ぬ…消えてしまう…完了を表す」「よし…良し…吉…好し…好ましく」「見…観賞…覯(詩経ではこの字である)…媾…みとのまぐはひ(古事記では性愛をこのように表現する)」「む…(見)ようとする…意志を表す」「ひと…人…女の人」「えだ…枝…端木の枝…男の身の枝」「ながら…そのままの情態で…な柄…の本性…(おとこのはかない)性挌」「な…の」「見よ…見の命令形…観賞しなさい…見定めなさい…見極めなさい…みとのまぐはひしなさい」。

 

萩のはかない白露、真珠のように、飾りにしようとすれば消失する、良く、見ようとする人は、枝のまま観賞しなさい。――歌の清げな姿。

端木のはかない白つゆ、珠のように、貫き通せば消えてしまう、良き和合をと思う女人は、小枝の本性を見定めなさい。――心におかしきところ。

 

民の幸せは、衣食住満たされるだけではなく、夫婦があい和さなければならない、その極意は、女性がおとこのはかない性(さが)を見極める事である、と仰せになられた御歌のようである。

 

人倫を教化し、夫婦相和すには、和歌より他に宜しきものはない。真名序では「化人倫、和夫婦、莫宣於和歌」と記されてある。

 

女たちの不満の歌、および、男どもの空しい自慢の歌や自嘲の歌によって、人々は「心におかしく」その本性を教示されて知るだろう、それが夫婦相和す極意であろう。仮名序によれば、「(平城の帝の御時より)、今、皇の天の下知ろし召すこと、四つの時(四季)、九かへりになむ(百年に)、成りぬる。遍き御慈しみの浪、八洲の外まで流れ、広き御恵みの蔭、筑波山の麓よりも繁くおはしまして、万の政を、聞こし召すいとま、もろもろの事を、捨て給はぬ余りに、古の事をも忘れじ、古りにし事をも興し給ふとて、今も見そなはし、後の世にも伝はれとて」、延喜五年(905)四月十八日、友則、貫之、躬恒、忠岑らに仰せになられて、古き歌、自らの歌をも奉らしめ給うたのが「古今和歌集」であるという。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)