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帯とけの「古今和歌集」
――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――
国文学が無視した「平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観」に従って、古典和歌を紐解き直している。古今和歌集の歌には多重の意味があり、その真髄は、公任のいう「心におかしきところ」である。人のエロス(生の本能・性愛)の表現で、俊成がいう通り、歌言葉の浮言綺語に似た戯れのうちに顕れる。
歌のエロスは、中世に秘事・秘伝となって「古今伝授」となり、やがて、それらは埋もれ木の如くなってしまった。はからずも、当ブログの解釈とその方法は「古今伝授」の解明ともなるだろう。
古今和歌集 巻第四 秋歌上 (231)
藤原定方朝臣
あきならで逢ふことかたきをみなへし 天の河原におひぬものゆへ
(歌合の歌と思われる) さだかた
(秋でないと、出逢うことが難しい女郎花、天の河原に生えないものだから・この世の秋だけのものだから……飽きの厭きでないと、合うことが難しい、をみな圧し、吾女のあの腹に、おとこは・おい尽きてしまうものだから)。
歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る
「あき…秋…飽き・飽き満ち足り…厭き・嫌気さす」「あふ…逢う…出遭う…合う…和合する」「をみなへし…女郎花…をみな部し・遊女たち…をみな圧し」「あま…天…吾女」「河原…川はら…女腹」「川…言の心は女…おんな」「おひ…生い…老い…追い…ものごとが極まる…感極まる…尽き果てる」「ぬ…ない…『ず』の連体形で打消しを表す…ぬ(助動詞)…してしまう…完了の意を表す」「ものゆへ…ものゆゑ…ものだから」。
秋でないと、出逢うことが難しい女郎花、天の河原に生えない・この世のだけの・ものだから。――歌の清げな姿。
飽き厭きする情態でないと、和合することが難しい、をみな圧し、おとこは・吾女の川腹に極まり尽きてしまうものだから。――心におかしきところ。
ただ草花の女郎花の、秋に咲く性情を詠ん歌ではない。歌には多重の意味がある。おとこが究極に於いて、はかなく尽きる性情を詠んだと思われる歌。
「おひ」という言葉の意味候補は、「生ひ・追ひ・老ひ・負ひ」である。なぜか、国文学という学問は、この歌の「おひ」を「生ひ」と決めつけてしまう。清少納言は枕草子に「聞き耳異なるもの」、其れが我々の言葉であると述べている。この時代の人々は、言葉には字義以外の戯れの意味があることを前提にして、歌や人の言動を見聞きしていたのである。
歌合で歌が披露されるのは読人によって、感情をまじえず、やや長く延ばして、三度読み上げられる声だけである。歌合に出席している人々ならば、「生ひぬ…生えない…追ひぬ…感極まってしまう」と両様に聞く耳を持っていただろう。
(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)