帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの「古今和歌集」 巻第六 冬歌 (338)わが待たぬ年はきぬれど冬草の

2017-11-18 19:44:02 | 古典

            

                       帯とけの「古今和歌集」

                      ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って「古今和歌集」を解き直している。

貫之の云う「歌の様を知り」とは、歌には多重の意味があり、清げな姿と、心におかしきエロス(生の本能・性愛)等を、かさねて表現する様式と知ることである。先ずそれを知らなければ、歌の解釈など始まらない。

 

古今和歌集  巻第六 冬歌338

 

ものへまかりける人を待ちて、しはすのつごもりに

よめる                 みつね

わが待たぬ年はきぬれど冬草の かれにし人はをとづれもせず

(もの詣でにでも出かけた人を待っていて、師走の晦日に詠んだと思われる・歌……どこかへ行った女を待っていて、としの暮れに詠んだらしい・歌) 躬恒

(我の待っていない新年は、来てしまうけれど、都を・離れたあの女人は便りも訪れもしない……わが待たぬ、疾し時は来てしまうけれど、心冷えた女の情の涸れた人は、お門、擦れもせず)。

 

「年…新年…とし…疾し…早過ぎる…おとこのさが」「きぬ…来た…来てしまう…自然にきてしまう」「冬草の…かれるの枕詞…草の言の心は女…情などの冷えた女」「かれにし…枯れた…離なれた…(涙や愛情などが)涸れた」「人…知人…女人」「をとづれ…訪れ…音沙汰…便り…おと擦れ」「お…おとこ」「と…門…おんな」。

 

京を離れた人を思って、年の暮れに詠んだ歌――歌の清げな姿。

早すぎる果て方に、情冷え心離れ涸れた吾女が、おと擦れないさま――心におかしきところ。

歌は、姿清げで、妖しく、絶妙であると言えそうである。


 

優れた歌の定義を述べた藤原公任が撰んだ歌を一首聞いてみよう。四条大納言撰「和歌九品」。


上品上、これは言葉たへにして、余りの心さえあるなり。
春立つといふばかりにやみ吉野の 山もかすみてけさは見ゆらん

(立春というだけでかな、み吉野の山も、春霞にかすんで今朝は見えるのだろう……春情断つというだけでかな、見好しのの好しのの山ばも、目も霞んで今朝は見えるのだろう)。

 

立春というだけでかな、み吉野の山も、春霞にかすんで今朝は見えるのだろう――歌の清げな姿。

春情断つというだけかな、見好しのの好しのの山ばも、目もかすみ、つとめた今朝は見えるのだろう――心におかしきところ。

「拾遺和歌集」巻第一春、巻頭を飾る壬生忠岑の歌である。

 

公任の優れた歌の定義「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところあるを、優れたりと言ふべし。こと多く添えくさりてやと見ゆるがわろきなり。一筋にすくよかになむよむべき」に適っている。


 「すくよかに…実直に…のびのびと…ゆるぎなく」。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)