帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの「古今和歌集」 巻第六 冬歌 (326)浦ちかくふりくるゆきは白浪の

2017-11-10 19:25:38 | 古典

            

 

                        帯とけの「古今和歌集」

                      ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って、古今和歌集を解き直している。

公任は、歌の様(歌の表現様式)を捉えて「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところあるを、優れたりと言ふべし(新撰髄脳)」と優れた歌の定義を述べた。歌には多重の意味があり、「心におかしきところ」には、エロス(生の本能・性愛)が表現されてあったのである。

 

古今和歌集  巻第六 冬歌326

 

寛平御時后宮歌合の歌       藤原興風

浦ちかくふりくるゆきは白浪の 末の松山こすかとぞ見る

(寛平の御時、后宮の歌合の歌)     ふぢじはらのおきかぜ

(浦近く降りくる雪は、白浪が、陸奥のあの・末の松山、越すかと見
ている……女の心ちかく触れくる、おとこ白ゆきは、白なみが、越すに越せないとかいう、すえの待つ女の山ば越すかと、見て思う)。

 

「浦…言の心は女…うら…心」「くる…来る…繰る…繰り返す」「ゆき…雪…逝き…おとこ白ゆき」「浪…並み…汝身…汝見」「汝…な…親しいものをこう呼ぶ」「末…果て」「松…長寿…常磐…言の心は女…待つ」「山…山ば」「見る…目で見る…思う」「見…覯…媾…まぐあい」。

 

陸奥の浦、白浪うち寄せる、末の松山の雪景色――歌の清げな姿。

女の心ちかく触れ繰り返す、おとこ白ゆきは、白けた並みのこの身が、果て待つ女の山ば越すかと、見て思う――心におかしきところ。

 

一途な愛を続ければ、末の長いおんなの山ば、共に越せるように思うという歌のようである。

 

 

「末の松山」は、巻第二十、東歌、陸奥歌(1093)に詠まれてある山の名。

きみをおきてあだし心をわが持たば 末の松山浪もこえなん

(君をさしおいて、他に浮気心を、わたしが持てば、高い末の松山、浪が越えるでしょうよ……貴身を見捨て、ほかに浮気心を、わたしが持てば、末の長い女の山ば、並みの汝身も、越えるでしょうよ)。

 

「末の松山…名は戯れる。果てを待つ山ば、果ての松の山ば、果ての長い女の山ば」「松…言の心は女…長寿」。

 

もとは民謡で、宮の内では、女歌のように謡われて、誰でも知っていた歌だろう。

 

浮気心をわたしがもてば、あの山ば共に越えるという・前代未聞の事が起こるでしょうよ、並みの汝身でもと、辛味のきいた歌のようである。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)