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帯とけの「伊勢物語」
紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観で、在原業平の原作とおぼしき「伊勢物語」を読み直しています。
伊勢物語(六十三) ももとせにひととせ足らぬつくもかみ
昔、よ心つける(世心ついた…夜心憑いた)女、いかで心なさけあらむ男(何とかして心に情けある男…逝かで此処ろに情のあるおとこ)に、あひえてしがな(逢えたらなあ…合えたらなあ)と思っても、言い出すのも、たよりなさに(きっかけながないので…頼む相手もいないので)、本当ではない夢語りにして話す。子供三人を呼んで語ったのだった。二人の子は情けない様子で応えて終わった。三郎だった子はなんと、「よきみ男ぞいでこむ(良き御男に出会うでしょう…好き見おとこに合うでしょう)」と、話を・合わせると、この女、けしきいとよし(気色とってもいい…上機嫌である)。「こと人はいとなさけなし(他の人は全く情けがない)。いかでこの在五中将に(なんとかして、この在原氏の五男の中将に)、あはせてしがな(逢わせたい…合わせたいなあ)と思う心があって、在五中将が、狩り(猟…かり)しあるいていたときに逢って、道にて馬の口を取って、「かうかうなむ思ふ(斯く斯くしかじか思っているので…親・孝行をとですね思いまして)」と言ったので、あわれがりて(哀れと思って…不憫と思って)来て、ねにけり(寝た…共寝したのだった)。さて後に、男が見えないので、女、男の家に行って垣間見ていたのを、男がほのかに見て、
もゝとせにひとゝせたらぬつくもかみ 我をこふらし面影に見ゆ
(百歳に一年足らない九十九歳の白髪女、我を恋うらしい、顔つきや様子に見えている……百とせに、一利し不足、つくも・九十九、かみ・女、我お、乞うらしい、おも陰に見えている)と言って、いでたつけしきを見て(出かける気配を見て…井で立つ気色をみて)、むばらからたちにかゝりて家にきて(女は・茨や枳殻に引っ掛かって家に帰って来て…おとこは・荒れた井辺に来て)、うちふしけり(うち臥した…射ち伏したのだった)。おとこ、彼の女がしていたように、物陰に・隠れて立って見ていたところ、女は嘆いて寝るといって、
さむしろに衣片敷き今宵もや 恋しき人にあはでのみねむ
(さ筵に、夜衣を片方だけ敷いて、今宵もか、恋しい人に逢えないままに寝る……さむ白のために、夜の身と心を、片しきて、今宵もか、乞いしい男に、合わずに寝るのでしょうか)と詠んだのを、男・おとこ、あはれ(哀れだ・不憫だ)と思って、そのよはねにけり(その夜は共寝したのだった…その夜は又寝たことよ)。
世中のれいとして(女と男の仲の例として)、思うをば思い、思わぬ相手をば思わないものなのに、この人は、思うをも、思わないをも、けじめ見せぬ心なんありける(けじめ見せない心があったのだった…区別なく見る博愛心があったのだった)。
貫之のいう「言の心」を心得て、俊成のいう言の戯れを知る
「世こころつける…女と男の仲の情のついた…夜心憑いた」「かり…狩…あさり…めとり…まぐあい」「もゝとせにひととせたらぬつくもかみ…百に一つ足りない九十九(つくも)かみ(髪・女)…百の文字の上の一の足らない髪…白髪…感の極みには一利し足りない九十九の女」「とせ…とし…歳…利し…利き」。
「いへ…家…井へ…井辺…おんなの辺り」「こふ…恋う…乞う」「見…覯…媾…まぐあい」。
この章は、歌も文も少し異質で、清げな姿は味気なく滑稽である、この章は業平の仕業ではないかもしれない。しかし、いずれにしても、冷酷ともいえる男の心を緩和したくなった人の書き加えだろう。六十章や前章の女に対する冷酷な仕打ちが見える人には、この章の存在する意義が解る。原作者業平があえて取って付けたように語ったのかもしれない。後の人が、これだけの歌と物語を作るには、強い動機と文才がいる、業平の子か孫の仕業かもしれない。
(2016・6月、旧稿を全面改定しました)