帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

新・帯とけの「伊勢物語」 (五十三)  いかでかは鳥のなくらん

2016-06-08 18:37:16 | 古典

               



                         帯とけの「伊勢物語」


 

紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観で、在原業平の原作とおぼしき「伊勢物語」を読み直しています。


 

 伊勢物語(五十三)いかでかは鳥のなくらん


 むかし、おとこ(昔、男…武樫おとこ)、あひがたき女にあひて(逢い難い女に逢って…合い難い女に遇って)、物がたりなどするほどに(物語りなどする時に…情けを交わすうちに)、鳥のなきければ(鶏が鳴いたので…女が泣いたので)、

 いかでかは鳥のなくらん人しれず 思ふ心はまだ夜ふかきに

 (どうしてかな、朝告げ鳥が鳴くのだろう、人知れず思う心は、まだ夜深く・語り足りないのに……どうしてかな・明け告げて、女が泣いているのだろう、人知れず思うわが情は、まだ夜深いのに)

 

 

貫之のいう「言の心」を心得て、俊成のいう「言の戯れ」を知る

 「あひ…逢い…合い…山ばの合致…和合」「あひて…遭遇して…であって…和合して」「物がたりなどする…言葉などを交わす…情を交わす」。
  
「鳥…鶏…朝告げ鳥…夜の明けを告げる女」「鳥…言の心は女…神代から鳥が女であることは、古事記などを、そのつもりになって(その文脈に立ち入って)読み直せばわかる」「なく…鳴く…泣く…歓喜の声をあげる…明け(果て)を告げる」。

 

 この章も五十一章の「花こそ散らめねさへかれめや」と同じく、おとこ誇り、我ほめだろう。普通では合い難き女も、わが武樫おとこにかかれば、斯くの如く早々に感極まった声を上げたよ。

 

 「鶏が鳴く…女が果てを告げる」に関わる歌を聞きましょう。清少納言枕草子「頭の弁の職に参り給ひて」にあり、「百人一首」にも撰ばれた歌。当時の人々と「聞き耳」を同じくして聞く。

 夜をこめてとりのそら音ははかるとも よに逢坂の関はゆるさじ

 (夜を通して、鶏の似せ声で夜明けだと謀っても、決して逢坂の関守は開門を許さない……夜、おを込めて、ひとのそら声は嗄るとも、夜に合う盛の門は緩めないわよ)

 

[を…お…おとこ」「とり…鳥…鶏…朝を告げる鳥…歓喜の声あげ朝を迎える女」「鳥…女」「そらね…空声…空しい声」「はかる…謀る…端涸る…端嗄れる」「よに…世に…決して…夜に…夜の間は」「逢坂…所の名、名は戯れる。合坂、和合の山ば」「さか…坂…盛…栄…性」「関…夜明けとともに門を開く所…朝開門するところ…門…身の門…おんな」「ゆるさじ…許るさじ…緩るさじ…合わせたまま緩めない」。

 

 「鳥」と「門」の「言の心」を心得えれば、このような歌を、当時の大人として聞くことができる。ただし、枕草子の「をかし」は、さらに、この奥にあるのである。

ついでに言ってしまうと、「函谷関」と違って、わが逢坂の関門には、賢い(堅い)関守おんなが居るのよ、君(貴身)を、夜深い時に逃がしたりしないわよ。これに対する、藤原行成のお返しは、「近頃の逢坂の関は、関守いなくて、門は昼夜開いたままだそうだよ。貴女も開けて待っているのかい」「……」。「返しをくれよ、男たち皆このやり取り知っているのだよ。返しをくれよ、貴女が門開けて待つ女になってしまうよ・どうしょう」。「……お相こよ(君は、女たちの間で、ひどい男になっているかも、このやり取り、女たちに拡散したからね、引き分けかな)」。


 負けて勝ったのは、どうやら、清少納言のようなのである。

 

(2016・6月、旧稿を全面改定しました)