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DVD「ブルーバレンタイン」を観る

2012-07-07 20:45:09 | エッセイ
 観ているときは、大して感じなかったのに、後の記憶にこびりつくような映画がある。英語なので会話が良く理解できなかったのに、あるシーンが強く印象に残る場合もある。デレク・シアンフランシス監督の「ブルーバレンタイン」もその一つだ。アマゾンのDVD案内には、「内容紹介」として次のようにある。
「愛を知る誰でもが経験のある、しかし、誰も見たことのないラブストーリー。愛が変化していくどうしようもない現実と、だからこそ輝かしい愛が生まれた瞬間、過去と現在が交錯し、愛の終わりと誕生が重なり合う未だかつて観たことのない新しいラブストーリーの傑作」
 三人家族(夫ディーンと妻シンディと小さな娘フランキー)の愛犬が失踪したところから映画は始まる。どうしていなくなってしまったのか、この事件は、この夫婦の失われた愛の象徴であって、この作品の余情を描く。
私は、読書型の人間だから、映画鑑賞には自信がなく、なかなか映画のストーリーが観て取れないタイプなのだ。現実の二日間の経過の間に、フラッシュバックで二人が知り合ったころを中心に、目まぐるしく場面が切り替わるので、特に、ディーンとシンディの容貌の些細な変化が、ほとんどわからず、洋画のためであろう、同じように見えてしまうから、始末が悪い。二人の結婚から別れるまで、わずか七年間と言うことだから、微妙な差しか、映像では描けない。夫役の俳優は、七年後を演ずるのに髪の毛まで抜くほどの苦心をしたというが。
 二日間の経過と言えば、犬が死んで、二人の間の修復と息抜きに、娘を舅に預けて、サイケデリックなラブホテルにしけこむ。妻は乗り気ではなかった。冷え切った心のシンディの体は、ディーンを拒否、怒った夫は、雰囲気的に強姦へのコースだが、ぐっとこらえて、愛のない行為を拒否する。じつは、可愛いフランキーはディーンの子供ではない。別の男と関係して妊娠しているのを知りながら愛してくれたディーンと結婚したのである。彼の愛が彼女の窮地を救ったのだ。常に娘と妻を思い粗野だが優しい夫――ペンキ塗り――と、向学心が強く前向きな妻――看護師だが、医師を志望――の間は、修復不可能な状態にある。シンディの職場に押しかけて、ついに器物に乱暴し、止めに入った医師を殴ってしまう。破局である。普通、ラブストーリーは、試練の末に二人が愛で結ばれ、めでたし、めでたし、で終わる。この映画は、アメリカ映画では珍しく、愛の喪失で終わっている。
 しかし、それは皮相な見方であろう。思い出と現実、生活と理想、個人と社会など対立軸をめぐっての愛の葛藤を重層的な視点から描いている。いや、愛の行方ではなく、愛そのものを描いているとも言えよう。
 ネットのアマゾンの感想欄を見ると、中に一人、映画では別れを描いているが、去って行ったディーンはきっとシンディのもとに戻ってきて、再び結ばれるかもしれないと書いていた。この感想は、非常に優れていると思った。微視的には、愛は誕生と終末を何度でも繰り返すのだから。もちろん、繰り返されずに、一回限りの線香花火のように消滅する愛もあるだろうし、一生、熱烈な愛を見つめ続けた幸運も、皆無とは言えない。
けれども、愛とは、きれいごとでなく持続であり忍耐であり葛藤であるとすれば、「ブルーバレンタイン」は、万人のラブストーリーなのかもしれない。
 なにしろ、粗暴に見える夫ディーンが、ふてくされた妻にいっさい暴力を振るわず、自制する痛々しさが素晴らしい。おそらく、女性が観れば、シンディのディーンへの堪えようのない生理的な嫌悪がリアルに描かれていると思うだろう。この二人の関係は、やはりだめなのかもしれない。男女関係でなく、夫婦関係は、深い所で、異文化交流なのかも。
 惰性ではなく、愛に忠実であることがいかに難しいか、つくづく感じさせられた。
もし、あれからディーンが自殺でもしてしまったらシンディの愛を取り戻せたであろうか。理性的な面もあるシンディは取り戻せたかもしれない。ただし、悲しいかな、思い出としてのみ、あとくされがない愛、挽歌としてなのだ。ディーンが転落してしまったら、彼は、彼女のストーカーという単なる犯罪者になってしまうのだ。
 映画の試みとして興味深かったのは、現在の夫婦のシーケンスと過去のシーケンスが入り乱れていて、観客に戸惑いを与えて、それが思いがけない詩的な効果を上げているように思えたことであった。数種の本を併読していて、記憶がごっちゃになるような眩めき。映画製作者がそれを計算に入れていたかどうか。

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