蔵書目録

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『“皇道隊”蹶起事件の全貌』 (1936)

2021年02月12日 | 二・二六事件 2 怪文書

“皇道隊”蹶起事件の全貌

 一. はしがき

 粛正選挙に於ける与党大捷、政局安定の夢を破つて、二月二十六日の早暁、一面白雪に清められた帝都は、突如“皇道隊”の蹶起によつて眞赤に彩られた、岡田首相を始め斉藤内府、渡辺教育総監、高橋藏相、牧野前内府、西園寺公等要路の大官、重臣が襲撃された未曾有の突発事件は九千万国民をして驚愕せしめたことは勿論である、輦轂の下、遂に戒厳令が公布され、蹶起した“皇道隊”は抗勅の汚名を冠されて、二月二十九日、騒擾の帝都は漸やく静穏に帰した、今回の不祥事件が如何に経済界へ大きな衝撃を與へたかは云ふまでもなく、全国の清●市場は一斉に臨時休業を発表し、帝都の経済機構は一時殆んど停止状態に陥つた。
 反乱部隊の大部分が帰順し、帝都の治安維持されて以来経済界は漸く落付を取戻し、懸念された対外的影響も対外為替及び公、社債等は一時低落を見たが何れも直に反撥を示した、然し乍ら戒厳令は未だ撤去された訳でもなく、且つ“皇道隊”蹶起の中心人物たる元陸軍將校の村中孝次-予備陸軍大尉ーを始め西田税-予備陸軍中尉(三月五日東京に於て逮捕さる)ー磯部淺一ー予備陸軍一等主計ー等は行方不明にして、戒厳司令部では捜査中である、從つて謂ゆる“皇道隊”蹶起事件は、全く片付いた訳ではない、茲にその全貌を記述することは未だその時機に至つてゐないとの譏りもあるが、兎に角出来得る限り資料を蒐集して、眞相を伝へ從来の不祥事件と異なる特異性を抽出することゝした、今回の“皇道隊”蹶起は勿論予想し得ざる突発事件ではなく、起り得べくして起つた事変であるが、この点は村中孝次の執筆せる“第一”及び“第二粛軍ニ関スル意見書”並びに田中清少佐手記の“三月事件”及び“十月、十一月事件”の記述を精読すれば、軍部内の動向も判然としまた今次事件の核心を摑み得るだらう。
 
 二.“皇道隊”蹶起の経過概要

 戒厳司令部当局談として、三月四日今次の事件経過の概要は既に発表された、“皇道隊”の兵力は近歩三、歩一、歩三、野重七、所沢飛機銃に届する將兵及び民間側―陸軍予備將校―の参加を合して約千五百名に達し、先づ警視庁、内務省、を襲撃占據し、次いで首相官邸、斉藤内大臣私邸、渡辺教育総監私邸、牧野前内大臣宿舎、鈴木侍從長官邸、高橋大藏大臣私邸等を襲撃した。斉藤内大臣、渡辺教育総監は即死し、高橋大蔵大臣は重傷後薨去、鈴木侍從長は重傷を負ふた、今戒厳司令部発表の経過槪要に少しく補充を加へ二十六日以後の暦日経過を記述することとする。
 
 二十六日午後三時 第一師営戦時警備下令され、甲府、佐倉、高崎の一部々隊に上京を命じたが、市内には二十六日中に入り得ず甲府は代々木に、佐倉は両国河岸に待機した、尚ほ水戸、宇都宮等の部隊にも上京を命ぜられた。 
 同   午後九時“皇道隊”幹部野中、安藤、栗原等と荒木大将会見、蹶起の趣旨及び希望を聴取。 
 二十七日     東京市の区域に戒厳令中一部の施行を命ぜられ、香椎中將戒厳司令官に補せらる。 
 同   午前八時 歩三連隊長渋谷大佐は戒厳司令施行後自決した。歩三の連隊旗は“皇道隊”の歩三將兵が奉持してゐた。 
 同   午前十一時半 上官同僚などの原隊復帰説得奏功し警視庁、内務省占據歩三將兵約五百名は完全に撤退、首相官邸に引揚ぐ、後正午警視庁再び占據さる。 
 同   午後四時 満井中佐、流血を見ず円満解決のため陸相官邸に於て“皇道隊”の要望条件に就き会見 
 同   夜 首相官邸占據の“皇道隊”部隊は丸ノ内ホテル、山王ホテル、幸樂に分宿した 
 二十八日午前十時 軍事参議官は秩父宮殿下に対し奉り殿下の名によつて、“皇道隊”の解散を命ぜられ度き旨要請、殿下は拒絶し給ふ。 
 同        加陽宮殿下は姫路より長距離電話を以つて“皇道隊”解散の意思を問合せ給ひ、“皇道隊”は解散の意なしと奉答
 同  正午“皇道隊”幹部と岡村少將及び橋本欽五郎大佐-三島重砲連隊長-等会談し畫食をとりつゝ妥協殆んど成立してゐたが具体的問題の討議に入つて遂に決裂し物別れとなつた=行動不明を伝へられてゐた“皇道隊”幹部は正午に至つて前夜来会談せること判明したわけである
 同        西大將、阿倍大將は軍事参議官会議後首相官邸に於て野中大尉、安藤大尉、栗原中尉等、“皇道隊”幹部と重要会議を行つたが“皇道隊”幹部等は両大將に対し原隊復帰の命令は軍事参議官としてか、それとも勅命か、陛下の勅命には絶体に服從し敢て御命令に背き奉るものでない、然し軍事参議官としての命令には服し難いと強硬に主張した。 
 同  午前二時 川島陸相は勅命を奉じて香椎戒厳司令官に伝達し、香椎司令官より第一師団長堀丈夫中將に奉勅の趣旨を伝へ更に歩兵第一聯隊長小藤大佐旨を奉じて、“皇道隊”千五百の將兵に勅命を伝へたー勅命は香椎司令官に対して“速に原隊に復帰せしめよ”と下つた趣、“皇道隊”に対して“原隊に復帰せよ”と勅命が下つたのではなかつた、と云はれてゐる。
 同  午後四時 衆議院新議事堂占據の“皇道隊”部隊は万歳を三唱して香田大尉引率の下に原隊へ復帰しつゝあつたが、途中再び引返して山王ホテル、首相官邸に立籠つた 
 同  午後六時 陸軍省は階行社に、内務省は芝警官講習所に、司法省は市ヶ谷刑務省に文部省は文理科大学に夫れゝ一時移轉、戒厳司令部では遂に強行處置を決定した模様。
 二十九日午前六時 勅命に抗した“皇道隊”は遂に反徒の汚名を冠され、戒厳司令部は永田町附近居住の市民に対し避難を命じた、尚ほ前夜来反乱部隊は追々帰順す。 
 同  正午 衆議院新議事堂を中心に警備隊は土嚢を築き機関銃を据へて待機中
 同  午後四時 反乱部隊は首相官邸を占據せる一部分を残して殆んど帰順す 
 同  午後六時 反乱部隊の中心人物野中大尉は首相官邸に於て自決し、帝都の治安は完全に平静に復した。

 斯くて反乱部隊の將兵は何れも原隊に復帰し、民間側参加の村中孝次、磯部浅一の両名は行方不明であるが山本予備少尉は自首し、渋川予備少尉及び西田予備中尉は逮捕されたので“皇道隊”蹶起事件は大体に於て終末を告げた訳である、尚ほ首相官邸で自決した野中大尉の略歴を示すと左の如くである。-村中磯部は二十九日に西田は三月五日何れも逮捕されたものである。
 
 ▲野中四郎大尉(三四才)岡山市下石井四二七の生れにして実父は元下関要塞司令官陸軍少將野中克明にして、その四男、親戚野中類四郎の養子となり、美保子夫人との間に子供三人がある。
  麻布歩兵第三聯隊第三中隊長、第三十六期の卒業にして大正十三年十月二十五日少尉任官、昭和八年八月一日大尉に進級

 三.“皇道隊”蹶起の趣旨

 抗勅の汚名を冠せられ、遂に反徒と見做るゝに至った“皇道隊”は当初国体原理に基く昭和維新を図して蹶起したものであった、ニ十六日午前十時頃東京各新聞通信社に手交して、全国の新聞通信社に通信を強要した蹶起趣意書によっても明かであるが、特に襲撃された重臣、大官に対しては大体左の如き理由によるものである。

   イ.岡田首相
   ロ.渡辺教育総監 
   ハ.高橋藏相
   二.鈴木侍從長及び牧野前内府
   ホ.“皇道隊”蹶起趣意書           
 
 四.“皇道隊”蹶起の特異性

  イ、途中に於て雄図空しく、抗勅の汚名を冠せられ反徒として扱はるゝに至ったが、趣意書に示された如く飽迄大義明分を瞭かにして蹶起したものであり、“五・一五事件”と趣を異にし、“三月事件”とは勿論雲泥の相違ある点
  ロ、ニ十八日岡村少將、橋本大佐と“皇道隊”幹部の会談に於て、具体的問題に入り遂に決裂したが、具体的問題の内容は
   1、私有財産制度の限定 2、疲弊困憊の農村匡救対策の確立 3、重要産業の国家経営 4、重大時局に䖏する強力内閣々員の理想的人物
 等あげられたものゝ如くである、農村匡救対策は別として、私有財産制度の限定、重要産業の国家経営問題等は、從來單に理論の範囲を出でなかったものが、今次の事件に於て遂に新経済国策として表面に押上げられたこと
  ハ、重大時局に処する理想的人物があげられ、経済機構の大改革を、実力行使によって実現を企図したことは、論理的に大権干犯の譏りを受けるかも知れず、重臣、大官等に対する大権干犯の糾弾も国家撞盖に陷る憂なきを得ないが、信念の上に於ては、国体原理に基く昭和維新断行にあったことの意義
 等が抽出される、從って、信念的蹶起の意義は軍人精神の発揚顯現とされ乍らも、これが皇軍の国民皆兵に対する思想的影響性を、反徒としての断罪上に、今後種々の問題を提起して居るのみならず、皇軍志気の上にもまた反映すべきを保し難い、また信念的蹶起の意義は次の事実と共に思考されるべきであらう。
 イ、“皇道隊”は麻布步三の九百名が中心となして居った、全員出動参加せし第六中隊はかつて、秩父宮殿下が御訓練になったものであること
 ロ、勅令が香椎戒厳司令官に下った後に於ても事態収拾に困憊せる軍首脳部は再度秩父宮殿下に対し奉り、“皇道隊”の鎮壓要請論が起った事情
 ハ、“皇道隊”の主張に宮殿下が共鳴された際には更に事態の紛糾拡大する虞ありとして、要請中止となった点
 ニ、奉勅の奏請に際して“皇道隊”に対する勅諭か、戒厳司令官に対する勅令か、には相当議論があったこと
 
 五.“皇道隊”に対する批判

 国体原理に基く昭和維新断行の大旗をかざして蹶起した“皇道隊”の雄図も、中途に於て抗勅の汚名を冠せられ、その最後は、あたら憂国の士も勅令によつて制定された東京軍法会議に於て、反徒として断罪さるゝ運命にある、一千五百の“皇道隊”将兵が身命を賭して実現を念願した昭和維新の断行は、余りにも貴重なる多くの犠牲のみ払つて、再び一回遷延するの已むなきに至つたことは、軍人たると一般人たるを問はず祖国“日本”を憂ふるものら斉しく痛恨するところである。
 去る三月三日以来東京憲兵隊本部によつて反乱將兵の調書作成が行はれて居る、調書作成の衝に当れる一憲兵は“神霊の御加護によつて彼等の言はんとするところを、せめて調書の上に、余すところなく尽さしめ度い”と洩らして居る、茲では“皇道隊”の蹶起に対する批判よりは寧ろ何故彼等の雄図が、昭和維新断行の大旗かざした国体原理に基く信念的行動蹶起であつたに拘らず、中途に於て反乱、逆臣の汚名を冠せられねばならなかつたか、に思ひを囲らして見ることが、より重要であらう。
 1.再度秩父宮殿下に対し奉り“皇道隊”の鎮撫を要請せんとし然も殿下の“皇道隊”に御共鳴遊ばされた場合の事態紛糾拡大を虞れて中止、強行処置に出でことゝ、軍首脳部のスタツフ
 2.戒厳司令官に勅命が下り、“皇道隊”に勅諭が下つたものでないことは既述した、從つて抗勅の罪は一等を減じられる、とは雖も、奉勅の奏請が勅諭であつた場合に想到するとき、二十八日の西、阿部両軍事参議官と“皇道隊”幹部との会見顛末に於て瞭かなる如く、一千五百の將兵をして反徒たらしめずに終つたであらうこと、斯る論理的追求は更に
 3.破壊行動後の建設工作に就て、上層部への信頼過重、皇道派の巨頭たる眞崎、荒木両軍事参議官の奉勅奏請を繞る積極工作と、下級將兵の信頼に答へ得ざりし不信
 4.客観的には皇道派巨頭の眞崎、荒木両大將の総退却、統制派、機関説信奉の側近者等を糾合包含した現狀維持願望の捷利、維新断行の遷延
 輦轂の下、四日間に亘つて襟宸を悩し奉つた“皇道隊”の蹶起は斯くて“五・一五事件”以来の犠牲に更に多くの加重を結果することゝなつた、にも拘らず、妖雲は依然として払拭さるゝに至らなかつた、奉勅奏請を繞つて、この事は明確に云ひ得るところである、帝都の治安は戒厳司令部の強硬処置によつて平静維持確保さるゝに至つたと香椎司令官は発表して居る、果して然るか?“昭和維新断行”は、“皇道隊”蹶起事件によつて一日を遷延されたと解し得るも“遷延”は断じて“解消”にあらざることを附言して結語とする。(終)

〔蔵書目録注〕これらの文中には、以下の文〔全文または一部〕も引用・所収されている。
 
 ・「渡辺教育総監に呈する公開状」〔『大眼目』第三号増刊からの引用〕
 ・「父兄各位へ」中隊長山口一太郎〔その二.精神的後援についてのみ〕〕

 「赤坂歩兵第一連隊第七中隊長山口一太郎大尉が本年の壮丁入営に際して父兄約六百名に述べた挨拶」(昭和十一年一月十日)で、「国体明徴に関して何等誠意のなき現内閣や皇軍を国民の怨荷たらしめようとする高橋蔵相の如き私は憎みても余りあるのであります。」などと述べられているもの。

 ・「“皇道隊”蹶起趣意書」〔全文〕



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