goo

線の発生

 数多くの動物たちが描かれたショーヴュ洞窟で特に注目された動物は、熊です。写真家で批評家の港千尋さんはこの熊について「壁にレッド・オーカーで描かれた見事な熊が、のっそりと歩いている。ほとんど一筆で描かれた熊の胴体、特にその頭部から背中にかけて流れる線は、われわれが美術館で知っている有名画家たちのデッサンに勝るとも劣らない、素晴らしいものだ。この線とそれを見る自分の視線とのあいだに、時間的な隔たりは感じられない」*01と述べています。
 
たしかに見事に熊の特徴を描き出したその輪郭線は、いま私たちが慣れ親しんでいる漫画の表現にも似て、非常に現代的な感覚を与えるものでもあります。そして三万一千年前に描かれた絵が示すこのことは、ものを視覚で捉え、ビジュアル的なイメージを脳内に形成しようとする時、まずそのものの輪郭線を把握するというプロセスが、人類にとって根源的なものだったことを意味しているのです。


Dessin d'ours des cavernes dans la Grotte Chauvet-Pont d'Arc

 
線の「発生」を考える時、マッハバンド現象とその原因と考えられる側方抑制現象に注目する必要があります。マッハバンド現象とは、物理的に輝度がなだらかな連続変化を示す画像において、その輝度の変化する点に輝線や暗線が見える現象で、物理的には存在しない輝度変化の強調を人間が心理的に知覚してしまう現象です。人間は無意識のうちに輪郭が強調された像を見ているのです。


視覚的刺激の変化面に発生する境界線/マッハバンド現象

 
この現象は、網膜や大脳の神経系の拮抗的興奮と抑制によって起きる*02と説明されています。眼球内の網膜にある光受容細胞の受容野の中心に光が当たると、興奮した受容器から神経繊維を通して光の強さに応じたプラスのインパルスが発射されますが、少しずれたところに光が当たると、その興奮を逆に抑制する働きがおこります。この現象が側方抑制現象と呼ばれるもので、視野の中心と周辺の輝度の差によって輪郭が強調され、マッハバンドが生じるのです。
 
潜在刺激が、知覚される刺激に返還される閾値を越える瞬間に、マッハ曲線が側方抑制を媒介として存在し、それによって刺激の変化面に境界線が発生するのです。グラフィックデザイナーの杉浦康平さんは、その境界線は、実は微細に観察すると(森政弘さんが提唱した「不気味の谷」との相似性をもつくさび型カーブの形をした)二つの鋭い極大・極小値が境界面を強調して、線的効果に変わり、境界線を強く知覚させている*03と指摘します。それは極大値と極小値を両側にもつ、「おぼろげな線」を構成し、線の「発生」とものの輪郭の把握という私たちの身体性による空間認識につながっていく、というのです。

01:洞窟へ-心とイメージのアルケオロジー/港千尋/せりか書房 20010709
*02:マッハバンド-その数理・物理・生理・心理-/MASUDA, Osamu
*03:図の宇宙誌:杉浦康平+多木浩二/多木浩二―四人のデザイナーとの対話/新建築社 1975.03.05

 

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 記号のはじまり イメージの伝... »
 
コメント
 
コメントはありません。
コメントを投稿する
ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。