当たり前のことである
体力は肉体の問題である
養老孟先生の話では脳も肉体の1つである
脳と言う機能も当然 身体の老化をする
当たり前のことだと言いつつ廊下を感じないものである
自分では認識できていない
いつまでも若い頃と同じように逆上がりができると思っている
私が35才頃、息子に逆上がりの仕方を教えようとして自分でお手本を見せようとした
そしたら自分も逆上がりができなかった
腹筋が落ちてて足が上がらなくなっていた
今もボールペンで活字を書こうとしていて文字がきれいに動かなくなっている
線が引けなくてすぐ次の活字にペン先が入っているから奇妙な見たこともないような文字になる
これは手首と指と脳の老化によるものなのか
おそらく意識も老化しているのだろう
かつては政治的な事は関心が全くなかった
今は政治的なことが気になってしようがない
自分では気がつかないうちにいろんなことができなくなっている
若い頃は何でもできると思っていたから その分何が起こっても怖くないと感じていた
自分でなんとかできると考えていた
今はできない
いろいろなことができない
簡単なことができていない
動作も遅い
その上 身体も疲れている
ちょっと動くとすぐ疲れる
階段の上り下りがきつい
子供の頃大好きだったゲームとか遊びが面倒だし疲れるからやりたいと思わない
できればやりたくない
そんな心のあり方も老化現象なのだろう
そんな自分の意識は自分が昔と変わっていないと思っている
意識や好みや感じ方は自分のまま何十年も変化していないことを前提に考えている
困ったことに考えることだけは今も昔と同じように常に考えている
意識だけはもう考えたくないと言っていないのである
考えることだけはもう嫌だから考えを止めると言わない
ところが考える力は低下していそうである
かつて考えていたこととはパワーというか活力の意味で弱いと思う
考えるときの記憶が早く消えて希薄になっていく
文章を書きながら考えていてもかつてのように書けない文字を調べようかとか 文字の綺麗さを気にしながら書くこともこだわらなくなってきた
それよりも増して肩が痛くなっている
文字を書く身体の姿勢が固まってしまい 肩に不要な力がかかって痛いと感じているのである
これも老化現象の為せる技か
頭がぼーっとしているのは若い頃から同じである
しかし若い頃はぼーっとしていても血気盛んで血の気は高かった
今は意識は貧血気味である
意識にパワーがないから行動も消極的だ
特に変化することに対応しきれていない
今の生活が問題だらけでダメであっても問題だらけの場所から動こうとしない
行動を起こすことができない
できないと言う言葉が先に出てくる
できないと言うのは本当なのか
実はやらないのではないか
やる気がないのではないか
動く気が起こらないのではないか
動こうと思わないのではないか
そういうことが本質的な実態なのではないか
つまり嫌だけれど嫌なままでいいと言うことなのだろう
もっと突き詰めると 面白とおっもう事、やりたいことがない
だからそこへ行く道が見えていない
むしろ動けば必ずそこには人がいる
人間は嫌いだ
だから多くの人とは会いたくない
しかし放置していても多くの人がやってくる
どこまで行っても面倒な人間関係がつきまとう
職人ならばあまり人とは関わらない
しかし現在において職人は消えかけている存在である
職人を語った売り子ばかりである
口がうまく人をタブラかす人が現代の必要な人間像となっている
目的は内に求めてもいけない
外に求めるべきだろう
静止は悪だ
前進には細かい目的は不要である
むしろ考えない方が賢明なのではないかとすら感じる
ただ単に妄想ばかりするのは愚の骨頂である
そこまでただひたすら想像、空想ばかり繰り返している自分自身が1番愚かなのだろう
何も考えるな
老いた身体でただ前に進め
それだけだ
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