66歳の貧乏なアルバイター

単身赴任生活が終わり、定年。でも生活できないから、、どうしよう。。

永遠の命とapoptosis 医学と進化と文化(うだうだ)

2021-06-04 09:02:00 | エッセイ
永遠の命を求める映画がありますが、そもそもapoptosis(自然死または細胞が選択した自殺死)というものは命が誕生した後で生命自体がわざわざ発明したものです。

それまでは殺されない限り命は永遠に死ななかった。

なのに、apoptosisを発明したのですよね。

「永遠の命」は言うなれば「地獄絵図」

死にたくても死ねないことの方が恐ろしい。

地獄に等しいものであることを知らないから、永遠に生きたいと願う。

いやいや、そうではなくて、命は生きてる間は死なないことが仕事ですから、、当然のこと。

なるほど。

生きてる間は望むと望まないにかかわらず、生きることが命題なのでしょう。

ならば、頑張って生きることを大いに謳歌しましょう。

ただね、「望むと望まないに拘らず」ってとこが「やだなぁ」って。

せめて、望んで生きたいですね。

老人になって、身体がギクシャクしてきてます。

でも、ベッドから起きれなくなっても現代の医学は死なせないことが正しいのでしょうな。

進化の過程で、本質を見失ってませんか?

脳化社会(都市化社会)がヒトの生き方を迷路に方向転換したんじゃないのかな、と考えてしまいます。

文化は大事です。

文化とは人と人とのコミュニケーションが為せる仕組みでしょう。

それが、人が人を縛る仕組み切り替わった。

脳で考えたことが最上位の事だと勘違いしてる。

ネットの中はその意識だけが取り出されてる。

身体は放って置かれてる。

命は身体じゃないんでしょうかねえぇ、、、

私は身体があってこそ、だと思ってる。

意識はその次。

だから、動物、植物、みんな尊い。

さらに言えば地球そのものが尊い。

だから仏陀は頭で考えること、意識を無にしろって言ったんじゃないでしょうか。

念仏ってのは実は中身は無くてもいい、ただウンウン唸っててもいいんじゃないでしょうか?

そんなこと言うと怒られる。

怒るのも人。

怒られるのも人。

そもそも意識の向こうには必ず人が居るんでしょ。

まぁ、たまに壁に向かって喋ってる人もいますが、あれは壁を擬人化してるから。

菩提樹の下で胡座を組んでたら、風も空も空気も大地も時間すらも始まりが有ればきっと終わりがある。

生きることも終わりがあってなんぼ。

じゃあ、それでいいじゃんか。

悟り。。。

グダグダ言ってるのはわたし。

言いたいから言ってるんです。

じゃあ、ってんで、

好きな事をする。

なんでもいいや、やりたいことをしたい。

日々そういうこと(したいこと)に努力するのが最大の命題ですな。

そんな、単純なことが歪曲されてる。

子供の頃に立ち返って考え直したら、わりかし簡単なことなのかもしれませんなぁ。。。




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