平成28年8月10日(水)
八月八日、
今上陛下は、戦後七十年を「大きな節目」と言われた。
そこで、その節目の起点となった
昭和二十年八月九日に始まった御前会議における
昭和天皇の十日未明の御聖断
に関して記しておかねばならない。
何故なら、一昨日の今上陛下のお言葉は、既に述べたように、
明治天皇および昭和天皇を鑑(かがみ)として自ら果たしてこられた
天皇の務めに関して述べられたものだからである。
即ち、ここに一貫して観られるものは、
歴代天皇に貫かれている無私の御決断と御行為である。
昭和二十年七月二十六日、
我が国に無条件降伏を迫る連合国のポツダム宣言が発せられた。
同八月六日午前八時十五分、
広島に原子爆弾が投下された。
天皇陛下は、
広島の状況を詳しく報告せよと政府と陸軍に御下命になったが、
七日も詳細不明のまま暮れた。
以下の推移は次の通り(藤田尚徳著「侍従長の回想」より)。
八日朝、東郷外務大臣が参内して陛下に原子爆弾に関する米英の放送を報告した。
陛下は、原子爆弾の惨状をよく知っておられ、外相に
速やかに戦争を終結するよう努力せよ、
このこと木戸内大臣と鈴木首相に伝えよ、
と指示された。
八日午後十一時(モスクワ時間午後五時)、ソ連のモロトフ外相が佐藤大使に、
対日宣戦布告文を手渡した。
九日午前十時三十分、鈴木首相は、ポツダム宣言受諾に関して、
戦争最高指導会議を開いたが、
以後、三時間協議しても意見がまとまらずに休会し、
引き続き閣議を午後二時から三時間開催し、
さらに第二回閣議を午後六時三十分から午後十時まで開いた。
陛下は、この間、陸軍の軍装を召されたまま、
指導会議や閣議の様子を木戸内府から逐一お聞きになって待機されていた。
その間の午前十一時〇二分、長崎に原子爆弾が投下された。
午後十一時頃、鈴木首相が拝謁して陛下に御前会議開催を奏上した。
午後十一時五十分、御前会議が開会された。
十日午前二時二十分、鈴木首相が
「会議は終わりました。ただいまの思し召しをもって会議の結論といたします」
と述べて御前会議が終わった。
即ち、天皇の御聖断が下された。
この時、ポツダム宣言受諾、終戦が決定された。
この御前会議の最後において、鈴木首相は、陛下の前に進み出て、
次の通り御聖断を促した。
「義を尽くすこと、既に数時間に及びまするが議決せず、
しかも事態は、もはや一刻の遷延も許しませぬ。
まことに異例で畏れおおいことながら、
この際は、聖断を拝して会議の結論といたしたく存じます。」
陛下は、鈴木首相を席に着かせてから、口を開き、
ポツダム宣言受諾を明言され、
次のように締めくくられた。
「明治天皇の三国干渉の際の御心持を偲び奉り、
自分は涙をのんで原案に賛成する」(木戸日記)
さらに、そのとき陛下は、
「自分一身のことや皇室のことなど心配しなくともよい」(左近司国務相)とまで言わ れたという。
以上、
一昨日八月八日の、今上陛下のお言葉は、
七十一年前の八月九日から十日にわたる御前会議を締めくくる
御父君、昭和天皇の、無私の御決断を背景にして述べられている。
さらに、その昭和天皇の御決断は、
明治天皇の三国干渉の際の御心持を偲んで為されたものである。
このように、
近代国家である日本は、明治、大正、昭和そして平成と、
太古から連続し一貫して、「天皇のしらす国」として歩んできて、
これからも歩んでいくのである。
八月八日の陛下のお言葉の伝達は、やはり玉音放送であり、歴史的である。
諸兄姉、
天皇のしらす国、日本に生まれた有り難さを噛みしめようではないか!
西村真悟の時事通信より。