皇国ノ興廃此ノ一戦ニ在リ各員一層奮励努力セヨ

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「目覚まし時計」と明石元二郎閣下

2022年05月16日 | 日本・国士
嘉永六年(一八五三年)七月八日、
ペリー提督率いる、
黒い煙をもくもくと出して進む二隻の蒸気船と二隻の帆船の四隻からなるアメリカ海軍東インド艦隊が、
合計七十三門の大砲を舷側から出して東京湾に進入し、
浦賀に投錨した。
アメリカ大統領の開国と通商を求める親書を幕府に手渡すためであった。
その翌八月、南の九州長崎に
ロシアのプチャーチンが四隻の軍艦を率いて来航した。
その目的は、アメリカと同様の開国と通商であるが、
ロシアはさらに我が国に対して領土を要求してきた。
即ち、千島と樺太における国境線の決定である。
我が国の歴史教科書では、
ペリー提督の率いる黒船来航だけが強調されているが、
同時期、ロシアは我が国に、
最初から領土を求めて来航したことを軽視してはならない。

斯くして、我が国の歴史は「幕末」という段階に入る。
江戸庶民は、
幕府の文字通り喉元の江戸湾に入ってきた四隻の黒船を見て、
「太平の眠りを覚ます上喜撰、たった四盃で夜も眠られず」
と歌った。
即ち、四隻の黒船は、太平の眠りを覚ます
「目覚まし時計」(ウェークアップコール)であると言うのだ。
まさに、黒船来航の本質を突いた感受性であり、
日本国民の民度の高さを示す歌である。
従って、十五年後の慶応三年十二月九日に発せられた
「王政復古の大號令」においても、冒頭に、明確にこの黒船来航の意義を、
次の通り幕末から王政復古に至る「歴史的画期」と位置づけている。
「徳川内府、従前御委任大政返上、将軍職辭退之兩條、今般断然被聞食(きこしめされ)候。
抑(そもそも)癸(みづのと)丑(うしのとし)(嘉永六年)以来、未曾有之國難、
先帝頻(とし)年(ごろ)被悩宸襟候(しんきんをなやまされ)御次第、衆庶之所知ニ候。」と。

そして、
この「未曾有之國難」を克服して成った明治維新を経て、
我が国が直面した事態は、清国とロシア帝国との戦争であった。
支那は太古から我が国の西方海上の彼方にあった。
他方、ロシア帝国は、十六世紀末には、
二百数十年に及ぶタタール・モンゴルによる支配の頸城から脱したモスクワを根拠地とする土公国であった。
しかし、独立以来、イワン雷帝の意思に従って、
我が国の江戸時代全期間にわたって、
止むことなくユーラシアを東に向かって膨張を続けた。
そして遂に、
一八六〇年の清国との北京条約によって沿海州を獲得し、
ユーラシアの
西のバルト海から東の日本海に至る大帝国となった。
このユーラシアの東に到着して太平洋に臨んだロシアの野望は、
ロシア海軍軍令部が編纂した「露日海戦史」に掲載されている。
即ち、ロシアは極東から南の海に広がる海洋の制覇に乗り出す。
同海戦史に曰く、
「極東における絶対優位権を確立せんとするならば、
須く日本を撃破し、
その艦隊保持権を喪失せしめなければならない。」
さらに
「対日戦争では朝鮮を占領し、馬山浦を前進基地とし、
日本人を撃破するのみにては不十分で、
更に之を殲滅せざるべからず」(平間洋一著「日露戦争が変えた世界史」芙蓉書房出版)。

さらに、この十九世紀のロシアの海洋への野望は、
二十一世紀に継続されていることを知るべきだ。
現在のロシア大統領プーチンが
指図して書かせた「ロシア国歌」の歌詞は、
「ソビエト国歌」のメロディーで歌われる。
それは次の通り。
「ロシア!我らが聖なる帝国・・・
南の大海原から北極圏まで至る・・・
神が護りし祖国よ!」。
この「南の大海原」とは何処の海か?
地中海か?
そうではない。
ユーラシアの東端から広がる大海原、
つまり我が日本列島のある海だ。
領土の膨張欲なきロシアなど、あろうか。

振り返れば、我が国は、明治維新達成の過程で、
この清と露の作り出す國難に敢然として立ち向かい、
それを克服した。
明治二十七・八年の日清戦争と明治三十七・八年の日露戦争で、我が国は勝利したのだ。
まさに日本民族の総力がなせる
「明治という奇跡」であろうと思う。
しかし、近世の数百年間におよぶ大航海時代のなかで、
アジア・アフリカの有色人種を、
「神から与えられた奴隷」の如く、
当然のように支配してきた欧米キリスト教圏の諸国は、
この突如として台頭した
東洋の有色の日本を、
おぞましい異教徒の禍(わざわい)つまり「黄禍」と観た。
そして、有色人種を支配することが
神の聖なる意思であるとするキリスト教圏に生まれた妄想、
「マニフェスト・ディスティニー」の権化であり、
前任の大統領から「戦争を欲する狂人」と呼ばれた
アメリカのF・D・ルーズベルト大統領は、
一九四一年八月、
欧州におけるドイツとの戦争でくたくたになり、
助けを求めて大西洋を渡ってニューファンドランド沖に来た
イギリス首相チャーチルと、
戦艦プリンス・オブ・ウェールズの中で
「戦争の謀議」を行い、
ドイツと同盟関係にある日本を
太平洋で戦争に引きずり込んでから、
アメリカ軍をヨーロッパ戦線に送り込み
ドイツと戦うことで一致した。
後の、極東国際軍事裁判(東京裁判)は、
東条英機らの「戦争の謀議」を裁いたが、
第二次世界大戦の眞の最大の「戦争の謀議」は、
一九四一年八月、
イギリス戦艦プリンス・オブ・ウェールズの中で、
イギリスのチャーチル首相と
アメリカのF・D・ルーズベルト大統領との間で行われたのだ。
従って,彼ら二人は
東条より先に絞首されねばならなかった。
しかし、我が国は敗れ、
一九四五年八月十四日午後十一時、
米、英、支、ソの発したポツダム宣言を受諾し、
同年九月二日、
九十二年前にペリー艦隊の旗艦「サスケハナ」が投錨した
同じ地点に投錨した
戦艦ミズーリの甲板で降伏文書に調印して、
一九五二年(昭和二十七年)四月二十八日の
サンフランシスコ講和条約発効まで、
国家主権を剥奪された状態で
主にアメリカの軍事占領下におかれた。

この時のアメリカの対日占領統治の方針を、
亡き石原慎太郎さんが
東京都知事時代の平成二十四年六月十三日に、
土屋たかゆき都議会議員の質問に応じて、
次のように、まことに分かり易く、
日本降伏時のニューヨークタイムズの論説を引用して語っている(同日の東京都議会本会議一般質問議事録より)。
「(このニューヨークタイムズの論説は)ドイツの場合には、
『この優秀な民族の再建のため、
私たちはあらゆる手だてを講じて援助しよう』
となっているが、
日本の場合は、がらっと違う。
『この醜くて危険な怪物は倒れはしたが、
まだ生きている。
我々は世界の平和のために、
アメリカの安全のために、
徹底してこれを解体しなくちゃならぬ』
ということで、アメリカの統治が始まった。
そのために、一つの手だてとして
今の憲法がつくられた。」

この石原慎太郎さんの発言は、真実である。
では、アメリカが
「徹底してこれを解体しなくちゃならぬ」
とした「日本」とは何か。
それは、
前記の慶応三年の「王政復古の大号令」および
翌年明治元年三月十四日の「五箇条の御誓文」
そして、
明治二十三年十月十四日に渙発された「教育勅語」を戴き、
精強な帝国陸海軍を擁する「日本」である。
そして、この「日本」を解体するためにアメリカは、
日本に軍隊を放棄させる「日本国憲法」を書いたのだ。
まさに、この「日本国憲法」に従う体制を
「戦後体制」という。

そこで、歴史を大観して、
その「歴史の循環」に思いを致そうではないか。
歴史は、
単純な直線の上を滑っているのではなく、
循環しているのだ。
我々は、百六十九年前の黒船来航によって
「幕末期」に入り、
十五年後の百五十四年前に
「徳川幕藩体制」から
「神武創業之始ニ原(もとづ)」く
近代国家体制の構築期に入った。
この幕末期とは、
国家の生き残りをかけた新国家体制構築の苦闘期である。
ここで注目すべきは、
我が国は神話と歴史が不可分に結びつく国であり、
「復古」と「革新」は不可分一体であるということだ。
即ち、
我が国においては神武創業の始めに基づくことが、
即ち近代国家の建設であった。
そして、これからもそうなのだ。

そこで、問う。
現在の「黒船」とは何か?!
現在の克服すべき「幕藩体制」とは何か?!
現在の黒船とは、
「ロシア及び中共の核弾頭ミサイル」である。
そして現在の「幕藩体制」とは、
「日本国憲法体制」である。
このこと、痛恨の思いを以て振り返らねばならない。
何故なら、
「嘉永六年の黒船」は、江戸湾内の眼前に見えたので
「太平の眠りを覚ます」目覚まし時計になったが、
「現在の黒船」は、目に見えない数千キロ彼方にあるので、
戦争放棄を掲げた「日本国憲法」の下で
平和ボケをした日本国民の目覚まし時計にならなかったのだ。

しかし、本年二月二十四日から始まった
ロシアのウクライナ侵攻によるウクライナ戦争の勃発は、
明らかに我が国と世界の「太平の眠り」を覚ましてくれた。
従って、我らはこれから、
かつて先人が幕藩体制からの脱却を成し遂げたように、
「日本国憲法体制」からの脱却を断行しなければならない。
具体的に言うならば、
「日本国憲法」の無効宣言と、
自衛隊を基盤にした国防軍の創設。
そして、我が国の眞の憲法は、
我が国の神話に始まる歴史と伝統の中に
「不文の憲法」
として存在するという確認である。


この春、博多の筥崎宮内に
日露戦争において、
ロシア国内に騒擾をもたらす謀略工作を仕掛け、
戦後は台湾総督として台湾近代化に尽力した
陸軍大将、男爵明石元二郎閣下の顕彰碑が建立された。
次に掲載するのは、
その顕彰碑建立記念誌に書いた一文。

我が国の歴史を振り返れば、
日本を救う世界史的事件が、
筑紫の国福岡において二度起こっている。
その第一は、
博多に押し寄せた蒙古軍との戦いである。
即ち、弘安四年(一二八一年)、
ユーラシア大陸全域を支配するに至ったモンゴル帝国・元の、五十万を超える軍勢を、
日本武士団が博多の水際で迎撃して潰滅させたことだ。
その第二は、
元治元年(一八六四年)、
福岡藩士の次男、明石元二郎閣下が、福岡市大名町に生まれたことである。

第一の弘安の役の勝利が無ければ、
日本はモンゴル帝国の頸城の下で消滅し、明治維新はあり得なかった。
しかし、日本は勝利することによって日本であり続け、
六百年後に明治維新を成し遂げ、
二十世紀に、日露戦争と大東亜戦争を闘うことによって、
世界を覆う欧米の植民地解放と有色人種差別撤廃という人類史的転換を成し遂げた。
よって、この出発点である弘安の役の勝利は、
世界史的事件なのである。
しかしながら、仮に明石元二郎閣下が誕生しなければ、
明治三十七、八年の日露戦争の勝利は無く、
当然、大東亜戦争による植民地解放と有色人種差別撤廃もなかった。
ここにおいて、明石元二郎閣下の誕生は、
まさしく日本の救国と人類史の転換をもたらしたといえる。

明治三十七、八年、帝政ロシアに圧迫され苦しんでいる
ロシア西方のフィンランドやポーランドの諸民族を同志として、
密かに謀略活動を展開する明石元二郎陸軍大佐の存在がなければ、
日露戦争において、日本はロシアに勝利し得なかった。
歴史は、そう断定している。
その日露戦争における隠れた救国の勇者である
明石元二郎閣下が、
大正七年七月から翌年十月二十六日に福岡に没するまで、
台湾総督を務められた。
その間、設立・建設のなった台湾電力と東洋最大規模の日月潭水力発電所は、現在も台湾の社会経済を支えている。
この台湾総督明石元二郎閣下は、福岡における臨終に当たり
「余の死体は台湾に埋葬せよ、
いまだ実行の方針を確立せずして、
中途に斃れるは千載の恨事なり、
余は死して護国の鬼となり、
台民の鎮護たらざるべからず」
と遺言された。
そして遺言に従って、ご遺骸は十一月一日に帰台し、
総督府葬の後、台北市の三板橋墓地に埋葬された。
これほどの隠れた偉人、
日本と台湾の為に尽くされた無私の眞の英雄があろうか。
従って、
台湾第七代総督・陸軍大将・男爵明石元二郎閣下の顕彰碑が、
福岡県郷友連盟によって、
「敵国降伏」の御宸筆を神宝とする
筥崎宮に建立されたことの意義は、深く計り知れない。

台北市にある戦後には粗末な飲食店が並ぶようになった
三板橋墓地(現、林森公園)にある明石閣下の墓に一度、
その後、
移転先の新北市の福音山にある墓に三度お参りに上がった者として、閣下の顕彰碑を建立された福岡県郷友会に敬意を表し、
お祝い申し上げる。

さて、我が国が蒙古の軍勢を博多湾で潰滅させた頃、
ユーラシアの西ではロシアがモンゴルに屈服し、
以後二百数十年間タタール・モンゴルに支配された。
しかし、織田信長と同時期に生きたイワン雷帝は、
ロシアをタタール・モンゴルの頸城から脱却させ、
以後、ロシアのツアー(皇帝)は、
タタール・モンゴルと同じ膨張主義の権化となって、
我が国の江戸時代の全期間を通じて東方への拡大を続け、
遂に一八六〇年(万延元年)、沿海州を獲得して、
西のバルト海から東の太平洋に至るユーラシアの大帝国となる。
そして、太平洋を見たロシアは、
極東での絶対優位を確保することを狙い、
明治三十七年までに十九万トンの太平洋艦隊を建造する。
西のバルチック艦隊の二十六万トンと黒海艦隊を合わせれば
ロシア海軍の保有する艦艇総数は四十五万トン以上である。
これに対し、日本海軍は二十六万トンを保有するに過ぎない。
また、陸上の歩兵の総数で比べると、
日本陸軍はロシア陸軍総兵力の約九パーセントだった。
陸海軍とも、到底ロシアの戦力には及ばなかった。
その上で、ロシア外務省文書には次のように記されている。
「須ク日本ヲ撃破シ、ソノ艦隊保持権ヲ喪失セシメナケレバナラナイ。・・・対日戦争デハ朝鮮ヲ占領シ、馬山浦ヲ前進根拠地として、日本人ヲ撃破スルノミニテハ不十分デ、
更ニ之ヲ殲滅セザルベカラズ」(平間洋一著「日露戦争が変えた世界史」)。
この時、ロシアのツアー・ニコライ二世は、
日本人を「マカーキー(猿)」と呼び、
ロシア軍将官は、
日本との戦争を「極東の軍事的散歩」と嘯いていた。

しかし、日清戦争後のロシアの三国干渉に屈した我が国は、
文字通り臥薪嘗胆、
国力を絞り尽くして軍備増強に励んでいたのだ。
もちろん日本は、
平和を維持するためにロシアと交渉を続けていたが、
ロシアは交渉に応じながら、着々と、海軍艦艇を極東に回航し、
旅順に大要塞を建設すると同時に
満州の各所で部隊の移動や陣地構築を進めていた。
よって、明治三十七年(一九〇四年)一月に、
イギリスの高名な軍事記者が
「あと三ヶ月もしたら日本軍に勝利の見込みはない。手も足も出なくなる」
と記した。

ことここに至って我が国は、
同年二月四日、
御前会議でロシアとの交渉打ち切りを決定し、
翌五日、動員令を下命した。
この日露の、絶望的な兵力の差を承知で、
対露開戦を決断した当時の政府・陸海軍首脳部、
即ち、明治維新の動乱を経験した
伊藤博文、桂太郎、山本権兵衛、大山巌、山県有朋、児玉源太郎らは、
何を以て、一条の勝利の光を見ていたのか。
それは、満州の戦場から遠く離れた
ロシア国内の騒擾化を図りロシア帝国を内部から瓦解させる謀略工作の為に、
彼らがロシア西方に放った
明石元二郎大佐ただ一人の存在と力量と行動だった。
即ち、我が国首脳部に日露開戦を決断させたのは、
敢然と死地に赴く眼前の陸海軍将兵の存在とともに、
遙かユーラシアの西で謀略活動を展開している
明石元二郎大佐の存在であった。

明石元二郎大佐は、政府から出た巨額の活動資金で、
決して表にでることなく、
ロシアの国内の反ツアー、反ロシア運動を拡大させ、
さらにレーニンを逃避先のスイスからロシアに送り込んで
革命運動を煽って拡大させ、
スイスで武器弾薬を購入して、
これら反ロシアの各党派および革命勢力に分配して
ロシア国内に不穏な反政府・反ツアーの雰囲気を醸成した。
その結果、ロシアの軍隊にまで
革命蜂起や戦争サボタージュの動きが起こり、
兵力を十分に満州の戦場に遅れなくなり、
ツアー・ニコライ二世の戦争継続の意思を砕いた。
明石大佐は、
血の日曜日事件や
戦艦ポチョムキンの反乱にも関与していたと言われる。

そして、始まる日露最後の決戦となった奉天の大会戦は、
明治三十八年三月一日に、日本軍が総攻撃を開始し、
三月十日に終結する世界陸戦史上最大の戦闘であり、
我が国の存亡がかかっていた。
ここで負けていれば、日本はロシアに征服され、
今生きる我らは日本人として生まれることはできなかったのだ。
従って、当然、この奉天大会戦に、
明石元二郎大佐の
目に見えない気力と脳漿を絞り尽くした
巨大な祖国への貢献が刻まれている。

参加兵力は、
日本軍二四万九八〇〇名、
ロシア軍三〇万九六〇〇名。
戦死者は、
日本軍一万六五五三名、
ロシア軍八七五〇名。
捕虜は、
日本軍四〇四名、
ロシア軍二万一七九一名
さらに失踪したロシア軍兵士七五三九名。
この日露戦争における
国家の勝敗をかけた史上最大の陸上決戦において、
ロシア軍に捕虜と失踪者が総兵力の約一割、
合計二万九三三〇名もいたということは、
ロシア軍兵士の士気の低下を顕している。
そして、我らは、
ここに遙か東欧における明石元二郎大佐のたった一人の
知られることのない活動の成果を見なければならない。
奉天大会戦の勝利
つまり日露戦争における日本の勝利は、
黄塵に覆われた満州の荒野における
二四万九八〇〇名の日本軍将兵の、
なかんずく黄砂に埋もれて横たわった
戦死者一万六五五三名の勇戦奮闘と、
遙かロシア西方の東欧における
明石元二郎大佐の孤独な奮闘によってもたらされたのだ。
日本の勝利は
満州の荒野における二四万九八〇〇名の将兵の
死を恐れぬ勇戦奮闘なければ起こりえないと同時に、
満州から遠く離れたロシア西方における明石元二郎閣下の
たった一人の勇戦奮闘がなければ起こりえなかった。
この意味で、日露戦争における日本の勝利が、
世界史を変えたのならば、
明らかに明石元二郎大佐ただ一人の存在が
世界史を動かしたのだ。
よって、我ら日本人は、
明石元二郎閣下に深く感謝して、
筥崎宮に建立された閣下の顕彰碑を仰がねばならない。

西村眞悟FBより





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