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動物生態学的性癖

2022年03月08日 | 日本・国士
大陸国家、中共とロシアの
動物的生態を忘れてはならない

二月二十四日に、ロシアのプーチン大統領が、
軍をウクライナに侵攻させた。
事前にアメリカの軍事専門家達は、
ロシア軍は国境を突破して三日間で
ウクライナの首都キエフに入る
と予測していたようだが、
三月八日現在、ロシア軍は未だキエフに入っていない。
ウクライナ軍と国民が
ロシア軍と戦って阻止しているのだ。

テレビ画面に映るウクライナに侵攻したロシア軍戦車の長い列を見て思う。
自衛隊は、東富士演習場で毎年行われる総合火力演習において、
百発百中の対戦車ミサイルを発射してみせる。
よって、日本政府は、
我が自衛隊が所持するあの百発百中の対戦車ミサイルを、
ウクライナ軍に大量に供与しろ、と。
それと、同時に、
テレビ画面にプーチンの顔が出てくると、
核攻撃もありうるとウクライナとNATO諸国を恫喝している
この残忍で冷酷な男を、
我が国の首相が「ウラジーミル」と呼び、
この男から「シンゾー」と呼ばれて、
得意になって親密さをアピールしていたのかと唖然とする。
あれは、なんだったのか。

ともかく、我が国が、
このロシアのウクライナ侵略から
学び確認しなければならないことは、
西の海を隔てて直面している
ロシアと中共という二つの大陸国家に共通する
動物生態学的性癖である。
先ず第一に、我々は、
ロシアが、今、行っている他民族の領域への侵略は、
既に中共がチベットとウイグルとモンゴルと満州でしていることだと
確認しなければならない。
ロシアと中共は、同じことをするのだ。

また、もしウクライナに核兵器があれば、
ロシアのプーチンはウクライナに侵攻しただろうか、
と考えることは、
我が国にとって死活的に重要だ。
何故なら、我が国もウクライナと同様に、
ロシアと中共を隣国として
核兵器を保有せずに存在しているからだ。

ソビエト崩壊後のウクライナは、世界第三位の核兵器備蓄国で、
現在中共が運用している空母も保有していた。
しかし、二十八年前、平成六年のブダペスト覚書で、
ウクライナは、核兵器を放棄してロシアに引渡し、
ロシアを含む欧州安全保障協力機構によって安全を保障される
軽軍備国になった。

我が国も大東亜戦争後には
軽軍備国どころか、
「陸海空軍はこれを保持しない。
交戦権はこれを認めない」(憲法九条二項)とする
軍備放棄国になって!
アメリカに守ってもらっている。
この、我が国の状況は、ウクライナよりさらに危うい!
ウクライナは戦っているが、
我が国は、このアホな内容の無効憲法では、
超法規的でしか戦えないではないか。
従って、ウクライナの状況は、
日本に対する最も適切な警告である。
よって、その警告に基づき、
ロシアや中共からの我が国への侵略を抑止するためには、
我が国は、
核兵器を持たねばならない、
と断言する。

我が国のように縦深性を欠く細長い島国にとって、
西方に南北に並ぶ二つの大陸国家の動向は、
直ちに国家の安全保障に直接的影響を与える。
我が国にとって大陸政策は死活的に重要である。
そこで、次ぎに、
改めて我が国が初めて出会ったロシアとは何だったのか、
振り返る。
ロシアと我が国の関係は、
千島列島の北端で最初に出会った当初から、
領土の奪い合いであった。
通商を求めてきて初めて出会ったアメリカとは全く違う。
我が国の歴史教科書は、
一八五三年七月の、幕末を告げるペリーの黒船来航を教えるが、
その一ヶ月後の八月に、
ロシアのプチャーチンが長崎に来航すると共に、
北の樺太にロシア軍が侵攻してきて居座ったことを教えない。
アメリカのペリーは、
和親と交易そして自国船に対する石炭と食料の提供を求めたが、
ロシアのプチャーチンは、
最初から領土問題を主眼として来港してきた。
そして、遂に我が国は、
二百年以上に渡って日本領としてきた樺太を、
ロシアに奪われるのだ(明治八年、千島樺太交換条約)。

十六世紀の末、
二百四十年間に及ぶタタール・モンゴルの頸城(支配)から脱却したロシアのイワン雷帝(一五三三~八四年)は、
東に向かって拡大するためシベリア探検を開始する。
そして、一七一一年、コザックのロシア探検隊は、
カムチャッカ半島を南下して千島列島に入り、
遂に日本と遭遇した。

次ぎに一八〇四年、
長崎に来航して通商を求めたレザノフは、
日本から拒絶された後、樺太や択捉の幕府の番所を襲撃した。
これに対して幕府は、一八〇七年、
北海道と樺太を幕府直轄地として警備を強化する。
以後、ロシアは
欧州のナポレオンとの戦争で手が一杯で、極東には現れなかった。
しかし、
イギリスが清国とのアヘン戦争(一八四二年)に勝利して
南からアジアに進出を開始すると、
ロシアも北から再度進出してきた。
前記の通り、
アメリカのペリーが浦賀に来航した一ヶ月後の八月に、
ロシアのプチャーチンが長崎に来航すると同時に、
ロシア軍が樺太に侵攻してそこに居座る。
そして、一八五五年、
幕府は開国して各国と通好条約を結ぶが、
その際、日本の全権川路聖謨は、ロシアに対して、
日本の領土は
北海道、千島、樺太そしてカムチャッカであると主張した。
しかし、結局、日本の領土は択捉以南で、
樺太は不法ロシア人がいたことで日露雑居地とされた。
幕府の脆弱な戦力の悲哀だ。
大陸国家に対して法は通用しない。
通用するのは軍事力だ。

次ぎにロシアは、
一八六〇年に清国と北京条約を結んで沿海州を獲得して、
遂に西はバルト海から東は太平洋に至る帝国となる。
さらに、翌年、ロシアが侵攻してきたのは何処か。
それは対馬だ。
ロシアは対馬の浅茅湾の芋崎に
軍艦ポザトニック号を接岸させ、
陸に兵舎を建てて六ヶ月間居座る。
その目的は、
南海航路の確保といわれているが、
私は、海路だけではなく、
樺太に居座って一年前に対岸の沿海州を獲得したように、
対馬の対岸の朝鮮を獲得するという遠大な
大陸国家特有の領土拡大欲の為だったと判断している。
この時、ロシアは、
二百五十年間、絶えること無くユーラシアの東に向かって
一万キロの拡大を続けて遂に沿海州を得たのだ。
このロシアの、
本能的で伝統的な膨張主義からみて、
沿海州の南に延びている朝鮮半島にヨダレを垂らして当然だ。
事実、四十五年後の日露戦争は、
ロシアが満州から朝鮮半島に入り込んできて勃発した。
日露戦争における日露の最初の交戦は、
既に朝鮮半島の仁川港にいたロシア海軍の軍艦、
ワリヤークとコレーツ(朝鮮という意味)を
我が海軍が撃沈した海戦だったではないか。

以上の通り、
タタール・モンゴルの頸城から脱却したロシアの近現代史は、
東方の草原から現れたタタールに蹂躙された恐怖をバネとした、
絶え間ない東方への拡大だった。
草原国家の特色は、
国境線が絶えず動くということだ。
政府の権力が強ければ国境線は外に動き、
弱ければ縮む。
よって、
「ロシアでは、安全保障上の不安感と
強力な中央集権的国家の要請という
二つの心理状態が生まれ、
これらが綾をなして独特の安全保障観が形成された。
すなわち、
百パーセントの安全では満足できず、
それ以上の安全を求めて空間を拡大するという発想である。
これが『守るために攻める』という
独特の行動パターンをつくり上げた。
それが近隣諸国にとって
どれほどの脅威かについては無感覚である。
・・・ロシアの伝統的な膨張主義は、
外からの強力な抵抗
もしくは自滅によってのみ、
克服できる性格のものでしかなかった。」
以上は、
二〇〇〇年八月十五日に発行された
新井弘一著
「モスクワ・ベルリン・東京 外交官の証言」(時事通信社)
に記された文章である。

この文章は、この度の、
ウクライナに対するロシアのプーチン大統領の行動を、
二十二年前に見通していたようではないか。
一文を書いた新井弘一氏は、ロシア・東欧問題の第一人者だ。
新井氏は、
日ソ間の未解決の問題に、北方領土が含まれるか否かに関して、
ソ連ブレジネフ書記長の
「ダー(含まれる)」
という歴史的返答を引き出した
一九七三年十月の田中・ブレジネフ会談を、
外務省東欧第一課長として演出した方であり、
駐東ドイツ最後の大使としてベルリンの壁崩壊を見届けた。
そのベルリンの壁崩壊の時、
プーチンもKGB(ソ連国家保安委員会)諜報員として
東ドイツに駐在していた。
その時、彼は、
その二十一年前の「プラハの春」の時のように
ソ連の戦車をベルリンに入れようとしていたのだ。
しかし、
一年後の九〇年十月、東ドイツは崩壊して統一ドイツが誕生し、
さらに九一年十二月、ソビエトが崩壊・解体した。
そして、二〇〇〇年、
かつてのKGB諜報員プーチンが
ロシア大統領として登場する。
そのプーチンのロシアは、
ソビエト崩壊後にNATOがバルカン半島に拡大するとき、
米ソのINF条約を破って
中距離核弾頭ミサイルの製造を再開する。
続いてウクライナがNATOに接近すると、
新井氏の書かれた通り、
躊躇うことなく、国境を突破して
ウクライナに戦車を雪崩れ込ませた。

このロシアがユーラシアの東では、
同じ大陸国家の中共と
陸海空軍で連携して軍事行動を続けている。
ロシアが極東で行う
ボストーク(東という意味)という軍事演習に
中共軍も参加するようになった。
中露の海軍は、
既に毎年、日本の周辺海域で合同軍事演習を続けている。
そして、空域においては、
我が航空自衛隊機の
我が国領空に接近してくる中露両国軍機への
一年間のスクランブル発進回数は、
二〇二〇年までの三年間平均で、
対ロシア軍機で二百八十九回、
対中共軍機で五百九十回
である。
これ、既に有事の頻度ではないか。

また、十一年前の東日本大震災と巨大津波襲来の時、
我が自衛隊は総力を挙げて北東の被災地に集中した。
また全行政機関も被災地の救援復興に邁進していた。
その時、世界に
日本は放射能汚染によって
中央部は人が住めない無人地域隣となり
その無人地帯の北と南の二つの日本に分裂する
という話が流れ、
日本の浮く末に不安の思いが広がったとき、
我が国の南西海域に接近する
中国軍機の数が急増したと聞いている。
これ、
火事場泥棒ができるかどうか
威力偵察に来たのだ。

よって我らは、
古代ローマから伝えられる警告
「平和を願うならば、戦いに備えよ」
を実践しなければならない。
そして、
新井氏が指摘するように、
プーチンと習近平を、
自滅させねばならない。

最後に、対馬のことを付け加えておく。
対馬は、現在、
我が国が明治初期から営々と築いた砲台跡を
島の各所に持つ要塞の島として観光客にアピールしている。
明治政府は、
幕末、東京湾に入ってきた軍艦四隻のペリー艦隊が
大砲を舷側から露出して恫喝してきたことを忘れず、
東京湾各所に砲台を建造した。
それと、同時に、
幕末にロシアン軍艦ポザトニック号が
対馬に侵入して六ヶ月間居座ったことから
対馬の戦略的重要性に気づき、
そこを要塞化したのだ。
私は、日露の日本海海戦百周年(二〇〇五年)の二年前から
武漢ウイルス蔓延まで
毎年一回は対馬を訪れていたが、
対馬市が砲台跡地に建てた観光客相手の説明板の内容に
気になる一文があったのが忘れ難い。
その一文は、
この巨大な砲台の大砲は
一発の弾丸も撃つことはなかった。
何と無駄な工事をしたものよ、
という内容だった。
之を、平和ボケという。
そこで、言っておきたい。
対馬に、あの要塞が無ければ、
昭和二十年八月から九月にかけて、
樺太南部と千島を攻撃して占領したソ連軍は、
必ず、対馬を占領して、
今頃、対馬は
ロシア領になっていたのだ。
「ロシア」とはそういうものだ。
このロシアの発想と動物的性癖を忘れてはならない。

本稿は、「月刊日本」誌に出稿した原稿に加筆した






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