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猪苗代から飯舘村そして東京

2017年06月05日 | 日本・国士
平成29年6月5日(月)

六月二日に大阪から福島空港に飛び、そこから車で北磐梯を経て猪苗代町に入り、
その夕方、猪苗代湖と右手に磐梯山を一望するホテルで、
田母神俊雄元航空幕僚長とともに、
表題に「支那討つべし」と掲げる演説会の弁士として語り、
次に、夜は、参加者と懇親会で賑やかに国家を語り合い、
翌日の三日は、ホテルのバイキング式朝食時に、
田母神閣下や宿泊の演説会参加者らと一時間ほど昨夜の続きで語り合い、
別れて、猪苗代から飯舘村に向かい、
飯舘村内を見て回り、村役場を訪れ、
郷社の綿津見神社に参って多田宮司に挨拶して帰路につき、夜、大阪に戻った。

私は、会津そして奥羽越列藩同盟と縁があるのではないかと思える。
まず、学生時代、京都の大文字山麓の学生寮にいた私は、
一週間のうち数度は、永観堂の南の「会津藩士の墓地」と黒谷を散歩していた。
幕末、京都守護職となった会津藩主松平容保は、
黒谷に本陣を置き、京都の治安と御所を護って京都守護職の務めを果たした。
黒谷の墓に眠る会津藩士たちは、
その職務を果たすなかで死亡した遙か会津から来た武士たちである。
禁門の変では、長州藩は御所に大砲を打ち込んで御所に向かって攻めてきたが、
会津は御所を護って長州を撃退した。
この禁門の変で戦死した会津と長州の武士たちは、
会津は黒谷に葬られ、
長州は黒谷の南東三キロの東山霊山に葬られた。
天皇のおられる御所を護った者と、
御所に大砲をぶち込んだ者と、
どちらが讃えられるべきか。
私は学生時代から会津武士を讃えた。
その学生時代の昭和四十年代前半のころから今に至っても、
会津藩士の墓は訪れる人は少なくひっそりとして苔生している。
ところが、長州藩士の墓のある霊山は、
今や観光地になっていて墓地に入る観光客から入山料金をとっている。
司馬遼太郎の功績、大である、に過ぎない。
しかし、再び幕末のように、
我が国を取り巻く風雲が急を告げ、
我が国家存立のために、戦後からの脱却が喫緊の国家的課題となった今、
甦るべきは、会津士魂である。

そして、平成二十三年の東日本大震災から三ヶ月後の六月に、
猪苗代の高士 医師の野崎 豊先生から、
猪苗代に来て国家を語れ、との依頼を受け初めて会津藩を訪れたのだ。
その時のホテルには、
福島第一原発近くの双葉町から八百名の人々が避難して住まわれていた。
その頃、菅直人内閣が、典型的な左翼手法で、福島第一原発を「悪」と決めつけ、
「反原子力発電」を掲げて支持拡大を狙い始めた頃であった。
私は、その猪苗代の会場で、
原子力発電は、国家にとって必要であると主張した。
すると、「双葉町避難民自治会代表」と語る初老の方が「発言あり」と挙手をされ、
次のように語られた。
 
 我々は、第一原発の放射能の為に、
 住む家から退去させられてここに来ているのだ。
 この我々の前で、
 原子力発電が日本に必要だと、
 言い切られたことに敬意を表する。
 我々も、原子力発電が日本に必要だと思う。
 だから町に原子力発電所が建設されることに納得したのだ。
 それを何か!
 マスコミは我々がカネを貰えるから原発が建ったようなことを言っている。
 極めて不本意である。

私こそ、この方に敬意を表した。
そして、その後、懇親会の席で、この方に質問した。
 数百名の皆さんのなかで、
 放射能による健康障害を訴えている人がおられますか。
すると、
 一人もおりません。
 むしろ、皆、元気になっています、
 私の体も元気になったことに、女房も驚いています、
と答えられた。

(東京に向かうために中断、以上、四日に記す)

六月二日の夕刻、猪苗代のホテルで会った田母神閣下は、
五月二十二日の東京地裁の判決を不服として高裁に控訴してから来られた。
それは、よかった、と私は言った。
このような公訴権濫用に近い政治的意図のある捜査を受け継いだ裁判に於いて、
地裁の「事実認定」が誤っておれば、
控訴するのが当然である。

猪苗代の野崎 豊先生は、
毎年この時期に、田母神閣下と私を招いて、
「支那討つべし」との題で演説会を開催されてる。
また、ここは、田母神閣下の故郷である郡山から近いので
郡山の田母神小学校や高校の同級生も来られる。
しかし、昨年は、閣下が東京拘置所のなかにいたので私だけだった。
それで、本年は、閣下が郷里の皆さんへのご無沙汰を回復するために
出所してから振りかえれば笑いをさそう拘置所内での生活などから始めて、
パレスチナから北朝鮮問題、
さらに国産ジェット戦闘機の開発問題まで、
縦横に話されてから、懇親会となった。

私は、朝鮮半島情勢だけに関心が集中している我が国の視野狭窄と、
米中そして露への「他人任せ」の意識に警報を鳴らした。
即ち、歴史上、朝鮮半島問題の背後にいるのは、
シナ、ロシア、そして、やはりアメリカである。
十九世紀後半から二十世紀半ばまで、我が国はこの三国と順次戦った。
朝鮮半島が日清・日露の戦争をつくり出した。
そこで、忘れてはならないのは、次の警句と密約である。

ロシア人は、約束を破るために約束をする。
シナ人は、そもそも約束は守らねばならないとは思っていない。

明治二十九年(一八九六年)、日清戦争の翌年、
ロシアと清国(李鴻章)は、対日攻守同盟という密約を結ぶ。
その内容は、
日本が清国を攻めればロシアが助ける。
ロシアが多額の賄賂を李鴻章に渡し、
清国(李鴻章)は、満州をロシアに売り渡す。
我が国は、この密約を知らず、
この密約に基づいて満州に雪崩れ込んできたロシアを
日本は血を流して満州から追い出し、
清国は、売り渡した満州を日本のお陰でただで回復した。
巨額賄賂をロシアからもらった李鴻章の子孫は、
今は名を変えてアメリカで大富豪として生きている。

現在も、朝鮮半島の背後にシナとロシアがいる。
そして、
シナは尖閣を奪いにきており南シナ海に軍事基地を建設している。
ロシアは国後と択捉にミサイル基地を建設した。
その上で、シナとロシアの海軍は、
昨年の六月、南シナ海に於いて合同で軍事演習をした。
また昨年度の我が国航空自衛隊機のスクランブル発進数は、
過去最多の一一六八回であり、
その内、対シナ八五一回、対ロシア三〇一回。
シナ軍機は、一日に二~三回、
ロシア軍機は一日一回、
我が国領空に接近している。
北朝鮮の豚のように肥って笑っている三代目の
打ち上げるミサイルだけに関心を集中していてはならない。
背後にいる既に核弾頭ミサイルを実戦配備している
シナとロシアが真の脅威である。
さらにトランプのアメリカは、
我が国か、シナとロシアか、何れに転ぶか分からない。
ここにおいて、我が国は、
覚悟を決めて独自の国防力を増強しなければならない。

以上の話の後に、懇親会に入った。
その懇親会の最後は、
私の希望で、田母神閣下の歌う「航空自衛隊の歌」となった。
知る人ぞ知る、「高校三年生」のメロディーで、
  あーあー、ああーあー、航空自衛隊ぃ~ぃ、
  僕ら、これは、これでも、これは、これ!
という歌である。
一年に一一六八回のスクランブル発進(つまり、実戦)をこなしながら、
この歌を歌い合う自衛隊!
やっぱり明るく頼もしい組織だ。

翌日三日、既に記したように飯舘村を訪れた。
平成二十三年四月三十日に、飯舘村を初めて訪れてから毎年訪れている。
その時のことは平成二十三年五月一日付け時事通信(627号)「飯舘村を救え」をご覧頂きたい。
この初めての訪問時の飯舘村の放射線量値は、
細川牧場3・5~6・2マイクロシーベルト
飯舘村役場0・4マイクロシーベルト
この時は、放射線治療専門のドクターも一緒だった。
このドクターに「30分ほどここに立って深呼吸してください」と言われて、
私と同行の田母神閣下は細川牧場の馬を眺めながら立っていた。
そして、三十分ほどしてからお互い見合って、
私が「なんか、元気になったように思うなあ」と言うと、
閣下が、にやりと笑い、「そう、そう、その通り」と言った。
よって、先に書いた二ヶ月後の猪苗代のホテルでの
双葉町避難民自治会会長の、
「元気になった」との説明に
まさに納得することができたのだ。

この度の飯舘村役場前は、0.26マイクロシーベルトだった。
この放射線量は、今私がいる大阪の堺と同じだ。
飯舘村は、大震災直後から今まで、一貫して安全であった。
しかし、現在に於いても、
附近に隣接する他の村や町の田では田植えが行われているのに、
飯舘村の田には草が生え水も入れられていない。
さらに広大な田が太陽発電のパネルに掩われている光景を見ると心が痛んだ。
豊かな山野と広大な田園をもつ飯舘村から
村民を追い出して疲弊させた菅直人内閣の罪、万死に値する。
帰路、郷社の綿津身神社に参拝し
大災害以来、村民が去ってからも、一貫して唯一人留まって
飯舘村を離れなかった
多田 宏宮司にお会いすることができた。
住民が去った後には、
健康そうに肥った猪と猿が増えていたと、以前、宮司から聞いていたので、
宮司に、猿や猪のことを尋ねると、
猿は人が多くなったので姿を消したが、
猪は相変わらず我が物顔に歩いていると答えられた。

三日深夜に帰宅して、
四日は東京の「新しい歴史教科書をつくる会」の懇親会に出席し、深夜また帰宅した。
その懇親会で、私は次の通り挨拶した。
 
 我が国の「歴史教科書」の最大の嘘は何か。
 それは、昭和二十二年五月三日に施行された「日本国憲法」を
 「日本人が書いた」と記していることだ。
 日本人が書いたのではない、GHQのアメリカ人が書いたのではないか。
 国家の根本規範である憲法を誰が書いたのか、
 この要点において
 「嘘」を子ども達に教える国に未来があろうか。
 「日本国憲法」は日本人ではなく
 アメリカ人が書いたという「真実」を
 子ども達に教える歴史教科書をつくろうではないか。
 そうすれば、子ども達の方が、
 その教えられた瞬間に、
 この「憲法」は無効だという結論に達するであろう。
 そうなれば、「無効」なものを「改正」して、どうする、ということになる。
 その時、我が国は、「日本」を取り戻し、戦後から脱却する。
 「憲法九条」は「無効」だ。
 九条をそのままにして、
 そこに「自衛隊」を加えれば「改正」になるのか。
 では、問う。
 九条には「交戦権はこれを認めない」とある。
 交戦権を認められない自衛隊が、どうして自衛権を行使するのか。
 
                            以上、



西村眞悟の時事通信より。














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