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日本メディアが捉えきれない「タイ総選挙」対立の本質

2019年02月16日 08時20分29秒 | 保管記事

 

  記事の紹介です。 

 

日本メディアが捉えきれない「タイ総選挙」対立の本質

    2019216日  樋泉克夫 (愛知県立大学名誉教授)

  2月8日、タクシン元首相系の国家維持党がワチラロンコン国王の姉に当たるウボンラット王女の首相候補擁立を突如として打ち出したことから、総選挙を前にしたタイの政治情勢は一気に流動化するかにみえた。同日深夜に「王女擁立は不適切」との国王声明が明らかになったことから事態は沈静化に向かったようにはみえるが、その直後からバンコクではクーデターの噂が流れるなど、王女擁立劇の余波が当分は収まりそうにない。いや、タイ政治の今後に微妙な影響を与える可能性すら考えられそうだ。

     2019 02 16 日本メディアが捉えきれない「タイ総選挙」対立の本質【保管記事】

 これまで繰り返されてきた《クーデター ⇒ 国会停止・憲法廃止 ⇒ 立法議会 ⇒ 暫定憲法 ⇒ 新憲法発布 ⇒ 総選挙 ⇒ 民政移管》というサイクルに従うなら、クーデターから1年前後の軍政の後に総選挙を経て民政移管されることが通例となっていただけに、今回のように5年に近い暫定期間は確かに異例なまでに長期ではある。

  とはいうものの、王女擁立劇を除くなら、総選挙を前にした軍政当局、事実上の軍政延長を支持する政党、それに軍政に反対する政党といった3者の動きは、基本的には“既視感”に溢れたものだ。

  だが2014年のクーデターに及ぶに至った社会の動き、暫定期間がかくも長期化した背景を考えると、ここに示した政治サイクルが今後とも予定調和的に機能するようにも思えない。やはり今回の総選挙は、わが国メディアの常套句でもある「軍政延長か、民主化か」とか「民主主義の後退」などの“情緒的視点”では捉えられない問題を孕んでいるように思える。

 

「国王を元首とする民主主義」

  1980年代初頭から現在までの40年弱の間、タイ語で「パティワット(革命)」と呼ばれるクーデターは5回(1981年、85年、91年、2006年、14年)に及んでいる。単純計算で約8年に1回の頻度になるが、いずれも「現政権によって『国王を元首とする民主主義』が危機に晒されている」を決起に際しての大義名分に掲げてきた。

  5回のクーデターのうち80年代の2回は失敗し、1991年、2006年、2014年の3回は成功し“所期の目的”を果たした。成否の分岐点は決起勢力の国軍内外に対する影響力もさることながら、やはり王国としてのタイの根幹である「国王を元首とする民主主義」の最終的拠り所である国王が「決起の趣意」を“嘉納”したか否かにあったように思う。

  1981年と85年の2回のクーデターを頓挫させることで、プレム政権(当時)は「国王を元首とする民主主義」を現実政治に忠実に反映させ、8年に及んだ長期政権を維持し社会の長期安定をもたらした。社会の安定が外資を呼び込み、80年代末から90年代前半までの高度経済成長に結びつく。ところが皮肉なことに、経済成長が従来からの政治文化に変化をもたらすことになったのだ。

  1991年のチャーチャーイ政権、2006年のタクシン政権、2016年のインラック政権――クーデターによって追放された政権における政治姿勢の共通項を敢えて挙げるなら経済建設の効率化を目指した社会構造の改革であり、経済発展によって有権者意識の変化がもたらされたといえるだろう。有権者がモノを言うようになったのだ。1票の力に目覚めたというべきかもしれない。そのことが旧来からタイ社会の根幹をリードしてきた上層社会に危機感をもたらしたのである。

  かつてタイの政治学者の1人は、上層社会をABCM複合体と表現した。A(王室)・B(官界)・C(財閥)・M(国軍)である。いわばABCM複合体こそ「国王を元首とする民主主義」を下支えしてきたということになる。

  以上を言い換えるなら、「国王を元首とする民主主義」に抵触する可能性があったからこそ、チャーチャーイ、タクシン、インラックの3人の首相は政権を失ったのではなかったか。ならば「国王を元首とする民主主義」は経済発展と背反するのか。誤解を恐れずに言うなら、2014年に成立して以来のプラユット暫定政権で経済政策の司令塔を務めるソムキット副首相の振る舞いが、「国王を元首とする民主主義」の下でも経済発展が可能であることを示しているように思える。つまり両者は必ずしも相反するものではないということだ。

  因みに同副首相は、チャーチャーイ政権で首相の私的ブレーン(「ピサヌローク邸グループ」)の中核として経済政策に民間活力を大胆に導入し、タクシン政権では「タクシノミクス」と呼ばれるタイ経済政策の策定・推進者でもあった。同政策がもたらした経済成長によってタクシン首相に対して内外から高い評価が生まれたことは既に知られたところであるが、じつは2006年のクーデターで発足したソンティ暫定政権でも、ソムキットの経済政策責任者としての政権入りが持ち出されたことがある。

 

首相選任システム

  国王がクーデターを裁可した瞬間、クーデターに決起した軍人集団には正式に国権の全権が付与され、その下に暫定政権が組織される。クーデターという軍事行動に訴えた非合法軍人集団が合法的国家機関に変質するわけだ。

  2014年のクーデターを例にとるなら、プミポン国王が裁可した段階で当時のプラユット陸軍司令官をトップとするクーデター集団は「NPKC(国家治安維持評議会)」として国政の最高機関たる地位を獲得した。現在のプラユット暫定政権を支えているのは国権の最高権力機構たるNPKCである。つまりプラユット暫定首相の権力の源泉は自らが務めるNPKC議長のポストということになる。ここで忘れてならないのは、総選挙を経て民政移管が行われ新しい政権が発足するまで、NKPCは権能を維持しているということだ。

  クーデター成功から民政移管までの期間の最大の政治課題は新憲法の制定だが、最も重要な問題が首相の就任要件と首班指名権である。

  国会に議席を持たずとも首相就任が可能なら、現役軍人が制服のままで政権を掌握できる。憲法が軍政を保障することになるが、さすがに「国王を元首とする民主主義」には抵触するだろう。そこで首相は総選挙を経た下院議員であるべきか。非下院議員でも就任を可とするかという問題が起こってくる。

  下院議員に限定された場合、軍人の就任は極めて困難となる。それというのも国軍指導者はドブ板選挙が苦手であり、手練手管に長けた政治家からするなら制服を脱いだ元軍人政治家の影響力を殺ぐことは赤子の手をひねるほどに容易いからである。事実、制服を脱いで首相になった3人の陸軍大将――クリアンサック(1977年~80年)、スチンダー(1992年)、チャワリット(1996年~97年)――は共に不本意な形で政権を手放さざるをえなかった。跳梁跋扈する政党・政治家に足元を掬われてしまったからだ。

  残る重要課題が国会構成である。タイでは政権の命運を左右する首班指名、予算決議と内閣不信任決議の3件は上院(勅選)と下院(総選挙・政党)による両院合同議会で決せられる。一般的には上下両院は2:3の議席比で構成されてきた。勅選とはいえ上院議員はクーデターを成功させた軍政当局が選任を担当することから、制服を脱いだ国軍幹部は下院の3分の1程度の支持を集めれば首相に選ばれ、安定的な政権運営が可能となる。

  2017年4月に公布・施行された現行憲法を例に見るなら、上院250人、下院500人で構成される。上院議員は勅選だが、250人のうちの50人は中央選管が、200人はNPKCが選任する。当然のように中央選管もNPKCの下に置かれているわけだから、250人がNKPCの意向に逆らう投票行動を取ることは考え難い。

  一方、下院の500議席は小選挙区選出の350議席と、比例代表の150議席とに分かれる。現行憲法と選挙法に拠れば比例議席は小選挙区における政党の獲得票数に単純に反映されないことから、小選挙区での勝利は必ずしも下院での勝利に直結するわけではない。

  要するに軍政当局は総選挙後の国会において、すでに手中に収めている250票の基礎票に加え、下院で130票ほどを集めれば上下両院合同議会の過半数を制し、プラユット暫定首相を民政移管後の新たな首相として送り出すことができるわけである。

  かりにタクシン元首相系のタイ貢献党が有利な選挙戦を展開し下院過半数を獲得したとしても、上院の250議席がネックとなって政権獲得は事実上不可能となる。一方、早々とプラユット暫定首相支持を打ち出した国民国家の力党(軍政当局のダミー政党)にとっての目標は130議席超になり、“勝利のハードル”はさほどは高くない。

 

タイ政党の特質

  総選挙を経て軍政当局の思惑通りにプラユット首相が誕生したとしても、安定的な政権運営が約束されたわけではない。その背景にはタイにおける政党の特質がある。

  2月11日に中央選管から今回の総選挙に36政党が参加することが明らかにされたが、タイ貢献党、民主党、国民国家の力党、国家維持党、民族発展党、新未来党、国家発展党、タイ公民党、新民主主義党、新経済党、サイアム発展党、タイ民主社会党など主な政党の政党名からも類推できるように、一般的に政党は政治信条や政策の実現を第一義的に求めるものではなく、有態にいうなら政権入りを最大の目的としている。

  これがタイの政党の第1の特質である。かくてタイ貢献党はタクシン元首相の右腕であったスダラット女史を、国民国家の力党はプラユット暫定首相を、民主党は党首のアピシット元首相を首相候補として掲げ選挙戦を戦うことになる。国家維持党がウボンラット王女を首相候補として担ぎ出したのも、そのためである。

  第2の特質は基本的には地域政党の性格が強く、全国政党にまで拡大し難い。歴史が最も古い民主党にしても南タイとバンコクのインテリ層の支持はあるものの、大票田の東北タイや北タイに浸透しない。いわば下院での単独過半数獲得は至難ということになる。そこで必然的に連立政権にならざるをえないわけだが、当然のように閣僚ポスト配分を巡って連立与党内の鞘当て合戦が起こり、伴食ポストを割り当てられた政党が不満を持し、首相の指導力低下が閣内不一致・政権動揺を来すことになる。安定的政権運営は容易ではない。1990年代に政権交代が連続したのも、ここに大きな要因があった。

  では、なぜタクシン政権(2001年~06年)やインラック政権(2011年~14年)では単独政権が可能だったのか。タクシン陣営が豊富な資金力を背景に中小政党を糾合し全国政党の形を整えたからである。当時の憲法では首相は下院議席を持つことが定められていたことから、クーデターを除いたなら、総選挙の勝敗が政権獲得の唯一の手段だった。

 

「赤シャツ」対「黄シャツ」

  総選挙を繰り返しても、唯一の全国政党であるタクシン系政党が過半数を制してしまう。憲法で上院は政権運営に容喙は出来ない。当然のように既得権益層――ABCM複合体のフラストレーションは溜まるばかりだ。

  中国で発生した天安門事件の小型版ともいえる「5月事件」が1992年5月にバンコクの官庁街で発生しているが、流血の惨事を引き起こした責任を問われた国軍は政治的影響力を大幅に後退させた。この事件を機に「人民による憲法起草」を掲げた憲法起草委員会が発足し、97年10月には「最も民主的内容を持つ」と内外から評価された「仏暦2540(1997)年タイ王国憲法」が制定されている。

  同憲法下で総選挙を実施した結果、民主党を軸とする野党勢力や民主派からは「反王制、国家権力の独占と乱用、透明性や倫理を欠いた政権運営」などと批判されたタクシン政権(2001年~06年)が誕生する。タクシン首相が唯一の全国政党を抑え下院過半数を占めていたわけだが、それが2006年のクーデターを招き、やがて国軍の政治的影響力回復を招くのであった。民主化された憲法が文民ながら一強政権を生み出し、その政権を倒すために、総選挙ではなく国軍によるクーデターに頼らざるを得ない。民主主義の皮肉というには、あまりにも皮肉な現象といえる。

 「仏歴2540(1997)年タイ王国憲法」がタクシン一強政権を生んでしまったとの判断からだろう。(1)国民の権利と自由の保護、(2)権力集中の是正と権力乱用の防止、(3)政治の透明性・道徳・倫理の確保、(4)権力チェック機関への高い権能を付与――を盛り込んだ「仏暦2550(2007)年タイ王国憲法」が2007年8月に制定された。

  同憲法の下で総選挙を繰り返すが、やはりタクシン支持政党が下院過半数を制し政権を保持する。そこで上記(1)(2)(3)(4)の機能を与えられた憲法裁判所、国家オンブズマン、そして国家汚職防止取締委員会が憲法に規定され、これらの機関によって首相解職(2008年)や総選挙無効(2014年)が宣言された。だがタクシン支持政党が弱体化するわけでもない。

  総選挙を繰り返してもタクシン支持政党は切り崩せないことから、民主党を先頭とする反タクシン派は国王支持を著す黄色のシャツを纏ってバンコクの街頭に繰り出す。一方のタクシン支持派は赤シャツを身に着け反対行動を展開した。「国王を元首とする民主主義」を掲げ総選挙に拠らずにインラック政権(タクシン系政権)打倒を訴えた。この行動が結果として2014年のインラック政権打倒のクーデターを招くことになる。

  黄シャツ派対赤シャツ派の抗争が激しく展開されていた当時、黄シャツ派を構成するのは王制支持を強くイメージさせる都市の民主党支持層が中心であり、赤シャツ派は経済発展の恩恵に与ることが少ない東北タイの農民層が中心であり、王制に反対するばかりか、一部には共和制を志向する勢力まで含んでいると批判的に報じられることもあった。また民主派対金権派、都市対農村、インテリ層対農民層の対立などと画一的・短絡的に報じられがちでもあったが、変化するタイ社会の実態からして黄対赤という色分けで説明できるほど単純なものではない。

  やはり1980年代末からのタイ社会の変質を前提に置かない限り、黄対赤の対立の本質は理解できないだろう。経済成長による社会構造の変化が有権者の政治意識の変化を醸成し、旧来からのタイ社会を支えてきたABCM複合体の社会的基盤が動揺しはじめたことを想定しないわけにはいかない。対立の本質は国民が今後の国の行く末をABCM複合体に任せたままでいいのか――この一点に収斂するように思える。敢えて図式化するなら、黄シャツ派は今後ともABCM複合体を信任し、赤シャツ派は否定的ということになろうか。ここで注視しておくべきは、タクシン元首相という存在である。いまやタクシンは「反ABCM複合体」という記号と化したと捉えるべきではないか。

 

曲がり角に差し掛かった「国王を元首とする民主主義」

  クーデターが何回か繰り返される毎に新たに憲法が制定され、総選挙が実施されてきた。これが2006年以来のタイの政治ではあるが、総選挙に示された民意を素直に判断するなら、反タクシン勢力の劣勢は否めない。新憲法制定や関連法規の改正などを重ねることで法的に赤シャツ派の伸張を抑えようとしてきたが、やはり有権者の投票行動から赤シャツ派が一定の影響力を保持している点は認めざるをえないだろう。

  ここで2005年春以来の国政を図式化すると、《総選挙 ⇒ 赤シャツ派の勝利と政権掌握 ⇒ 黄シャツ派の反対運動 ⇒ 国内混乱 ⇒ クーデター ⇒ 軍政 ⇒ 新憲法制定 ⇒ 総選挙 ⇒ 赤シャツ派の勝利と政権掌握》という政治過程となる。やはりタイは“不毛のサイクル”を繰り返してきたようにも思える。ここから、ABCM複合体を頂点とする従来型の社会構造が崩れつつあることが読み取れはしないだろうか。

  振り返れば1973年の「学生革命」で危機に陥ったタイを混乱から救ったのは、プミポン国王(当時)の判断であった。以来、前国王は逝去される2017年秋まで、度重なる政治的危機を乗り越え、歴代憲法が掲げる「国王を元首とする民主主義」を護持し国民の一体化を実現させてきた。

  5月初めと定められた戴冠式を経て王国としてのタイの新しい御代が本格的に幕を開ける。ワチラロンコン現国王は前国王が体現した「国王を元首とする民主主義」を踏襲するのか。はたまた新しい形の「国王を元首とする民主主義」に向かって進むのか。3月24日の総選挙と、それに続く新政権成立までの動きが新国王の下での新しい王国の形を方向づけることになるように思える。

  であればこそ今回の新国王の下での最初の総選挙は、これまでの黄対赤の対立抗争の混乱の渦中で繰り返された総選挙とは異なる視点で捉えるべきだろう。
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/15368

   記事の紹介終わりです。

 

 

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