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あなたに「ぬくもり」を届けたくてブログをつくっています

たまには ありがと を

2018-09-25 17:46:29 | 日記

フェイスブックに 秋霧というタイトルの写真があった。霧のイメージは「春」だ。秋の「霧」はどことなく憂いがある。秋の「長雨」というが、今日はしとしと降る雨ではなかった。気圧配置のせいか集中豪雨に近い雨が多い。風も強く、大きな傘も役に立たない。今日は身体の芯の疲れがとれないのか、思うように動けないので機嫌が悪くなる。だれに当たるわけではないが、いけないなぁ と思う。

こんなときは、休むしかない。仕事柄、さまざまなメールを受ける。できるだけ早くお返事を思うのもストレスかもしれないが。丁寧なお礼のメールもある。いえ、いえ、そんなつもりではないので・・・・と申し訳なくなる。でも、たまには、「ありがとう」のひと言が欲しいと思うこともある。お礼が欲しくてしてることでないにしても、たまにはねぇー となる。どうも、お礼を言うことは沽券かかわることらしい。父も母に感謝の言葉をかけたのは、亡くなる前くらいだった。心では十分感謝しているのだろうが。そういう昔かたぎの男性も多いのだろう。

でもね、お礼を言わなくてもいい関係は特別の関係だと思っている。その方だからOKなのだ。そうでなければ、迷惑でお礼が言えないのだろう。ちょっと一言、「ありがと」が心をあたたかくすることもある。たとえ夫婦でも。減るものではないのだから、一言「ありがと」を。

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 中秋の名月

2018-09-24 21:11:27 | 日記

新幹線の小田原駅に着くと、中秋の名月が山にかかっていた。静岡あたりまでは雲が多かったが、小田原はきれいな月が出ていた。宵闇がせまるなか、新幹線の車窓からぼんやりと景色を見ていた。先日、サッカー大会でお加減が悪くなられた方が入院している病院へお見舞いに出かけた。ご高齢なので、自宅から離れた病院で一人入院しているのは、いくら気丈夫な方でもつらいだろうと思った。せめておいしいお茶でもと入れていったが、やはり時間がたつとまずい。それでも退院日も決まり、お元気そうだった。これから年内は運動は無理らしい。サッカーの調子がよかったので、さぞ残念だろう。

サッカーの取材を始めて、目の前で3人の方が亡くなられた。(救急車で運ばれて亡くなられたのではあるが)カメラでボールを追いかけているので、どうしてもその場面にいるようになる。サッカー仲間は「芝の上で倒れて亡くなるなんて本望だよな」と羨ましがる。私はいつも複雑な心境だった。ご本人はいいのだろうが、ご家族は・・・・。

月を見ていて、急に心細くなった。これから取材が多い。6月にめまいがひどくなったことを思い出すと、不安が残る。心配したらきりがないが、弟は海外勤務、住まいの近くならいいが、取材先でなにかあったら・・・。取材に出るときは、いつもいい加減ではあるが部屋を整理して出かける。入院用品?が入ったバックは知人がわかるように詰めてある。

名古屋まででも、日帰りのお見舞いは疲れる。ほっとしたこともあるのかもしれない。比叡山で買ってきた塗香があった。お線香よりも香りが強く、心を落ち着かせてくれる。今夜は月を見ながら、静かに過ごそう。

 

 

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手をつなぐ ときめき

2018-09-23 17:44:57 | 日記

 知人のお嬢さんの結婚式とか。それなりのお年でいらっしゃるが、やはりおめでたい。いいお日和でした。いくつで結婚でもおかしくはない。そっと籍を入れましてなどというのもうらやましく思う。

朝ドラの脚本の批判に40歳でキスなんて気持ちが悪い とあった。そうなんだ、ふうんー。たとえば、手をつなぐことを思い出してみると、ほんの少しだけ指先が触れて、そのときのドキリという気持ち、そして手をつないだときの、こわさというのかうれしさというのか。そういうときめきはいくつでもいいような気がする。キスというのは、精神性の高い行為のように思う。なかなか唇は許せない。だから、40歳でキスはありかな。この年になると、抱きしめてもらえればいいような気がする。おでこにキスもいいかな。

恋愛にも風情は必要だと思う。昔の人たちは、月をめでたりしてそれを和歌に詠んだ。日本語の美しさはそんなところにある。十六夜(いざよい)の月。いざようは「ためらっているような」という意味らしい。そのあとが、立待月、居待月、寝待月と続く。昔は通い婚。恋愛も男性が女性の所へ尋ねていく。月を眺めながら恋人を待つ。私はそんなときめきが好きだが、来ぬ人を、、、、が多そうだ。

めぐりあひて 見しやそれとも分かぬまに 雲がくれにし 夜半の月かな  紫式部(だと思う)

 

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秋はゆうぐれ

2018-09-22 18:28:24 | 日記

 夕暮れが早くなった。買い物に出て戻ると、部屋の中が暗い。だんだん寂しい季節に向う。今日はお墓参りに行かれた人が多そうだ。スーパーのお彼岸のお花も売れている。我が家は、お花が安くなるお彼岸過ぎに飾ることにしている。お墓参りもいけない。私はどちらかというと家で拝む派だ。毎日、毎日お参りをすることが大事と思っている。古矢家のお墓は葛飾区の中川べりにある。祖父母が大震災で焼け出され、田舎(茨城)へ歩いて帰るときに、休ませてもらったお寺だという。その後、文京区に移り住んだので、お墓としては当時、遠かった。息子を亡くした祖母は、私を連れてよくお墓参りに行った。帰りに日暮里の駅であんみつを食べられるので一緒行ったようなものだが、仏様への毎日のお供えやお墓参りは気がつかないうちに身に付いたようだ。

夕暮れの空に月が出ている。24日が今年の中秋の名月らしい。子供のころは、やはり祖母がお団子とすすきを縁側に供えたものだ。そういう、習慣が私の中に残されているのはうれしい。部屋から月が見えるだろうか。

ボランティアのNPOの悩みに「年寄りのお世話役、生涯のボランティアとしてご覚悟いただきます。」とある方がメールくださった。私も十分にお年寄りなのですが・・・・。樹木希林さんの死から、さまざまなことを考えた。最期まで、自分の生きざまに責任を持って生きられればと思うが・・・。

古矢家の墓には入らないと言う、母の遺言。まだ、弟もベトナムから帰国せず、お墓も決まらない。私は自分は散骨と考えていたが、あまり一緒にいられなかった母と樹木葬の墓地にでも一緒に入ろうか とも思う。

「秋は夕暮れ」。月を眺めながら、しみじみとそれを味わうのもいいかもしれない。まぁ、最期は信頼のおける人がきちんとしてくれるだろう。それよりも食欲の秋。明日は栗蒸し羊羹でもつくろうか

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和の世界

2018-09-21 19:24:29 | 日記

寒い日になった。長袖にパーカーがいる。昨夜、掛るものを、綿毛布と綿の薄掛けに変えた。いま、布団で綿の素材のものは少ないと言う。羽毛のものは軽くてあたたかい。でも、綿のあたたかさは違う。ほんわりというよりは、しっかり抱きしめられるようなあたたかさだ。「入る?」と布団を開けてくれる人はいないので、このあたたかさは捨てがたい。

和のものはどこかにあたたかみがある。畳があるうちが今は少ない。我が家は仏間(物置部屋化しているが)が畳で、やはり照明も和にしてあるので落ち着く。ここで香を焚くと奥の部屋までそこはかとなく香りが漂ってくる。残念ながら、障子はない。障子越しの日の光はやさしい。陰影のうつくしさだ。京の寺などを訪れると、その造りのうつくしさに感心する。そういえば、格子戸もそうだ。格子戸そして障子、日本の家屋ならの微妙な光の芸術だ。

お茶を習いだして、和のものにたくさん触れるようになった。古袱紗、懐紙入れと自分の持ち物もそうだし、茶碗などのお道具、掛軸、茶花、和の限りをつくしている。でも、時々不思議に思う。あの可憐な茶花なのに、出されるお道具はびっくりするものがある。それがおもてなしなのだろうが。そういうものに手が出せないからか、地味な土の匂いがするお茶碗が欲しいと思う。持つとあたたかみがあるような茶碗でお茶を点てて差し上げたいと思う。

きものも織の着物がいい。地味にまとめて、それが似合う人になりたいと思う。それがゆめかな。

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