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岸田首相 あいさつ、8割は広島と同じ内容 長崎の平和祈念式典 ➡ 岸田首相 しっかりしろ

2022-08-09 23:13:00 | ☆エッセイ・コラム


これはいけないと思う 長崎の人を馬鹿にしている

岸田総理は 広島市出身なので

もっと 核廃絶を しっかり考えてほしい


 
 
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岸田首相あいさつ、8割は広島と同じ内容 長崎の平和祈念式典

2022-08-09 23:10:38 | ☆メディア(本・映画・Web・音楽など)
岸田首相の長崎でのあいさつ
77年前の今日、一発の原子爆弾が長崎の街を一瞬にして破壊しつくし、7万とも言われる人々の命を、未来を、そして、人生を奪いました。全てが焼き尽くされ、街でも川でも、数限りない人々が倒れました。惨状の中で何とか一命をとりとめた方々も、長く健康被害に苦しまれてきました。内閣総理大臣として、ここに犠牲となられた方々の御霊に対し、謹んで哀悼の誠をささげますとともに、今なお後遺症に苦しむ方々に対し、心からのお見舞いを申し上げます。



77年前のあの日の惨禍を決して繰り返してはならない。これは唯一の戦争被爆国である我が国の責務であり、総理大臣としての私の誓いです。核兵器による威嚇が行われ、核兵器の使用すらも現実の問題として顕在化し、核兵器のない世界への機運が後退していると言われている今こそ、私は核兵器使用の惨禍を繰り返してはならないと訴え続けてまいります。


我が国は、いかに細く、険しく、難しかろうとも、核兵器のない世界への道のりを歩んでまいります。このため、非核三原則を堅持しつつ、厳しい安全保障環境という「現実」を核兵器のない世界という「理想」に結びつける努力を行ってまいります。



そうした歩みの基礎となるのは、核兵器不拡散条約(NPT)です。その運用検討会議が、まさに今、ニューヨークで行われています。私は先日、日本の総理大臣として初めてこの会議に参加をし、50年余りにわたり、世界の平和と安全を支えてきたNPTを、国際社会が結束して維持強化していくべきである旨、訴えてまいりました。



厳しい安全保障環境の中にあっても、核使用の歴史を継続し、長崎を最後の被爆地とし続けなければなりません。透明性の確保、核兵器の削減の継続、核不拡散も変わらず重要な取り組みです。
また、核兵器のない世界の実現に向けた確固たる歩みを支えるのは、世代や国境を越えて、核兵器使用の惨禍を語り伝え、記憶を継承する取り組みです。我が国は、被爆者の方々をはじめ、核兵器のない世界を願う多くの方々と共に、被爆の実相への理解を促す努力を重ねてまいります。
被爆者の方々には保健、医療、福祉にわたる支援の必要性をしっかりと受けとめ、原爆症の認定について、できる限り迅速な審査を行うなど、高齢化が進む被爆者の方々に寄り添いながら、今後とも総合的な援護政策を推進してまいります。



結びに、市民の皆様のたゆみないご努力により、国際文化都市として見事に発展を遂げられたここ長崎市において、核兵器のない世界と恒久平和の実現に向けて力を尽くすことを改めてお誓い申し上げます。原子爆弾の犠牲となられた方々のご冥福と、ご遺族、被爆者の皆様並びに参列者、長崎市民の皆様のご平安を祈念いたしまして、私の挨拶といたします。
(テレビ中継より聞き取り)



 




広島でのあいさつ
本日、広島は、被爆から77年となる朝を迎えました。真夏の太陽が照りつける暑い朝、一発の原子爆弾が広島の街を一瞬にして破壊し尽くし、十数万とも言われる人々の命を、未来を、そして人生を奪いました。川では数多の人が斃れ、街中には水を求めてさまよう人々の姿。そうした惨状の中でなんとか一命をとりとめた方々も長く健康被害に苦しまれてきました。内閣総理大臣として、ここに犠牲となられた方々の御霊に対し、謹んで、哀悼の誠を捧げますとともに、今なお、後遺症に苦しむ方々に対し、心からお見舞いを申し上げます。



77年前のあの日の惨禍を決して繰り返してはならない。これは、唯一の戦争被爆国である我が国の責務であり、被爆地広島出身の総理大臣としての私の誓いです。核兵器による威嚇が行われ、核兵器の使用すらも現実の問題として顕在化し、「核兵器のない世界」への機運が後退していると言われている今こそ、広島の地から、私は、「核兵器使用の惨禍を繰り返してはならない」と、声を大にして、世界の人々に訴えます。



我が国は、いかに細く、険しく、難しかろうとも、「核兵器のない世界」への道のりを歩んでまいります。このため、非核三原則を堅持しつつ、「厳しい安全保障環境」という「現実」を「核兵器のない世界」という「理想」に結び付ける努力を行ってまいります。



そうした努力の基礎となるのは核兵器不拡散条約(NPT)です。その運用検討会議が正に今、ニューヨークで行われています。私は、先日、日本の総理大臣として初めてこの会議に参加し、50年余りにわたり世界の平和と安全を支えてきたNPTを国際社会が結束して維持・強化していくべきである旨訴えてまいりました。


来年は、この広島の地で、G7サミットを開催します。核兵器使用の惨禍を人類が二度と起こさないとの誓いを世界に示し、G7首脳と共に、平和のモニュメントの前で、平和と国際秩序、そして自由、民主主義、人権、法の支配といった普遍的な価値観を守るために結束していくことを確認したいと考えています



「核兵器のない世界」の実現に向けた確固たる歩みを支えるのは、世代や国境を越えて核兵器使用の惨禍を語り伝え、記憶を継承する取組です。我が国は、被爆者の方々を始め、「核兵器のない世界」を願う多くの方々と共に、被爆の実相への理解を促す努力を重ねてまいります。
被爆者の方々には、保健、医療、福祉にわたる支援の必要性をしっかりと受け止め、原爆症の認定について、できる限り迅速な審査を行うなど、高齢化が進む被爆者の方々に寄り添いながら、今後とも、総合的な援護施策を推進してまいります。



結びに、永遠の平和が祈られ続けている、ここ広島市において、核兵器のない世界と恒久平和の実現に向けて力を尽くすことを改めてお誓い申し上げます。原子爆弾の犠牲となられた方々の御冥福と、御遺族、被爆者の皆様、並びに、参列者、広島市民の皆様の御平安を祈念いたしまして、私の挨拶といたします。



 
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長崎 原爆の日に

2022-08-09 22:17:57 | ☆アフォリズム
Please visit Nagasaki  

 To   see Is  to belleve  

No  more Nagasaki

Stop  Ukuraine



被爆者代表 宮田 隆


 

 
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高校野球  特に 私のふるさとの高校

2022-08-09 21:55:07 | ☆エッセイ・コラム
私のふるさとの高校の 県立岐阜商 が負けてしまった

野球では有名校

コロナで主要な 選手を 10人ぐらい 欠いたらしい

結果 10 vs 1で負け

でも出場できてよかったと思う

2年生中心で 大差で負けたが いい思い出になるだろう

県立岐阜商は 私の出身高校の隣 だった

バス 停 が 同じだった
 

出身者 和田一浩  さんら

 
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原爆投下から77年 なぜ長崎は米軍に狙われたのか

2022-08-09 17:02:48 | ☆メディア(本・映画・Web・音楽など)
原爆投下から77年 なぜ長崎は米軍に狙われたのか


原爆投下後、がれきの山と化した長崎市内=米軍撮影、長崎原爆資料館所蔵
 1945年、長崎市に原爆が投下され、8月9日で77年になります。なぜ米軍は長崎を狙ったのでしょう。そして、なぜ8月6日の広島市に続いて、長崎にも原爆を落とす必要があったのでしょう。【西部報道部・中里顕】 【写真特集】「長崎平和宣言」の後、青空に放たれたハト  Q:なぜ米軍は長崎に原爆を落としたの?  A:重要な軍事拠点を破壊し、太平洋戦争(第二次世界大戦)を続ける日本を早期に降伏させようと考えたのが一つの理由とされています。長崎は戦艦「武蔵」を建造した造船所や製鋼所、兵器製造工場などが集まる日本軍の重要都市でした。  米国は41年12月に日本が米ハワイの真珠湾を攻撃したことをきっかけに、第二次世界大戦に参戦しました。欧州を侵攻するナチス・ドイツが原爆の開発を進めているとの情報を得て研究を急ぎ、45年7月、ニューメキシコ州の砂漠で史上初の原爆実験に成功しました。原爆の投下目標とする都市は何度も変わりましたが、最終的に、広島市、小倉市(現在の北九州市)、長崎市となりました。広島市には同年8月6日に原爆が投下され、人類史上初めて核兵器が実戦で使用されました。  Q:なぜ小倉市には落とされなかったの?  A:8月9日の第1目標は小倉市でした。しかし、原爆を搭載した米軍爆撃機「B29」が小倉上空に到達すると視界が悪く、投下できなかったのです。視界不良だった理由は前日の空襲による煙のためと言われていますが、小倉に近い製鉄所で当時働いていた人の「煙幕を張った」という証言もあり、原因は諸説あります。B29はその後、長崎に向かい、午前11時2分、高度9600メートルから原爆を投下しました。  Q:長崎は原爆でどんな被害を受けたの?  A:原爆は長崎市松山町の上空約500メートルで爆発し、巨大な火の球が生まれました。街は火の球から放たれた熱線で、鉄が溶ける温度(約1500度)の倍以上に当たる3000~4000度の高熱となり、秒速数百メートルの爆風に襲われました。民家は跡形もなく破壊され、コンクリートで造られた頑丈な建物も崩壊しました。原爆は大量の放射線も放出しました。熱線や爆風の被害を免れて生き残った人も、白血病やがんなど放射線による「原爆症」で次々と命を落としました。人的被害は広島に続いて未曽有の規模となり、長崎市の当時の推定人口約24万人に対し、45年末までに約7万4000人が亡くなりました。  Q:多くの一般市民を殺傷する爆弾を2度も落とす必要があったの?  A:米国は原爆開発のために多くの科学者や技術者を動員し、当時としては巨額の約20億ドルの費用をつぎ込みました。広島では「ウラン」、長崎では「プルトニウム」と、異なる放射性物質を使った原爆が投下されました。それぞれの威力を確かめる狙いがあったのでは、と指摘する人もいます。この他、大戦後に世界の覇権を争うとにらんでいたソ連をけん制するための投下だったという見方もあります。  Q:被爆後の長崎はどのような道のりを歩んだの?  A:戦後の長崎は平和の発信拠点としてのまちづくりが進められました。原爆が爆発した爆心地やその周辺には緑豊かな公園が整備され、55年には長崎県出身の彫刻家、北村西望氏によって「平和祈念像」が造られました。毎年8月9日には像の前で平和祈念式典が開かれ、被爆者ら市民が参列して長崎市長が「平和宣言」を読み上げます。  「東洋一の大聖堂」と言われた爆心地近くの浦上天主堂も原爆で崩壊しましたが、被爆から14年後の59年に再建されました。天主堂では8月9日、平和への祈りをささげるミサが開かれます。他にも、原爆の爆風で柱が失われて1本柱で立つ鳥居や、焼け残った学校の校舎などが「被爆遺構」として残り、原爆資料館では投下までの経過や被爆後の惨状などを展示で学ぶことができます。  Q:平和への思いは伝わっているの?  A:スウェーデンにあるストックホルム国際平和研究所は、今年1月時点で世界に計1万2705発の核弾頭があり、多い順にロシア、米国、中国、フランス、英国、パキスタン、インド、イスラエル、北朝鮮の9カ国が保有していると推計しています。核兵器の廃絶を求める広島、長崎の思いと、世界の現実には大きな隔たりがあります。また、今年2月にはロシアのプーチン大統領がウクライナへの侵攻時に核兵器の使用を示唆し、世界に緊張が走りました。核兵器の使用がもたらす悲惨さを直接知る被爆者が年々減少する中、長崎の声を世界にどう伝えていくのかが課題になっています。
 
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