仰げば彌高く
「顔淵 喟然(きぜん)として歎(たん)じて曰(い)わく、之を仰げば彌々(いよいよ)高く、之を鑚(き)れば彌々堅し、之を瞻(み)れば前に在り、忽焉(こつえん)として後ろに在り。夫子 循循(じゅんじゅん) 然として、善く人を誘(いざな)う。我を博(ひろ)むるに文を以てし、我を約するに礼を以てす。罷(や)めんと欲すれども能(あた)わず。既に吾が才を竭(つ)くせば、立つ所有りて卓爾(たくじ)たるが如し。之に従わんと欲すると雖(いえど)も、由(よ)き末(な)きのみ。」
■その意味は?
顔淵は大きなため息をついてこう述べた。
『先生(孔子)を仰ぎ見れば見るほどますます高く、堅い岩石に穴をあけようと切り込めば切り込むほど堅く、〔とても及ばない。〕前にいらっしゃるかと思うと、もう後にいらっしゃって捉えがたい。先生(孔子)は、順序を踏んで私たちを教導してくださる。学芸をもって私たちの知識を広めてくださり、その帰納・要約〔実践〕として礼儀を教えてくださる。学問をやめようと思うことがあっても、〔その魅力に勝てず〕やめることができない。しかし、私は自分のすべてを傾けて学び実践してきたので、先生(孔子)のありかたがしっかと眼前に立って見える感じがある。それに従っていけばよいのであるが、そうかと言ってとても及びつくことがない。』
(「論語」一日一言より)
■感想
顔淵さんや他のお弟子さんたちのように、直に高尚な先生に教えをいただけることは、現在の私からすれば何とも贅沢な話しである。然るに、こうして「論語」を通し、その時代背景を思い馳せながら、学ことができるのは、そうしたお弟子さんたちのお陰であるということは、絶対に忘れないように心掛けていこうと思う。