ここにも行ってみたいな~。
和歌山県串本町にある樫野埼灯台である。
この樫野埼灯台下で
今から125年前の1890年に事件は起こった。
事件はこうだ
<ウィキより>
オスマン帝国海軍の航海訓練を兼ねて大日本帝国(日本)へ派遣
6月13日に皇帝親書を明治天皇に奉呈し、オスマン帝国最初の親善訪日使節団として歓迎を受けた。

紀伊大島トルコ記念館の直下の海岸。画面奥中央の岩礁にエルトゥールル号が乗り上げ座礁した。

エルトゥールル号は帰国の為横浜出港した。
9月16日21時ごろに折からの台風による強風にあおられ紀伊大島の樫野崎に連なる岩礁に激突、

座礁したエルトゥールルは、機関部に浸水して水蒸気爆発を起こし22時半ごろに沈没した。
これにより、司令官オスマン・パシャをはじめとする600名以上が海へ投げ出された。
樫野埼灯台下に流れ着いた生存者の内、約10名が数十メートルの断崖を這い登って灯台にたどりついた。

まさに座礁した現場はこの岩礁であり、
生存者は手前の方に向かい崖を昇って灯台まであがってきた。

灯台守は応急手当てを行なったが、お互いの言葉が通じず、国際信号旗を使用して、遭難したのがオスマン帝国海軍軍艦である事を知った。通報を受けた大島村(現在の串本町)樫野の住民たちは、総出で救助と生存者の介抱に当たった。この時、台風により出漁できず、食料の蓄えもわずかだったにもかかわらず、住民は浴衣などの衣類、卵やサツマイモ、それに非常用のニワトリすら供出するなど、生存者たちの救護に努めた。この結果、樫野の寺、学校、灯台に収容された69名が救出され、生還することが出来た。その一方で残る587名は、死亡または行方不明となり、大惨事となった。遭難の翌朝、事件は樫野の区長から大島村長の沖周(おき しゅう)に伝えられた。付近を航行中だった船に、大島港へ寄港してもらい、生存者2名が連絡の為神戸港に向かった。神戸港に停泊中だったドイツ砲艦「ウォルフ」が大島に急行し、生存者は神戸に搬送、病院に収容された[1]。沖村長は県を通じて大日本帝国政府に通報した。知らせを聞いた明治天皇は、政府に対し、可能な限りの援助を行うよう指示した。各新聞は衝撃的なニュースとして伝え、多くの義捐金・弔慰金が寄せられた。
この出来事が
トルコが今でも親日な理由なのである。
行くなら夏がいいな。
【ヒゲ親父】
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和歌山県串本町にある樫野埼灯台である。
この樫野埼灯台下で
今から125年前の1890年に事件は起こった。
事件はこうだ
<ウィキより>
オスマン帝国海軍の航海訓練を兼ねて大日本帝国(日本)へ派遣
6月13日に皇帝親書を明治天皇に奉呈し、オスマン帝国最初の親善訪日使節団として歓迎を受けた。

紀伊大島トルコ記念館の直下の海岸。画面奥中央の岩礁にエルトゥールル号が乗り上げ座礁した。

エルトゥールル号は帰国の為横浜出港した。
9月16日21時ごろに折からの台風による強風にあおられ紀伊大島の樫野崎に連なる岩礁に激突、

座礁したエルトゥールルは、機関部に浸水して水蒸気爆発を起こし22時半ごろに沈没した。
これにより、司令官オスマン・パシャをはじめとする600名以上が海へ投げ出された。
樫野埼灯台下に流れ着いた生存者の内、約10名が数十メートルの断崖を這い登って灯台にたどりついた。

まさに座礁した現場はこの岩礁であり、
生存者は手前の方に向かい崖を昇って灯台まであがってきた。

灯台守は応急手当てを行なったが、お互いの言葉が通じず、国際信号旗を使用して、遭難したのがオスマン帝国海軍軍艦である事を知った。通報を受けた大島村(現在の串本町)樫野の住民たちは、総出で救助と生存者の介抱に当たった。この時、台風により出漁できず、食料の蓄えもわずかだったにもかかわらず、住民は浴衣などの衣類、卵やサツマイモ、それに非常用のニワトリすら供出するなど、生存者たちの救護に努めた。この結果、樫野の寺、学校、灯台に収容された69名が救出され、生還することが出来た。その一方で残る587名は、死亡または行方不明となり、大惨事となった。遭難の翌朝、事件は樫野の区長から大島村長の沖周(おき しゅう)に伝えられた。付近を航行中だった船に、大島港へ寄港してもらい、生存者2名が連絡の為神戸港に向かった。神戸港に停泊中だったドイツ砲艦「ウォルフ」が大島に急行し、生存者は神戸に搬送、病院に収容された[1]。沖村長は県を通じて大日本帝国政府に通報した。知らせを聞いた明治天皇は、政府に対し、可能な限りの援助を行うよう指示した。各新聞は衝撃的なニュースとして伝え、多くの義捐金・弔慰金が寄せられた。
この出来事が
トルコが今でも親日な理由なのである。
行くなら夏がいいな。

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