こんばんわ。
今日は、夜の仕事の日です。
今日も小降りですが、雨です。
続きです。
4月8日にMさんが亡くなったとの知らせがありました。
ただ、仕事の方は、状況は変わらず、5月初旬に切換をする事になり、ますます忙しくなりました。
ただ、Mさんと仕事をする機会が多かったI社員は、相当な精神的ダメージを受け、出社できなくなりました。
そうなると、中身が分かるのは、本当に私一人になり、体調が悪くても、休む事も、早く帰る事もできませんでした。
5月に切換をした後は、引き続きでマイグレーションに入りました。
それまでも、ずっと客先を離れられない状態が続いていました。
【お姉さんの訪問】
そう言う状況の中で、Mさんのお姉さんから、私に会って話を聞きたいとの連絡がありました。
その日も、客先を離れられない状況だったので、一度お断りをしたのですが、博多の事業所に行く用事ができ、その後で、と言う事で、博多駅筑紫口の都ホテルのラウンジで待ち合わせしました。
もちろん、初対面。
私は、お姉さんの問い掛けに正直に答えたつもりです。私の話に涙を流される場面もありました。
ただ、私はひどく疲れていて、とても印象が悪かったかもしれません。
その後で、妹が仕事をしていた場所に行きたい。と言う事で、客先のビルまでご案内しました。ただ、中までは入れないので、ビルの前で失礼して、私は仕事に戻りました。
【ご実家の訪問】
遠隔地で亡くなった事もあり、Mさんは東京で荼毘にふされたとの事です。
そして、その前に、『行政解剖』をされた。との事でした。
ご実家に戻り、葬儀が行われ、後日、お別れの会が開かれた様です。
私は、詳細な日程も知りませんでした。
ご実家の対応は、本社総務の担当部長があたっていました。
その年の7月末に、かみさんの実家で不幸がありました。こればかりは、家族といっしょにかみさんの実家に帰ったのですが、葬儀の3日後に、担当部長とご実家に行く事になりました。
家族をかみさんの実家に置いて、バスと電車を乗り継ぎ、担当部長と待ち合わせをして、タクシーでご実家に向かいました。
私が伺う事は知らせていませんでした。
担当部長が、玄関のベルを鳴らし、ドアが開いて、最初にお母様が出て来られました。
お母様が、お父様に、私が来たことを伝えました。
すると、お父様は激怒し、私達を罵倒、叱責されました。ただひたすら頭を下げるのみ。
私は、玄関から先は入れてもらえず、それでも、なんとかお願いして、お線香をあげさせていただきました。
その後は、真夏の暑い中で、担当部長の話が終るのを待ちました。
ご両親とすれば、直属の上司。
私が娘さんを『殺した』と同じくらいにとらえられていたのでしょう。
福岡に帰り、ご家族に手紙を書きました。
長い手紙になりました。
それを、直接ではなく、本社総務に送り、社長や役員も読んだ上で、担当部長からご家族に渡していただきました。
仕事の方は、マイグレーションして、新システムに乗せて、8月末に切換をしました。
また、並行して新規開発をしていた『人事考課システム』の第一期分も9月末に切換をしました。
この『制度改正』のドタバタと、多大な損失を出した事の責任者として、私は処分され、降格となりました。
4月に入ってすぐに、東京から手伝いに来ていた部長職の方が、所長となりました。
通常、こう言う降格の処分を受けたら、会社を辞めたりするものですが、私は辞めずに残りました。
『人事考課システム』の2期開発も続いており、『制度改正』の続きもありました。
ただ、この時点では、この先に、長い『戦い』があるとは思ってもいませんでした。
では、また。
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今日は、夜の仕事の日です。
今日も小降りですが、雨です。
続きです。
4月8日にMさんが亡くなったとの知らせがありました。
ただ、仕事の方は、状況は変わらず、5月初旬に切換をする事になり、ますます忙しくなりました。
ただ、Mさんと仕事をする機会が多かったI社員は、相当な精神的ダメージを受け、出社できなくなりました。
そうなると、中身が分かるのは、本当に私一人になり、体調が悪くても、休む事も、早く帰る事もできませんでした。
5月に切換をした後は、引き続きでマイグレーションに入りました。
それまでも、ずっと客先を離れられない状態が続いていました。
【お姉さんの訪問】
そう言う状況の中で、Mさんのお姉さんから、私に会って話を聞きたいとの連絡がありました。
その日も、客先を離れられない状況だったので、一度お断りをしたのですが、博多の事業所に行く用事ができ、その後で、と言う事で、博多駅筑紫口の都ホテルのラウンジで待ち合わせしました。
もちろん、初対面。
私は、お姉さんの問い掛けに正直に答えたつもりです。私の話に涙を流される場面もありました。
ただ、私はひどく疲れていて、とても印象が悪かったかもしれません。
その後で、妹が仕事をしていた場所に行きたい。と言う事で、客先のビルまでご案内しました。ただ、中までは入れないので、ビルの前で失礼して、私は仕事に戻りました。
【ご実家の訪問】
遠隔地で亡くなった事もあり、Mさんは東京で荼毘にふされたとの事です。
そして、その前に、『行政解剖』をされた。との事でした。
ご実家に戻り、葬儀が行われ、後日、お別れの会が開かれた様です。
私は、詳細な日程も知りませんでした。
ご実家の対応は、本社総務の担当部長があたっていました。
その年の7月末に、かみさんの実家で不幸がありました。こればかりは、家族といっしょにかみさんの実家に帰ったのですが、葬儀の3日後に、担当部長とご実家に行く事になりました。
家族をかみさんの実家に置いて、バスと電車を乗り継ぎ、担当部長と待ち合わせをして、タクシーでご実家に向かいました。
私が伺う事は知らせていませんでした。
担当部長が、玄関のベルを鳴らし、ドアが開いて、最初にお母様が出て来られました。
お母様が、お父様に、私が来たことを伝えました。
すると、お父様は激怒し、私達を罵倒、叱責されました。ただひたすら頭を下げるのみ。
私は、玄関から先は入れてもらえず、それでも、なんとかお願いして、お線香をあげさせていただきました。
その後は、真夏の暑い中で、担当部長の話が終るのを待ちました。
ご両親とすれば、直属の上司。
私が娘さんを『殺した』と同じくらいにとらえられていたのでしょう。
福岡に帰り、ご家族に手紙を書きました。
長い手紙になりました。
それを、直接ではなく、本社総務に送り、社長や役員も読んだ上で、担当部長からご家族に渡していただきました。
仕事の方は、マイグレーションして、新システムに乗せて、8月末に切換をしました。
また、並行して新規開発をしていた『人事考課システム』の第一期分も9月末に切換をしました。
この『制度改正』のドタバタと、多大な損失を出した事の責任者として、私は処分され、降格となりました。
4月に入ってすぐに、東京から手伝いに来ていた部長職の方が、所長となりました。
通常、こう言う降格の処分を受けたら、会社を辞めたりするものですが、私は辞めずに残りました。
『人事考課システム』の2期開発も続いており、『制度改正』の続きもありました。
ただ、この時点では、この先に、長い『戦い』があるとは思ってもいませんでした。
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