<過去記録(2007~2013年)>徳井由美子~ゆみりん・ブログ

ゆみりんこと、徳井由美子(ホーリー・ホーシー、他)の、これまでの過去ブログ記事を、ここに移設してきています。

私の感想~ケセン語訳からの聖書の解釈で、目からウロコ・・

2013-08-09 21:05:26 | 私の考え。
以下は、本日、ある本「イエスの言葉」ケセン語訳/山浦玄嗣(やまうら・はるつぐ)さんの著書を読んで、思うことを、ざ~っと、私が今日FACEBOOKにノート(記録)してみたものなんですけど、(記録の)文字が小さいのもあるのか、あまり読まれてる気配がないので、こちらブログにも同じことを、書いておこう。

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《FACEBOOKに本日書いた文章》

ケセン語(東北・気仙地方の方言)に山浦玄嗣(東北の医師でクリスチャン)氏が翻訳された、聖書の言葉のいくつかを、こないだから 今は「イエスの言葉」(文藝春秋、同氏・著)から読んで、ほんとうに聖書に書かれていることの意味をあらためて、考えさせられて、唸った。ノートしておきたい。

私も含め、みなさん(クリスチャンの人、も ただ聖書を読んだことのある一般の人)も、

聖書の言葉を読んで、ある箇所においては、いさめられたり、自分にむりなことを要求(~しなさい、するべからず)されているような気がして、自分には実践できない、とがっかりしたり、戦々恐々としたり、失望したりしますでしょう?本来神様は、めちゃくちゃなことを私らに要求されたりしないって。また、律法主義でもなければ、イエスのもたらした福音(ゴスペル)というのは、とても楽に(語弊があるけれど・・主自身が、”私のくびきは、追いやすく・・”と。)守れるもの、福音は、”恵み”なんだもの。

問題は、聖書のギリシャ語など外国語を、日本語に置き換える(翻訳)際の、マズさに、けっこうよくない訳し方があって、それがムズカシイ~、難解な、日常や人の通常の感覚からは、そぐわないような表現になっている、ということらしい。それでは、聖書の言葉が、誤解されているわけだ!もったいなし。

以下に、今印象に残った3つほどのうち、まず1つの聖句箇所を、引き合いに出してみる。20年間も聖書に触れてきた自分でも、目からウロコ、重荷がとれるような感じ!?

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<その1>
(マタイによる福音書 5:48)
「それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。・・」(口語訳)

「そういう訳だがら、其方等ァお父様ァ出来た方でありやるように、其方等も又出来た者んなり、あるがままの我ァ姿ァ受げ入れなれ。」(ケセン語)

{本文より-”「父」というのは神様のことですが、さてさて、冗談ではありません。神様が完全なお方でいらっしゃるのはよくわかります。けれども、それと同じように完全になれといわれて、「はい、わかりました」といえる人がいるでしょうか。できると思うだけでも恐れ多く、身がすくみます。”}・・ハイ。

ギリシャ語の テレイオス を、”完全な”と訳したことからこうなる。動詞 テレイオオー で「終える、仕上げる、完成する」から派生した形容詞として「十分に成長した、おとなの」の意味にとる。

{本文より-”神様はまことに「できた方」である。

(善い人にも悪い人にもわけへだてをなさらない。清濁併せ呑むお方である、・・)それと同じように、お前たちも「できた者」になれ、とイエスはいっています。これならば、われわれでもすなおにうなずけますね。”」ホッ。

まだ、それだけではないんです。テレイオス(完全である、と訳された)、にはまだ別の意味を含んでいて、それが、”神さまがお造りになったものはすべてそのままでもっとも美しい”のだという考えですって。(スバラシイ)
創世記の初めに、神がいろいろなものを毎日お造りになり、そのたびに「よし!」とおっしゃったように、あらゆるものは、造られたそのままの姿が一番美しく、よいものであると。
人間にも同じことがあてはまり、・・人はいつも自分を立派に見せようとして色々な仮面をかぶり、・・やがてそういう仮面を本当の自分と錯覚して虚勢をはったり、卑屈になったりして生きているが、イエスはそんなことはやめろ、と言われる。
テレイオスになれ、ということばの、裏側には・・
{”神さまから造っていただいた、今の自分のありのままの姿をすなおに受け入れろ、見栄を捨て、虚勢を張るのをやめて、よいところも悪いところも謙虚に認め、・・あるがままの自分の姿に戻れ”というふくみがあるのであります。”(本文より)}

どうでしょう?「完全な者となりなさい」→が、「父のように成熟した者となりなさい、またそして、ありのままの自分の姿でいるように・・」と、意味がかわってしまいました!

あなたはどちらを、自分の解釈としたいですか?
私は・・笑、決まってますね。ケセン語の翻訳を読むことで、聖書の外国語が、日本語の翻訳に直されたときに、とても意味が曲がって訳されたのではないか、そのことが、読むものに戒めの感だけを、強くしているのではないか、ということがわかってきました。

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<その2>

山上の垂訓から引用するにあたっては、前述の”完全なものとなりなさい” の、直前に出てくるのが、

イエス様の言葉、
「汝の敵を愛せよ」(=「あなたの敵を愛しなさい」)・・

この”愛せよ”が、また翻訳にあたって、問題ですって。
ところで、この”愛”というのは、”自己本位的感情”で、気に入ったものは愛せるし、気に入らなければ愛せない。
それなら、”敵”(できるなら、その存在をなくしたい相手)、憎い相手のことを、”好きになれ”というのは無茶な要求である、と。

(ここで、まじめな人は聖書を読みながら、「ついていけないわ・・」ということになるらしい。)

ギリシャ語の アガパオー、を愛する、ではなしに、「大切にする」と訳せる。(愛には、”妄執”ということもつきまとう。)「大切にする」には、上下関係もなし、「家臣は主君を」「主君は家臣を」「友達を」「神様を」すべて成り立つ。

ケセン語では、『敵(かたぎ)だっても どごまでも大事(でァじ)にし続げろ。』

憎いという感情があってもよい、憎い感情があっても、あいつも人なのだと思って、大事にするということ。
(よい例として、敵(武田信玄)に塩を送った、上杉謙信ですって)

”愛せよ”では、むりに感情をしいることになる、しかし感情そのものに価値はなく、自己本位の感情でなく、あくまで”相手本位の行動をさす”ということなのだそうです。なるほどっ!

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<その3>

私が、教会などへ行く前に、ひとり聖書を手にとって、(26歳)”これは・・!!!!(ピン!)”聖書という書物を信じるに至った、現実と照らし合わせて、最もハイライトに浮かび上がってきた部分が、以下です。

(創世記2:16、17)主なる神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」

(ケセン語訳)・・「この庭のどの木の実でも採って食え。んだどもな、善し悪しィ 見分げる木の実ばりァ、絶対食うなや。食えば必ず死んでしまうぞ」

{・・アダムとエバは楽園でへびにそそのかれ、木の実を食べて、・・人は死ぬものとなりました。不幸が人間の間に押し寄せてきました。永遠でなく、限りある命、世界となり、草も枯れ、木も枯れ、気候も不安定になって、労働は、人にとって、生きるために苦しいものとなった。}

ところで、「善悪を知る木」ですが、”知る”は、”しろしめす”、”支配する”のことで、この実を食べるということは、”何が善で何が悪かということを人が判断する力を持つ”ということになる。ことの是非、善悪を決めるときに、神と同じ、絶対者、「私、俺は絶対に正しい!」という信念の人になるのだという。

(政治、宗教、イデオロギーの対立からの国家間の戦争にはじまって・・身近の人との問題、小競り合いも、みんなこういうふうに・・起きている!・・)

でも、結果は、。・・・最初に神が人に警告されたように、「この(善悪を知る)木の実を食べると、必ず死ぬであろう」 のとおり、ほんとうに、人は命に限りのある存在となった。(楽園は天国でしたので、永遠の命であった。)

今の世の中でも、(人が善悪を知る木の実を食べた結果として)ひとりひとりが価値基準を持って、判断し、さまざまな場面で ”一致”を妨げるほか、最も辛い悲しいこととして、他人を自分の勝手なものさしで決めつけ、独断してしまうことにあると思います。(誤解・偏見も含む)

キリストの言葉、「父さまは誰にも善し悪しをおっしゃらない」(山浦氏による訳)(口語訳では、”父はだれをもさばかない ヨハネ、5:22)

「お前さんたちはわが身のものさしで物事の善し悪しを測っている。けれども、おれは誰についても善し悪しをいわぬ。」(山浦氏訳、ヨハネ 8:15)

神様は、人の善し悪しをおっしゃらない、でも人間は、自分以外のものさしがある、と考えたくはない。でも、考えなくてはいけない。常に自己修正の余地をもっておくこと、絶対に正しい人などどこにもいない。

{(本文より)-これこそが、エデンの園で「善悪を知る木」の実を食べた人間の姿なのでありました。人が自分の信じる正義に徹底的に忠実であろうとすれば、必ずおちいってしまう救いようのない悲惨な結末、それを聖書は「闇」と呼んでいます。この「闇」から抜け出すにはどうしたらいいのか。・・

・・イエスは「お助けさま」(救世主、メシヤ)としてこのことを言っているのです。

「敵であっても大事にしろ。
人の善し悪しをいうな。」 }

・・心して。

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