イソフラボン

2013年10月22日 06時03分24秒 | 0467-32-5384★所在地アクセス公津の杜駅0475-54-1383
 私は、医者は患者さんを通して最も進歩し、成長すると確信しています。 

 私は大学を卒業後、出身大学の附属病院に勤務し、癌医療に取組んでいました。しかし、自分の医療の知識、技術に限界を感じ悩んでいた時、たまたま読んでいた本に、国立がんセンターのレジデント(病院住み込み医、24時間連絡を最初にもらう医者)の募集要項の記事が掲載されており、「これだ」と、直感し早速応募要項を取り寄せました。いろいろ条件がありましたが、選抜試験があるのが不安材料でした。

 私は、学生時代はラグビーに明け暮れ、3年生から4年生になる時の進級試験では、112人中108番でした。解剖の故徳留教授(私の仲人)に「堂園、おまえはビリだぞ、ビリだぞ!」と、言われていたので、成績表をもらった時、何だまだ、俺より悪いのが4人もいるじゃないかと、ワル仲間に聞いたら、何と、108番が私を含めて5人、つまりビリが108番だったのです。そのくらいの学生生活でしたから、試験には自信がありませんでした。教授にがんセンターの試験を受けたいと言いに行きましたら、2、3日してから、ダメとの返事、でも、思いは強く試験を受けることにしました。

 がんセンターから医局へ電話があり、応募していることがわかると大学をクビになると思い、がんセンターの試験担当の事務官に絶対がんセンターの名前は出さないで下さい、とお願いし、試験の当日は仮病をつかい、試験を受けに行きました。

 思いが通じたのか運良く合格しました。後から聞いた話ですが、面接は一番だったそうです。今でも質問内容を覚えています。

 「給料が少ないが、子供が二人いてやっていけるのか」

 質問したのは当時内科部長で後の国立がんセンターの総長阿部 薫先生でした。

 私は即座に「雨露を啜っても、やっていきます」と、答えました。

 私が今あこがれ、尊敬しているのが、「寺山修司」、「唐牛健太郎」、「チェ・ゲバラ」、「ロバート・キャパ」、「リチャード・ブランソン」です。皆に共通するのは、「人たらし」と「とろけるような笑顔」です。私もよく人たらしと言われていますが、この頃から人たらしの才能が目覚めたようです。
しかし、合格はしたもののそれからも大変でした。

 辞表を胸に教授室へ、試験を受けたこと合格したことを報告に行きました。教授の決定を無視して受験したわけですから、医局を除籍になってもしかたがありません。

 非常に立腹なさいましたが、最後は大学医局からの出張という一番いい形でレジデント生活を送ることができました。そのお礼に国立がんセンターとのパイプを作る努力をし、その後多くの後輩ががんセンターで研修し、スタッフになっている後輩もいます。一時期がんセンターの手配師とも言われていました。

 レジデント生活は金銭的にも、肉体的にも、精神的にも想像以上に大変でした。

 金銭的には子供二人を抱えて、給料が約15万円。アルバイトで何とかなると思ったのですが、忙しくてそれどころではありません。

 挙句の果ては、三人目が生まれ、家計はどん底でした。

 3年間、私達夫婦は新しい衣類は全く買うことができませんでした。正に貧乏子沢山状態でした。

 大学の同窓会に行ったら、会費が高くて友人に足りない分を借りて参加しました。

 「牛肉を食べたことがない」と先輩に話したら、家族を家に招待してくださり、腹いっぱいステーキを食べさせて下さいました。長女はある時期まで、食卓に牛肉がでると、“大丈夫なの?”と心配顔です。

 妻はスーパーマーケットで買い物をし、いざレジレジでお金を払おうとしたら、足りなくて品物を戻したこともありました。

 私は出雲で癌治療学会があった時、宿泊費を浮かすために寝台車で行きました。すると、同じ寝台の方と話がはずみ、日本酒をたらふくご馳走になり、目が覚めると出雲の駅に列車が止まっているのです。

 あわてて降りなければと思ったのですが、服装はパンツ一枚、しかし、今ここでおりなければ、発表に間に合わない!と思い、荷物を持ち、ハンガーに掛けてあったワイシャツと背広を持ち、裸足に靴を履き、あわてて朝の通勤時間のホームに飛び降りました。

 ホームの人達は何が起こったのか、びっくり!じろじろです。私は恥かしさより、下車できた嬉しさで、周囲の目など気になりませんでした。

 がんセンターでの生活はいつも精神的に追い詰められていて、人の目を気にする余裕もなかったというのが偽らざる心境です。

 ホームでズボンを履き、ワイシャツを着、靴下をはきました。そして、いざネクタイをしめようとしたら列車に忘れており、なけなしのお金で、キオスクで一本千円のネクタイを買いました。忘れたネクタイはとても気に入っていたネクタイでしたので、駅員さんにネクタイを忘れたことを話しましたら、早速列車に連絡して見つけてくださり、無事手元に戻ってきました。

 肉体的には、朝は6時半頃より夜は早くて10時、午前様がしょっちゅうという生活で、年中寝不足でした。

 肺内科では、癌細胞に対するインターフェロンの効果の研究をしました。4時間おきに癌細胞の数を計測するのです。

 癌細胞にインターフェロンを加え、インターフェロンが癌細胞をどの程度殺すのか、何時間ぐらいインターフェロンの効果があるのかを、昼も夜も4時間間隔で調べるのです。

 夜中の0時、明け方の4時、朝の8時、昼の12時、夕方の6時、夜の8時、土曜も日曜もありません。

 3ヶ月続け、その結果は癌治療学会のパネルディスカッションのパネリストに選ばれ、発表しました。そして、後に医学博士の論文になりました。

 実験をしながらも肺癌の患者さんの臨床、抄読会、物を考えることなどできず、ただただ、がむしゃらに義務を果たすのが精一杯でした。

 肺内科では、現在日本の肺癌治療の第一人者で、当時はまだ若かりし、西條先生、江口先生に指導を受けました。西條先生は日本の癌化学療法を経験的治療から科学的治療へと導いた功労者です。

 それまでに見たことがないタイプの医者で、学会でも権力者をものともせず、自分の正しいと思っていることをはっきりとズバズバ言い、また、論文でも、今までは反論や圧力を恐れてあいまいにしていた部分を明確に論じ、私の目から見れば、「癌化学療法」を通して業を行っている修行僧のようにも思えました。

 人間が、個人的にも、社会的にも成長していく姿を直接目の当たりに見ることが出来たのが、西條先生が最初だったと思います。私は個人的にも私淑し、言葉使いまでが大阪弁になってしまい(西條先生は大阪出身)、「ミニ西條」とも言われる程でした。

 がんセンター レジデントの立場は、『婦長、看護婦、医者、こづかい、牛、馬、レジデント』と、言われるぐらい(レジデントが自分達で勝手に言っているのですが)に低い地位で、まるで丁稚奉公のように辛い立場に置かれていました。

 特に外科医森谷先生には筆舌に尽くし難いほど鍛えられました。しかし、そのおかげで、成長しました。そして、今では兄のように慕っていますが、今でも、会うたびに怒られています。小山靖夫先生は今まで会った全ての医師の中で、ナンバーワンでした。手術の腕は勿論、どんな局面でも逃げず、謙虚に真摯に患者さんと向き合う姿勢は、外科系のレジデントの目標でした。

 その他、色々な先生に厳しく指導してもらいました。その甲斐あって、癌に対する知識、技術、総合的な考え方などは日に日に身に付き、また、医者として、人間として成長させてくださる患者さんに多数巡り合い、今でも交流のある患者さんも多数おります。

 この場を借りて、感謝しつつ、私の体験を皆様に「ほろ酔い気分」で、お伝えしたいと思います。