終了したとはいえ、弥生美術館での「超絶入魂!時代劇画の神 平田弘史に刮目せよ!」展は決してそのままにしていてはならぬ展覧会だった。
画期的なことだと言っていい。
現役作家ではあるが、「あの」が着く平田弘史の史上初の原画展なのである。
弥生美術館は挿絵専門の美術館として活きている。
その中でこれまでマンガ家・劇画家の原画展は何度かあり、いずれも大きな反響を呼んできた。
先般完結した村上もとか「フイチン再見」最終話の直前に、弥生美術館での2001年2期目「上田としこ・今村洋子・倉金章介-おてんば少女たち」展が採り上げられていたが、ここでのマンガ原画展と言えば前年の「わたなべまさこ・水野英子・牧美也子」展が手始めだったと思う。
1988年の「松本かつぢ」展にもむろんマンガは出ていたことだろうが、わたしは未見で何も言えない。いや、それよりも現代的な意味での「マンガ」というのなら、やはり2000年の「わたなべまさこ・水野英子・牧美也子」展を挙げるべきだと思っている。
また、近年では2012年に「伝説の劇画師 植木金矢」展が開催された。
(当時の感想はこちら)
この時漠然と、「劇画」という今では廃れたものもまた、ここでこそ展覧会として挙げられるべきものかもしれない、と思うようになった。
そして昨年には2本のマンガ家の原画展が開催され、いずれも大きな反響を呼んだ。
「わが青春の「同棲時代」 上村一夫×美女解体新書」展(感想はこちら)
http://yugyofromhere.blog8.fc2.com/blog-entry-3981.html
「山岸凉子展 「光 -てらす-」 ―メタモルフォーゼの世界― 」
前期の感想はこちら
後期の感想はこちら
今回、平田弘史展が開催されたのは将に「満を持して」という状況だったと思う。
1月から3月末の3か月間、ここで凄まじい熱量が放たれていた。
弥生美術館のツイッターをフォローしているわたしはRTされてくるファンの皆さんの様子に慄いた。そして展覧会内の様子にも震え上がった。
画面から飛び出してくるような迫力に恐れをなしたのである。
この展覧会が開催されることを知った時、わたしは平田弘史の作品は実際には未読なので、困った。
マンガ史の中での平田作品の逸話などは聞き知っていたが、実際に読む機会というものがなかなかなかったのだ。
ただ数年前、府中市美術館で「石子順造的世界 美術発・マンガ経由・キッチュ行」展を見ていて、そこに平田の「始末妻」が紹介されているのを見てはいた。
当時の感想はこちら
そうこうするうち、電脳マヴォというサイトを知り、それで検索すると出てきたのが
「太刀持 右馬之介」だった。
先の「始末妻」はこちら。
その壮絶な物語と凄絶な画力に圧倒された。
読んでる最中から胃が重くなり、読了後も本当に苦しかった。
激しい膂力で以て殴り倒されたような気すらした。
しかし決して厭な作品ではないのである。
右馬之介が気の毒でならなくなるのだ。
つまり主人公への思い入れ・肩入れが強くなり、それがために彼らに降りかかる非運・災難にこちらも激しく強く感応し、つらくなるのだ。
さて、前置きが長いのはいつものことながら、いよいよ原画拝見に赴く所存にござる。
チラシは「桶狭間出陣」の信長。この一枚絵の迫力からしても只事ではない。

平田弘史の半生を紹介する解説パネルや写真資料などを見るのだが、展示室に入った瞬間にギョッとなるのは案内プレートや作品展示ごとのタイトルが全て「平田弘史」なのである。
この言い方は適切ではないかもしれないが、平田弘史だとしか言いようがないのだ。
展示案内にまず「順路は右からです」とあるのだが、それが実は平田弘史のキャラが言うている。
弥生美術館のツイートを見たらどんな意味か分かっていただけると思う。
こちら。
このインパクトの大きさには思わずのけぞる。
そしてその壮絶な絵と台詞の丁寧さのギャップに笑ってしまうが、ここで初めて時代劇&特撮ギャグマンガ家ほりのぶゆきの根源に恐らくは平田弘史がいることを想うのだ。
平田弘史の出発点は、他のマンガを参考としていないということを知って仰天した。
木俣清史という挿絵画家の絵を参考にし、更には大阪の千日前のデパートで挿絵スクラップを入手してそれで学んだというのには、絶句するばかりである。
凄まじい気力と計り知れない能力とで平田弘史は作品を世に問うたのだ。
マンガも劇画も小説も一切読まず、他者の創作・フィクションを排除し、天理図書館に通い、徹底的に歴史書や古文書を読み漁り、研究し、自ら解読し、ついにそこから己の妄想を育みだした。
しかしそうは言っても一切の人間関係を断ち切ったわけではないようで、多くのマンガ家が貧困にあえいでいた時代に白土三平から仕事を貰ったこともあったそうだ。
そういう逸話は好きだ。
そして「0伝」という作品を連載していたが、その主人公の少年はどこか白土三平の「サスケ」にも似ていた。つまり可愛い少年なのである。
その少年の表紙絵が3点ばかりあったが、いつのまにかこの坊やは片目になっていた。
何があったのか気になる。
平田弘史は天理教の布教をしていた両親の子として板橋で生まれ、やがて天理に戻ったそうで、それだからか初期の作品に「大和川の侍」というのもある。
大和川が出てくるマンガと言えば本当に少ない。大抵は淀川である。
地縁というものを感じる。
初期作品はまだまだ絵も可愛さ・当時の時代性を感じさせるものだったが、やがて「劇画」となると、いきなり物凄いとしか言いようのない絵と物語が飛び出してきた。
この貸本ブームの時代、平田弘史は大阪の日の丸文庫から出ていた「魔像」に連載していた。
その読者感想ページがここで読めるようになっていたので、わたしもちらちら読んだが、当時の読者の心持が伝わってくる。
みんな、平田弘史作品にどつきまくられていたのだ。そしてその痛みに苦しみながらも、読まずにいられない体にされていたようだ。
出た!「おのれらに告ぐ」、そしてその元々の「血だるま剣法」の事件についての解説がある。
ここではそれは措くが、このことはわたしも随分前から知ってはいた。
展示された原画のページだけからでは、青年の言う「自分は差別された」「先生は偽善者だ」ということの真偽はわからない。
しかしその剣術の先生は青年によって無残極まりない殺され方をし、更にはその血文字が残されているというのには息が詰まってくる。
この血文字に匹敵するのは馬琴の八犬伝での犬阪毛野が「鏖」と書いた場面、山上たつひこ「光る風」での兄の自殺の場面、福本伸行「銀と金」の神威家の殺し合いの場面ではないか。
それにしても物凄まじいばかりの画力である。
その画力は物語の強さにふさわしい。
次々と作品を見てゆく。
「日陰者の死」の哀れさは双子萌えのわたしに沁みる。
「被虐の受太刀」 南條範夫原作とあり、とても納得。もう本当にこの分野は南條の独擅場だと思う。
マゾヒストの少年が義理の伯母に「切ってください、傷つけてください」と懇願する場面などは特にたまらなかった。
平田弘史は虐げられる下級武士を描くが、被虐の快楽を追求したわけではない。
しかし描かれた情景には危うすぎる魅力が滲み出ている。
これはなんなのか。
わたしは2-3歳の頃に南條の怖い作品をドラマか何かで見たらしく、今もその作品は大きなトラウマになっていて、恐怖しか感じないのだが、長じてようやく他の作品も読むようになり、南條の被虐趣味よりは少年愛を描いた作品の方により強く惹かれるようになった。
(実際「城下の少年」を読んだことで相当な負担が軽減されたのだ)
とはいえ、決して消えない傷はある。
南條の文章も大概恐ろしいが、それが絵になるといよいよ恐怖が増す。
山口貴由「シグルイ」などその最たるものだが、今回の展示であの題字を書いたのが平田弘史だと知って、改めて震えが来た。
ここで少し飛ぶが、平田の書は独特の力強さに満ち満ちていて、意味不明なまでの迫力がある。
彼に題字を書いてもらった作品群が展覧会最後に集まっていたが、そこに「シグルイ」があるのを見て納得した。
わたしと隣家の従弟とは同じ本はかぶらないようにしながら買い集めているが、互いに「シグルイ」は欲しいけれど手元に置くことが恐怖でならないので、未だに困り続けている。なにしろあの題字を見ただけでぞわぞわするのだ。
今回、平田弘史の書だと知ったことで、却って心が落ち着いてきた気はする。
原画再び。
「嘘」 とんでもない話である。これは困った…
「反骨刃傷記」 表紙絵は十二神将の一が描かれている。強靭な絵である。
「刃返し斬法」 カラー原画が出ていた。
筆書きの書の凄まじさについては一旦措いて、小さいことを書くと、波が打ち寄せる擬音「ザパーッ」が白土三平のそれに似ていた。
こういうのをみつけるとちょっと嬉しい。
1969年の「侍コミック」掲載の「百姓二人」だが、これは表紙絵から迫力に満ち満ちていた。抜身の刃を持った侍が全速力で駆けてくるのだ。絵の枠を飛び越えてこちらへ飛んできそうな威力がある。
この号にはほかに村野守美「モガリ笛」がある。
「それがし乞食にあらず」 これまたなんかモノスゴイ話である。足軽で子沢山なのに乳飲み子残して妻病死、近隣の同僚たちがみんないい人ばかりで早速お乳をあげたり、「うちがあの子を」「うちはあの子を」と言ってくれたりおかずを差し入れしてくれるのに、タイトルの台詞。
原画はこのあたりまでだが、もう本当に貧窮がひしひしと伝わる。
結局子らはみんな餓死して、近隣の人々から鬼扱いされる男。彼は一体なぜそこまで頑ななのか。
結局は主君への忠義からのことなのだが、わたしなどはもう完全に意味不明だとしか思えない。
映画とタイアップした仕事が紹介されている。
「座頭市」「人斬り」「片目の軍師」などがそれである。
しかし映画の世界観をそのまま再現するわけではなく、平田弘史は平田弘史の思想でもって作品を完成させている。
描写の凄さを実感した作品がある。
「弓道士魂」 三十三間堂の通し矢をしようとする少年武士の話である。
失敗すれば処刑されるという状況の中での激しい集中力が描かれているが、その表現が怖い。鼻血が出てきたのを見ると、もう彼の内部ではもっと著しい破壊が起こっているのではないか。
子どもの頃に読んだ「アストロ球団」でこんなシーンがあった。一球入魂のあまり、血管が切れるどころか、投げ切った後に老人になる男がいた。
「侍ジャイアンツ」の原作もラスト、まさかの主人公の死があった。
野球も弓も集中しすぎて最後はとんでもないことになるのだった。
この話の外伝にあたるものもあった。弓道の名人「天下惣一」になったとしても次々に新しい者が加われば価値は下がる。そのことを愁いて…
平田弘史はアシスタントを使わないそうだ。彼の画力に追いつける人はいなかったそうで、ある時から愛妻が手伝うようになったが、やはり一人で描くように戻った。
アシなしで物凄い画力の高さというと、ながやす巧が思い出される。
その画力の高さ・構成の巧さを特に強く味わえるのが現れた。
「首代引受人」 この冒頭が素晴らしい。表紙の後の2,3,4ページが一枚絵として使われているが、それがもう只ならぬ雰囲気で満ちている。編笠の侍が向こうからこちらへ歩み寄ってくる情景を描いているのだが、凄まじい気迫がある。鬼気迫るというべきか。
その様子に気づいたのはこの屋敷の息子。目があい、その訪問者を待つ。用件を問うと…
この「歩み寄る」シーンの凄さ・魅力の大きさは映画「アラビアのロレンス」で、ロレンスとあるアラブ人の男とが井戸の水を調達しているときに、ずっと向こう、陽炎が立ち上る果てからゆっくりと近づいてくる黒装束の男を見る、あのシーンに匹敵する。
あれは数分間を使った長廻しのシーンで、素晴らしかった。
萩尾望都はそのシーンにときめいて、自作「マージナル」でも再現を試みている。
平田弘史はその圧倒的な不穏さを3ページで表現した。
いずれも皆素晴らしい。
この首代引き受けの話はリメイクもされている。悲惨な話だがかなり面白いのは事実である。だから何度もリメイクされる。
「約束手形」「新首代引受人」…
機械工学に詳しい平田弘史は1995年の時点でmacを導入し、ソフトウェアの開発にも協力したそうだが、彼の圧倒的なペン画は当時の技術では完全な再現は望めなかったそうで、手を引いている。
そのカラー作品を見たが、細部の魅力が引き出せなくなっていて、惜しい。今ならもっとよい状況になっているが。
珍しく女性誌「週刊女性」にも短編を一本描いていた。
「無双奥義太刀」 これは残酷性はやや薄れてはいるが、しかし悲哀に満ちた物語である。
子の為に辻斬りをする父、その子が長じて後に… せつないのう。
そう言えば70年代初頭の女性週刊誌は意外とこうした作品を掲載していた。
望月三起也「薔薇のイブ」もそう。
父と子の哀しさを描いたのは他にもある。
庶民もせつないが侍も苦しい。
「茶筅髪禁止令」 泰平の世になったから、戦国の気風を残す茶筅髪を幕府が禁止した。それは「侍」の力を削ぐことであり、軟弱化させる目論みなのだが、それを拒否する侍がいる。結局そうなると藩としては御公儀に逆らえぬから死罪を申し付けることになる。検死役も最後にもう一度勧めるが、意志は固く、侍であることを誇りに思う男は息子に介錯の役目を負わせ、十文字に腹を切る。
しかも一旦腹を切ってから息をつき、息子に介錯のタイミングを教えるのだ。
やがて喉を掻っ切ったその時に息子は介錯する。首が跳ね飛ぶ。
息子も後追いしようとするが、それは止められる。
ここで「切腹の美学」という言葉が掲げられていた。
平田弘史は19歳の時に重い盲腸の手術をしたが、昏睡から覚めないかもしれないという理由で、麻酔なしで盲腸の手術をしたそうだ。
臓物が引っ張り出されるナマナマシイ感覚をはっきりと知ったというのが怖い。
そして実際に割腹自殺を遂げた三島由紀夫は平田弘史のファンだったそうだ。
ところで介錯した場合、首の皮一枚残すのが巧い斬り手だと聞いているが、実際の所はやはり首を跳ね飛ばすか、または頚骨を斬り損ねて、中途半端に刺さったままで終わってしまう、というのも多かったと聞く。
平田弘史の作品ではきちんと介錯出来ているので、つまりみんな腕は立つのだった。
中央のケースでは貸本マンガが紹介されていた。
辰巳ヨシヒロ「死人のおかえり」、さいとうたかを「無宿大名」、佐藤まさあき「野望」がある。
「無宿大名」が掲載されていた「魔像」の紹介をしたツイートはこちら。
この「野望」の表紙が面白い。ソフト帽にスーツ姿の優男が顎に手袋をはめた手を挟んでいる。妙にナルシスティック。
「野望」はドラマ化されたが、一部だけ偶然再放送で見たことがある。
あの天知茂がハワイの海岸で幼な妻と追いかけっこをしながら「わははははは」と楽しそうに笑っている、という殆どホラーな情景だった。
他にわたなべまさこの薄幸の少女ものがある。
それから雑誌「黒猫」「影」の表紙絵がなかなか怖い。
つげ義春「ゲンセンカン主人」の始まり辺りのページが出ていた。
初期の頃の少年マガジン、サンデー、ジャンプも並ぶ。ジャンプのその表紙は「侍ジャイアンツ」だった。上村一夫の喪服の女の前に髑髏が鼻血ブーしているのもある。
平田弘史は南條範夫作品を描くことも色々あった。
「無為の生涯」「邪淫許すまじ」
滝口康彦作品もいくつか。滝口と言えば「拝領妻始末」しか知らないが、このヒトも無残な話が多そうだ。他にシバレンの「無念半平太」というのもあった。
「介錯」 そのタイトル文字がたまらない。「介」の垂れ方、「錯」の締まり具合。
とてもかっこいい。
二階では「太刀持右馬之助」から始まった。
可哀想な話だが、色々と身につまされるところもある。
そして世評高き「薩摩義士伝」。この異様な力強さ・迫力にはただただ圧倒されるばかりだった。
第一話「ひえもんとり」がそもそも凄まじい。
わたしは「ひえもん」と言うと歌舞伎の「助六」の「ひえもんでぇす」というのを思い起こすが、あれは江戸の銭湯で体が冷えてますが失礼、くらいの意味の言葉なのだが、薩摩の「ひえもん」はなんと生肝のことをいうのだ。
つまり罪人の生肝を奪い合う、という大殺戮ゲームなのだ。
だがその罪人の男がまた物凄まじい。
下帯一枚になりながら「突かば突いてみい、罪人一人に群がる蟻侍共!」
うわーーーーーーっっっっっ
眩暈がして腰が立たなくなってきたところへほっとするものが現れた。
1990年のヤングマガジンでのエッセイマンガ「平田弘史のお父さん物語」である。これは4ページもので絵はあの通りだが、なかなかユーモラスな平田弘史の日常を描いていて、絵があれだけにそのギャップが面白くてならない。
「弘ちゃん」「よっちゃん」と呼び合う仲良しの御夫婦の姿がいい。
ページの端には「お母さん」の一言もある。
こういうのは本当にホッとする。
平田弘史の初期作品に「ボクのおじさん」というのがあるが、あれは風俗は江戸ものだが言葉は描かれた当時のものでほのぼのものだった。
どこか「丹下左膳 百万両の壺」を思い起こさせるようなユーモアがあった。
絵が凄いから却ってユーモアが深くなる。
そして平田弘史の進化は続き、無残な話から転回し、「ミスターマガジン」で連載した「無名の人々」シリーズが生まれる。
中でも「怪力の母」という作品はあたたかみのあるもので、女相撲をしている女たちの描写が明るくていい。
玩具のバンダイの「戦国歩数計」のイラストを担当しているのがまたなんだかスゴイぞ。
前述した平田弘史の書は多くの漫画家たちに支持され、作品タイトルによく使われている。
大友克洋「AKIRA」の「アキラ」もそうだし、「シグルイ」、それから「ディエンビエンフー」、「蛮勇引力」、「バンデット」、「ますらお」などがある。
「ますらお」は最初に連載されたのが中断してから18年後に再開しているが、どちらも平田弘史の書ではあるが、こうして比較すると違う字なので、新たに書き起こしたのがわかる。

この書のど迫力に慄くことも少なくないが、しかしその迫力が魂に響くことは確かなのだ。
「バンデット」もあの暑苦しい絵柄と物語にタイトルがマッチしているし、最近ようやく面白くなってきているので、毎号楽しみに読むようになった。
今後はタイトルは平田弘史ののだと思いながら見ると二重に楽しめるだろう。
ところで平田弘史は天理教と関係が深く、それで教祖絵伝を描いていたが、教義が変容していることを感じ、向こうとの関係もよくなくなって、ついに縁が切れたそうである。そのことも含めてきちんと紹介されているのは、この回顧展にはとても大事なことだと思った。
平田弘史へのオマージュを記した多くの漫画家たちのメッセージがある。
花輪、政岡、山口、宮谷、本宮、ながやす、バロン、池上、みなもと、神田、あだち、かざま、天野、かわぐち、里中、北崎、竹宮…錚々たる人々からのカードはいずれも魅力的だった。
凄まじい力業に圧倒された。
お礼を申し上げよう。
平田弘史先生、今後の活躍をお祈りいたします。
素晴らしい作品世界をありがとうございます。
弥生美術館へもこの展覧会を企画されたことを讃えたい。
凄かった……